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山田大輔さん(id:YADA)の「note book 990602」より
「言外」という言葉がある。
<「発語されざる言葉」「記述されざる言葉」が、「発語された言葉」「記述された言葉」を補完することで文脈がはじめて完成する>
日本の職業政治家やらエライサラリーマンやら、要は一般に「親爺」と総称される人々が得意とする技法だ。
「言外に匂わす」。
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ノルベルト・ボルツは、ベンヤミンの写真論について次のように指摘する。
ベンヤミンにとって、「写真に付された説明(=キャプション)」が、写真の意味を決定していた。
写真単体では意味を形成しないものとして、ベンヤミンは写真を捉えていた、と。
では、映像は単体では意味を形成しないのか?
これもちがう、とボルツは述べる。
ベンヤミンは19世紀の人だったから、それがわからなかっただけだ。
モンタージュという技法を導入することで、映像は意味を獲得したのだ、と。
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では、「キャプション」による補足説明、および「モンタージュ」による脈絡作りを放棄した場合、映像は意味を持ちうるのだろうか?
意味を失った場合、その映像はひとりで立つことができるのだろうか?
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ここで安易に召喚されたのが、「言外に匂わす」という古びた親爺面の技法だ。
「やっぱりそうだろ?俺が出なけりゃ駄目なんだ。なんでもそうだよ。ガッハッハ」とばかりに登場してくる。
彼の腹黒い裏工作が、表舞台に立つきらびやかでマスクが良くてソツのない映像を支える。
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映像を映像のまま、意味付けなしに放り出すという手がないではない。確かにある。
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多くの映像作家が選びたがるのは、この方法だろう。
しかし、この方途についた場合、生じる問題をとりあえず2点指摘できる。
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問題点1)「はたして人々は、映像に耐えられるのだろうか?」
「観衆」という存在が俄に気になり出す。
意味を形成しないものに耐えられる人間がいったいどれほどいるのだろう?
一部の例外(禅の導師・イスラムのスーファーとか、もしくは映像に通暁した者とか)を除いた多くの人々がとる態度は、二通り予想できる。
ひとつめは、「退屈でつまんねぇ」とそもそも見なかったことにするやり方。
ふたつめは、問題点2)として、言葉に関わってくる。
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問題点2)投げ出された映像を回収するもっとも手っとり早い方法がある。
「風景」=「内面」という言葉たちで説明してしまうのだ。(註)
「風景」=「内面」の問題として映像を受け止めれば何の問題も生じないという問題だ。
文部省教育のお墨付さえある。
「このとき、作者は何を思ったか、五十字以内で簡潔に述べよ」。または「あなたはこれを見て何を感じたか、八百字以内で書け」。
正解に辿り着いた者は、教師から○が貰える。
その解答のつまらなさは、現国の授業で骨身に泌みて体験済みだろう。
映像が現国授業のようなものだと考える者は、この方法をとるといい。
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問題点1)の解決方法としても手っとり早いやりようがある。
「映像エリート」だけを相手にするというやり方だ。
その他の人々ははじめから相手にしない。
「つまらないだとか退屈だとかわからないとか口走る偏差値の低い奴は帰れ。おまえ達なぞハナから相手にしていない」
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しかし、「映像エリート」だけを相手にするには、僕達はアメリカ・ポップカルチャーの洗礼をざぶざぶ浴びすぎた。
それに映像が著しい進展を遂げたのは、「ハリウッド」というポップカルチャーのどまん中だった。
ポップカルチャー以後、「映像エリート」向けの映像なるものがはたして有効なのかろうか?
そもそも映像そのものがポップカルチャーの血を多く引き継いでいるというのに。
また、フランス・アカデミーのような権威付けがない現在、「映像エリート」を保証するものが何かあるのか?
それが「写真集団」の如き、うらぶれた同好の士の寄り合いでないとなぜ断言できるのか?
同好の士の寄り合いならば、そこで交されるのは、仲間内の称賛交換にすぎない。
称賛の順番待ち。
やはり「言外に匂わす」の親爺面が裏で糸を引く。
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さて、近年のゴダールは、ひとつの戦略を提示している気がする。
彼は、ノルベルト・ボルツが、「ベンヤミンの19世紀的側面」として却下した側面をむしろ逆用する。
意味的な方向付けを、映像から切りはなし、言葉に単独で負わせる。
意味の担当は、言葉が専従として引き受ける。
言葉は意味を乱発しまくる。
発語された言葉=科白として、記述された言葉=字幕として。
映像は無意味のままに放り出し、「退屈だ」が観客の口をつく前に素早いテンポで切り換えていく。
モンタージュ的な脈絡作りは拒否する。
観客が、「風景」へと回収作業の身振りをおこすより素早く映像は切り換えられ、非-「風景」的な言葉たちがこれでもかとばかりに大量に押し寄せる。
「言外」なぞ出る幕がない。
言葉たちは、既に充満しているのだから。
そして、映像・言葉たちを取りまとめる幹事としては、ごくありふれた単純なストーリーを採用する。
ポップカルチャーの借り物ストーリーを登用することで、「難解だ」を発語することすら、宙吊りにする。
「難しい? とすると何ですか、貴君はハードボイルド探偵映画を理解するほどの理解力すらないのですか?」と。
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もっともMTVやオタクアニメに首まで沈んだ連中は、それでも平然と「ムズカシクテ、ヨクワカンナイヨ、ネェー?」とつぶやきあうのだが。
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(註)「風景」=「内面」については、柄谷行人「日本近代文学の起源」(1980)の「風景の発見」「内面の発見」を参照のこと。
「逆立」「転倒」という語を多用しながら、「風景」「内面」のごく浅い「起源」について粘り強く論考している。
http://www1.odn.ne.jp/~caa31720/9906.html
地道な啓蒙の一方で、
何らかの戦略も必要だと思う、
今日このごろです。
さて、どうしたものでしょうか。
「風景」=「内面」については、
保坂和志『小説の自由』(2005)の
「私の濃度」「視線の運動」も参考にどうぞ。
http://www.bk1.co.jp/product/2562466
http://www.amazon.co.jp/dp/4103982055