松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

妊娠から遠いわたし

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 strictkさんへの応答が遅れている。今日、漫画「NANA」というのを少しだけ読んだ。続きを読もうと近のリサイクル古書店にいったら、十数冊でているはずのこの漫画だけが一冊もない。少女マンガの棚には慣れていないのでそう確認するまで数分かかった。*1準備ということもないが、「西尾幹二のインターネット日録」というのがあるのを知り読んでみると、大したことは書いてなかった。
http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/ 9/9
落合恵子(作家)さんの文を批判している。
(落合)私たちを取り巻く社会において、自分自身であることをずっと求め続けることは時には大きなストレスになることかもしれません。しかし、やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。
(西尾)落合さんは「個」という観念をいきなりここでもち出す。両親そろっている「普通」の家庭へのルサンチマンもにじませた論が展開される。けれども落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。この「個」の概念は間違っていないか。

「落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。」というのは「為にする問いかけ」である。人間存在というのはマルクスを持ち出すまでもなく関係性の束とも考えることができる。存在としてのわたしが「けっして「個」ではない。」というのは正しい。
しかし、<実存としてのわたし>については「やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。」という断言が適切であろう。ところが、次の文章「このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。」を読むと少し違和感が残る。人権を考えることは普遍的政治的な立場に立つことではないか。セクシュアリティを含む困難に真正面からぶつかったとき、人権概念は役に立つこともあればそうでないこともある、と思える。*2人権という概念を最終審級とすべきではない。概念ないし言葉を大事にするのではなく、困難にあるあなたと(それに関与しなければならないわけではない)わたしという関係が当為ではないが不可避である、ことが大事であると思われる。(しかしながらたぶん)落合さんが立ち止まっている問題もそうした問題であることは間違いないであろう。したがってここでの落合さんへの疑問は、わたしとは多少言葉の使い方が違う、というだけのことになった。
一方、西尾幹二の方はいちゃもん付けをしてるだけだ。「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」この文章の多義性に、西尾氏のマジックの種が隠されている。「野原9/23」などで丁寧に触れたとおり、母ないしそれに代わる他者に依存する時間の持続がなければ、わたしたちは「ポリス的動物」になりえない。それと「独立した大人でも諸関係や国家に依存している」というのは別の問題だ。はっきり書かないのはそこに思想的弱点があるからだろう。
「彼女は見方によれば特権者の側にいる。「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」この二つの文章は明らかに矛盾してますね。後者はニーチェとも言えるが、芸のないニーチェニーチェから最も遠いものだ。
追記「トラックバック」というもがよく分かっていなかったので、一度やってみようと、畏れ多くも西尾氏あてに試みたが、2回失敗しあきらめた。無難だったろう。

*1:翌日もう一度行ったらちゃんとありました。人気漫画コーナーという棚で集英社の棚とは別のところにちゃんとあるのだ!

*2:ろくな体験〜闘いもしてないくせに、えらそうに言っても良いのか?(陰の声)

西尾幹二はルサンチマンか?

 上記を書いてから思いついたのは、これって「大虐殺なかった派」に似ているということだ。なかった派は
1)「大大虐殺があった」とAさんは主張している。
という命題をまず立てる。そしていくつものトリビアを用意して、
2)「大大虐殺があった」という命題は成立しえない。という結論を導き出す。西尾氏も
1)「「個」が(あるいは人権が)絶対的な価値である」と落合氏は主張する(そう信じている)。
という命題をまず立てる。それに対し
2)「「個」(あるいは人権)は絶対的な価値たりえない」ことを立証する。という手順を辿る。なぜ自己を主張するのに他者(それも平板化された他者)を必要とするのか。ジェンダーフリー派の攻撃による危機なんていうありもしない状況認識が必要なのか。
「美は自然の或る微笑であり、生存の力と快感との或る剰余だ、*1」とニーチェは言っている。もちろん書くことという行為もそうでなければならない。2)という主張をするために1)という前提が必要であると考え、そして1)が“わたしたちを脅かしている”という認識のもとに、やっと2)という自己主張に辿り着く。このような発想法は典型的にルサンチマンの徒のものである。“それがわたしたちを脅かしている”と警告する時点ですでに失格である。
『NANA』8巻で主人公はなんと“母性本能”という言葉にぶつかってしまう。母性本能なんて丁度ニーチェの時代に流行った言葉でもうとうにお蔵入りかと思われていた。そんなカビの生えた言葉であってもひとはそれにぶつかり血を流す。「自然の或る微笑であり、生存の力と快感との或る剰余」として生きる以上そういうことも当然あるのだ。
“それがわたしたちを脅かしている”と警告するものたちは、わたしたちの生に敵対するものだ、というのがニーチェの主張である。西尾にそれが分からないはずはないのに。

*1:p105『生成の無垢・上』ちくま学芸文庫