本物の教養人

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

 「いき」という言葉が表す意味を具体的な用例から意味を探っていく「内包的構造」、類似あるいは対立概念との比較から意味を措定していく「外延的構造」を述べ、さらに自然的表現(口調やしぐさなど表現に表れた「いき」)、芸術的表現(服飾、建築、音楽など芸術における「いき」)へと展開していく。
 面白いのはこの文章の書かれたのが九鬼がパリに留学中のことであるということだ。解説にも書かれているとおり、構造的なとらえかたは西洋哲学のそれだ。しかし西洋人にはこれを書くことはできないだろう。九鬼自身言っているとおり、「いき」を概念的に把握することと、「いき」を実感することとの間にはかなりの距離があるのだろうから。九鬼ははじめのところで述べているが、「いき」は日本文化独自のものであるといい、シックやコケット、エレガントなどを比較しながら違いを説明している。この辺の語感はフランスに留学していた人ならではのものだろうと思う。比較対象を持って相対化する視点がなければこういう文章は書けない。これを読むと新渡戸稲造の『武士道』を思い出す。あれは西洋人向けに英語で書かれたのだが、他の日本人の誰よりも武士道を正確に書いているだろう。あの本でもはじめのところで、騎士道精神と比較して論じている。
 「いき」の構造の一番面白いところは六面体で「いき」の意味的位相を説明した下りである。「意気」「渋味」「野暮」「甘味」「地味」「上品」「下品」「派手」を頂点とした四角柱でそれぞれの違いや近さを具体的な例を引きながら(江戸時代の文献や当時まで残っていた慣用表現)、「いき」(意気)の意味を限定していく。意味の相対性を考えれば、このモデル以外で説明するのは難しいだろう。しかし解説者も述べているようにこういう仕方で説明するのは日本の文化からはなかなか出てこないと思う。
 「いき」は「媚態」と「意気地」と「諦め」でできており、基本的に男女間の機微に関することだということが一番はじめに出てくる。しかも遊郭の遊女のことばが数多く引かれている。恋をして引かれていくが、一体にはならない。永遠にたどりつけない二元性を有するのが「いき」である。媚態がありながら、相手を拒絶する毅然としたところを持ち、それでいて苦界に身を沈めている自分の立場への「諦め」がある。この辺りの説明を見ていて思い起こしたのはフーテンの寅さんである。寅さんは決してマドンナと結ばれない。やくざな自分は相手を幸せにできないという思いから、肝心のところで身を引くのである。寅さんは多分に「おどけ」が入っていて滑稽味があるが、その裏には哀愁がある。そうでありながら、恋なしには生きられない、これは「いき」だと思う。
 九鬼はたくさんの例を引いて「いき」の説明をしているがその一つ一つが魅力的だ。中でも気に入った説明を挙げる。「『いき』な姿としては湯上がり姿もある。裸体を回想として近接の過去にもち、あっさりした浴衣を無造作に着ているところに、媚態とその形相因とが表現をまっとうしている……『垢抜』した湯上がり姿は浮世絵にも多い画面である……しかるに西洋の絵画では、湯に入っている女の裸体姿は往々あるにかかわらず、湯上がり姿はほとんど見出すことができない」こういう感覚は現代日本人にもかろうじて残っているのではないかと思う。九鬼は西洋風の短いスカートなどを「いき」でないと言っているが、そこで短いとされているのは、「膝まででるくらい」の長さである。現代の日本人を見たら、腰を抜かすかもしれない。
 筆者が男性であるからか、もともと「いき」は女性に多く使う言葉なのか、女性の用例が多い。もちろん建築や服飾(縞模様)色合い(灰色)なども書かれているので、必ずしも女性に限ったことではない。実際、「いき」な男性もいるだろう。