ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

検察・・・

公職選挙法違反で失職した出口晴三葛飾区長もこう語る。
「私も同じです。いくら説明しても検察の描くストーリーは事実と違いすぎてナットクできず、調書にサインをしなかったんです。何しろ罪名についても公職選挙法違反、政治資金規正法違反、贈収賄、どれがいいかお前が選んでいいぞ、といわれたくらいで・・・」

出口が拒んでいると「じゃあ、女房を呼ぶぞ」という例の脅しが始まった。「それでも応じないでいると、許せないことに当時中学3年生の長男を呼んだんですよ。まだ14歳の。そこで検事はこう聞いたそうですよ。お前も父親のような政治家になりたいのか?って。」ちなみに出口を取り調べた山口和光検事は、この語、JR中央線で痴漢行為を働いたとして逮捕(不起訴)免職になっている。(【転載開始】週刊朝日2月5日上杉隆「検察の卑劣」こちら

どうやって

 twitterで自分の今の政治信条を呟いたら間髪を入れず桜チャンネルを引用したレスがついた。私がフォローしているわけでもないし、向こうからフォローされているわけでもないのに、どうやってみているんだろう。キーワードでチェックしているんだろうか。世の中は凄いことになっているなぁ。
 どんな政治信条を持とうが、他人を傷つけない限り自由だと思う。でも、それを許せない奴がいるから戦争になるんだけれどね。だから、そういう考えを持つ人は戦争が好きだ。

アラン・プライス

 今朝のNHK-FMピーター・バラカンの「ウィーク・エンド・サンシャイン」を途中から聞いたら丁度The Animalsの「A house of the rising sun」だったけれど、これが1985年辺りのライブ盤だった。その終わりでEric BurdonがAlan Priceを紹介していることに触れていた。
 Alan Priceは1965年にThe Animalsを脱退している。その理由をピーター・バラカンが説明した。それは元々19世紀の民謡だった「A house of the rising sun」を彼等がレコードにした時、事務所か誰かがAlan Priceの名前をクレジットした。それで、この曲がヒットしてから印税が全部Alan Priceのもとに入ることになってしまった。それでグループの中でうまく行かなくなって彼等は仲違いした、というのだ。だから、この1985年のステージの中でEric BurdonがAlan Priceに言及しているのは意味があるんだと。
 なるほど、そういうことだったのか。

選曲

 友達が誘ってくれて歌を唄うチャンスが何回かあるんだけれど、何を唄う?と聞かれて、思いつく歌をそのまま並べてみると、みんなテンポがゆったりなんである。どうだっ!このやろっ!まいっただろっ!なんていうテンポの歌が殆ど出てこないんである。昔だったらそうした歌を唄って口からつばきをぺっぺ飛ばして、汗だって頭を揺さぶると飛んでいって・・・もう今や頭を揺さぶってもワッサワッサするものがないか・・。
 とにかくのんびりテンポなんである。なんでか?もうついていけないんである。舌が回らないのである。息が続かないんである。辛いんである。人間はすべからく歳をとるとスローライフになっちゃうんである。それでもあっちだこっちだと走り回っている人は、偉いッ!

忘れちゃうよ

 ジュンク堂の池袋本店で「湯浅誠書店」(こちら)が開かれているんだそうで、そこに湯浅が「読書は土壌のようなもので、個々はすぐに忘れてしまう」と書いている。こういうところには私はすぐに反応するのだ。つまり「忘れる」と云うところに。なにしろ買ってあった本のことを忘れてまた同じ本を買ってしまうことなんて日常茶判事で、本棚を見ていて、えっ!一体こんな本をいつ買ったんだろう?と思うことなんて、毎日のことなんである(ちょっと大げさにいったかも)。
 論文を書いている人たちがどの様にして、各文献のエッセンスを整理しているのか、誰か有料でも良いからその方法論を公開してくれると面白いのになぁ。
 いつの間にか自分の考えを自分がこれまで接してきた人たち、あるいは読んできた書籍、見てきたテレビから構築しているはずで、その点ではやっぱり良い本を選んで読むべきだという思いはする。ところが本屋の棚を見ていると、読まなくても良い本は随分たくさん出ていて驚く。それがなくてはこの業界が成り立たないのだろうか。

星野リゾートはクラブメッドを目指しているのか

 そういわれてみると、軽井沢の星野温泉が、あの鄙びた温泉宿をそれほどメンテナンスしなくなってきた頃から何となく変だなぁと思っていたんだけれど、とんぼの湯と称する入浴料が1,200円もする温泉になってしまってから、あれよあれよという間に、とてもスノッビーなコンセプト(こういう言葉を使うとそれらしい)になっていっちゃって完全に地元とは遊離していった。元々軽井沢という場所の商売がどんどん地元からは離れていってぽっこりできた異次元社会になっていて、もはや旧軽井沢の昔からあったお店もかなりの数が外からやってきた人たちへの賃貸業になりつつある。昔玉子を買ったお店なんて、もうとんでもないことになっている。
 だから私たちはいわゆる軽井沢というところには殆ど行ったことがない。実際に行っているのは佐久平であり、小諸であり、上田であり、東御であり、御代田であり・・・。
 その星野温泉(あ、いやいや、今は星野リゾートといわなきゃならないか)が今度は竹富島に乗り込んでいって、大規模な敷地を買い取って、約50戸のコテッジを備えたリゾート開発に着手した。地元ではとんでもない大規模開発だといい、星野は「わずか50戸」だといっている。2005年6月現在で人口が約342人、戸数約172戸の島に50戸のコテッジは「わずか」かどうかは考えたらわかりそうだ。
 地元にどれだけのメリットがあるのかと考えたら簡単だと思うけれど、クラブ・メッド型のリゾートを目指しているのではないかと思えるこのコンセプトが、従業員を地元から採用するだろうかと云ったら、多分それはないだろう。とするとこの開発計画は外からやってきた観光客が、外からやってきた資本に金を遣い、この資本がそのまま回収していってしまう。つまり、東南アジアで良く見る外国資本に地元の文化、故郷を全部収奪されてしまう、植民地型開発だといっても良いだろう。地元にとって、どんなメリットがあるのだろうか。
 お金持ちのちゃらちゃらした人たちが集まってきたから自分たちの生活もそれに近づくのかと云ったら、全く関係のない世界が出現すると云うことだ。
 こんな開発をしている企業をマスコミは時代の寵児のように扱っているのだ。こいつらはあのバブルの時にどんなことが起きていたのか、まったくなんの反省もなく、この種の事業を見つめている。彼等には学習というものはない。多分彼等に尋ねたら、その頃自分たちはまだ子どもだったとでも言い訳するだろう。ジャーナリストともあろうものが歴史を紐解かずに仕事をするな、といいたい。
 バブルの頃にあんなことに手を出して、本当に間違っていたなぁと深く反省、頻りである。

 そうそう忘れていた。竹富島には水源がない。それで30年ほど前に西表島から海底パイプラインを敷設して水を供給している。そろそろ更新時期が迫っていることが考えられる。リゾートが作られると一気に水の需要が増加するはずだ。この問題を竹富町星野リゾートはどう解決しようとしているのだろうか。