終焉の記 砂のつぶやき(12)

第四章 不思議な出来事(4)
その3、気象急変
1、三ヶ根山慰霊碑建立
わたしは、昭和十七年六月、所沢陸軍航空整備学校で少飛九期の課程を終えて、熊本県菊池飛行場にあった第百三教育飛行聯隊に赴任しました。
この部隊は、十八年九月、フィリッピンに移駐、第三中隊所属のわたしたちは、翌十九年三月、新設教育飛行隊要員としてフィリッピンから菊池に帰還したのですが、一、二中隊は第三教育飛行隊に編成替してフィリッピンからマレーに移駐、二十年の終戦を迎えました。
教育飛行隊は、操縦者養成の部隊で、いわゆる飛行戦隊では無いのですが、この部隊は、大きな損害を被った部隊でした。
教育訓練中の事故や、昭和十九年 九月、比島サンマルセリーノ基地上空で米機と交戦二機撃墜され戦死、また昭和十九年十月、マレーに向けて海上輸送中の地上部隊、近藤大尉以下二百九十五名が乗船した輸送船白根山丸がフィリッピンパラワン島沖で敵潜水艦により撃沈され生存者は僅かに一名という大きな損害を被ったのです。
また、昭和二十年七月、タイ・プーケット島沖英機動部隊に特攻出撃、三機命中して英大型艦轟沈、などの戦果も上げています。

戦後、生存者が寄り集まって、平成元年、愛知県三ヶ根山に菊水会慰霊碑を建立しました。

この日、七月八日、慰霊碑の前で、多くの生存者が集まって、正に慰霊祭を開始しようとしたそのとき、突然、突風が襲ってきました。
それまで、格別、異常な天候状態でも無かったのに、天幕二張りも吹き飛ばしそうな風で一同は風の収まるのを待ちました。その間、これは、英霊の何かのサインではないか、などという声も突風の静まるのを待つ参加者の中から聞こえましたが、それは,別に同調する声も起こらず、そのとき、わたしも、わりと軽い気持ちでその声を聞き流しておりました。
そして、暫らく待つうちに嵐は収まり、無事慰霊祭を終了することが出来ました。

2、万世基地
戦時中、陸軍の特攻基地として鹿児島県の知覧飛行場は有名ですが、あまり人に知られてない特攻基地に「万世」と言う特攻基地が知覧とは反対側の薩摩半島の西海岸吹上浜の南端にありました。
わたしの所属した第百三教育飛行聯隊は、九九式襲撃機という飛行機の操縦教育をしていたのですが、九九式襲撃機の特攻は、主としてこの万世基地から出撃しました。
因みに、万世基地より出撃の機種では、九九式襲撃機九十一機、二式高練二十一機、
一式戦闘機五、九七式戦闘機四機となっています。
戦後、第百三教育飛行聯隊生存者の会「菊水会」では毎年各地持ち回りで慰霊祭を行い、勿論、知覧でも執行されましたが、その後、この万世基地でも行いました。
万世基地には、知覧ほど人に知られていないのでお参りに訪れる人も多くはないようですが、神社、資料館などが立派に整備されています。
平成七年 七月十七日、菊水会の万世基地慰霊祭が催されました。
慰霊祭当日、直前まで良く晴れて浜には南国の明るい日差しが射していたのですが、直前になって三ヶ根の慰霊祭のときと同じようにサーッと空が曇り、雨が降り出し、参列者は天幕の中で、暫らく雨宿りをしていました。しばらくして雨も止み無事慰霊祭は執り行うことが出来ました。
慰霊祭では、何だか天候が急変するな、との思いがそのときわたしの胸に湧いていました。

3、栃木少飛会解散慰霊祭
陸軍少年飛行兵の生存者の会は、全国組織があり、栃木県にも栃木少飛会があって例年、慰霊祭が執行されていました。
平成十六年、会員も十一期生ぐらいまでは傘寿を迎え、寄る年波で体調不良の者も多くなり、協議の結果、平成十六年四月に最終慰霊祭を執行して解散することになりました。
栃木少飛会の慰霊碑は、宇都宮市北山霊園のなかの一番高い岡の上にあります。
四月十八日十時、式典開始。例年、自衛隊宇都宮駐屯地の司令も参列し、自衛隊ヘリの慰霊飛行も行われます。
慰霊碑の前には、供物や花が供えられ、我々が聯隊旗と呼ぶ少飛会の旗も供花の横に支持枠に挿して立てられました。周辺の桜は、満開を過ぎてハラハラと散っています。
神主の祝詞奏上などが終わり、十六期生高村氏の献詠が始まり、一曲が終わるころ、東の空に自衛隊ヘリ三機編隊が姿を現しました。轟々の爆音が近づき、全員、空を振り仰ぎ、帽子や手にしたハンカチを振ります。
このとき突然、慰霊碑の周辺につむじ風が起こったのです。献花台が揺れ、聯隊旗が吹き倒されました。吟詠の一曲がちょうど終わった高村氏が倒れた聯隊旗を慌てて起こしました。
ヘリは一度上空を通過し、西に飛んで再度反転飛来します。一同は、それまで上空を見上げたままです。
旋風に旗が吹き倒され、高村氏がそれを起こしたことなど、誰も気付かなかったようだし、気付いても別に何とも思わなかったようです。
わたしは、三ヶ根山慰霊碑のことや、万世基地の慰霊祭のことなどが瞬間、脳裏に閃きました。慰霊祭に限って突然、異常な気象状態となる。これは、亡き戦友からの合図ではないのか。
わたしは一人、空を仰ぐ視線を慰霊碑に移し、ジ―ッと碑面を見つめていました。別に何ごともありませんでした。
ヘリの編隊は、爆音をとどろかせて二回上空を飛行して西に飛び去り、 二曲目の吟詠が始まり、その後、同期の桜など高唱して慰霊祭は終わり、市内の宴会場に移動しました。

毎年開催される慰霊祭で必ず気象が急変するわけではありませんが、慰霊碑建立とか戦友会解散というような、けじめの行事のときに起きる以上のような現象は果たして偶然の自然現象なのでしょうか、一度だけでなくたびたび起きるということは偶然と片付けられない何かがあるように思われます。