映画「ノーカントリー」西部劇の後日談

ノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [Blu-ray]

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暗殺者シガーは普通の人間では考えられないような容赦の無い虐殺を次々と見せつけているが、かれが我々の通常の理解をはるかに超えているのは、殺人鬼としてのすさまじい残忍さだけではなく、本人にしか理解できないような、得体のしれない倫理への禁欲的な忠節ぶりを持ち合わせていて、それこそがかれの殺人を異常な、「現実離れ」したものにさせているからだ。この世を超えているとしか思えない、シガーの尋常でない世界観は、例えば次のような対話ににじみ出ている。

― 俺も知ってるぞ
― 何をだ?
― カバンがどこに行くか
― どこにだ?
― 運ばれて来る、俺の足元にな
― 確実じゃないだろ、俺なら20分で渡す
― 確実に手に入るさ、自分がどうなるか分かるな?

― せめてこうしよう、(コインを投げて)表か裏か? (=Call it.)
― 正気じゃないと人目で分かった、あなたが何をする気かも
― どっちだ? (=Call it.)
― イヤよ、私は言わない
― 言うんだ (=Call it.)
― 決めるのはコインじゃない、あなたよ
― コインと同じ道を俺はたどった

シガーの話し相手はいずれもシガーと対話を試み、シガーの人格を少しでも解き明かすことを期待した問いかけを発するが、シガーは問いを超越した運命への確信を独り言のようにつぶやき、その運命が厳粛な事実としてかれの世界を取り囲んでいるので、つねに対話が対話になることはない。会話の相手を殺すか殺さないかはコインの運命が、さもなくば奇妙な確実性に満ちた「コインと同じ道」のかれの運命が決めるのであって、血の通った人格や信念ではない。

この映画では、対話の不可能性と、非道の行為を貫く底知れぬ論理に相対させられる人間の戸惑いが、元保安官のエリス老人が語るような、インディアンによる殺人を目の当たりにさせられた人間の、神から見放されたような無力感に隣接される。エリス老人は、自分の叔父が7,8人のインディアンに自宅に押しかけられ、自宅のポーチで撃たれたことを回想する。死にそうな叔父を見下ろして、インディアンは「かれらの言葉」でなにか言うと、去っていったという。


当時の開拓民にとって、あるいは、開拓民が抱くことが期待され、後世になって後づけで物語られた理想の西部は、たぎるような生命のみなぎりであり、アメリカをアメリカたらしめる独立精神が根ざした知性とモラルが未開地に打ち建てた新たなユートピアであり、その偉大な記念碑であった。それは、That is no country for old men....の書き出しで始まる「ビザンチウムへの船出」で、イェイツが謳いあげた不滅の崇高なロマンとの精神の融合に他ならない。

この誉れ高き西部開拓時代に保安官が勇敢に立ち向かったのは、言葉が通じず、自分たちの倫理観ではとうてい理解できない残虐をやってのけるインディアンたちであった。だが、入植にともなってインディアンからの土地の収奪に手をつけ、いつの間にか終わりのない闘争を余儀なくされていた西部開拓住民の居心地の悪い怖じけは、インディアンに勝利した後も終わることはない。というのも、映画の舞台である1980年の西部では、いまや保安官は理解のおよばない、笑うしかできないような、猟奇的な「最近の犯罪」に立ち向かわなくてはならないからである。保安官はそんな「感情のない」、「どう考えたらいいのか全く分からない」犯罪に対する力不足を感じ引退を決意するが、「現実離れ」して理解の地平を超え出た敵が大昔からいたことに変わりはないのだ。


ロマンが滅び去ってなおも西部を掣肘し、人びとを怖じけづかせる「理解できないもの」「直面したくはないもの」のひとつである暗殺者シガーとその謎めいた倫理は、その意味でインディアンの再来である。シガーが鍵破りや殺害に使う得体のしれない武器はその象徴である。目にする者を不審がらせ、なにか底知れぬ不安に取り憑かせるその武器は、実は家畜を屠殺するためのボルト銃(Captive bolt pistol)であり、そして家畜はボルト銃を使うまでもなく、これまでずっと屠殺され続けてきた。あるいは、西部にとってのシガー=インディアンとは、西部開拓の美徳を裏側から支えるために、倫理を超え出た「理解できないもの」として一方的に押し固められた補填物であり、朽ち果てたロマンの表皮から露出した、ロマンの無残な実体そのものなのだ。敵との闘争やフロンティアにおける自律した人間精神という甘美な物語を味わうために、「かれらの言葉」をつぶやく敵を作り出したとき、それはシガーという幽霊となって復讐しに来る。「ノーカントリー」は勇壮で明朗な西部劇の陰惨な後日談であり、その罪深い負債を描いたものだと言えるだろう。