フーコー・ブッダ・グッドマン (5)

namdoog2010-02-23

                  

超越論的記号理論としての世界制作論

 グッドマンの世界制作論が駆動するための重要な理論的機関として、記号の「指示理論」(theory of reference)がある。これは他に類例のないグッドマン独自の業績であり、現代における認識論哲学にグッドマンが確乎たる地歩を占めるゆえんでもある。
 グッドマンの指示理論をいま詳細に検討する余裕はないが、ある意味でそうするまでもないかもしれない。なぜならその理論的スキーマ(概要)がかなり単純だからである。まず、グッドマンは、一般に記号がなにかを指示する働き(reference)を、外延指示(denotation)とそれ以外のものに大別する。さらに後者を、例示(exemplification)と表出(expression)に大別する。(じつは指示には他のタイプのものが多数ありうる。しかし、それらは以上三つの働きが複合されたり、それぞれがなにかしらの要因で制約されたり、あるいは複合と制約を組み合わせたりして成り立つ。)
 外延指示とは、記号が記号の外部の対象をさす働きである。たとえばケンネルに掲げられた「シベリアン・ハスキー」の名札は、そこに寝そべっているある種の犬を指している。(どのようにしてこの指示機能が成り立つかは、また別の問題である。)
 外延指示には、例にあげた名辞による指示以外に、絵による描写や文章による記述など、じつに多様な形態がある。グッドマンはしばしば記号をラベルに見たてている。例についていうなら、この場合の外延指示は「シベリアン・ハスキー」という「ラベル」をその犬に貼り付ける作用なのだ。(もちろんこれは比喩的説明であって、真に受けてはいけない。「ラベル」を貼ってもらうことを待っているハスキー犬がお行儀よく座っているわけではないだろう。)
 さて例示とは、その名のとおり、カテゴリーが含む事例をカテゴリーの一例として示す機能にほかならない。たとえば「生地見本」を考えてみよう。この小さな布の切れ端は、オーダーしたスーツの柄、色、風合いなどへの差し向け(広義の指示)がともなうかぎりで紛れもない記号である。
 だが例示は、外延指示とは異質な記号機能である点を見過ごしてはならない。記号が対象に貼られるラベルだとして、例示の場合、ラベルを貼られるのは外部の事物ではなく、ラベルという名の事物である。なぜなら、見本が指示する柄、色、風合いなどは見本の外部にある対象ではなく、見本そのものの性質だからだ。この見本の色が濃紺だとする。あつらえるのは、当然ながら濃紺のスーツである。すなわち生地見本も服もどちらも<濃紺>というカテゴリーの事例である。
 このような事態に「例示」という指示機能の構造がはっきりと示されている。一方で、生地見本はスーツの色の事例である(ラベルの事例化)。しかし他方で、この小さな生地は濃紺の服地<の>見本である。この<の>が表わす指向性のおかげで、断ち切られた生地が「記号」の面目を遺憾なく発揮することができる。要約すれば、ある事物がなんらかのラベルの事例であると同時にそれを指示する場合、その事物はラベルの例示をおこなっている。
 外延指示とは異なり、例示においては、例示する記号がラベル(筆者の言い方ならカテゴリー)を媒介にしてその記号自体にかかわることになる。この意味で例示はまさに「自己言及的な」(self-referential)機能であって、例示する記号系は再帰的構成(recursive construction)をいとなむのだ。この種の記号機能を(真の意味で)発見しその重要性を事例研究によって解明した功績はひとえにグッドマンに帰すべきものである。
 次の表出は、簡単にいえば、比喩的例示にほかならない。たとえば、ムンクが描く「思春期」と題された絵画。画面には裸の少女が正面を向きベッドの縁に腰かけている。見開いた眼、肩の骨ばったからだつき、後ろの壁に投じられた少女の影。外延指示のレベルでおのおのの記号(少女の図像、眼の図像など)が指示するものには、鑑賞者を当惑させるものは何もない。鑑賞者の視線を惑わせる要素は、例示の平面に含まれている。この絵の全体に暗い色調、両手を腿のうえで組んで固く身構えたようなポーズ、見開いた眼の表情など。要するに、画面のそこかしこや画面の全体から感受される「感じ」(feeling)がこの絵の眼目なのだ。(挿絵を参照)
 この感じを仮に「成長の不安」という抽象的な言い方で押さえたとき、視線がゆきあたった謎はほとんど氷解されるかもしれない。別のいいかたをすると、この絵画作品は「成長の不安」というラベルの見本なのである。しかし絵画の指示機能を見本のそれ(すなわち例示)と同一視することはできない。布や油性の絵の具などからなるこの事物そのものが「成長の不安」という特性を持つわけではないからだ(生地見本の場合と比較せよ)。そもそも物理的事物は単に比喩的にしか「感じ」を持ちえない。こうして、「表出」とは「比喩的例示」なのである。
 グッドマンの指示理論の詳細については、拙書『恣意性の神話』(勁草書房、1999年)にゆだねることにして、理論の解説はこれくらいにしておこう。ここではむしろ彼の理論の哲学史上の意義を強調することにしたい。
 古くから記号ないし表現に関して、<語り>(saying)と<示し>(showing)の区別が引かれてきた。(この区別についても前掲書で述べたので参照していただきたい。)一見すると、グッドマンの指示理論はこの二分法をそのまま採用しているように映る。すなわち、外延指示が<語り>の働きであり、非外延指示に含まれる例示や表出は<示し>の働きに含まれるのは明らかだ。しかし彼の理論は旧来の区分に甘んじたわけではない。グッドマンが<示し>の記号機能を強調するのは、じっさいに、記号機能の原型としての資格を<示し>に認めていることを示唆している。
 彼の「ラベル」理論はカテゴリー化(categorization)の理論として再構成できるだろう。同じ指示の働き(reference)であっても、外延指示とそれ以外の指示機能(例示や表現、その他)は形而上学的身分が異なるのだ。外延指示についていうと、この機能は単に非外延指示を作動する記号系が世界制作を完遂した後に、はじめて<機能>として生成・成立するに過ぎない。換言すれば、外延指示は派生的・二次的な記号機能にすぎない。<示し>の指示機能こそが原初の働きなのだ。
 ここで『世界制作の方法』の「まえがき」のあるくだりを是非とも想起すべきだろう。「…私は本書が近代哲学の主流に属すると考えている。この流れはカントが世界の構造に代えるに心の構造をもってしたときに始まり、C・I・ルイスが心の構造を概念の構造に代えたとき継承された。」これに続けてグッドマンは、自身の見地つまり「記号主義」を高らかに表明している。われわれは、このようにして、次のような結論を導くことができるだろう。<示し>の理論の確立によって、グッドマンは記号機能の超越論的理論を構想したのだ、と。ここにグッドマンにおけるカント主義を確認できる。このかぎりで世界制作論は一種の内部存在論である。なぜなら経験(=認識)の再帰的構造がそのまま世界の存在構造に重なり合うからである。「われわれはヴァージョン(=記号系)を制作することによって世界を制作する。」
 
<自己>という問題系

 グッドマンはよりしばしば(またより多くの紙幅をもちいて)「世界」について語ったが、「自己」の主題について語ることは――少なくとも明示的に――なかったように思える。これはフーコーと比較するとますます明らかになるグッドマン的言説の特徴である。(ただし、当然ながら、「自己」の主題に関する黙示的な主張はないわけではない。その解明は今後の課題のひとつである。)
 フーコーは世界よりむしろ<自己>について終始一貫して語っている。彼は主論文(後に『狂気の歴史』として刊行)と副論文(カント『実用的見地における人間学』のフランス語訳と異例に長い序文、これは生前刊行を許されなかったが、ようやく2008年に公にされた)によって学位を得た。フーコーにとって人間の自己こそが哲学「問題」の名に値するようであった。生涯を通じて彼は、広大な領域にわたる多くの事象――臨床医学、小説家、エピステモロジ―、知の考古学、監視と処罰、権力、政治、性の歴史など――について孜々として資料を読み、考察を深め、多数の講演や講義をおこない、多くの人と対話を交わし、分厚い本を書いた。彼が最後に刊行した著作はシリーズ『性の歴史』の三冊目にあたる『自己への配慮』だった。
 彼はある個所で<自己>へのアプローチがアジアと西洋では異なるという指摘をしている。多少長いがそれを引用しよう。


 確かに仏教においても、光〔信仰の光のこと――引用者〕のもとへ赴く義務と、自分自身についての真理を発見する義務があります。しかし、それら二つの義務のあいだにある関係は、仏教とキリスト教とではまったく異なっています。仏教において、個人は、一つの同じタイプの啓示によって、自分は誰であるか、そして真理とは何であるかということの発見へと、同時に導かれます。自己と真理とのこの同時的な啓示のおかげで、個人は、自己というものが錯覚にすぎなかったということを発見するのです。」(「性現象と孤独」(英語による講演)、『フーコー・コレクション 5』小林康夫ほか編、ちくま学芸文庫、2006、pp.122-3.この講演は初め1981年に発表された。)

 ここでフーコーが「仏教」と呼ぶものが正確にどういう教えなのかはわからない。(欧米で広く知られた仏教といえば、仏教学研究は別の話として、禅仏教といっていい。想像にすぎないが、フーコーは禅仏教を念頭にしていたのではないか。)キリスト教的概念としての「啓示」をフーコーがそのまま仏教に持ち込んでいることに違和感を持つ向きもあるだろう。しかしブッダは<悟り>(bodhi)を目指して教えを説いたのだった。迷いを打ち払い真理(=法)に目覚めることが、そのまま悟りを得ることなのである。したがって啓示から悟りへの類推は十分に可能である。    (つづく)