私が担当している道を走ってみた

魚が打ち上げられて死んでいた

 若林区荒浜地区。二百数十名の死者を出した地区。今日その担当の道筋を走ってみた。ところどころ通行禁止になっていて道の両側は堆積物がうず高く積み上げられ、かろうじて一車線のみの道幅。この道は背中に海を背負い田んぼの中の道をひたすらに走るしかない。平野の中の一本道。どこにも逃げ場所になる高い場所が無い。ひたすらに前へ前へ走ったのだろうか。私は金曜日午後1時に施設に向かい、帰りは2時45分から3時40分の間にこの道を走る。地震が一週間遅かったら私はこの瓦礫の下にいた。確実に死んでいたと思う。
 その道を今日走って、心の中に「私は生きてよかったのか」という思いが強く湧いた。沢山の人が亡くなった。生きたかった人たちが無残に死んでいった。その無念さを思うとき、なぜ私が生きてここにあるのかを思う。申し訳無さに身がすくみ、私ではなくなぜあなたが亡くなったのかと問う。辛い・・・・・私は充分生きてきた。この先、生きていかずともよかったのにと思った。若い命が痛ましくてならない。

若林区荒浜

 どこまでも広がってゆく、生活の残骸。


果てしなく続くその家財はあまりにも痛ましく切ない・・・・・


私の走っていた道


白鳥と遊んだ大沼公園は海岸の赤松の残骸で覆われていた


10メートルを越すような瓦礫の山


ヘドロの上に鍋のふたが


赤松の根にお母さんの手縫いのバッグ


ガードレールはくちゃくちゃに折れ曲がっていた

何も終わってはいない

 今日は用事があって荒浜の近くに買い物に行った。手前まで津波が来たという地区。百均とユニクロ、ドラッグストアが向かい合わせで隣接してDIYもある生活便利地区。駐車場に車をとめることが出来ないくらいの混みよう。それとなく会話を聞いていると,お茶碗ひとつ,お箸一膳を買い足している。携帯で仮設住宅申し込みの話をしている。この隣の地区が荒浜地区。この沢山の人は被災者たちだったのだ。お金がどんどん出ていくから毎日の生活だって引き締めていかねばならない。着る物だって無いから1人1枚でも大変なこと。みんな懸命に生きようとしている。当座必要な物を精一杯買う。生活していかねばならない。若い家族が多かった。たくましさを感じた。
 私も明日からまた仕事の範囲が広がる。その前にきちんともう一度私の担当区を見て置きたいと思った。震災直後は遺体の捜索で立ち入り禁止になっている地区もあった。走れなかった。
 走れる幅ぎりぎりに路肩が崩れている場所もある。背丈よりはるかに高く積み上げられた家財道具と流れ着いた漂流物。そして車・・・車の残骸。海岸の防風林の松の木々・・涙があふれる。ここが私とあの人たちの関わりの場所だった。私が死んでいても不思議ではなかった。この瓦礫の中で私は死んでいたかもしれない。そう思った。
 胸がきりきりと痛む。生と死はほんのかすかな出来事のすれ違い。生きるもの死ぬもの、それぞれに何の選びも無かった。それは日々の生活の中での出来事。日常の中でおきた出来事。このことの中に私たちの人生が組み込まれていた。時間が止まった。
 私たちの中で、震災は終わってはいない。
 白鳥や鴨にえさをやって写真も沢山とって楽しかった大沼公園は見る影もない。水が引かないこの地域や、沼の中は未だ遺体の捜索が行なわれていないから、水をポンプで排出する作業が行われていた。
 沢山の魚や蟹の死骸が干からびて、象徴的だった。ひっくり返ったトレーラーの荷台。傍に泥まみれの領収書つづり。
 少しはなれたところにアルバムの千切れた一ページ。大沼公園造成の記録と書かれていた。
津波が奪った物。沢山の人の生活。思い。


ゴルフバックが一個乾いてひび割れたヘドロの上に転がっていた。