Übungsplatz〔練習場〕

福居伸宏 Nobuhiro Fukui https://fknb291.info/

7月の展示@gallery Archipelagoの構成に悩まされる

粗選びは終わったものの、どうまとめるかが、非常に難しい状態です。
ウェブサイトのPhotographsに現在定期的にアップしている写真は、
あくまでも展示で使用する候補となるカットに
なるかならないかの当確ライン上にある写真であり、
確実に使いそうなカットは選り分けてあるのですが、
今回はウェブにアップ済みのカットを多めに使うことになりそうです。
温存している写真だけでは、どうにもうまくまとまらないので、仕方ありません。
また、10月の個展@Joachim Galleryのことも考えると、悩みは尽きません。
結局、連休明けまで悩むことになりそうです。


gallery Archipelago
http://www.archi-pelago.net/


◇ Joachim Gallery
http://www.berlineye.com/

人間性のにじみ出るようなざっくりと優しい風合いのなかにも何処か凛とした厳しさが〔中略〕よってつくり出される則天去私の芸術(再々録 2005年9月のメモより)

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060205


 人間性のにじみ出るようなざっくりと優しい風合いのなかにも何処
か凛とした厳しさが通っている、手の温もりを残した不規則な形はか
けがえのなさを表現し、神聖なる窯の炎によってつくり出される則天
去私の芸術……たいていの陶芸作家のつくるものは、この程度の言葉
(全部意味不明)のヴァリエーションに程よく納まってしまう。要す
るにそれが「焼き物らしさ」であり、そして凡庸な作家ほど「らしさ」
に弱いものなのだ。
 この「焼き物らしさ」が病膏肓に入ると、大地への回帰、豊饒なる
自然などと言いだし、陶芸のオブジェを作りはじめる。 〔中略〕 
縄文だの卑弥呼だのと、作家の軽薄な思いこみと誰でも知っている歴
史豆知識が合体したような鈍重さ。あるいは土とか自然とか、とって
つけたようなエコロジー。ひとことで言えば、頭の悪い評論家の徒な
饒舌に奉仕してしまうだけの粗大作品がほとんどなのである。もちろ
ん、個々の作家の良心を疑う理由はないので、これはジャンル全体が
罹っている病気のようなものではないだろうか。そしてその病根は比
較的はっきりしている。


清水穣『永遠に女性的なる現代美術』(淡交社刊)より
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4473018865/qid=1139114729/sr=8-5/ref=sr_8_xs_ap_i5_xgl14/250-0301603-8322660



やや、ひとコマ漫画風。。。
なんて言ってるうちに、写真の容量が残り1000KBを切る。
5月22日まで保ちそうにないので、また写真を圧縮することになりそうです。
http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060423#p5

http://d.hatena.ne.jp/n-291/20060503#c

(…………………………)失礼しました。唐突なコメントだったこともあって、mixiのほうで何度かやりとりのあった山田大輔さんかと思ってしまいました。確かに、もし山田大輔さんだったとしたら「YADA」という表記で本人のブログないしはサイトをたどれるようにするか、本名を名乗るでしょうね。 ■さて、何からお返事すべきでしょうか。ひとついえることは、<山田>さまのコメントにある「結果面白ければいい」の「面白」が、どういう意味で使われているのかが問われてくるのではないか、ということです。写真を撮って発表することは社会的行為です。そもそも被写体が外在しないかぎり制作することのできない写真は(むろん僅かに例外もありますが)、社会との接点なしに成立するものではありません。それを「面白い/面白くない」という判断のもとに行う、とはどういうことでしょうか。<山田>さまが、どういう立場から(プロなのか、アマチュアなのか、学生レベルの方なのか、一般の方なのか……)発言されているのか、わかりかねますが、「面白く」するための手法として自己表現のために被写体を「私」に従属させる、もっといえば、被写体からエキゾティシズムを収奪するために撮影する、ということこそ、まず第一に批判されてしかるべきでしょう。 ■撮影手法についてですが、どんな方法でもアリといえばアリかもしれません。しかし、写真を「撮る」「発表する」というその行為には、少なくとも自省ないし倫理が内在していなければならないでしょう。問われるのは、そうした自省ないしは倫理(あるいは外在する事物に対する含羞と言ってもいいかもしれません)の所在と、写真の撮影手法・撮影した写真の表出の仕方が、かみ合っているかどうかだと思います。 ■ノーファインダーで撮るという手法は、ファインダーごしで撮るという手法に比して、他者との距離(物理的かつ心理的な)を測る経験をもたずに済ませるのが容易だということです。ですから、「撮る」「発表する」についてさして考えを巡らせることのない方は、安易にこの手法に溺れてしまいがちです。徹底した視線の非対称性、撮ることの暴力性を突き詰めた行為のみが可能な表現があることも確かですが、やはり、人を撮るときに考えもなく多用すべき手法ではないでしょう。そこで倫理的な最低限の要請として、カメラを構えてなるべく正面から撮るべきだ、可能ならそこに視線の交錯があるべきだという考え方もあります。しかし、そうした倫理を設定すること、それ自体が、かえって自己省察を無用にしてしまうようでは意味がありません。単に「正面なら良い」「カメラを構えていれば良い」というような考え方もまた、今日の社会情勢を踏まえたうえで、再度検討されるべきものだとは思います。 ■<山田>さまの好き/嫌い(よい/わるい)という判断については、イマイチよくわかりません。文面からすると表層的な趣味判断にすぎないように思います。もしかりに、<山田>さまが写真を実践されている方だとすると、無意識かつシンプルに心理的防衛機制適応機制)が働いているだけではないでしょうか。 ■最後に述べられている事柄については、まさにその通りだと思います。ただ、ストリートスナップの訴求力の衰微については、異論もありそうです。(…………………………)「面白い」という言葉ですが、確かに微妙なニュアンスを平準化してわかりやすく伝えるには有効かもしれませんね。ただ、写真のことを知らない人にはもちろんのこと、写真に取り組んでいる人や関係者の間でさえ、しばしば取り違えられたり、浅い理解を招き易い言葉なので、パブリックな場で文書化する場合は留意が必要かと思います。 ■“「希望」がある場合”とは、「可能性がある場合」とも言い換えられそうです。私は後者の言い方をすることが多いです。しかし、“解釈の拒否”という状態だけが、「希望」=「可能性がある場合」だとは、私は思っていません。そうした「一切の」「拒否」は、そこに超越的なものを呼び求めることにつながりかねないのではないでしょうか。また、すでに多くの先鋭的な表現(他のジャンルも含め)がたどってきた道のりを、たどり直しているだけのようにも思えます(もちろんある部分では必要なんでしょうが)。写真それ自体がトートロジー的なものであるのに、その表出、その目指す処まで、トートロジーに終わってしまっては、あまり意味がないのではないでしょうか。一部の例外を除き、すでに、それだけで表現として成立する時代は終わってしまったのではないか、私はそう感じています(例えば、他ならぬ表現主体自身が、「零度」といった類の言葉に単純に依り縋ってしまうことは非常に危険だと言えるでしょう)。 ■最後になりますが、こうした短文のやり取りだけでは、<山田>さまのおっしゃる「限定」「解釈の拒否」「他者」という語の定義、誰に対しての「現れ」なのか、などが不分明だということもあり(ありがちなタームなだけに)、いまひとつ<山田>さまが「希望を見る」という「時」が、私には具体的に見えてきませんでした。