ニッポニカ・ビオラ弾きのブログ

芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカのビオラ弾きのブログです

唯是震一『私の半生記』:生い立ち

 唯是震一の祖父は岩手県遠野出身の唯是丙助(1868-1935?)で、札幌農学校で学び、地元の大地主の娘スエと結婚しました。その長男一三(かつぞう、1894-1942)が父で、父は尺八を習っていました。母は1887年(明治30)石川県生まれの高橋菊枝で、一家で空知郡岩見沢に移り雑貨商を営んでいました。菊枝は山田流筝曲を習っていました。1919年(大正8)唯是一三と高橋菊枝は結婚しました。旭川の東の深川で母は筝曲を教え、父も役所の仕事の傍ら尺八を教えていました。そのころ母は生田流の曲も研究するようになりました。

三姉妹と私
 長姉一枝、次姉礼子に続き、大正十二年十月三十日に長男として私震一が、大正十四年三月二十日には妹智子が誕生し、私たち四人兄弟が出揃ったことになる。四人とも深川産で、名前はすべて父方の祖父が命名したという。一枝姉の名は両親の名前を一字ずつ貰って付けたと思う。母の言によれば、礼子姉と私と妹智子の名は礼智信義から採ったようである。私が生まれた時は丁度関東大震災があって間も無い頃だったので、本来の智の字と信の字の順序を入れ替え、更に信を震に置き換えたという事である。それに私がはじめての男児だったので一が加えられ震一と名付けられた。

 一家は何回かの転居の後、1928年(昭和3年)震一5歳の時に札幌に引っ越しました。西本願寺ルンビニ園でオルガン伴奏に仏教讃歌を歌ったり、ルーテル教会でオルガン伴奏に賛美歌を歌ったりしていました。小学校時代には近所の青年にヴァイオリンを習ったりもしました。そのころ父がコロンビア蓄音機を買って、童謡や邦楽・洋楽のレコードを聴いていました。


引用:唯是震一『私の半生記』(砂子屋書房、1983)p9-10より