Hommage a TOKIO KUMAGAI

パリをデザインの拠点とし、東京コレクションで発表を続けたファッションデザイナーの軌跡をたどります

HOMME DE NUIT TOKIO KUMAGAÏ 単独ヴィジュアルブック ペーター佐藤

Cover, like as ink drawing / 水墨画のようなカバー


こちらも長い間存在を知らなかった、オム・ド・ニュイ・トキオクマガイの単独のヴィジュアルブックです(おそらく、ブランドを立ち上げた1986年春夏コレクションのもの)。

上田義彦氏による、着用してポケットに手を入れた時などに出るドレープのクローズアップのモノクロ写真は、テキスタイルの美しさも際立たせています。

photo by Yoshihiko UEDA / 上田義彦氏撮影




合わせて、ペーター佐藤(1945-1994)氏のファッション画が3カット差し込まれていて、ブックに華を添えています。


illustration by Pater SATO / ペーター佐藤氏のリトグラフ



実は数十年前に原宿にあるペーターズギャラリーに行った時にこのカットのポストカードを見つけて、ペーターさんのいつものスタイルと違って面白いな、と思って購入したのですが、まさかTOKIO KUMAGAÏ のための描き下ろしだったとは知りませんでした。

PHOTOS YOSHIHIKO UEDA

LITHOGRAPHIE PATER SATO

ART DIRECTION HIROMITSU YOSHIYA

⭐︎ HOMME DE NUIT TOKIO KUMAGAÏ visual book (maybe 1986SS)

⭐︎ catalogue de HOMME DE NUIT TOKIO KUMAGAÏ (peut-être 1986PE)

 

ACCESSOIRES ヴィジュアルブック(1989)

real animals printed necktie  / 動物プリントのネクタイ

アンニュイな女性の雑誌広告がとても印象的なアクセソワールの写真が、ヴィジュアルブックにまとめられいているとは長い間知りませんでした。



TOKIO KUMAGAÏ ACCESSOIRESのバッグは、レザーもしくは光沢のあるナイロン素材を用い有機的なフォルムのものからドクターバッグのようなクラシックな雰囲気のものまで、バリエーションが豊富でした。(株式会社エリットがライセンス製造を担当していました。エリットは2014年に終業)

ベルトのバックルやネクタイ、スカーフ類のプリントには幾何学模様や動植物のモチーフなど、靴にも共通するデザインコンセプトが窺えます。(朝倉商事がライセンス製造を担当していました。朝倉商事は2001年に終業)

このブックも登喜夫さん没後の制作で、岩立マーシャさんのディレクションです。

Photos NOELLE HOËPPE
Producer MARCIA IWATATE
Lay out BERNARD BAISSAIT

TOKIO KUMAGAÏ ACCESSOIRES visual book (1989)

☆ catalogue de TOKIO KUMAGAÏ ACCESSOIRES (1989)

geometrical pattern necktie / 幾何学模様のネクタイ

 

岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん 番外編

数年ぶりにマーシャさんとメッセージのやり取りがあり、再びお話を伺う機会を持つことが叶いました。
登喜夫さん没後にTOKIO KUMAGAÏブランドに関わられた、いくつかのシーズンのヴィジュアルブックをわけていただいたのですが、その折に、ダイニングバーを運営されていたマーシャさんがなぜファッションの世界に飛び込むことになったのかを伺いました。
現在のマーシャさんの公式URLはこちら
岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん その1岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん その2 も合わせてお読みください)

株式会社JUNの佐々木忠社長(当時)がふらりとSilver Spoon に来店され、「お願いしたいことがあるので、明日社まで来訪ください」と突然打診されました。1960〜70年代の、JUNやROPÉの伝説といわれたTVCMが記憶に残っていたので、話を聴くことにしました。
本社はまだ芝浦にあって、社長室もなくビルの一室に通されたところ、とても驚いたことに、私にランウェイショウの演出をして欲しいと佐々木社長から直々に依頼を受けたのです。しかも予算には上限は無く、私の要望はほぼ全部叶えてくれるという夢のような提案でした。
実際、手がけたショウの中には、JUNブランドの服を使わなかったこともあります。私が演出したショウはとても話題を呼びました。
ショウの演出をきっかけに、その後も株式会社JUNと協働を続けました。

TOKIO by DOMONにおいても同様にランウェイショウ
(namourOK注:いくつかのショウはDOMONとのジョイントショウでした)が成功しました。
登喜夫さんが株式会社JUNとの契約を終え、イトキンとTOKIO KUMAGAÏ INTERNATIONAL を創設した折にも引き続きランウェイショウの演出を依頼されましたが、佐々木社長への恩義もあり、お断りしました。(namourOK注:TOKIO KUMAGAÏのランウェイショウは全て、サル・インターナショナルの四方義朗氏(当時)が担当されました)

ACCESSOIRES ヴィジュアルブック ロバート・メープルソープ

Daypack designed by Tokio / 登喜夫さんデザインのリュック


岩立マーシャ氏の語る登喜夫さん その2 でマーシャさんがお話しくださった、ロバート・メープルソープ(1946-1989)の撮影によるアクセソワールラインのヴィジュアルブックです。
メイルヌードのみで構成したメープルソープの写真集『BLACK MALES』の雰囲気を醸し出すような、お気に入りのアフリカ系男性にカバンやネクタイを持たせてコーディネート。コントラストの強いモノクロとこだわりの空間構成はメープルソープの真骨頂で、いちファッションブランドのヴィジュアルブックにも気を抜かずに作品制作していた姿勢が伺えます。
Photos ROBERT MAPPLETHORPE
Producer MARCIA IWATATE
Sylist DIMITRI LEVAS
Lay out MASAMI SHIMIZU DESIGN OFFICE


TOKIO KUMAGAÏ ACCESSOIRES VISUAL BOOK (photographed by R. MAPPLETHORPE)

I present a visual book of TOKIO KUMAGAÏ Accessories line that published after Tokio's decease (some products were repeated as basic models).
The producer Mrs. Marcia IWATATE, who had already collaborated with Tokio in 80s under "TOKIO by DOMON" brand, and she was asked by Tokio himself to collaborate again for TOKIO KUMAGAÏ brand, (just before his death).

This visual book was published during Masaki MATSUSHIMA's design era. 

Marcia and Robert were friend since long time, and when Marcia proposed this project, Robert had already been ill. His manager said that he couldn't walk, in using a wheel-chair so he might not be able to take pictures. Marcia left anyway some accessories.

After Marcia went away, surprisingly, Robert stood up from his wheel-chair and touched the products, and started working (according to the manager).

TOKIO KUMAGAÏ ACCESSOIRES catalogue (photos par Robert MAPPLETHORPE)

Je vous présente a catalogue de la ligne d’accessoires, publié après le décès de Tokio (quelques produits dessinés par Tokio se sont répétés comme la collection permanente).
La productrice de catalogue, Mme. Marica IWATATE collaborait avec Tokio au début d'années 80 quand Tokio lançait la griffe “TOKIO by DOMON”, et Tokio lui a demandé directement une nouvelle collaboration (juste avant sa mort).

Marcia et Robert avaient une longue amitié. 
Lorsque Marcia lui a proposé ce projet, Robert était déjà très malade, son manager a dit qu’il restait tous le temps en fauteuil roulant, donc ce serait impossible de prendre des photos. 
Marcia a quand même laissé des accessoires dans son atelier. Après que Marica est partie, incroyable, Robert s’est mis en debout, a touché des produits et comme cela il a commencé à travailler !




FOOT PRINT (MOMU, Antwerpen) exhibition catalogue

表紙はマルタンマルジェラのタビブーツの靴底模様


2015年秋から翌年初めにかけて、ベルギー・アントウェルペンのモード美術館MOMU -MOde MUseum- にて FOOT PRINT と冠した靴に関する企画展が開催されました。この展示の発起人でもあり、アントウェルペンで1983年から靴のセレクトショップ Coccodrillo を営んでいたのが、Eddy Michiel氏とGeert Bruloot氏のお二人です。
実はこのお二人、現在世界中で当たり前になっている衣料品の販売業態の一つ、「セレクトショップ」-様々なブランドの商品をバイヤーの趣味嗜好に沿って買い付け、一つのお店で販売する- の始祖となる革新的な店 LOUISの創業者でもあるのです(セレクトショップの創業は全世界で同時多発的に起こったと考えられますが、LOUISは始祖の一つというのが私見です)。LOUIS はオーナーの座を譲り、Coccodrilloは惜しまれながら2019年に幕を閉じましたが、私は幸運にも2015年春に二人と会ってお話を伺うことができました。

FOOT PRINT は Coccodrilloの創業30周年記念の書籍出版というプロジェクトから始まり、最終的にMOMUでの展示へと昇華していったそうですが、そのはず、書籍は単に企画展のカタログというにはあまりにも豪華な製本になっていて素晴らしい出来栄えです。
今回、Eddyさんのご好意により、カタログのトキオクマガイ紹介ページの一部と、店舗ファサードの写真、そしてEddyさんのインスタグラムの、買い付け時に撮影されたポラロイドのポストを掲載させていただきます。
拙ブログ2014-02-24のポストにてご紹介した、トキオクマガイの靴の製造を長年手がけられたHeresco社のオーナー、アメリオ・ザガト氏がMMMメゾンマルタンマルジェラのタビブーツを造るきっかけは、Coccodrilloのお二人だったことが伺えます。
アントワープの6人」を筆頭に1980年代以降のアントウェルペンでデザイナーを目指す若い世代に、日本人デザイナーのクリエイションが与えた影響は大きいと言われますが、その中にCoccodrilloを通じて登喜夫さんのクリエイションも存在していただろうかと思うと、ワクワクします!

Coccodrilloのファサード。1988年以降(登喜夫さん没後)と思われます


FOOT PRINT the tracks of shoes in fashion (LANNOO)

Geert Bruloot / Hettie Judah / Dodi Espinosa 

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TOKIO KUMAGAÏ
In our second season as a shoe store, we discovered a window on the Place des Victoires in Paris filled with the most exciting and fashionable shoes we could find at the moment : the shop window of Tokio Kumagaï. At our request, we were granted a visit to the Kumagaï show room, where we were welcomed by the wonderful Mr [Amelio] Zagato and by the master himself.
 A brief chat about the (Koji Tatsuno-designed -namourOK注:ロンドンで活動されたのち、パリでet vousブランドのディレクターとして活躍-) Culture Shock clothes we were wearing created an immediate friendship between four of us, which proved later to be the foundation of our first commercial success as a store. Tokio Kumagaï’s name definitely helped us achieve our goal of becoming a designer shoe store. Mr. Zagato, whose company Heresco produced the Kumagaï shoes in Italy, became an enduring friend ; so, after the passing of Tokio, Eddy was able to convince him to have a look at the first Martin Margiela tabi boots. He began to work with Martin and became the producer of these iconic shoes for many years.
Geert Brulot and Eddy Michiels



登喜夫さんのポートレート上田義彦氏の撮影

(以下の訳は namourOKによる)

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トキオクマガイ
靴の店を始めて2シーズン目、パリのヴィクトワール広場にとてもエキサイティングでファッショナブルな靴が並ぶウィンドウの店:トキオクマガイを発見した。お願いして、ショールームを訪問すると、アメリオ・ザガト氏と、デザイナー本人に手厚く歓迎された。
僕たちが着ていたカルチャーショック(コージ・タツノのデザイン)の服について少し話しただけで、私たち4人の間には友情が芽生え、それは後の僕たちの店における初めての商業的な成功となったことが証明している。トキオクマガイのネームバリューは、Coccodrilloがシューズデザイナーのセレクトショップとなる最終目標を達成する大いな手助けとなった。イタリアでトキオクマガイの靴を製造していたHeresco社の社長ザガト氏とは長きにわたる親友となった。登喜夫が亡くなってから、エディがザガト氏を説得して、マルタンマルジェラの最初のタビブーツを見てもらった。それ以降、ザガト氏はマルタンと数年間、ブランドのアイコンともなったタビブーツの製造を手がけてくれたのだった。
ヘールト・ブルルート/エディ・ミケールズ

Eddyさんのインスタより。ポラロイドは当時のバイヤーの必需品だったようです



『ハイファッション』1988年2月号 No. 166(二・終)


追悼ページには、当時の文化出版局パリ特派員でいらした藤井郁子さんの以下の文章も添えられていました。

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トキオの、ミサに臨んで。

藤井郁子


 「パリ、東京、ニューヨーク
クリストフ・ジラール、フランソワーズ・ビュリ、デュイ・セードが
十一月一〇日 火曜日 一六時からサンメリ教会ーヴェルリ通り七六番地ーで熊谷登喜夫を回想してミサの儀式を行なうことをご案内します」
と一一月七日付けル・フィガロ紙に小さな広告が掲載された。このミサは最後まで病床に付き添って看病したサンローラン店に勤めるパリの親友やニューヨークの親友たちによって企画され、東京で開催された遺作ショーと同じ日に行なわれることになった。
 
 ポンピドゥー・センターに近い、マレ地区にあるサンメリ教会。格子柄のジャケットを着たトキオの大きな写真と白い花束や白い花輪の飾られた祭壇の前に、約一〇〇人近くが集まった。彼のデビュー期、共に働いたジャンシャルル・ド・カステルバジャック夫妻、マリー・クレール誌のモードグループ、元エル誌のモードチーフ、マフィアのアートディレクター……といった有名なパリ・モード関係者、ニューヨークの友人たち、日本の仲間たち、と極めて国際的。そして皆あまりにも急に飛び立ってしまった感のあるトキオの死が信じられないというふうだった。ル・フィガロ紙では「”靴”はそのユーモリスト熊谷登喜夫を失った」、リベラシオン紙は「トキオ・クマガイの最後の靴」とそれぞれ題して、熊谷登喜夫の急な死を報じると同時に、靴のモード界における彼の功績をたたえていた。トキオをはじめとして、ケンゾー、イリエ……とパリ在住の日本人スチリストの活動は各々特徴があって、それぞれ人気があり、親しまれている。それにしても、これからの活躍が期待されていたトキオだけに、残念でならない。

 

『ハイファッション』1988年2月号 No. 166(一)


登喜夫さん没後に発表された1988年春夏コレクションが店頭に並ぶタイミングで、『ハイファッション』が追悼特集を掲載しました。

友人で詩人の高橋睦郎さんが、ランウェイショウ当日のお気持ちを寄稿されています。

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トキオは生きている。

高橋睦郎



 十一月十日、トキオ・クマガイ’88春夏コレクション当日、私は午前十一時過ぎに会場に入った。この日はリハーサルから打上げまで一日、トキオに付き合っていたい、と思った。
 
 リハーサルは正午すこし前から始まった。エルトン・ジョンの音楽の波に乗るように、離れるように、つまり戯れるように出てきた作品は、ウェアも、シューも、予想どおり、いや、予想以上に軽やかで、ほとんど翔び立つばかりだった。

 この印象は午後二時からの第一回のショウでさらに明確なかたちをとった。軽やかで翔び立つばかりというと、ともすれば軽さ・薄さと受けとられかねないがそうではない。じゅうぶんな重さ・厚さ……といってもいいすぎなら、じゅうぶんな確かさを持ちながら、みごとな軽やかさに達した、ということだ。天上的……という言葉が私の前頭葉に浮かび、私はその言葉に頷いていた。

 思えば、十年あまり前、私が出会って以来のトキオの仕事は、軽やかに、さらに軽やかになろうとする運動の絶えざる進行形だった、と思う。二十歳代後半のトキオが重かった、というのではない。初対面のトキオはファッション・デザイナーとしての出発点を模索していたはずなのに、ファッションに一生しがみつこうなんて思わない、年をとったら覚えた言葉を生かして、日本でフランス人の、フランスで日本人の観光ガイドなんかやってみたい、といって、私を驚かせたものだった。

 自分が詩を書かなくなっても誰も困らない、詩なんてべつに後生大事なものでもない、そういうところで書いている、といった私への対応の気味がないわけではない。出発点に立った者の不安も混っていたろう。しかし、やはり大筋のところで本音だったのではないか。そういう自分の資質に作品を近づけ、すり合わせるところに、彼の生きかたがあった。このことはJUN時代の作品とイトキンに移りトキオ・クマガイ・インタナショナルを設立してからの作品とを較べてみれば、明瞭だろう。その意味では、彼の移籍は経済的理由よりも創作活動の本質から出たもの、と捉えるべきだろう。

 トキオ・クマガイに籍を置いてからも仕事は年年軽やかに、自由になって行った。さきに自分の資質に作品を近づけるといったが、これは逆もいえることで、作品がさらに軽やかに、さらに自由になるにつれて、作者もさらに軽やかに、さらに自由になって行ったように、国内店舗も年年増え、パリの店舗もフランチャイズも含めて三軒になり、多忙を極めていただろうに帰国のたびに数回会う彼のたたずまいにせわしないところは微塵もなかった。この人は会うたびに余裕を増してくる、と私は思った。

 このことは、身体の変調を覚え、意識的にか無意識的にかそう遠くない死を感じはじめてからの彼にことにいえる、と、いまひるがえって思う。この八月に何度か会った彼は、肉体的にはそうとう辛かったはずなのに、淡淡と自由なこと、これまで以上だった。八月末パリに帰っての発病、九月末の毎日ファッション大賞授賞式のために帰国・出席する体力はもうない病床でも彼の自由な発想はあふれつづけ、そして今回のコレクションである。

 八時からの四回目のショウがいつも以上に熱い拍手のうちに終わったあと、観客はトキオ・クマガイ・インタナショナルからの何らかのメッセージを待っていたようだ。しかし、特別のメッセージはなかった。コレクションじたいがメッセージだった。いっそう軽やかに、いっそう自由に、言い換えればいっそう確かになった彼の仕事は、さらに軽やかに、さらに自由に、さらに確かに続いていく。スタッフの中のトキオはかりそめの死を超えて生きつづけ、彼らと対話し、創作しつづける。

トキオは生きている。