ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

祭りの週末

 今週末はこの界隈は毎年お祭りである。
赤坂日枝神社や、神田明神のお祭りは表の年と裏の年があるんだけれど、この界隈の神社はどこもそんなことはなくて、毎年5月の第三週末がお祭りになる。一番大きな神社がそうしているからだろうけれど、近辺の八幡さまやお稲荷さんも一緒の日程でだいたいお祭りだ。


 年に一度、朝から祭囃子が流れて、浮かれている。つれあいに聞くと、一番大きな神社の氏子町内から通ってくる子達は小学校でも土曜日は早帰りが許されていたんだそうだ。なんともはやだ。それで土曜日は昼前からまだ御霊入れが終わってもいない神輿を大人神輿も子ども神輿も町内をねって神社へ御霊を入れていただきに向かう。各町会の神輿がいっぺんに神社には入れないから、隣の大きなお寺の裏の広場に集まってきて、一つ一つ呼び出されて、神社へ入り、御霊入れが行われる。それから意気揚々と、南部、東部、西部へ分かれて出ていく。


 実はこれで町内へ帰ってきてからが大変。目貫通りを過ぎるまでは担ぎ手も意気揚々なんだけれど、それを過ぎるととたんに見物が減るわけで、意気消沈しちゃうだけじゃなくて、疲れてくるから、一人抜け、二人抜け、減ってくる。今ではそれでも担ぎ手があちこちからやってくるから良いけれど、半世紀くらい昔なんて、担ぎ手が少なくて、途中で抜けたくても、代わりに入ってくれるやつがいない。当時は会社員は土曜日が休みなんかじゃなかったから、少ないわけだけれど、代わりに町内へ営業に来る銀行員なんかが銀行の名前の入った半纏なんぞ作って手伝いで担いでいたものだ。銀行員も楽じゃない。しかし、あの頃の銀行員の給料は目の玉が飛び出るほど高かったから我慢したんだろうか。

 つれあいの実家の商売は日曜日は休みだったが、土曜日はやっていた。それでももうほとんど祭りの週末は商売にはならない。
今週末は気温が上がると天気予報がいっている。深川の真夏の祭りに比べれば、まだ良い方だろうけれど、暑いのは辛い。反対に雨のときも辛い。来月まつりになる鳥越神社の祭りは梅雨に祟られることが多い。あそこの千貫神輿には専用のレイン・カバーがある。

あれから


 うちの親父が死んでから今年で丸30年。
おふくろが死んでからでも丸18年が経った。
親父が死んだ時、「はて、うちの宗旨はなんだ?」と。
親父の実家のいとこに聞くと、日蓮宗だという。
おやじは次男だったかなぁ。
それすら良く知らない。親父には実家を継いだお兄さんがいた。
実家といっても岡山の単線無人駅から徒歩5分くらいの百姓家で、3-4度くらい行ったことがあるだけだ。
宗旨はわかったけれど、さて、どうしたもんか。
親父はある日急に思い立ったかのように神棚を吊るして拝みだしたそうだけれど、なんでなのか、自分の弔いをどうしてほしいのかも何もいわずに病院で黄疸の治療だか検査だかで入院している間に死んだ。
なんで入院したのかも知らなかった。
おやじの実家の菩提寺から横浜の日蓮宗のお寺さんを紹介してもらって、急遽駆けつけて弔いをお願いした。
しかし、それまで仏教になんの興味もなかったもんだから、お寺さんにどれくらい包んで、何をお願いしたものなのかもわからなかった。友人の浄土宗の住職に聞いたら、どうやら日蓮宗で戒名つけてもらうと高いらしいが、何しろ相場というものがわからない。しかも、バタバタと戒名を付けてもらって、通夜の段取りを付け、会場を押さえてもらい、葬儀社と打ち合わせ。おやじが働いていた会社の人達とも連絡があったり、手伝えないと挨拶がきたり。親戚は岡山から駆けつけてきて、通夜の晩はひっくり返すような大騒ぎ。よっぽど人気がなかったのか、葬儀告別式は比較的静かだったようだけれど、もう記憶にない。その年の暮にはつれあいの母親が急逝し、年が明けたら私の母方の実家のいとこが急死した。挙げ句にその夏には外国へ赴任だ。もうあの辺りの記憶はぱたっと消えてしまったかのようだ。

 あれ以来、横浜の日蓮宗のお寺さんから施餓鬼の連絡が来れば、わざわざいって塔婆を書いてもらい、それを持って墓地へ参りにいった。毎年維持会費を正月に収めてきた。
 その間、母親が亡くなったときも、そのお寺さんの住職にお世話になった。

 しかし、私自身はまるでいい加減なキリスト教徒で、COVID-19以降ろくに教会へもいかないほどのいい加減さである。つれあいの実家も実は日蓮宗であるけれど、つれあい自身もとんと宗教的にはなんの興味もないし、信仰的意識も持ったことはないし、できることなら死んだらなんにもしないでもらいたいという。できることなら海にまいてくれという。子ども二人もなんの宗教も持っていないし、彼らには子どももいない。つまり、わが家は宗教的には私以外は完璧な無宗教であって、葬式仏教でもないし、初詣神道ですらない。

 もうそろそろ、日蓮宗のお寺さんにも、偽日蓮衆徒を白状して縁を終わらせる必要がありそうだ。これも終活とでもいうのか。好きな言葉の使い方ではないな。

 巻頭にも書かれているように、李香蘭、すなわち山口淑子に関する著作というものは驚くほどいっぱいでていて、当時、彼女に対する関心は高かったんだろうということが推察される。私自身は結構美人なおばさんが、自民党から芸能人枠から参議院に出たんだなという程度だった。それが文庫になるのを待って読んだドウス昌代が書いた「イサム・ノグチ」で、彼女がイサム・ノグチと結婚して、北鎌倉にあった魯山人の家に暮らしたというのを知って、にわかに興味を持ったのだった。
 自著も1987年に「李香蘭 私の半生」、1993年に「戦争と平和と歌 -李香蘭心の道」、2004年には「李香蘭を生きて」(日経紙上の「私の履歴書」の総集編)と出ていて、その他にも他の著者によるものがたくさんある。

いじめ体質



 大日本帝国陸軍はとにかくいじめ体質を温存してきた。
自分がやられたから、自分もやってきた。
そうやって古参が新人を、体力的にも精神的にもいじめることで、兵隊は強くなるとでも思っていた。
もちろん私は大日本帝國陸軍にいたことがあるわけではないから現場を知らないし、知っているのも映画の中での話だったり、小説や歴史のオーラルヒストリーの中でしかないけれど、それでもどうやら当時は、軍隊はそうしたもんだ、という感覚で満ち溢れていた。
米軍でも、少なくとも海兵隊は相手に憎しみを持つことで士気を鼓舞してきた。それは兵隊だけじゃなくて、フットボールのようなフィジカルに戦うスポーツの世界でもそうだった。「倒せ!」と鼓舞した。
つまり、戦争のために集められる兵隊はとにかく相手を憎んで憎んで憎み倒す気持ちにさせなくてはやっていけない。
戦争中は、それが兵隊だけではなくて、一般の、いわゆる銃後の守りの中でも、それをどんどん浸透させていく。
「何をたるんだことをいっているんだっ!」と怒鳴り散らし、「兵隊さんに申し訳ないではないか!」と怒鳴り倒した。その間、その兵隊さんも怒鳴り倒されていた。
 そんな環境で育った世代が、いくら戦争が終わったあとなんだといっても、身に染みついたものをそう簡単に拭い去ることはできなかった。その環境はずっと継続されてきてしまった。見て見ぬふりをしてきた。「いじめだとは思わなかった、ふざけているのかと思った」と逃げる。

 民族に染み付いた文化はそう簡単には拭い去れない。意識をして拭い去ろうとしなければ、消えていかない。それは差別でも全く同様だ。

芝居見物

 もう何年も芝居見物ってものに行っていない。
うちのおふくろは芝居見物大好きで、しょっちゅう歌舞伎見物にいっていた。
なんでも晩年のおふくろの話を聞いたつれあいによると、親父がゴルフに行く分、私は芝居見物にいったといっていたそうだ。
親父も新国劇なんてのを見に行ったという記憶がある。「大菩薩峠」なんて芝居につきあわされた記憶がある。
そういえば、つきあいで姉二人にくっついて、東京宝塚劇場へ宝塚を見に行ったのは、多分小学校3年生の頃ではないだろうか。
こども心に春日野八千代とか、明石照子の名前を覚えている。
演目は多分「たぬき御殿」とかなんとかで、およそレビューっぽくないよね。
春日野八千代は2012年8月29日に96歳でなくなっているから、当時40歳そこそこだったはずで、脂の乗り切ったタカラジェンヌってやつだったんだろうなぁ。初舞台が1929年だったという。
舞台から客席に向かって投げたハンカチだか手ぬぐいだかを、前まで走っていって拾ってきたことを覚えている。そんな男児がうろちょろすることないから大目に見てくれたんだろう。

 長ずるに及んで芝居を見たのは、一体いつ、なんだったんだろう。
たぶん、イベントの司会をやったりして、その見返りにもらった招待券で見に行った歌舞伎だろうか。
 いや、会社員だった時に、帝劇の貸し切りで慰安観劇会かなんかだったかもしれない。
当時はそんなことが流行った。

 最後に見たのも、多分歌舞伎かもしれないなぁ。もうずいぶん劇場にいかないが。

旅行に行く

 本当はどうもそうじゃないらしいけれど、だいぶんCOVID-19が下火になっているというから、4-5年ぶりに旅行に行こう。そろそろ冥土への土産だ。そのうちからだが動かなくなりそうだもの。
その準備が忙しいというのに、自炊にも精を出している。

同級生


 前にも書いたかもしれないけれど、高校の時の同級生が近所に住んでいる。
私はこの近辺に暮らし始めて48年くらいになるんだけれど、彼女以外に高校の同級生に出会ったことはない。
というよりも、わたしたちの高校の出身者がこの地域には多分私達二人以外にはいないだろう。
というのは私達の高校は品川区にあって、当時は第一学区だった。
しかし、今住んでいるこの地域は第五学区だったから、普通だったら全く縁がない。
高校在学中にこの地域に来たことはまったくなかった。
私達が卒業してから、都立高校は学区制から学校群になった。

ここ数年出逢うこともなかったけれど、今日は買い物から帰って来る道でその元同級生にばったりあった。
思わず旧姓で呼び止めた。
すると彼女は驚くことに「エェッと、名前なんてったっけ?」といったのだ。
以前まではあの頃のことを普通に語っていたし、前回なんかは、彼女が日直だった日に、私が「今日の食堂のメニューは何?」と聞いたといって文句をいっていた。「日直だからってそんなことを知っているわけないじゃないの!」と。深くお詫びをした記憶がある。

彼女が住んでいる家はわかっているけれど、突然訪ねていってまさか「お元気?」と聞くのもはばかられる。「私は高校の同級生ですが」といって訪ねていったら、多分家族の人にとってはとっても胡散臭い。だから家は知っているけれど、行ったことはない。
お子さんはお嬢ちゃんが三人だったそうで、今は末のお嬢ちゃんとその高校生の孫娘と四人暮らしだといっていた。
卒業アルバムも取り出せなくて、もう見ていない、といっていたから、今度お届けしてあげよう。

高校を卒業してからもう58年経った。みんな年老いた。