不敗の太陽神のローマ化 中西「帝政後期ローマの皇帝たちと太陽神」

太陽神の研究 (下巻) (宗教史学論叢 (8))

太陽神の研究 (下巻) (宗教史学論叢 (8))

  • 中西恭子「帝政後期ローマの皇帝たちと太陽神 ソル・インウィクトゥス信仰を中心に」松村一男、渡辺和子編『太陽神の研究』下巻、リトン、2003年、170–182ページ。

 属州シリアに起源を持つ不敗の太陽神(ソル・インウィクトゥス)信仰がいかに導入されたかを論じた論考を読みました。不敗の太陽神崇拝の痕跡がローマ帝国の中心で見られるようになるのは2世紀からです。このころからローマでインウィクトゥス祭祀が行われていたことを示す碑文が見られます。また東方での戦勝記念として、戦端にあるシリアの神である不敗の太陽神を彫った貨幣がつくられました。国家祭祀においては不敗神は外来の神という位置づけではあったものの、2世紀末にはじまるセウェルス朝の皇帝たちは、属州出身であったり、シリアの神官家系と婚姻関係を持ったりなどの事情から、不敗太陽神のイメージを皇帝の権威発揚に利用しました。ヘリオガバルス(在位218–222)にいたっては、不敗太陽神を国家祭祀上の最上神に位置づけました。

 ヘリオガバルスが暗殺されてしばらくのあいだ国家祭祀の場から不敗神は姿を消していました。しかしアウレリアヌス(在位 270–275)は征服事業での戦勝の感謝を捧げるためにソル・インウィクトゥス祭祀を導入しました。そこでの不敗神はもはや外来の神ではなく、ユピテルマルスといったローマに伝統的な神格と並ぶ「武勲の守護神」としての位置を占めることになりました。祭儀もローマ的な手続きに従っておこなわれるようになります。こうしてソル・インウィクトゥスはシリアの地方神格という性格を脱して、皇帝に戦勝をもたらし帝国に安寧を保証するローマ世界にとって普遍的な意義を持つ神として認知されるに至ります(太陽神のローマ化)。

 内乱により不安定化する皇帝権威を安定化させるために、以後皇帝には神々に匹敵するような権威が儀礼を通じて与えられるようになります。そのなかで不敗の太陽神は戦勝の守護者として重要視され、皇帝の称号にも「不敗の」という言葉が流用されるようになりました。しかし内乱終結後、一切の国家祭儀を拒絶するキリスト教を無視しえなくなった帝国では、もはや太陽のような具体的神格ではなく、超越的な神による守護を受けた存在という新たな皇帝像が模索されるようになります。皇帝の武勲はもはや太陽抜きで語られるようになるのです。