いや、いずれでもないのか? それとも、もちろん両方なのか?
Floating 篠塚聖哉展@フタバ画廊
2006.05.22 mon - 05.28 sun
http://www.futabagallery.com/
[PDF]http://www.gaden.jp/info_p/060522.pdf
◇ 篠塚聖哉さんのwebsite「snails-pace」
http://www016.upp.so-net.ne.jp/snails-pace/
(参考)
http://d.hatena.ne.jp/n-291/searchdiary?word=%BC%C4%C4%CD%C0%BB%BA%C8
http://www.mot-art-museum.jp/kikaku/2
杉本博司=第二帝政的写真作家
“蓮實の「第二帝政」論で論じた方が、杉本博司のセンスには近い筈。ジオラマもその時代
の産物なんじゃなかったっけ? 悲劇ではなく笑劇として生じたような文化(ジオラマ)を、
さながらマクシム・デュカンが撮影したエジプトピラミッドであるかのような振りをして克
明に撮影したのが、杉本の出発。そのうち、本気でそのイカモノたちが古代遺跡であるよう
な錯覚に陥り出し、本物の古代からの遺跡である「海」や規模においてピラミッドに劣らぬ
未来の遺跡たる現代建築を撮影しだして、その上日本的神殿まで建築してみたくなってしま
った、ってのが杉本のストーリーだと思う。 (中略) だから、浅田彰が主張するような
ニエプスとかダゲールとかと相対する位置にいるのではなく、デュカンを逆さから実行する
位置にいる。「写真の終わり」ではなく「十九世紀写真への遡行」?”
「工事現場から」へ(hatena)より
http://d.hatena.ne.jp/YADA/20060519
いつもながら、山田大輔さんの論考は刺激的です。
私自身、以前から杉本博司の写真はヴィジュアル的に好きではあるんですが、
やはり、先日の展覧会の見せ方と典型的な代理店的キャプションによる解説
(それには内的・外的な理由や思惑がいろいろとあるのでしょうが)に、
少々戸惑ってしまったことを思い起こします。
あの展覧会以来、批評家はもちろんのこと、多くのアーティスト(写真家含む)が
Webを含むさまざまなメディアで杉本博司とその作品について
言及していましたが(手放しの激賞から素朴なヒルズ族批判まで)、その言葉はいずれも
そのアーティストの現在の立ち位置や理論的な梃子(活用・参照している言説)を、
逆に浮かび上がらせるものだったかと思います。
http://www.roppongihills.com/jp/events/sugimoto.html
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&ie=Shift_JIS&q=hiroshi+sugimoto&lr=&sa=N&tab=wi
遺跡と遺物
遺跡は、過去の人類の所産のうち本来の機能を失っている不動産的なもの。
遺物は、過去の人類の所産のうち本来の機能を失っている動産的なもの。