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西野神社 社務日誌

3000-00-03 [表紙]

西野神社

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◆ このブログを担当している私は西野神社の一職員(権禰宜)です。宮司に対しての質問・問い合わせ等は、このブログではなく掲示板の方にお願い致します。

2017-04-25 西野神社定期総会 & 春季例祭

今日は午前9時30分から参集殿で、「平成29年度 西野神社定期総会」が開催され、当社の責任役員総代さん達の大半の方々が出席されました。
続いて午前11時からは、社殿にて「春季例祭」が斎行され、その後、午前11時40分頃からは、祭典に参列された方々のほぼ全員が出席して、昼食や懇親会を兼ねた直会が開かれました。

下の写真は、何年か前の春に当社境内で撮影したもので、今日撮影したものではないのですが(今年は、現時点ではまだここまで開花しておりません)、春季例祭日に相応しい春らしい光景という事で、ここにアップします。

西野神社鳥居


春季例祭に先立って、先ず9時半から開催された定期総会は、以下の次第に従って粛々と進められ、報告事項や各議案等は恙無く全て承認されました。
開会 → 総代長挨拶 → 宮司挨拶 → 各報告(昨年度の事業報告、昨年度の会計報告と監査報告)→ 議案審議(今年度の事業計画案、今年度の会計予算案、役員改選)→ 新任の総代さん達への総代委嘱状交付 → 勤続10年となる総代さんへの感謝状贈呈 → 宮司からのその他の報告 → 閉会

ちなみに、本日付で西野神社総代に就任された新任の総代さん達は、3人でした。また、当社の副総代長の定員は3名なのですが、昨年から一人欠員が生じていたため、本日付で、平田総代が副総代長へと昇格されました。
なお、上記の次第中に「勤続10年となる総代さんへの感謝状贈呈」とありますが、今回その表彰を受けたのは、石井副総代長でした。

平成29年4月 西野神社 定期総会

平成29年4月 西野神社 定期総会

平成29年4月 西野神社 定期総会


そして、定期総会が終わった後、午前11時からは、斎主以下祭員5人(須浪宮司、松澤権禰宜、田頭権禰宜越川権禰宜、門権禰宜)の奉仕により、大祭の「春季例祭」(単に「春まつり」とも称されます)が、以下の次第に則り厳粛に執り行われました。
号鼓 → 開式の辞 → 修祓 → 宮司一拝 → 巻簾 → 献饌 → 献幣(総代幣帛)→ 祝詞奏上 → 神楽奉納(朝日舞)→ 国歌斉唱 → 斎主以下祭員玉串拝礼 → 参列者玉串拝礼 → 撤饌 → 垂簾 → 宮司一拝 → 閉式の辞 → 号鼓

定期総会に出席された責任役員や総代さん達には引き続きこの大祭にも参列して戴き、また、西野神社各崇敬会(西野神社萬燈保存会西野神社神力會西野神社敬神婦人会西野神社氏子青年会皐月会)の代表や事務局を担当されている方などにも、御参列戴きました。

平成29年4月 西野神社 春季例祭

当社で斎行されるこの春季例祭は、古代に於いて律令国家の恒例祭祀のひとつとされてきた祈年祭(その年一年間の豊穣を祈願する祭事)に相当する祭典で、当社の氏子区域(西野・平和福井)をはじめとして全国各地の農業・工業・商業などが栄える事を神様に祈念する祭典として、毎年4月25日に斎行しております。
なお、神社の恒例祭祀は、「大祭」「中祭」「小祭」の三つに区分されるのですが、今日斎行された春季例祭は、当社にとっては平成29年になってからは初め行われる大祭でした。ちなみに、創祀○周年記念祭などの臨時大祭を除くと、当社で執り行われる恒例祭祀に於ける大祭は、この他に、例祭新嘗祭があります。

平成29年4月 西野神社 春季例祭

平成29年4月 西野神社 春季例祭

平成29年4月 西野神社 春季例祭

平成29年4月 西野神社 春季例祭

平成29年4月 西野神社 春季例祭


当社で執り行われる大祭及び中祭では、宮司が本殿外陣の御簾を巻簾・垂簾する際、祭員の一人が、笙(しょう)という和楽器を吹奏するのですが、下の写真は、本日の春季例祭で行われた、門権禰宜によるその吹奏の様子です。笙は、奈良時代に唐から伝来したと云われる、17本の長短の竹管を環状に立てた管楽器です。

平成29年4月 西野神社 春季例祭


私は、例年通り今年の春季例祭でも、奏楽と共に詠まれる明治天皇御製(明治天皇が作られた和歌)に合わせて、神社本庁が制定した祭祀舞のひとつである朝日舞を、大前にて奉納させて頂きました。ちなみに、当社の大前で朝日舞の奉納が行われるのは、春季例祭と新嘗祭の年2回です。

平成29年4月 西野神社 春季例祭


そして、春季例祭が終わった後(午前11時40分頃)、参列者の皆さん方には再び参集殿へと戻って戴き、昼食を兼ねた直会にも御出席戴きました。直会は約1時間半程行なわれ、例年通り、今回の直会も大いに盛り上がりました。
御多忙の中、本日当社に参集して下さった皆様方、ありがとうございました。

平成29年4月 西野神社 春季例祭直会

平成29年4月 西野神社 春季例祭直会


今日の定期総会、春季例祭、直会の様子を写した写真は、「西野神社アルバム」の、「平成29年4月 西野神社定期総会、春季例祭、直会 」のページ(下記URL)にも多数アップロードしておりますので、宜しければそちらも是非御覧下さい。これらの写真はいずれも、クリックすると拡大表示されます。

http://f.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/290425%20%E6%98%A5%E5%AD%A3%E4%BE%8B%E7%A5%AD/?sort=old


(田頭)

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2017-04-24 社務所の台所が新しくなりました

数日前より、社務所台所の流し台から床に、僅かに水が漏れる症状が出始めたため、配管業者さんに調べて貰った所、台所のシンクの一部が老朽化により腐食していて、そこから水が漏れている事が分かりました。
私が生まれる前(半世紀くらい前?)からずっと使われ続けてきたシンクなので、使い方に問題があったというよりは、もう、物理的に寿命を迎えた、という感じなのでしょう。下の写真が、当社の社務所にある、その台所です。

西野神社社務所 台所(平成20年4月)


というわけで、今日、社務所の台所に設置されていた、流し台・コンロ台・ワークトップなどを含めたキッチン一式が、新しいものに取り替えれらました。
以下の写真2枚は、今日のお昼頃に撮影した、取り付けが完了して間もない、新品のキッチンセットです。

西野神社社務所 台所(平成29年4月)

西野神社社務所 台所(平成29年4月)

湯沸かし器、コンロ、キッチン上の吊戸棚などはそのままですが、シンクは今までよりも広く大きくなり、使い勝手が向上しました!

ちなみに、平成20年4月27日付の記事でも詳述しましたが、台所の食器棚については、今から9年前に、既に新しいものに取り替えております。


(田頭)

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2017-04-20 黄泉の国と黄泉比良坂の位置関係について

平成29年 西野神社正月助勤者(巫女)

今年のお正月に、当社で巫女(授与所窓口での奉仕)として助勤をしてくれた、北海道大学の学生である寺本さんは、神道に関して、私達神職が驚く程の専門的な知識を持っていました。
本職(常勤)の巫女さんでも、ここまで詳しい方はまずほとんどいないのではないかと思う程です。

現在は大学4年(助勤をしてくれた時点では3年生)のその寺本さんが、2年生の時に、黄泉比良坂と葦原中国と黄泉国の位置関係について、ゼミで発表した論文を見せてくれたのですが、それがまた、想像以上に凄い、圧倒されるような内容だったので、当人の許可を得た上で、以下にその全文をそのまま転載し紹介させて頂きます。長文ですが、興味のある方は是非お読み下さい!
ちなみに、私が19〜20歳くらいの時に、これと同じようなレベルの論文が書けたかどうかと考えてみると、疑いようもなく、まず無理です(笑)。

なお、メールに添付して送信してくれた文書をそのまま全文、以下にコピペしているため、文章そのものはこちらでは一切改変していませんが、転載するに当たって、このブログ仕様の都合上、改行箇所、文字の大きさ、数字の記号等については、元の論文から一部変更した所もあります。御了承下さい。


*        *        *        *


国文学演習『古事記』研究基礎 黄泉の国と黄泉比良坂の位置関係について

日本文化論講座二年 寺本菜摘

 今回、私は黄泉国と黄泉比良坂はどのような位置関係にあるのかということについて考察した。このテーマを設定した理由は、私は黄泉国というものは黄泉比良坂の下側にあるものだと思い込んでいたが、金沢先生の延喜式祝詞の授業で坂の上に黄泉国が存在するという説を聞いて驚いたということ、そしてなぜ坂の下だと言えるのか自身の中に根拠を持っていなかったということからである。なお、古事記本文については新編日本古典文学全集を引用した。

 古事記の注釈書を引いて「黄泉国」について何が書かれているのかを見たところ、「記伝」では「下方に在ル國」と書かれ、「大系(記)」「全書(記)」「集成」「思想大系」では黄泉国は地下の世界であるとしていた。「記伝」では延喜式鎮火祭祝詞の中でイザナミがイザナキに対し、イザナキが「上津國」を、自身が「下津國」を統治するように言ったこと、スサノヲが母にあたるイザナミの国を「根之堅州國」と表現したことが根拠として挙げられている。なぜ「根之堅州国」が「下方に在ル國」の根拠になるのかというと、「根」という言葉が「地下」の意を含んでいるからである。したがって、ここで宣長が示す「下方に在ル國」というのは他の注釈書が表している「地下世界」と近い意味であると考えられる。

 また「黄泉比良坂」に関して、ここではまず黄泉比良坂が一般的にイメージされる「坂」のように傾斜を持ったものであるのか考えた。「記伝」では「此は黄泉と顯國(うつしくに)との堺なり、平坂と云は、平易(なだらか)なる意なり」と、黄泉比良坂は平坦であるとしている。しかし、他の注釈書「大系(記)」「全集」「倉野全注釈」「西郷注釈」「新全集」では「ヒラ」は元来「崖」を意味しているとし、「全書」では沖縄語で「ピラ」が上り坂を表すと記していた。このことに関しては、吉野政治氏の文章を引用させていただいた。

(全国各地で斜面を示すヒラと平の字を当てたヒラが混同されることを挙げ)……山の側面・傾斜面をいうヒラと平地をいうヒラとは別語として区別しておきたい。というのは、「黄泉比良坂」のヒラを古事記は必ず仮名書きし、「平(書紀「泉津平坂此云余母都比羅佐可」)とも「枚」(鎮火祭祝詞「与美津枚坂」)とも書かないのは、このことに関係すると思われるからである。したがって、宣長『古事記伝』が「平(ヒラ)坂と云は、平易(ナダラカ)なる意なり」というののも従いにくい。……

 時代別国語大辞典上代編で「平」「枚」を引いたところ、どちらも「形状語。主に名詞と複合して薄く平らなさまをあらわす。」とあり、古事記の中で一貫して仮名表記されている「比良」とはあえて区別されているのではないかと考えられる。

 また、「サカ」に関しては「全集」「倉野全注釈」「西郷注釈」に「堺(=境界)」の意であると記されており、「ヒラ」を傾斜と考えれば「ヒラサカ」が傾斜と境界のふたつの意味を持った語として考えられる。「サカ」を傾斜としての「坂」ではなく「堺」の意味として考える根拠として、古事記の中でイザナキとイザナキが事戸を渡す場面を挙げたい。逃げてきたイザナキが黄泉比良坂を大石で塞ぐわけだが、この岩に神の名(道返之大神)を与える場面で、黄泉比良坂は「黄泉坂」と「ヒラ」を抜いた表記がされている。道返之大神が置かれることによって黄泉国と葦原中国は分断されるのだから、ここであえて「黄泉坂」と表記されているのは道返之大神が「ヒラ」というよりもむしろ「サカ」を塞いだということの強調なのではないか。道返之大神はもちろん物理的にも道を塞ぐ役割をしているが、ここでもっと重要なのは黄泉国と葦原中国が隔絶された世界となったことである。したがってここで言う「サカ」はやはり「堺」の意味で捉えたほうが良いと思った。

 「ヒラサカ」を傾斜としての「ヒラ」と境界としての「サカ」と考えれば「傾斜+傾斜」と意味の重複が避けられ、黄泉国と葦原中国の境界としての坂、という自然な解釈に繋がる。

 また、「集成」では、「ヒラ」は「縁辺(ヘリ)」の母音交代形であるとしていたが、「サカ」を「境界」の意味とすると「境界+境界」となり、あまりにも視覚的説明力に欠けた言葉になってしまう。よって私は「ヒラサカ」を傾斜と境界のふたつの意味を持ち合わせた語と考える。

 ここまで長くなったが、次にその傾斜のどこに黄泉国が存在するのか考える。今回私は黄泉国は坂の上か下かという二点に絞って考えていたが、それ以前に先に述べた注釈書にある「地下世界」を坂の下と捉える考えには課題があった。地下というのは坂の上の世界の地面の下でも良いのだ。しかしどちらにせよ坂に対して上下どちらに位置するかは考える余地があるので、今回は古事記本文の記事から読み取れる内容を手掛かりに考察する。 

 佐藤正英氏は、黄泉比良坂を上った側に黄泉国が存在すると述べている。佐藤氏は黄泉比良坂の「坂本」に着目し、次のように論を展開している。古事記本文には「黄泉ひら坂の坂本に到りし時に、其の坂本に在る桃木を三箇取り待ち撃ちしかば、悉く坂を返りき。」とある。ここで登場する「坂本」は、時代別国語大辞典上代編によると「坂の下。坂の入口。……」とあり、坂の麓であるであることが分かる。また、「悉く坂を返りき。」に関して、これは真福寺本の「悉攻返也」の「攻」を「坂」の誤字としたものである。「攻め返す」とも訓めるが、これでは「桃木」が主語となり不自然であり、また真福寺本にはこれ系統の間違いが多いこと等から誤字とされている。文脈から行くと、イザナキを追ってきた黄泉軍は桃の実を投げられ坂を逃げ帰ったことになる。「坂本」は坂の麓であるので必然的に黄泉国は坂を上った側に位置し、また「坂本」側に葦原中国が位置することになる、という論である。

 この佐藤氏の論に加え、神野志隆光氏は、イザナキの黄泉国訪問譚の他にもう一箇所黄泉比良坂が登場するスサノヲの根の堅州国訪問譚を取り上げて佐藤氏の説を補強している。古事記本文「……故爾くして、黄泉ひら坂に追ひ至りて、遥かに望みて、呼びて大穴牟遅神に謂ひて曰ひしく、……」の「遥かに望みて」に関して、古事記の中では「望」の字の用例に、視線が下から上に向けられている用例が無く、「ある広がりをもっている場合であり、坂にかかわる時は高みから見やることを了解」すると述べている。右に神野志隆光氏『古事記の世界観』(吉川弘文館 一九八六年)より実例を引用させていただく。

【1】 一時、天皇、近つ淡海の国に越え幸しし時に、宇遅野の上に御立たしまして、葛野を望けて歌ひたましく、(応神記)
【2】 河の辺に到りて、船に乗らむとする時に、その厳餝れる処を望けて、(応神記)
【3】 天皇、高殿に坐して、その黒日売の船出でて海に浮かべるを望み瞻て、歌ひたまひしく、(仁徳記)
【4】 淡海嶋に坐して、はろはろに望けて、歌ひたまひしく、(仁徳記)
【5】 波邇賦坂に到りて、難波の宮を望み見たまえば、その火なほ炳えたり。(履中記)
【6】 しかして、山の上に登りて、国内を望けたまへば、(雄略記)
【7】 命を望ちつる間に、すでに多の年経たり。(雄略記)
【8】 しかして、天皇、望けたまひて、(雄略記)

 たしかに、神野志氏が指摘するように「遥かに望みて」のような表現からは高いところから下方を広く眺望している図が自然に思える。しかし、吉野政治氏の指摘では、古事記以外の上代文献、常陸国風土記、書紀、万葉集などでは「遠くを見渡す」という広義で「望」は使用されていて、特に視線の上下には関係ないとしている。だが、古事記本文での使われ方に着眼すると説得力に欠けるという印象を受ける。

 また佐藤氏の説は論理的であると感じたが、これは「坂本」が傾斜としての坂の麓であることに依拠しており、「サカ」が「堺」であるならば、「坂本」も同じ原理に則ることができる。「本」の解釈についてはどうなるのかという指摘をいただいたが、時代別国語大辞典上代編によると「本・下」は「根元、みなもと、おもなよりどころ」とあり、「本」は黄泉比良坂の「境界」としての力が始まる大元の場所、すなわちスタート地点と考えられないだろうか。そして境界の原点としての坂本から黄泉軍が帰っていったと考えると、必ずしも黄泉軍が坂を上り逃げたとは限らなくなる。

 以上のように、「ヒラサカ」という語に関して考えたとき、黄泉国の位置は黄泉比良坂の上でも下でも解釈可能であるとし、さらに宣長が述べているように、鎮火祭祝詞で葦原中国と思われる「上津国」に対して「下津国」と表現されていること、根之堅州国と黄泉国が同じと考えると「根」という表現が地下を示すものであるなどの根拠に基づき、黄泉の国は黄泉比良坂の下側にあるのではないかという結論を発表の中では示した。

 しかし、金沢先生に「桃木」の位置について指摘していただき、その存在を考慮せず考察していたことに気付いた。古事記本文「黄泉ひら坂の坂本に到りし時に、其の坂本に在る桃木を三箇取り待ち撃ちしかば、悉く坂を返りき」、先ほども見たが、この記事において「桃木」は坂本にある。イザナキは桃の実を黄泉軍に投げつけ撃退した後、桃子を意富加牟豆美命と名付け、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国に所有る(あらゆる)、うつしき青人草の、苦しき瀬に落ちて患へ惚む時に、助くべし」と言っている。桃の木に今後も葦原中国の人々を助けるように命じているのである。ということは、坂本にある桃の木は千引の石より葦原中国側になければならず、また千引の石は黄泉比良坂を引き塞いでいるので坂のどこかに置かれねばならない。ここで坂本が坂の麓であるならば、黄泉比良坂を上った側に黄泉国があるということになる。初めは桃の木の位置について、「イザナキは葦原中国の人々を広く助けるように言っており、この坂本にある桃が黄泉国側に置き去りにされても葦原中国には多くの桃の木があるだろうから、黄泉比良坂の坂本にある桃に拘泥しなくても良いのではないか」と考えた。しかしやはり神の名を授けられたということは重要であり、一が百を表すということがここでは考えられるので、やはり坂本の桃の木は葦原中国側にあったほうが良いのだろう。今回私は「サカ」は「堺」という風に考えたので、坂本が必ずしも坂の麓であるとは言い切れない。しかし古代日本には故人を山中に葬る風習があったということを踏まえると、死者の国である黄泉国が山の上にあってもおかしくないと考え改めることにした。そうすると結果論になってしまうが結局坂本は坂の麓に位置することになる。

 本来ならば上代の文献から該当箇所を探して記すべきだったが、準備不足のためにそこまで至らなかった。蛆がわく暗い世界が葦原中国より高い場所にあることに今まで違和感が拭いきれなかったが、山中の地面下の地下世界であれば、古代の埋葬方法と合わせて考えても自然であると思った。まだまだ多く追求しなければならない点があるので今後さらに調べを進めていきたい。

〈参考文献〉
本居宣長全集 第一』(吉川弘文館 一九二六年)
「黄泉比良坂の坂本―黄泉国の在処について―」(吉野政治、「古事記年報」四十一 一九九九年)
『古事記の世界観』(神野志隆光、吉川弘文館 一九八六年)


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2017-04-16 平成29年度 西野神社敬神婦人会総会

昨日は、当社の崇敬団体ひとつである西野神社敬神婦人会の定例総会が、午前10時から当社の参集殿で開催されました。
16回目の開催となる本年度の敬神婦人会総会には、皆様それぞれが御多忙の中、新入会員2名を含む20人の会員さん達が出席をして下さいました。

平成29年4月 西野神社敬神婦人会 総会

まず出席者全員で「敬神生活の綱領」を唱和してから、敬神婦人会の功刀会長と当社の須浪宮司がそれぞれ挨拶をし、その後、議長を選出して、昨年度の活動・会計・監査についての報告が行われました。
続いて、今年度の活動案・予算案役員改選・その他の審議等も行われ、活発な話し合いを経てそれらの議案は滞り無く全て無事議決されて、今年度の総会は閉会しました。

平成29年4月 西野神社敬神婦人会 総会

平成29年4月 西野神社敬神婦人会 総会


総会が終わった後、午前11時過ぎ頃からは、引き続き参集殿で、敬神婦人会の懇親会が開かれ、お弁当お菓子いただきながら皆さんで和気藹々と、懇親を深めておられました。

平成29年4月 西野神社敬神婦人会 総会

敬神婦人会の皆様方、昨年度は当社の各行事に御協力戴きましてありがとうございました。本年度もどうか宜しくお願い致します!


(田頭)

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2017-04-14 熊本地震の発生から今日で丁度一年が経ちました

平成28年4月14日午後9時26分、熊本県熊本地方震央とする、震源の深さ11km、マグニチュード6.5の地震(前震)が発生し、熊本県益城町では、気象庁が定める気象庁震度階級10段階)では最大の「震度7」を観測しました。
ちなみに、気象庁によると、震度7は、「立っている事が出来ず、這わないと動く事が出来ない。揺れに翻弄され、動く事も出来ず、飛ばされる事もある」と説明されています。

そして、その前震から28時間後の4月16日午前1時25分には、同じく熊本県熊本地方を震央とする、震源の深さ12km、平成7年に発生した兵庫県南部地震阪神・淡路大震災)と同規模のマグニチュード7.3の地震(本震)が発生し、熊本県の益城町西原村で、再び震度7を観測しました。
同一地域でほぼ同時期に震度7が続けて2回も観測されたのは、国内では観測史上初めての事で、更に、この2回の震度7の地震の他にも、「震度6強」の地震も2回、「震度6弱」の地震も3回発生するなどしました。

熊本地震で倒壊した多数の建物(熊本県益城町)

熊本地震で崩落した道路(熊本県南阿蘇村)

前震では9人が亡くなり、2日後の本震で亡くなった方や震災関連死の方(地震に伴うストレス・持病の悪化・エコノミークラス症候群等による死者、地震後の豪雨災害による死者)なども合わせると、これら一連の地震災害熊本地震」での犠牲者は225人にも上りました。
ちなみに、そのうち、倒壊した住宅の下敷きになったり土砂崩れに巻き込まれるなどして亡くなった「直接死」の死者は、50人でした。
また、全半壊した家屋被害は約42,000棟に上り、今も約48,000人もの被災者が、熊本県内外の仮設住宅などで避難生活を強いられています。


平成28年4月14日午後9時26分以降に熊本県と大分県で相次いで発生したこの一連の「熊本地震」の発生から、今日で丁度一年を迎えた事から、熊本市中央区熊本県庁では今日、午前10時から、本館地下大会議室にて県主催の犠牲者追悼式が開かれました。
報道によると、今日のその追悼式には、安倍晋三内閣総理大臣蒲島郁夫熊本県知事を始め九州各県と山口県知事、熊本県関係の国会議員市町村長、自衛隊・消防・警察の関係者、遺族など約3,600人が参列し、黙祷を捧げたり白菊を祭壇に献花するなどして、参列者全員で犠牲者を追悼されたそうです。

熊本地震 犠牲者追悼式(平成29年4月)

熊本地震 犠牲者追悼式(平成29年4月)

また今日は、神道青年九州地区協議会の主催、九州各県神社庁連合会の後援、出水神社の協力により、午後1時から熊本市中央区の水前寺成趣園内で、熊本地震で亡くなられた方々の御霊(みたま)に対して慰霊の誠を捧げ、神様に対して被災地復興の祈りを捧げる「熊本地震復興祈願祭」という神事も執り行われました。

私も今日は、お昼過ぎ頃、当社の社務所から、遙か遠く離れた九州に向かって、心静かに黙祷を捧げました。熊本地震で亡くなられた方々の御霊に改めて衷心より哀悼の意を捧げると共に、熊本・大分両県を始めとする九州各地の被災地で、今なお様々な困難に直面しながらも一歩ずつ着実に復興への歩みを続けられている方々に、心より敬意を表します。


以下の各記事は、私が昨年の4月にこのブログにアップした、当時の緊迫した状況などを伝えた、熊本地震関係の記事です。興味のある方は、宜しければこれらの記事も併せて御一読下さい。

▼ 平成28年4月15日 「熊本地震の報に接し心よりお見舞いを申し上げます」
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20160415

▼ 平成28年4月17日 「熊本地震に関する続報と、阪神淡路大震災の教訓」
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20160417

▼ 平成28年4月21日 「熊本地震から丁度1週間が経ちました」
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20160421


熊本地震とは特に関係ありませんが、以下の各記事は、私が過去にこのブログにアップした、私が熊本を旅行した際に撮影した写真や熊本を旅行した感想の文章等を載せ記事です。いずれも拙い記事ですが、これらの記事も、もし興味のある方は御一読下さい。

▼ 平成19年3月16日 「熊本県護国神社に参拝してきました」
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070316

▼ 平成22年5月21日 「神戸・福岡・熊本旅行」
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20100521

▼ 平成24年8月12日 「日本縦断ツーリングを振り返る(後編)」
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20120812


(田頭)

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