nuhsnuhの日記

2018-10-01 Lvov-Warsaw School and Our Philosophies

[] Lvov-Warsaw School and Our Philosophies


ニュースを一つ。そしてそれに関して、私見を思い付くままに記してみます*1

哲学論理学の Lvov-Warsaw School に関心をお持ちの日本人は、その数が極めて少ないと思われますが、この学派の哲学について、興味深い文献が本日刊行されました。それは、以下の雑誌掲載されています。



ここに次の解説翻訳が載っています。



Kazimierz Twardowski の論文ポーランド語から和訳したものに、中井先生が解説を付けておられます。すごいですね。びっくりしました。このような試みはかなり珍しいと思います。昔、藁谷敏晴先生が Lesniewski の重要文献の一部をポーランド語から和訳し、『科学哲学』誌に掲載されていたことが思い出されました。書籍では高松鶴吉先生が Lukasiewicz の論理学の教科書をポーランド語から翻訳しておられたことがありました。ポーランド語重要文献からの和訳は、ぽつぽつとはあったかもしれませんが、ほとんどないに近い状態だったように記憶しています。それを思うとかなり珍しいですね。

少し前に、「間もなく Lvov-Warsaw School に関する翻訳が、雑誌に載るらしい」という情報キャッチしたのですが、その時、私が思ったのは「かなり前に Wolenski 先生が Synthese Library Series から出された英訳本の抄訳が載るのか、あるいはその改訂フランス語版からの抄訳でも載るのかな?」ということでした。しかし本日ふたを開けてみると、Twardowski のポーランド語原典からの和訳ということで、ちょっと驚きました。直球勝負ですね。

私は Lvov-Warsaw School に少し興味があります (少しだけです。それに、詳しくもありません)。にもかかわらず私はポーランド語がまったくできません。ポーランド語の辞書文法書は、気が付けば買い揃えているのですが、そのうち勉強しようと思っているものの、まるでやっていません。勉強道具を揃えたまではいいが、その後が続かないという、よくあるパターンですね。そんななか、ポーランド語原典からわざわざ翻訳していただけるのは大変ありがたいです。なかなかできることではないと思います。

中井先生は上記の解説文冒頭で (214ページ)、Lvov-Warsaw School と今回の邦訳論文を掲載している雑誌の方針が、よく似ていると述べておられます。両者とも、厳密な方法精緻に哲学をする限り、問われる対象の種類や分野は問題ではない、とする態度が似ている、ということです。これに関連して私は次のように思いました。私が Lvov-Warsaw School に興味を持った理由はいくつかあります。そのうちの一つは、こうです。この学派の哲学するスタイルは、広くは分析哲学と同様、きちんと細かいところまで詰めて哲学をするというものなので、一歩一歩読んで行けば、ちゃんとわかるところが好ましい、ということです。これは逆に言えば、きちんと細かいところまで詰めて論証を積み上げて行けば、そのような哲学をしている当人文化的社会的歴史的背景に関わらず、誰にでも実行できる哲学である、というところが好ましい、ということです。実際、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学に触れた私が思ったのは、「これは極東島国にいる私たち日本人でもできる、世界通用する哲学だ」ということでした。

西洋の哲学の中には、難解で深遠で秘教的な哲学、思想があります。そのような哲学、思想も重要であり、興味深いところもあるのですが (確かにあります)、なにせ、あまりに難解であり、思弁的であり、観念的であって、そのあまりのことに、私はそのような哲学、思想に触れて、それは私の理解を超えているのみならず、「人間の理解を超えている」と感じることがあります。どのような人間の理解をも超えているので、書いた本人の理解さえ超えているのではないか、と思われるほどです。そのような哲学は「行ってしまっている」と感じられるので、一部の熱狂的な人以外、付いて行けないところがあります。その哲学が神秘主義を明示的に標榜しているのなら、それはそれで構わないのです。しかしやっかいなのは、その哲学が神秘主義を峻拒しているような感じがする一方で、それでも甚だしく神秘的であるところです。その哲学が論証の体をなしていないのに論証の体をなしているかのように言われ、その哲学から明確な論証を取り出せないのに取り出せるかのように言われ、一見口座には多額のお金が預けられているように見えるのに、ほとんど cash out できないというところが、非常に困るのです。(特にこの段落の話は、私個人主観的印象を述べている側面が強いです。間違っていたらすみません。)

それに対し、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学は、基本的に誰にでもアプローチできるものだとの印象を受けます。(これもまぁ、割と主観的な印象ですが。) この哲学では、哲学に酔ってしまう、あるいは哲学している自分に陶酔してしまうことが、比較的少ないと思います。しっかりと地に足を付けて、浮かれることなく地道に丁寧に正確に哲学を進めることができるという点で、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学には学ぶべきことが多いように感じられます。かつて東欧辺境から、世界に届く哲学、論理学が生み出されました。私たちもこの学派にならって、極東から世界に届く哲学ができるかもしれません。

とはいえ、無理に世界に届かせようとしなくてもいいのですけれどもね。それは哲学の本質ではないから。それにグローバリゼーションが進んでいる今の時代に、哲学の国籍を言ってもあまり意味がなくなってきていますし。いずれにせよ大切なのは、一人一人がその人なりの哲学の問題をあたため、追究して行くことだと思います。世界に届こうが届くまいが。


さて、最初に上げた中井先生の解説文によると (231ページ)、次回の雑誌の号では Twardowski の「シンボロマニアとプラグマトフォビア (1921年)」、Kotarbinski の「教師のための論理学と数理論理学 (1925年)」の訳を掲載し、解説では、学派の中心が Warsaw に移り、戦後へと至る過程を追跡するそうです。興味深いです。


最後に。本日の日記は私の個人的な好みがかなり出ています。気分を害した方がおられましたらすみません。ある程度、哲学をして行くと、どうしても好みが出てくるのです。どうか気になさらないでください。そして私の記述に誤りがあれば、これもすみません。私見を思い付くままに記したので、文章がよれていたり、流れの悪いところがあったかもしれません。どうかお許しください。

*12018年10月2日追記。前回の日記で、次回の日記の内容は、基本的論理規則が採用できないものならば、研究上、いかなる影響が出てくるのかについて述べるつもりです、と記しました。しかしそれを述べる準備ができていません。永遠にできないかもしれません。とりあえず今回は別の話題を取り上げました。どうもすみません。追記終わり。

2018-09-02 If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule ...

[] If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule of Modus Ponens, Could He or She Adopt the Rule?

前回は、全称例化という推論規則*1が、それを知らない、わからない、身に付けていない人に、ただ示して教えるだけでは、わかってもらえない、その規則を採用してもらえないということを、飯田先生、Padro 先生の文献から学びました。

今回は、やはりお二人の先生の文献から、Modus Ponens という推論規則も (後述)、全称例化と同様にしては採用できないことを確認してみたいと思います。前回同様、次の文献を参考にさせてもらいます*2

お二人の先生は、Saul Kripke 先生の主張に基づき、Modus Ponens が、それを身に付けていない人には採用できないものであると述べておられます*3しかしどうして採用できないのかについては、詳細には説明されていません (Padro 先生は、若干されていますが)。全称例化を採用できないという論証を見れば、Modus Ponens も採用できないことは、自ずとわかるだろうということで、Modus Ponens が採用できない理由を詳しくは記しておられないのだと思われます。

そこで今回、私の方で Modus Ponens が採用できない理由を、少しばかり丁寧に記してみたいと思います。

なお、例によって、私の記述に間違いがあれば大変すみません。平易に説明したつもりですので、間違いがあれば、見つけやすいと思います。あらかじめ、私のなしているかもしれない間違いにお詫び致します。


さて、前回も登場した田中さんですが、この田中さんは、次の二つの前提


    •  明日雨ならば試合は中止である。
    •  明日は雨である。

から、以下の結論


    •  故に、試合は中止である。

を引き出すことができないとします。

ところで、今の二つの前提から、その結論を引き出すために必要な推論規則は、次のものです。


    •  条件文があり、かつその条件文の前件がある。故に、その条件文の後件を引き出してよい。

または、


    •  条件文があり、かつその条件文の前件があれば、その条件文の後件を引き出してよい。

この推論規則を Modus Ponens (MP) と言います*4。前者は論証の形をした MP であり、後者は文の形をした MP です。

Modus Ponens が採用できるものならば、元々それを採用していない人、元からその推論規則を持っていないし、知らないし、身に付けてもいないし、使ったこともない人を考えることができるはずです。このような人物として田中さんを考えます。したがって田中さんは、Modus Ponens を使うことができません*5


それならば、田中さんにこの規則を教えてあげれば、「試合は中止である」という先の結論を引き出してくれるかもしれません。そこで田中さんに、以下のようにこの規則を教えてあげることにします。


 条件文があり、かつその条件文の前件があるならば、その条件文の後件を引き出していいんだよ、田中さん。「明日雨ならば試合は中止である」は条件文で、「明日は雨である」はその前件だよね。だから、その後件「試合は中止である」を引き出していいんだよ。


しかし田中さんにはわかりません。その理由を以下に記してみます。


私が田中さんに話したことの骨格を抽出して示すならば、私の話には次の三つの段階があることがわかります。


(1) Modus Ponens の規則:


    •  条件文があり、かつその前件があるならば、その後件を引き出してよい。

(2)


    •  ここに条件文とその前件がある。

(3)


    •  故に、その後件を引き出してよい。

この骨格中では「明日雨ならば ... 」云々という具体的な文を捨象しています。

これら (1) から (3) をよく見ると、(1), (2) 自身が条件文とその前件になっており、(3) が (1) の後件であって、ここでは Modus Ponens と同じ形をした規則を使って、(1), (2) から (3) を導いていることに気が付きます。(特に、論証の形をした MP を使っています。)


この骨格に若干補足を入れながら、もう少し正確に書き直してみます。


[1] Modus Ponens の規則 MP:


    •  何であれ、条件文 Φ → Ψ があり、かつその前件 Φ があるならば、その後件 Ψ を引き出してよい。*6

この [1] は「何であれ」という、すべてのことを表す表現を含んでいます。そこで [1] に対し、全称例化を施し、[1] からその個別例を導くなら、


[2]


    •  条件文 p → q があり、かつその前件 p があるならば、その後件 q を引き出してよい。

そして、

[3]


    •  条件文 p → q があり、かつその前件 p がある。

[4]


    •  故に、その後件 q を引き出してよい。

上の p を「明日は雨である」で、q を「試合は中止である」で置き換えれば、私の田中さんに対する (少し詳しくした) 説明になります。

この補足された骨格をよく見てみると、やはり [2], [3] 自身が条件文とその前件であり、[4] が [2] の後件になっています。そして [2], [3] から [4] を導く際に、[1] の MP と同じ形をした規則を当てはめて使っていることに気が付きます。(やはりここでも論証の形をした MP を使っています。)

以上からわかることは、次のことです。そもそも田中さんは MP を使えずに困っていたのですが、それにもかかわらず、私は MP と同じ形をした規則を使って田中さんに結論を引き出すよう迫っていた、ということです。しかし、それでは上手くいくはずがありません。案の定、田中さんは私の説明がわからないと言います。それもそうでしょう。

今のことを少し言い換えると、MP に見られるパターンがわからない、使えない田中さんに、私は MP と同じパターンの推論を行いながら、田中さんに結論を引き出すよう促していた、ということです。

もっと簡単に言えば、MP を知らない、わからない人に、MP でもって MP を説明している、ということです。まったく知らない外国語文法規則を、そのまったく知らない外国語で説明されても意味不明、というのと同じようなことです。

こうして MP をまったく知らない、わからない、身に付けていない、使ったこともない人に MP を教えることは、(おそらく) できないと思われます。少なくとも、MP を命題知としては、教えられそうもありません*7ちょっと私にはまだ信じられないのですが…。


以上が、Modus Ponens を採用できないとする決定的な証明になっているのか、私にはまだわかりません。田中さんに対する私の説明を別のものに変えればよいかもしれません。しかし、たぶんですが、別の説明も本質的には今回田中さんに行なったのと、同様のものになるのではないかと推測されます。

それ以外にも、上記の「証明」なるものに対し、すぐさま思い付く疑問を少し上げれば、そもそも推論規則を採用するとはどのようなことなのか、まだ詳しく明らかにされていません。それに、今しがた命題知について触れましたが、それと対になっている技能知が、ともに正確には何であるのか、これも明らかにされていません*8。この他にも色々と考えなければならないことがあります。そのため、上の話が決定的証明だとは、私は主張しません。ただし、Modus Ponens は採用できないとする有力な主張の核になるアイデアは、示されていると思うのですが。


最後に補足を一つ。

本日の話の最初に記した飯田先生、Padro 先生の文献とは別に、本日の話を理解する上で参考になるその他の文献とその該当ページを記しておきます。

これらの文献の該当ページで説明されているのは、論理的真理のすべてを規約 (= 約束、取り決め) から証明する試みは、無限後退に陥ってうまくいかない、という例の話です。

この話の要点を、私達の話題に絡んでくる限りで、上記飯田先生ご高著該当個所により、大まかに短く述べます。(詳細は、直前の飯田文献該当個所を参照ください。でないと、よくわからないと思います。)

論理的真理の規約説によると、すべての論理的真理*9は規約によって真です。特に、「太郎の所持金は五千円以上であるか、あるいは、太郎の所持金は五千円以上ではない」のような個別的な論理的真理はすべて、規約から証明されることで、その真理が保証されます。よってその保証のためには、個別的な論理的真理はどれも規約から証明されねばなりません。ところで、「123123は3でも7でも割り切れる。故に123123は7で割り切れる」のような個別の妥当な論証*10もすべて個別的な論理的真理です。と言うのも、妥当な論証はどれも、その論証の前提の連言を前件に取り、その論証の結論を後件に取る条件文でもあり、この時この条件文は必ず論理的真理となるからです。今も述べたように、個別的な論理的真理はすべて規約から証明されなければなりませんから、個別の妥当な論証もすべて規約から証明されなければなりません。

そこで、そのことをある妥当な論証 (%) について証明するならば、それは一つの個別的な、妥当性を持った論証となります。するとこの妥当な論証も個別的な論理的真理ですから、この論証は規約から証明されなければなりません。

そこで、そのことをこの妥当な論証について証明するならば、それも一つの個別的な、妥当性を持った論証 (%%) となります。するとこの妥当な論証も個別的な論理的真理ですから、この論証も規約から証明されなければならないことになって、以下、(%%%), (%%%%), ..., のように証明が無限に後退して行きます。こうして論理的真理の規約説は、うまくいかないと言われます。

私による田中さんへの話は、この無限後退と似ているのですが、どの点が似ているのかと言うと、無限後退の列を構成している各論証 (%), (%%), ..., をそれぞれ遂行する際に、Modus Ponens に相当する規則 (#) を毎回使っている点です。相違点はと言うと、私の田中さんへの話は無限後退を含まず、1回だけの後退を含んでいるという点、つまり無限後退を1回だけの後退に制限している、その特殊例になっている、という点です。

このようなわけで、この無限後退の話は、上で私が田中さんにした話を理解する上で、参考になると思います。


次回は、可能ならば、Modus Ponens が採用できない推論規則であるとするならば、研究上、どのような影響が出るのか、そのことに軽く触れてみたいと思います。ひょっとしてひょっとすると、結構な影響が出るのではないかとも感じられます。

また、研究上の影響ばかりではなく、そもそも、ものを考えるとはどのようなことなのか、理性とは一体何なのか、という問いに対する答えも、変ってくるかもしれません。私には、こんなでっかい問題には何も答えられないでしょうけれど…。いずれにせよこの話は「可能ならば」しますということなので、次回にその話が本当にできるのか、今のところ保証できません。ちょっと自信がありません。何も用意ができていません。できない可能性の方が高いみたいに感じます。できなかった場合は、どうもすみません。先に謝っておきます。

加えて本日の日記に間違い、誤字、脱字などが含まれていましたらすみません。こちらも謝っておきます。

*1:この規則については、前回の日記を参照ください。

*2:飯田先生の下記のご高著はすべて読みましたが、Padro 先生の論文は、今のところ Chapters 2 and 3 と Chapter 4 の一部を拝読させてもらっただけです。

*3:飯田、207ページ、Padro, e.g., p. 36, and related issues, see Padro, p. 43, note 56, pp. 90-91, 99-100, and p. 100, note 117.

*4:Modus Ponens については、前回参照をお願いしたのと同じ文献の同じ個所を、ここに記しておきます。前原昭二、『記号論理入門』、日本評論社1967年、37-38, 40-41ページ, 清水義夫、『記号論理学』、東京大学出版会1984年28, 94ページ、戸田山和久、『論理学をつくる』、名古屋大学出版会2000年、63, 219ページ。

*5:このような人物がいるとは考えにくいですが、今ここで問題にしているのは現実的可能性ではなく、論理的な可能性です。論理的には田中さんのような人物はたぶん存在し得ると思います。そのような人物を想像しにくいのでしたら、次のように考えてみるといいです。推論規則 MP が理解できない人物は想像しにくいとしても、数学的帰納法背理法/帰謬法をうまく理解できない中高生を想像することは、たやすいのではないでしょうか。数学的帰納法や背理法を理解できない人がいるとするならば、MP を理解していない人がいたとしても、そのような人の数は極度に少ないかもしれませんが、想像できなくはないでしょう。あるいはこれとは別に、後件肯定の虚偽を人々がしばしば犯すことを思い出してみればいいです。この虚偽を犯してしまうということは、条件法をきちんと理解していないということを表しています。もしも条件法をきちんと理解していない人がいるならば、その人は、同じ条件法を含んでいる推論規則 MP も実はきちんと理解していないと疑われることになるでしょう。これで幾分なりとも田中さんのような人物の存在に、想像をはせることができるでしょうか。いずれにせよ、論理的可能性のみが今の問題なので、これ以上、田中さんを想像できるかどうかに関しては、問わないことにしましょう。

*6:Φ と Ψ はギリシャ文字で、それぞれファイ、プサイと読みます、念のため。

*7命題知のごく簡単な説明については、前回の日記を参照ください。

*8技能知についても前回の日記を参照ください。

*9:論理的真理については、論理学の教科書をご覧ください。

*10妥当な論証についても、論理学の教科書をご覧ください。

2018-08-26 If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule ...

[] If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule of Universal Instantiation, Could He or She Adopt the Rule?

今日は推論規則について、一つ確認してみます。後日、もう一つ、推論規則について確認してみる予定です。ただし、予定しているだけで、その予定が実行できるかどうかは、今の段階では未定です。とりあえず、本日確認してみたいことを記してみます。


ごく基本的な推論規則は、それを持っていない人にその規則を示しても、その人はその規則を採用できない、という主張があります。 この主張は、全称例化という基本的な推論規則を例に取り、立証がなされているとの話です (全称例化については後述)。この主張とその立証は、Saul Kripke 先生によるものだそうです。このことは、今、私が読んでいる次の二つの文献に書かれています。

ちなみに、飯田先生の文献は既に読んでいましたが、改めて一部を読み返しています。

Padro 先生の文献は、まだすべてを読んだわけではありません。読んだのは (Chapter 1 の Intro. を飛ばして) Chapter 2 と Chapter 3 であり、現在 Chapter 4 に取りかかっているところです。

では、Kripke 先生は先の主張をどのように立証されているのでしょうか。本日確認したいのはこのことです。そこでこのことを、飯田先生の上記文献から引用することで見てみましょう (Padro 論文で該当する個所は、pp. 31-35, およびその p. 35 の footnote 49)。


全称例化をしたことのないひとに、そうするように教えることはできるか


 [基本的な推論規則は採用できないということを立証するために] クリプキが例にとるのは、全称例化、つまり、「F はみんな G である」から、「この F も G である」が導かれるという論理法則である。

 もしもクワインのような見方を取って、全称例化を採用することも拒否することも可能だと考えるのならば、全称例化を採用していない人物を考えることができるはずである。

 田中さんが、そうした人物だとしよう。田中さんは、全称例化という形の推論をこれまでいっさいしたことがない。田中さんはとても素直なひとなので、「どのカラスも黒い」と教えてあげると、それをそのまま信じてくれる。いま、田中さんには見えないところにカラスが一羽いる。田中さんはとても素直なひとであるけれども、先に述べたように、全称例化ということをこれまで一度もしていないし、教わってもいないので、「カラスはみんな黒い」と信じるならば、「そのカラスも黒い」と信じなければならないとは考えない。クリプキによれば、この続きはこうなる (一九七四年にピッツバーグ大学で行われた「論理は経験的か?」という講演に、こうしたやり取りがあると言うが、以下のようにアレンジしたのは私の責任である)。


 わからないんだね。じゃ教えてあげよう。どの一般命題からも、その個別例が出て来るんだよ。

田中さん そうなのか。きみの言うことを信じるよ。

 ほら、「カラスはみんな黒い」は一般命題で、「そのカラスも黒い」はその個別例だ。

田中さん たしかにそうだ。

 どの一般命題からも、その個別例が出て来る。だから、「カラスはみんな黒い」という、この特定の一般命題から、「そのカラスも黒い」という、この特定の個別例が出て来る。

田中さん うむ、そうだろうか、なぜ「だから」と言えるのか、まだ納得できないな。


「どの一般命題からも、その個別例が出て来る」と教えられても、これ自体が一般命題である以上、それを「カラスはみんな黒い」や「そのカラスも黒い」といった具体例に適用するためには、まさに全称例化という形の推論を行わなければならないが、それができない田中さんには、そうすることができない。よって、これまで全称例化を用いていなかった田中さんが、ひとに教えられて全称例化を新たに採用するということは不可能である。*1


ここでの論証は一部省略されていますので、改めてその論証を補足しながら論の運びを丁寧に追い、全称例化の規則を元々持たない人にその規則を示しても、その人はその規則を採用できないということを、確認してみましょう。

なお、私の記述に間違いが含まれていましたらすみません。平易に、丁寧に、記述したつもりですので、間違いが含まれていましたら、すぐに気付いていただけると思います。いずれにせよ、含まれているかもしれない間違いに、前もってお詫び致します。


さて、田中さんは全称例化ができません。それが何であるか知らないし、わかりません。

全称例化とは、例えば、


   すべてのカラスは黒い。


から、


   故に、このカラスも黒い。


と推論することです。

全称とは、簡単には「すべての〜」という表現のことであり、例化とは、この場合、簡単にはすべてのもののうちの、どれか特定のものを表すことを言いますが、田中さんはこの上の推論ができません。この推論を生まれてから一度もやったことがありません。教わってもいません。

田中さんはカラスを知らないとしましょう。そんな田中さんに「すべてのカラスは黒いんだよ」と教え、同意してもらった後に、中の見えない箱に一羽カラスを入れ、それを彼に差し出しながら「この中に一羽カラスが入っているけど、そのカラスは黒いだろうか?」と尋ねてみます。普通なら「黒い」という答えが返ってきますが、全称例化ができない田中さんは「わからない」としか答えられません。

ところで、「すべてのカラスは黒い」は「何であれそれがカラスならば、それは黒い」という意味を持っています。この後者の文の「何であれ」を記号 ∀ で表し、「それ」を x で、カラスを F で、「ならば」を矢印で、「黒い」を G で表すならば、「すべてのカラスは黒い」は以下のように書けます。


   1. ∀x(Fx → Gx).


この時、1. の式の全称例化とは、1. から次の式 2. を引き出すことです。つまり、特定の何らかのもの a について、


   2. FaGa,


です*2。これは「a がカラスならば、a は黒い」を意味します。田中さんは全称例化ができない、ということは、この 1. から 2. へと推論を進めることができない、ということです。


ここで、もしも箱の中のカラスの名前が a だとするならば、a はカラスなので、


   3. Fa,


と言うことがでます。これは「(箱の中の) a はカラスである」を意味します。さらに田中さんとは違い、全称例化ができるならば、1. から 2. へと推論を進め、続いて 2. と 3. とを合わせて (Modus Ponens という推論規則を使い*3 ) 次の 4. を引き出すことができます。


   4. Ga.


これは「(箱の中の) a は黒い」ということを表しています。結局、4. によって (箱の中の) この特定のカラスも黒いということが結論できたことになります。こうして全称例化ができれば、「すべてのカラスは黒い」から「このカラスも黒い」というように推論でき、つまるところ、全称表現を持った文 (全称文と言うことにしよう) から、その個別例を含んだ文を引き出すことができる、というわけです。

しかし、上のようにして私達は 4. まで推論を進めることができたものの、田中さんはそもそも全称例化ができないから、上の 1. から 2. へと進むことができないので、4. にまで至り着かず、特定のカラスが黒いことを、引き出すことができないのです。


田中さんが全称例化を知らず、できないないのならば、それが何であるかを伝えれば、その規則を採用し、全称文から個別例を引き出してくれるかもしれません。そこで、田中さんにその規則を教えてあげることにしましょう。次のように田中さんに話しかけてみます。


   「すべての全称文は、その個別例を持つんだよ。「すべてのカラスは黒い」は全称文だよね。だからこの文からその個別例「このカラスも黒い」が出るんだ。」


しかし、田中さんは「わからない」と言います。それもそのはずです。理由は次の通りです。

直前の発言の「すべての全称文は、その個別例を持つ」は「何であれそれが全称文ならば、それは個別例を持つ」ということを意味しています。これを先ほどと同じような感じで記号の式に直せば、以下のようになります。H は全称文であることを、I は個別例を持つことを表します。


   5. ∀x(Hx → Ix).


今、文「すべてのカラスは黒い」の名前を b とすれば、b は全称文なので、次が成り立ちます。


   6. Hb.


これは「b は全称文である」ということを言っています。

そして、全称例化ができる人ならば、その全称例化を使って 5. から


   7. Hb → Ib,


を引き出すことができて (「b が全称文ならば、b は個別例を持つ」)、6. と 7. とで (Modus Ponens を使い)


   8. Ib,


を引き出すことができます。この式の意味は「b, すなわち文「すべてのカラスは黒い」は、個別例を持つ」です。

するとここから個別例「このカラスも黒い」を結論してよいことになります。なぜなら 8. が言えるので b には個別例があるはずであり、実際先ほど行なった 1. 「すべてのカラスは黒い」(=b) から 4. 「このカラスも黒い」への導出過程をここで再び繰り返せば、個別例「このカラスも黒い」が出るからです。

だが、田中さんは、このように結論することができません。そもそも 5. から7. へと全称例化ができないから、8. へと到達できないのです。だから、全称例化を知らず、わからず、身につけていない田中さんに全称例化の規則を示しても、田中さんはどうにもできません。全称例化の規則を特定の全称文に適用し、そこからその全称文の個別例を引き出そうとしても、全称例化の規則を上記の a であれ b であれ、どんな個別例にも適用できないので、立ち往生してしまうのです。


どうやら全称例化という推論規則は、それを身に付けていない人に、その規則を単に差し出すだけでは採用できないもののようです。実は私はまだちょっと信じられないのですが、全称例化という規則は、それを身に付けていない人に、ただ示し、読んで内容を一通り理解してもらうだけでは採用できたとは言えないものみたいです。

ところで知識には、事実がどうなっているのかを述べているものと、何かをするにはどうすればいいのかを述べているものがあるようです。前者の知識は「命題知 (propositional knowledge/knowledge-that)」と呼ばれ、後者の知識は「技能知 (procedual knowledge/Knowledge-how)」と呼ばれています。飯田先生の話によると、全称例化のような基本的な推論規則についての知識は技能知だとのことです (飯田、188-192, 206ページ)。

命題知の典型例は「富士山日本一高い山である」のようなものです。技能知の典型例は「短距離をクロールで泳ぐ際には、腕を I 字でかいた方が S 字でかいた方よりも速く泳げる」のようなものです*4。前者の知識は、富士山、日本、一番、高い、山のそれぞれがわかれば (その他の文法知識と合わせて) 一応わかったと言えるものであり、富士山に登らなければそれをわかったことにはならない、などとは言えませんが、後者の知識は、短距離、クロール、腕、かく、I 字、S 字、速い、泳ぐなどがわかっただけでは (その他の文法知識がわかっていたとしても)、きちんとわかっていることにはならず、それがちゃんとわかっていると言えるのは、実際にそのように泳ぐことができた時だろうと思われます (ゆっくりとしか泳げなかったとしても)。あるいは、泳げない人は畳の上でその真似をできた時だと考えられます。

もしも全称例化のような基本的な推論規則の知識が命題知ではなく、技能知であるとするならば、全称例化を命題知としては採用できないとしても、技能知としてならば採用できるのでしょうか。今の私にはわかりません。とても興味深い問題ですが、本日確認すべきことは一応確認しましたので、今日はこのあたりで話を終えることにします。次回は本日の続きで、もう一つ確認したいことがあります。その内容をこの日記に up できるかどうかは、まだ不確定ですが。


本日の記述に間違いがありましたら謝ります。申し訳ありません。勉強し直します。

*1:飯田、203-206ページ。

*2:全称例化については、論理学教科書を参照。比較的著名な教科書から、その規則が載っている個所を記しておけば、前原昭二、『記号論理入門』、日本評論社1967年、46-48ページ、清水義夫、『記号論理学』、東京大学出版会1984年、57-58, 95ページ、戸田山和久、『論理学をつくる』、名古屋大学出版会2000年、129-130, 236ページ。

*3:Modus Ponens については、前原、37-38, 40-41ページ, 清水、28, 94ページ、戸田山、63, 219ページ。

*4:これは事実のようです。研究結果で示されているみたいです。高木英樹、中島求、「S 字ストロークか? I 字ストロークか? 最適クロール泳法のメカニズムを解明」、筑波大学東京工業大学共同研究、2016年、<http://www.tsukuba.ac.jp/wp-content/uploads/160112takagi1.pdf>.

2018-07-16 Dash or Prime

[] Dash or Prime, Which Is the Correct Reading of the Mark " ' "?

本屋さんで、出たばかりの

を手に取り、中を見てみると、

という記事を見かける。ちょっと興味を覚えました。拝見させていただくと、「えっ、それは知らなかったな」というようなことが書かれていました。


論理学数学の文献で「a'」や「a''」のような表現を目にすることがあります。この「a'」における「a」の右肩の点「 ' 」は、何と読めばよいでしょうか? それは「ダッシュ」と読まれることがありますが、正しくは「プライム」と読むのだろうと、私は思っておりました。(日本では) 「プライム」が正しく、「ダッシュ」は間違っていると思っていました。しかしこれは、上記文献、田野村先生調査によると、正しくないようです。先生は英語で書かれた数学の文献で、問題の点「 ' 」が、歴史上、いつ出てくるのか、さかのぼって調査されています。

先生によると、問題の点が英語の数学文献に現れるのは、先生が確認できた限りでは、19世紀半ばだそうです (『数セミ』、55ページ)。

先生が見つけられた19世紀半ばのある数学文献には、問題の点は「ダッシュと読む」と (英語で) 記されていました (同ページ)。また同じ頃の別の数学文献では「プライムと読む」と (英語で) 記されていました (同ページ)。

つまり、もしもこれらの文献が問題の点の出現初期の事例だとするならば、問題の点が世に現われた当初、その点を英語で「ダッシュ」とも「プライム」とも読んでいた、ということです。

しかし、それでも「従来アメリカでは、その点は専ら「プライム」と呼ばれていたのではないか」と思われるかもしれません。ですが、先生の調査によると、しばらく前のアメリカの数学文献 (1936年) にも、その点は「ダッシュと読む」と記されていました (56ページ)*1

しかし、それでも「最近では、問題の点を、英語では専らプライムと読むはずだ」と思われるかもしれません。ですが、ここでも先生の調査によると、2000年代に入ってからの英語理工系文献でも、その点を「ダッシュと読む」と書かれている事例があります (57-58ページ)。


以上の実証的な調査により、問題の点「 ' 」は、昔から今に至るまで、英語の数学文献で「ダッシュ」とも「プライム」とも読まれてきたのであって、その点はどちらで読んでもよい、ということです。「プライム」が正しく、「ダッシュ」と読むのは間違っている、というのは間違っている、ということです。これは知りませんでした。私は何となく、点「 ' 」は「プライム」と読むのが正式で、「ダッシュ」と読むのは間違い、または通俗的な読み方に過ぎないとばかり思っておりましたが、歴史的事実からすると、どちらの読み方でも OK だ、ということみたいです。確かに大切なのは、誤解なく相手に伝わる読み方であることです。そうすると、誤解なく内容の伝わる読み方であれば、ことさら「ダッシュ」を間違いとする理由はない、ということになりそうです。

先生のこの調査に対しては、数学史家による検証があるといいですね (先生は言語学者のようです)。先生の調査が正しいものとして追認されるかもしれませんし、あるいはひょっとすると反例のようなものが見つかって、さらに深い研究の展開が見られるかもしれません。


本日の話に関し、私による記述に間違いが含まれていてはいけませんので、詳細、正確には、上記の田野村先生の文献をご覧ください。含まれているかもしれない私の間違いに、ここでお詫び申し上げます。先生の貴重な調査に感謝致します。

*1アメリカで出たという文献について一言。元々イギリスで出た本が、アメリカで出版し直されるということがあります。この場合、アメリカで出てはいても内容はイギリス版と同じということもあり得ます。そこで、先生が確認された「しばらく前のアメリカの数学文献 (1936年)」も、もしかすると元々イギリスで出ていたもので、それと同じ文献がアメリカで焼き直しされただけなのかもしれない、と推測することもできます。この推測が当たっているならば、その1936年の「アメリカ」の文献で、問題の点を「ダッシュと読む」と記されていても、そう読んでいたのはイギリスでのことであって、アメリカでその点を「ダッシュ」と読んでいた証拠にはならない、と主張することもできます。しかし先生のその1936年の文献は、アメリカ科学アカデミーの Proceedings ですので、イギリス版の焼き直しという可能性はないと思われます。

2018-06-17 Philosophy Is Useful Because We CAN Prove It.

[] Philosophy Is Useful Because We CAN Prove It.


うちには小犬の nuhsnuh くんと、そしてたぶん犬だと思うのですが、小犬の Lisa がいます

先日、この2頭が話をしているのが聞こえました。何とはなしに聞いていると、Lisa が「哲学なんて役に立たない」と言っています。それに対し nuhsnuh くんが「そんなことないよ。哲学は役に立たないとよく言われるけど、哲学は役に立つよ。だってその証明があるもん」と言っています。そして淡々とその証明を述べていました。とても簡単で短いものでしたから、ここにその証明を私の言葉再現してみましょう。


証明 「哲学は役に立つ」

哲学は役に立たないと仮定してみよう (背理法の仮定)。

ならば、その根拠を上げて、哲学は役に立たないことを論証せねばならぬ*1

今、そのことを根拠を上げて論証したとしよう。

ところで、そのような論証を行なっている時、人は哲学していることになる*2。この時、哲学は役に立たないということを主張するのに哲学は役に立っている。

さて、振り返ると、哲学は役に立たないと仮定したことから、今、哲学は役に立つということが帰結した。これは矛盾である。故に、哲学は役に立たないという仮定は否定されねばならない。よって、哲学は役に立たないことはない。すなわち、哲学は役に立つ。

こうして、哲学が役に立つことが証明された。Q.E.D.


なるほど、う~む。

その後、nuhsnuh くんと Lisa は、上の証明について、直観主義者がどうだの、古典主義者がああだの、構成主義者がこうだのと、何か難しいことを言いあっている。私には何だか難解すぎてわからないので、話の筋を追うことができない。

しかし、う~む。それにしても、う~む。

本日はこれで終わります。nuhsnuh くんの証明が間違っておりましたら大変すみません。私の方から代わりにお詫び申し上げます。


PS 上の「哲学なんて役に立たない」という意見類似した意見に、「哲学なんてする必要がない」というものがあります。この後者見解に対しても、その反対に、「哲学はする必要がある」ということを、非常に簡単かつ手短に証明することができる論証もあるようです。この日記2016年1月2日のページに記されています。その日の日記項目 ''Is Consequentia Mirabilis a Basic Form of Reductio ad Absurdum?'' 第2節「Consequentia mirabilis とは何か?」における William Kneale 先生論文 ''Aristotle and the Consequentia Mirabilis'' からの引用文、およびその引用文に付した引用者の註をご覧ください。

*1:さもないと、無責任な言い放しになる。

*2そもそも、そのような営み、活動を、哲学と言うのである