世界の果てで、呟いてみるひとり。

鳴原あきらの過去・現在・未来

例えば『幻の赤い実』


私の論文デビュー作『幻の“ままの”赤い実〜石井桃子の自伝的【カムアウト】小説を読みとく〜』というのは、その題名のとおり、児童文学作家・翻訳家の大家である石井桃子の自伝的小説が、若い女性同士の恋愛小説であるということと、現実の石井桃子氏自身の人生そのものが♀♀な生き方といえる、という主張を書いたものです。
『幻の赤い実』は、石井氏本人の分身と思われる明子と、女学校時代の先輩である蕗子の、二人の強い絆を描いた小説です。若い女性の友情小説として読み過ごすには、その度合いを越えています。「愛している」の台詞も、はっきりと書かれています。若き日の一過性の情熱でもなく、性的なものも仄めかされています。二人の間を引き裂くのは明子の結婚ですが、明子の夫は蕗子に延々と嫉妬を続けます。蕗子の命は結核によって奪われるのですが、彼女の死から数十年もたってもなお、明子は二人がつきあっていた間、蕗子に男の影がなかったかどうかを、くるおしいまでの情熱で追求してゆくという、なんともすさまじい長編です。これを自伝的な小説として、八十歳を越えて上梓した石井氏の執念を思うと、鬼気迫るものがあります。
この「ふうちゃん」なる人は実在の人物(小里文子)であり、海外の図書館員にまでその存在が知られています。石井氏の書いた文章に頻出しているだけでなく、作品を書き上げた時のコメントでもその人であることが触れられており、モデルであることは間違いありません。その「ふうちゃん」は、やはり若くして亡くなりましたが、石井氏は戦後の混乱期に、二人でくらそうと考えていた彼女の家と土地を必死の思いで買い上げて、その家で文庫活動をはじめ、現在もそこに住んでいます。しかも彼女は小説と違って、ずっと独身を貫いてきました。多くの若い女性を従えて、様々な女性運動を繰り広げた人でもあるのです。


しかしこの読み方は、石井桃子氏にとっては迷惑なものかもしれない。
私は拙稿を送り、読んでいただきました。
果たして石井氏は驚かれました。世間の♀♀のイメージ(性的に奔放な?)と、自分の住んでいる世界とは違う、と感じていらっしゃるようです。


しかし、これが恋愛小説でないのなら、何が恋愛小説か?
現実に存在している♀♀たちは、この『赤い実』と本当に違う世界の住人なのか?
この小説を真に理解し、心の糧にするのは、愛する女性と果敢に生きている彼女たちではないのか?
石井氏の生き方に学び、慰められるはずの誰かが、「そうではないから」と勝手に疎外され暗黙の了解に押し込められて、悲しんではいないか?
それが私の主張です。


こういったことも、やはり誹謗中傷にあたるのでしょうか。
私はそれが知りたい。
いつも。