利用者の強さについて、考えさせられました。

病気や物忘れ、障がいのハンディーにより、何らかの支援を必要とする人達にも、何かしらその人らしくあり続けられる能力がある。
支援する側に立つものとして、その人の両面をきちんと見分けることが出来ているのかどうか?が問われる。

 先日、こんなことがあり、つくづく人の強さについて考えさせられました。
1つのケースについて紹介し、人間の強さをどう評価すれば良いのか?書いてみたい。<怒りの感情もまた、その人にとってのストレングスである>
 90歳近くで、一人暮らしを続けようとしているIさんの例です。
約3か月の入院期間を経て、在宅に戻って来られた。この方の場合膝関節変形症の手術と悪化があり、腎臓病やリウマチもあることから、入院治療で一定の痛みはなくなったがいつまた症状が悪化するか?分からない。
 ドクターとも相談して、人生の最後に自宅に戻りたいという利用者の願いを尊重して、自宅復帰が出来ました。
 家族は沢山居られるのですが、皆それぞれの家庭と事情があり、直接的にIさんを介護する人は居られません。要介護4ですが、ADLはその日によっても異なります。
 さて、このIさんの受け入れの為にサービス事業所の訪問介護については1社だけではシフトが埋められず、土曜日や日曜日の担当事業所を新しく探して面接をしました。利用者宅にて話し合いをした際に、すぐにその週の土日の仕事から担当が難しく、次の土日から支援を始めたい旨説明をしたときです。
 「何で今週から来てくれないの?この年寄りを一人でこのマンションに置いて、生きていけると思てるのか?」
「私に飲み食いをせず、寝て過ごせという考えか?あんたはケアマネやろ?年寄りが困っているから助けてほしいとお願いしているのに、あんたらの都合で私がどうなろうとほっとくちゅうか?!」と大声を振り絞って抗議されだしたんです。
ケアマネだけでなく、同席されていた娘さんにも怒鳴りだし「だいたいお前も悪い。娘やったら泊り込んで私を介護してくれるのが本当ちゃうか?それを自分の家族がどうのこうのと、用事だけ済ましたらすぐに帰ってしまい、後はほったらかしや。私の介護は何にもしてくれてへん。」と鬼の血相になって娘さんを睨み付ける。
「年寄りや思うて、ばかにしたらあかんで!その気になったら、弁護士やつてを使って、あんたらを訴えることも出来るんや。わたしをぼけてるおもてたら大間違いやで。」一度噴火した感情が、なかなか収まりません。
 こちらは、冷静に「Iさん、落ち着いてください。ですから、そこのところを話し合っていきたいんです。何もあなたを2日間放置するとは言ってませんよ」と声掛けをする。
 しかし、利用者の感情はなかなか収まらず、厳しい顔をして新しく担当する予定のサービス責任者を睨み付けたりされる。
「こちらの方たちは、昨日お願いして担当を頼んだ経緯ですので、落ち度はありません。・・・責めるのは、私にして下さい。」と説明をすると、今度はまた私の方を見て「あんたには長年世話になったが、時々おかしなことを言う。サービスに入る人がない、とぬけぬけと説明するが、段取りすること、それがあんたの仕事やろ!」
 もう誰が仲裁に入っても、治め様がない興奮状態の中、新しく依頼した訪問介護のS責さんが発言された。
「私たちが、今週から入らせて頂きます!」
窮地に追い込まれていたケアマネとして、サービス事業所の機転により問題解決の方向性が開かれた。
 この柔軟な対応提案により、利用者の思いは実現してサービスが途切れることなく支援を始めることが出来ることになった。これは、何よりもサービス事業所の機転がきいたことによるが、その日仕事が終わってからも、妙に気持ちが疲弊していました。・・・自分の気持ちを分析すると、あれだけ激しく罵倒されることで、人間的に精神的な傷を受けたようです。感情労働である居宅介護支援では、頻繁ではないがこうして利用者や家族、地域の関係者から非難や苦情・批判にさらされることがあるのです。
程度の差もありますが、今回の様にぼろぼろにこき下ろされると、顔は冷静に笑おうとしているんですが恐らく目元は引きつっていたのかもしれません。あるいは、「何でそこまで言われなアカンネン。」と心では呟いていたんでしょう。・・・いや、そう言いたくても言えない立場にある自分の職業的なストレスが、精神的なダメージを与えてしまったのかもしれません。
 とにかく、利用者の暴言を黙って聞くしか仕方なかったのです。辛いもんです。こういう立場に立った時の状態は。この仕事では、利用者に対してケアマネが対等に自己主張できない。・・・それをやると、弱い立場の利用者をこちらの流儀で黙らすこととなり、自分の考え方を相手に押し付けることとなるからです。普通の社会では許され認められる自己主張が、介護の世界では、そういう方法は避けることが課せられています。
 それは、障がいや高齢によるハンディーを持つ人に対する、マナーとして、相手の意見を傾聴し、整理し受容することが原則とされるからです。

 Iさんには、お金や財産は有り余るほどあっても、健康と残された寿命はそんなに多くはありません。あと僅かの自分の命、それを守るために思い通りにならない相手に対して怒鳴りつける事しか出来ない、そういう立場が見えてきたんです。
そう考えると、今回のIさんの抗議もプラス思考で評価できるものと思えました。彼女なりに、必死に自分の在宅生活を守りたい!そうした思いが、強烈な怒りとして噴出した。そうした力があるから、残された時間をIさんらしく生きていける!
 今後どのくらいの期間、彼女の自宅で暮らしていけるのか?それは誰にも分からない。しかし、恐らくIさんなりに必死に自分の最後の生活を、自分らしく過ごしていこうと考えておられる・・・だから、私に出来ることは彼女と並走して、提供できる支援サービスの調整や便宜を図ることだと考えています。時には罵倒されても、淡々と自身のやるべきことをやる、これしかないと考えました。
 このケースで分かったことは、Iさんのストレングスは怒りの感情として表現されることがあり、それに遭遇したときは、自分が「折れない様」にして、次に相手に冷静になってもらうことが先決と考えます。
 コミュニケーションとしては、人間の怒りや感情的な激怒というものは、ともすれば会話や話し合いをぶち壊し、人間関係を崩してしまう可能性がある。しかし、一方ではそうした形でその人が捉えている「思い」というものが相手方に対して強く突きつけられるのであり、一つのコミュニケーション形態であるともいえる。
 暴言となって相手を傷つけることは、避けて戴きたいのですが、弱い立場にある人が、自分の窮状を訴えるために強者に対して噛みつく行為は力関係を配慮するなら、大目に見て受け止めてあげることが肝要です。
ただ、あくまでもその時の力関係や事情にもよりますが、介護の支援過程での暴言については、支援する側が堪えることになります。
 この場合、傷を受ける支援者のケアーも必要となり、適切なケアーをせずに放置すると「燃え尽き症候群」等にもなりえます。
 私の場合、こうして一段落して自分の思いをまとめることにより、一つの区切りを作ります。
自分の心が、ケアマネジメントに対して嫌いにならないために、自分のケアーをする・・・こうした心のケアーの必要性を、利用者のストレングスに気付くことを通して学ぶこととなりました。

写真は、昨日の雨と風の中で、公園で撮った桜です。
今日の、日曜日の雨風で、各地の桜は散ってしまったのでしょうか?