ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

朝日対NHK

 『NHK報道』委員会」の見解に朝日は反省を表明という記事が出た。これにNHKがなんと反応するのか楽しみ。また、「ざまぁみろ」とか「甘いぞ!」とかのニュアンスを込めたニュースが読まれるのかと思うと楽しみ。
 あ、なんだ、もう出ていたんだ。

 松尾武・元NHK放送総局長は「朝日新聞の取材の内容を確認するために、取材の原資料を、取材を受けた当人である私に開示してくれるよう、改めて強く求めます」とのコメントを出した。
 安倍晋三自民党幹事長代理は30日夜、「朝日新聞の第三者機関が1月12日付の記事について取材不足だったことを認めているので、取材不足なら記事にすべきではなかったし、謝罪すべきだ。我々が捏造(ねつぞう)であると指摘していたことに全く反論できていない」などとするコメントを出した。(朝日2005年10月01日00時01分)

不毛だなぁ、いつまで経っても・・。

裸の王様

 自分が裸の王様になっていやしないかという不安はいつまでもある。なっている時がいくらもあると、その時は気が付かなくても寝る時なんかにふっと思う。ところが・・ところがである。忘れる・・。
 これまでに何度も書いているし、これから先も何度も繰り返し書くと思うのだけれども、サラリーマンだった頃私が仕えた最後の上司は完璧な「裸の王様」だった。自分は選ばれた立場に立っていて誰からも一目置かれる存在なんだと思っていたのか、思いこもうとひたすらしていたのか。結果的にはどちらも大した違いはない。社内の人間や、出入りの業者は常に自分の足下にひれ伏すものであり、ひれ伏すべき存在だと規定していた。だから、つきあわなくてはならない立場にいる人はあたかもそうしているかの如く振る舞うが、それは本人の前だけであり、離れてしまえば全く関係のない存在として無視することになる。私は冷たいからずっと無視してきた。ところが、悔しいことにいつまで経っても彼の存在が時としてフラッシュバックしてくるのである。もう全く、なんの関係もないというのに、当時の彼の表情やら声やらがそのまま想い出されてしまう。そこまで振り回されるとやっぱりどこかできっぱりと決断をつけてこなくてはならなかったんだなぁと思う。悔しいけれど。

朝まで生テレビ

 最初の1時間くらい、しかも音声を寝床で聞いていただけ。田原総一郎福島瑞穂のこと大っ嫌いなのか。福島弁護士が発言しようとすると積極的に無視する。議席増えて良かったね、尤も自民党のおかげだけれどね、と揶揄するところから初めて。原口と山本は優先する。元主計官、三重県知事選で落選し、今は関西学院大の教授である村尾信尚氏の話はわかりやすい。途中まで聞いていたけれど、やたらとワァワァとうるさいので止めて寝た。

NFL

 最近あんまり追いかけていなかったNFLだけれども今週末で第4週に突入だ。やっぱりみんなの目はNEペイトリオッツにいっているみたいだなぁ。これまであんまり気にしていなかったから気が付かなかったんだけれど、Houstonのチームがいつの間にかOilersからTexansという名前になっていてなんだろうと思っていた。Oilersとは全く関係のないチーム。とはいえ米国ではその系譜なんてほとんど追わないのかな?Oilersはテネシーに移って今はTennessee Titansという名前になっている。今シーズンは今の所1勝2敗。得点も多いけれど、失点も多い、ということはオフェンス頑張るもデフェンスダメってことか。これまでの得点:59点、失点:75点

全浴連の接待、パー券

 東京新聞

銭湯経営者らでつくる全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会(全浴連、東京都千代田区)政治団体が、公衆浴場特別措置法が改正された二〇〇四年とその前年の二年間に、国会議員らを計十六回にわたり東京・赤坂の料亭に招いて“接待”していたことが、三十日付で公表された〇四年分の政治資金収支報告書で分かった。

と報じている。今の全国の銭湯は約5300軒。最盛期の1968年(これもびっくり)の約1/3に減少しているという。2004年に赤坂の料亭で計9回、約402万円。平均44万円/回。パーティー券は2004年に約310万円分購入だそうだ。「全浴連の高橋元彰理事長は『銭湯は社会にとって大切な存在。なくさないため、国会議員の先生方と勉強会を開いた。やましいことはない』と話している」というコメントが掲載されている。


 ひと頃は小学生の間で銭湯に行くことが流行った時期もあった。銭湯は県ごとの一律料金。最も安いのが沖縄で200円、しかし、最も高い東京、神奈川は400円と2倍の差が生じている。10月10日は「1010」だから千プラス十ということで銭湯の日。できる銭湯ではラベンダーの湯がサービスされるそうである。そうそう、そんなアイディアを出すとか、小綺麗にするとかそんなことを企画することも有効かも。どうしてもいかなきゃいけない人以外の人を増やすしかないんだもの。
 わが家の近所ではもう既に銭湯はどんどん減少して多分最盛期の半分以下。それでも下町だから住宅街に比べたらまだ残っている方である。今銭湯を必要としている人たちはどの様な人たちなんだろうか。風呂がない、そんな住環境にいる人たちが誰かと云うことになる。どう考えても大金持ちではなさそうである。低所得の高齢者の人たちに「風呂券」が役所から出ている。ところがこれがまた横流しされる。外国人の人がこんな券を持って風呂に入りに来るのを知っている。つまり、銭湯を残そうとする運動はこうした低所得者の人たちの生活を支えると云うことにも通じる。そうした背景を考えると、赤坂、パーティー券がとても違和感がある。そんな金を集めても政治家の連中からしたらたかだか、という程度の金額ではないのだろうか。そんな業界にも懇談会を構成する代議士がいるとは驚きだ。もっと違う方法が考えられそうな気がするんだけれど・・・。

加齢睡眠型傾向

 大体朝の6時頃には眼が覚めてしまう。前日がどうだったかということにはほとんど関係がなくてそんな時間に眼が覚めてしまう。するとどういうことが起こるかというと昼頃には眠くなるのである。今日も昼寝をしてしまって、出かける前に慌てて起きる。集合時間ぎりぎりに飛び込む。

行動力

 新しい企画のために何人かの知人に知恵を借り、手伝ってもらおうというのが今日の集まりである。これまで動いてきたものを動かし続けることもエネルギーがいるけれど、これまでなんの形にもなっていないものを動かすことにはなかなか億劫である。特に私は自分自身が前向きに動くことが好きではないからなおさら。いつからこんなことになったのだろうか。


 20歳前後の頃は年に二回も何十人という仲間を集めてスキーツアーを主催する、なんていうことを喜々としてやっていたのではなかったか。バスの手配から宿の手配、中身の交渉、参加費の設定、同行者の募集、4泊5日のプログラムの計画、そしてその実行。あの頃の力はなんだったんだろうかと思う。


 多分一番最初に挫折した要因は、新しいことを生み出そうとする時の将来的継続の可能性の是非ではないか。「君は精通しているから始められたとしても、それを引き継ぐ人間にそのタレントがなかったらどうするのか」という否定のための投げかけはこれまでにも何度も経験してきた。するとその一言が誰かの口から出た途端に、(あ、もうダメなんだな)と判断する。人間は学習するのだ。


 一度否定のコメントをもらってしまうと、同じ関係性の中で新機軸を打ち出そうとする時には、前回の否定根拠になる価値観を先取りする。そして何が起きるかというと自らが創り出したその考えを自らが否定しようとする。一体全体、人間の思考形態とは不思議なものであってやらなくても良いのに先取りをする。振られるのが嫌だから、あるいは振ることになって悪人になるのが嫌だから恋愛に踏み切らないのもこの類か。


 組織で仕事をする時にいつももどかしく思っていたことに、自分の仕事のテリトリーという問題がある。自分が担当すべき仕事の範囲はどこまでか、ということを常に頭の片隅において行動しなくてはならない時がある。例えば営業をしていた時は商品ごとに営業担当が分かれていた。商品を熟知するためには扱う商品を限定した方が可能性が高いと思っていた。だから、ある客先から「お宅でやっているこんな商品にも興味があるんだけれど」と云われた時にはその商品の担当者をその客に紹介する。するとこれまで自分が大事にしてきた客先に失礼があってはいけないと気になる。だからといって今度は営業の分担を客先ごとにする。つまり、この客が必要とするものは先取りしてでも紹介していく。いってみればAmazonの「こんな本を買った人は、こんな本にも興味を示しています」キャンペーンである。すると今度は自分が担当していない業界のお客さんを見つけた時にどうするかと云うことになる。それを踏み越えて営業しようとすると「それはお前の営業範囲じゃないだろう」とどちらも云われてしまうのである。だからといって踏み込むことを止めておこうと行動する。

  • 店の前の道を掃く時には、半分から少し向こうまで掃いておく。真ん中の所は両方から重なって掃くぐらいに。そのすこ〜し向こうまでの幅が難しいのである。

 それにしても、行動力は何もおそれずに飛び込むことができる時、どんなことが起こっても対応できるという技能が付く、あるいは肝が据わる時でないと発揮されないのだろうか。どんどん行動力が低下していきつつあるような気がする。こうして書いたことも読み返すと、如何に自分が行動できないかということへのいい訳の羅列のような気がする。自分の椅子の周りだけに手を伸ばせばできることだけ、やっていこうとしているのかもしれない。


 久しぶりの友人たちとちょっと呑んだ。