nuhsnuhの日記

2017-06-25 2016年読者アンケート

[][] 2016年読者アンケート

時機を失していますが、昨年2016年に読んだ哲学論理学関係の文献で、私の印象に最も残った文献の名前を以下に記します。一番印象に残ったのは次の短い論文でした。

  • Peter Schroeder-Heister  ''Paradoxes and Structural Rules,'' in Catarina Dutilh Novaes and Ole Thomassen Hjortland, eds., Insolubles and Consequences: Essays in Honour of Stephen Read, College Publications, Tributes Series, 18, 2012.

Russell Paradox を block するのに structural rules の一つを落としてしまうという strategy を取る試みが、しばらく前から盛んに行われていますが、この論文もそのような試みの一つです*1。ただし stractural rules のどれか一つをまったく完全に落としてしまうのではなく、つまり、例えば contraction をまったく完全に使わないようにしてしまうのではなく、Russell Paradox が出てきてしまうような場面に限って、contraction を使えなくしてしまおうとしているのがこの論文です*2。すなわちこの論文では、 contraction 対し、ある制限をかけることを試みているのですが、ごく簡単手続きにより、かつ必要な場面に限って、その制限を可能にしようと試みているわけです。大仰で重量級の理論でもって無理矢理ねじ伏せるように contraction を締め付けるのではなく、あっけないぐらい単純な操作で contraction に制限をかけており、それゆえ誰でも理解でき、誰でもその操作を利用し扱うことができるという点で、本論文の試みは特徴的であり、評価できるものとなっています。

Contraction では、例えば、太郎が「明日雨ならば、もう一度言うが、明日雨ならばだ、試合は中止だ」と言った時、次郎が「明日雨だということはわかっている、何度も繰り返さなくてもいいよ、台風がすぐそこまで来ているんだから、そんなことはわかっている」と返答するような場面があると思います*3。Schroeder-Heister 先生の上記の論文では、太郎の発言の中にある、この「明日雨である」という二回出てくる文が、どちらも由来を同じくしているならば、次郎が言うように、一度言うだけで十分だ、と考えるのですが、由来を異にする場合には、次郎のように、一度言うだけで済ますことにはできない、と考えます。言い換えると、

太郎: A 明日雨ならば、もう一度言うが、B 明日雨ならばだ、試合は中止だ。

次郎: つまり、明日雨ならば、試合は中止だ、というわけだ。

が成り立つのは、A を導き出す論証の根拠と、B を導き出す論証の根拠が同じ場合であり、根拠を異にすれば、contraction は成り立たない、という制限を Schroeder-Heister 先生は提案しておられるのです。(とはいえ、この制限だけでは不十分であり、ごく簡単な type の区別も導入する必要があることを、先生は付け加えておられます。)

なお、先生が行なっている contraction への制限が正しいと言えるためには、いわゆる proof-theoretic semantics が、英語日本語などの自然言語に対し、十分確立できることが前提となっています。つまり、具体的な特定の自然言語に対し、proof-theoretic semantics が実際に有効妥当であることが立証されることによって初めて、本論文での contraction への制限が妥当であることがと保証されるということです。さもなければ、数学の証明などの、ごく限られた場面においてしか、先生の課している contraction への制限は、正当性を持ち得ません。手短に言えば、proof-theoretic semantics が自然言語に対し、正しい意味論であることが立証されなければ、本論文の contraction への制限も、十分一般的に正しい制限だとは立証されない、ということです。したがって、本論文での興味深い試みが成功しているか否かは、少なくともその成否の試金石の一つとしては、proof-theoretic semantics の成功如何にかかっている、ということです。それ故、proof-theoretic semantics が成功するかどうかについて、今後、注目して行かなければならないということになります。これは先生への批判ではありません。先生ご自身お気付きのことだと思います。上記の先生の論文を読めば、誰でも気が付くことです。


そして上記の論文を読んだ後に、以下の論文を拾い読みしました。これも興味深いものでした。

  • Neil Tennant  ''Proof and Paradox,'' in: Dialectica, vol. 36, nos. 2-3, 1982.

この Tennant 論文の idea の一つは、次の書籍に由来していることはよく知られているようです。そこでこの書籍の該当個所を読みました。

  • Dag Prawitz  Natural Deduction: A Proof-Theoretical Study, Almqvist and Wiksell, Acta Universitatis Stockholmiensis/Stockholm Studies in Philosophy, vol. 3, 1965, p. 95, also Dover Publications Edition, 2006, the same page.

うそつき文や Russell Sentence を意味論的観点から見た場合、それらの文が真であるとするなら偽であり、偽であるとするなら真で、再び真であるとするなら偽で、偽であるとするなら真であり、さらに再び…, という具合に、これらの文では真偽が循環して行くことが昔から誰にでも知られていたことでした。ではこれらの文を証明論的観点から見た場合、何か循環しているような特徴が見られるでしょうか? 「見られる」という答えを手短に与えたのが、上記 Pravitz 先生のご高著該当ページであり、その答えを詳細に説明してみせたのが、上記 Tenannt 先生の論文でした。例えば Russell Paradox により矛盾を引き出す論証中で、いわゆる reduction processes に循環が見られるということを、お二人の先生は明らかにしておられます。とても面白い特徴だと思います。


ところで次の論文の一部を読むと、

  • Peter Schroeder-Heister  ''Proof-Theoretic Semantics, Self-Contradiction, and the Format of Deductive Reasoning,'' in: Topoi, vol. 31, no. 1, 2012, pp. 80-81,

Russell Paradox に見られる矛盾を自然演繹で証明してやった際、その証明図の各式を type として捉えた場合、これら type を持つ lambda terms の application に、これもまた循環が見られることを、すぐ上の Schroeder-Heister 論文では指摘されています。この循環とは、Russell Paradox で矛盾式を引き出した時、その式に対応する lambda term に β-reduction を繰り返し施しても正規形に至らない、ということです。この指摘は、大まかに言えば、計算過程にも、Russell Paradox には循環が見られる、ということを指摘したものとして読むことができるだろうと思います。これもとても興味深い指摘だと思います。(ここでの Schroeder-Heister 先生の記述を、私は完全に理解した、というわけではございません。先生は programming languages の基礎知識を前提に話をしておられますが、私はその言語の初歩の知識も持っておりませんので、先生の話を十分には理解しておりません。あらかじめお断りしておきます。)

Russell Paradox を意味論的観点から見た時、例の Russell Sentence は、うそつき文同様、真偽が反転し続けるように、Russell Paradox を証明論的観点からみた場合には、証明の reduction processes が循環し続け、Russell Paradox を計算論的観点からみた場合には、矛盾式に対応する lambda term への β-reduction が繰り返し適用され続ける結果となり、三つの観点すべてにおいて、どれも循環という様式が見られます。これはとても興味深いです。全部共通して循環という現象が見られるわけです。このことを簡潔にまとめておきます。

Russell Paradox の特徴

では、これらの共通現象を統一的に説明できる一般的理論はあるのでしょうか? わかりません。そのような理論があるとするならば、それは大変な理論になりそうです。私には思いつくこともできません。もしもそのような理論があるならば、あるならばですが、たぶん人間の理性や合理性などについて、非常に深い知見が得られそうな感じがします。私には少しも考えを進めることができそうにない話題です。これで本日の日記を終えたいと思います。間違ったことを書いておりましたらすみません


PS

Russell Paradox を追究することで、本当に人間の理性や合理性などについて、非常に深い知見が得られるのだろうか? 一般的に言って、Russell Paradox に限らず、論理的な paradox を追究するならば、人間の理性や合理性について、深い知見が得られるのか? 得られるように思われますが、本当に得られることを私はまだ自分自身に説得的に示すことができていません。また勉強します。

*1:Russell Paradox の原因がどこにあり、その Paradox を防ぐには、どうすればいいのかに関して、Frege の Grundgezetze 体系を念頭に置きつつ、非常に大きく言えば、三つの立場、三つの角度、三つの領域があるようです。まず、一つ目は Grundgesetze の subsystem を制限する立場です。もう少し具体的に言えば、基本法則 V を制限する方法、または comprehension principle を制限する方法。続いて二つ目には、Grundgesetze の subsystem にまったく代えて、別の数学的な理論を立てる立場です。これももう少し具体的に言うと、ZF を立てる立場、Russell の type theory を立てる立場、Aczel の Frege Structure を持ち出す立場。最後に三つ目としては、非古典論理採用する立場です。今回お話しする structural rules のうちの一つを落とすことで Russell Paradox を block しようという方法は、今述べた三つ目の立場のうちの一つと言えそうです。以上の三つの立場があるということについては、以下の文献から学びました。黒川英徳、「書評『野本和幸フレーゲ哲学の全貌 勁草書房 2012年』」、『科学基礎論研究』、第42巻、第1号、2014年、46-47ページ。この註での私の説明は、黒川先生の説明を簡略化しています。また、Russell Paradox や Liar Pradox を防止する手立てとして、structural rules のうち、contraction を落とすという手以外に、transitivity (cut rule) を落とすという手と reflexivity を落とすという手があるようです。これらに関し、どのような研究文献があるのかについては、次をご覧ください。Jc Beall, Michael Glanzberg, and David Ripley, ''Liar Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Section 4.2 Substructural Logics, <https://plato.stanford.edu/entries/liar-paradox/#SubsLogi>.

*2:Schroeder-Heister 先生は上記論文冒頭で、contraction をまったく落としてしまうと非常に不都合なことが生じてしまうと述べておられますが、先生が上げておられる理由は十分適切とは思われませんので、先生の上げておられる理由とは別に、contraction を全面的禁止してしまうと生じてくる不都合については、次の論文の該当個所をご覧ください。Seiki Akama and Sadaaki Miyamoto, ''Curry and Fitch on Paradox,'' in: Logique et Analyse, vol. 51, no. 203, 2008, pp. 280-281. なぜ Schroeder-Heister 先生が上げておられる理由が十分適切ではないのか、および Akama and Miyamoto 論文該当個所の説明は、私の日記、2016年12月11日、'Why Contraction-Free Logics Aren’t Convenient for Most of Us?' で詳しい話を展開しております。

*3:ここでは contraction を、便宜上、条件文と論証とを mix する形で提示しています。

2017-06-18 For Quine, Why a Bound Variable is Existentially Committing?

[] For Quine, Why a Bound Variable is Existentially Committing?

Quine にとって、存在するとは、束縛変項の値であることであり (To be is to be the value of a variable)、変項の値となっていることが在ることとされていますが、ではなぜ変項の値となっていることが存在に関与する (existentially committing) ことになるのでしょうか。この答えを Quine の論文 ''Designation and Existence'' を主として例に取り、確認したいと思います。この論文は 'To be is to be the value of a variable' というセリフが述べられたおそらくほとんど初出の論文だと思われます*1。そしてその答えを確認したあと、その答えに見られる問題点に軽く触れてみたいと思います。

(なお、Quine の論文 ''On What There Is'' など、彼の From a Logical Point of View に載っている論文は、前回の日記と同様、今回も便宜上、除外して考えます。本来は ''On What There Is'' をまず第一分析する必要がありますが、この論文は大変有名で、私自身も何度か読み返しており、また読み直すのも新鮮味に欠けるので、まだ読んだことのなかった ''Designation and Existence'' を今回中心にして若干検討を加えることにします。)


さて、今日取り上げる論文

  • Willard V. Quine  ''Designation and Existence,'' in: The Journal of Philosophy, vol. 36, no. 26, 1939

において、Quine は次のように言っています。'appendicitis (虫垂炎/盲腸炎)' という言葉を例に取って、

 Here, then, are five ways of saying the same thing: ''There is such a thing as appendicitis''; ''The word 'appendicitis' designates''; ''The word 'appendicitis' is a name''; ''The word 'appendicitis' is a substituend for a variable''; ''The disease appendicitis is a value of a variable.''*2

と述べています。

ここに上げられている5つの文に番号を付けて並べてみましょう。

1. There is such a thing as appendicitis.

2. The word 'appendicitis' designates.

3. The word 'appendicitis' is a name.

4. The word 'appendicitis' is a substituend for a variable.

5. The disease appendicitis is a value of a variable.

Quine によると、これらは結局みな同じことを述べているということです。ここでは 'appendicitis' という言葉が用いられていますが、'appendicitis' 以外の単語でも上のことが成り立つと考えられています。


また Quine は同じ論文で次のように述べています。

語の指示と存在汎化の同値

A word W designates if and only if existential generalization with respect to W is a valid form of inference.*3

上記5つの文の 2. と 3. により、指示している (designate) 語は名前と言えますから、今の引用文「語の指示と存在汎化の同値性」における左辺の 'a word W' は、'a name W' と言えます。


すると上の「語の指示と存在汎化の同値性」は、次のように「名前の指示と存在汎化の同値性」として書き換えることができます。

名前の指示と存在汎化の同値性

A name W designates if and only if existential generalization with respect to W is a valid form of inference.


ところで上記 2., 3. により、名前とは何かを指しているものですが、その時、Quine によると上記 1. により、指されているものがある (在る) ということになります。つまり、今先ほどの「名前の指示と存在汎化の同値性」の左辺が成り立てば、そこで指されているものが存在する、ということになります。すなわち、名前が何かを指していれば、その指されているものが存在する、というわけです。

現に名前が何かを指していれば、その時、指されているものが存在する、ということは、おそらく大方の支持を得るものと思われます。私もそれを支持します。さてそうすると、ある文やある談話、ある理論やある人が、何をあると言っているのかを知りたければ、一つの手としては、その人によってどの表現が名前として使われているのかを見ればよい、ということになります。文や理論の中で名前として使われている言語表現があれば、それが指しているものがある、とその文や理論は言っているものと思われます。こうして、名前を探せば、それに伴って何があると言っているのかがわかりそうです。

しかし、Quine によると、名前はすべて確定記述句に書き換えることができる、との話です*4。彼によると名前はどれも trivial に量化子や変項や述語や命題結合子を使って文脈的に書き換えることができ、そうすることで名前という syntactical な単位を消去できる、ということです。そうだとすると、名前を全部記述句に書き換えて除去してしまえば、文や理論から名前はなくなるので、名前を探すことで何があると言っているのかを突き止めようとしてもできません。その時、'Names are besides [sic] the point'*5 です。

では、名前を量化子や変項などを使って書き換えて消去してしまった後、文や理論のどこを見れば、その文や理論が何をあると言っているのかが、わかるのでしょうか。上記の「名前の指示と存在汎化の同値性」の左辺に出てくる「名前」に注目することで、何があると言っているのかを突き止めようとしたものの、ちょうど今、名前を消されて困ってしまったところですが、「名前の指示と存在汎化の同値性」の右辺を見ると存在汎化について語られています。そこでもしも名前を量化子や変項などで書き換えたのならば、そうやって書き換えられた、右辺における量化子や変項に注目し、存在汎化則適用後の量化表現に着目すればよいと考えられます。

そこで着目すべき典型的な量化表現は、次の形をしています*6

典型的な量化表現

  •  (∃x)( ... x ... )

存在量化子が先頭に来ていますが、普遍量化子が先頭に来ている量化表現でも構いません。どちらでもいいですが、Quine が通例しているように、存在量化子が先頭に来ている場合のみを今回考えます。


さて、名前が量化表現等によって消されてしまったあとには上のような、典型的には存在量化子が先頭に来ている量化表現に注目すれば、その文や理論が何をあると言っているのかがわかると考えられるのですが、上の量化表現のどこに注目すればよいのでしょうか。Quine は、今私たちが取り上げている論文で、次のように言っています。

変項とその値

A variable ''x'' is ordinarily thought of as associated with a realm of entities, the so-called range of values of the variables.*7

これと、最初に掲げた5つの文章の中の 1. と 5. により、変項に着目すればよいことがわかります。つまり、存在量化されている典型的な量化表現の、束縛されている変項を見ればよく、その変項の値が存在しているものとして、その文なり理論なりにおいて考えられている、ということです。故に、文なり談話なり理論なりにおいて、存在すると見なされているのは、量化表現の束縛変項の値であるもの、ということになります。すなわち、'To be is to be the value of a variable.'*8

しかし、なぜ存在量化子の束縛変項の値となっていることが、存在することと見なされるのでしょうか。以前に「現に名前が何かを指していれば、その指されているものは存在する」ということを述べました。そしてこれはおそらく大方の支持を得るものと考えました。確かに名前がその時、何かを指していれば、その指しているものがある、ということは認めます。ですから、文中や理論中に、本当に名前があれば、それが本物の名前であれば、それは何かを指しているはずですので、それが指しているはずのものは存在します。しかし、存在量化子によって束縛されている変項の値が存在するとは、何によって保証されるのでしょうか。何を根拠に存在量化子の束縛変項の値となっているものがあると言えるのでしょうか。

その答えは以下に多数引用する Quine の発言からわかります。答えを前もって述べておくと、なぜ存在量化子の束縛変項の値となっていることが、存在することと見なされるのか、と言うと、まず論理学の存在量化子は、日常言い回し「ある (在る)」、「存在する」を copy して作られていると Quine は言います。その場合、「〜がある (在る)」、「〜が存在する」という日常の言葉において、「〜」の部分に入る語が指しているものは存在するものと主張されているでしょう。すると、そのような日常の言葉を copy して作った論理学の存在量化子も、同様の役割果たしており、同じようにして存在することを主張している、ということになるでしょう。そのようにして普段の言葉を引き写して作られた存在量化子の、束縛している変項の、いわば指しているものは、同じく存在しているのだ、とされるわけです。もう一度言い直すと、存在量化子の束縛変項の値であるものがある (在る) とされているのですが、この存在量化子は普段の言葉「ある (在る)」、「存在する」の copy であり、それら普段の言葉が存在に関与しているならば、それらの言葉の copy である存在量化子も存在に関与しているだろう、ところで論理学の存在量化子は普段の言葉「ある」、「存在する」の copy である、したがって存在量化子は存在に関与し、かつこの量化子によって束縛されている変項も存在に関与する、だからこの変項の値も存在に関与しているのだ、その値であるものは存在しているのだ、ということです。矢印を使って、この流れを表にしておきます。

「ある (在る)」は存在に関与  →copy→  存在量化子も存在に関与  →束縛→  変項も存在に関与  →取る (take)→  値であるものが存在する。


では、論理学の存在量化子が、普段の言葉「ある (在る)」、「存在する」の copy であることを述べている Quine の言葉を見てみましょう。和訳は引用者によります。下線部に特に注意してください。以下、下線はすべて引用者によります。誤訳しているところがあるかもしれませんので、和訳はあくまで参考程度にしておいてください。(これらの引用文はすべて既に、2017年5月28日と2017年6月8日の当日記で引用したものです。)

Some may protest, however, that the quantifier '(∃x)' [...] says nothing of entities nor of existence; that the meaning of so-called existential quantification is completely described merely by the logical rules which govern it. Now I grant that the meaning of quantification is covered by the logical rules; but the meaning which those rules determine is still that which ordinary usage accords to the idioms 'there is an entity such that', 'an entity exists such that', etc. Such conformity was the logistician's objective when he codified quantification; existential quantification was designed for the role of those common idioms.*9


しかしながら、[...] 量化子「(∃x)」は、存在者についても存在についても何も言っていない、と言って異議を唱える人がいるかもしれない。つまり、いわゆる存在量化と呼ばれるものの意味は、それを統制する論理規則によってのみ、完全に記述されるのだ、と言うのである。よろしい、量化の意味は論理規則によってカバーされることを、私は認めることにしよう。しかしその規則が規定する意味とは依然として、日常の語法によって語句「であるような存在者がある」、「であるような存在者が存在する」などに与えているもののことなのである。このように [論理規則の意味と日常の語句の意味を] 合致させることを、論理学者は量化を制定した際に、目指していたのである。存在量化とは、今述べた日常の語句の役割を果たすために作られたのである。

 An expression ''a'' may occur in a theory, we saw, with or without purporting to name an object. What clinches matters is rather the quantification ''(∃x)( x = a ).'' It is the existential quantifier, not the ''a'' itself, that carries existential import. This is just what existential quantification is for, of course. It is a logically regimented rendering of the ''there is'' idiom.*10


 見たように、表現「a」が理論に現われることができる場合、その表現が対象を名指しているつもりの場合もあれば、そうでない場合もある。問題となっている事柄に対して決定的に重要なのは、むしろ量化「(∃x)( x = a )」である。存在の含意を担っているのは、存在量化子であって、「a」自身ではない。[存在の含意を担うという] このことのために存在量化はまさしくあるのだ、言うまでもない。それ [存在量化] は「ある (在る)」という言い回しを論理的に統制して表したものなのだ

[O]bjectual existential quantification was devised outright for ''there is.''*11


対象に直接かかわる読み方のもとでの存在量化は、まったくもって「ある (在る)」という言葉のために考え出されたのだ。

The existential quantifier ''(∃x)'' is the distilled essence of existential talk. All imputations of existence can be put as existential quantifications.*12


 我々には量化の現代的な論理学がある。そのおかげで変項に存在関与の力があることが、明らかにされている。存在量化子「(∃x)」は、存在についての語り口から抽出してきたエッセンスなのである。 存在に関して帰せられることのすべては、存在量化として言い表すことができるのだ。

[T]he quantifier ''(∃x)'' is meant to mean precisely ''there is something x such that.''*13


量化子「(∃x)」は、まさに「〜というような、何らかの x がある」を意味するものとされているのである。

以上からして Quine にとって、なぜ存在量化子の束縛変項の値が存在するものとして保証されると言えるのでしょうか。それは最終的に論理学の存在量化子が日常の「存在する」という言葉を単に copy したものだからだ、と言えそうです。「存在する」という言葉が何かの存在を主張しており、存在量化子が論理学でこれと同じ役割を果たしているので、その束縛変項の値は存在するものと見なされるのだ、と言えそうです。ずいぶんあけすけで simple な話ですが…。


さて、上の Quine の話によると、名前は全部記述句に書き換えることができて、そうした場合、名前ではなく、存在量化子の束縛変項の値に注目すれば、何が存在していると言っているのかがわかる、なぜなら存在量化子は「存在する」という普段の言葉の論理学版だからだ、ということでした。

これには少なくとも2点、疑問点を付すことができると思います。

まず疑問点の一つ目は、既に多くの人が指摘していることだろうと思いますが、名前をすべて記述句に書き換えることは正当か、という疑念がわいてきます。Quine の言うように、名前を技術的に trivial に確定記述句に書き換えてしまうことは可能でしょう。ところでそのように書き換えてもよいのは、名前のいみが記述であるからなのでしょうか。名前のいみは記述であるから、記述を表す確定記述句に名前を書きかえることは正当であると Quine は考えているのでしょうか。彼が名前のいみを記述であると見なしている可能性を感じさせる文章があります。次がそれです。下線は引用者によります。

The noun ''Pegasus'' is meaningful. If asked its meaning, we could reply with a translation into other words: ''the winged horse captured by Bellerophon.''*14

もしも名前のいみは記述であるから、名前を全部確定記述句に書き換えることは正当であると Quine が考えていたのならば、Naming and Necessity の Kripke に対して、名前のいみが記述であることを立証してみせねばなりません。しかしおそらくそれは簡単なことではないはずです。もしもそれが立証できない場合、名前をすべて記述句に書き換えることができるからといって、名前をすべて記述句に書き換えてもよい、とは言えないと思われます。それが可能だからといって、それがよいこととは限りません。赤信号物理的に渡ることができそうな状況だからといって、渡ってもよい、ということにはなりません。Kripke の Naming and Necessity 以降、名前のいみを記述と考えることはかなり困難なことだと思われます。ただし、名前を確定記述句に書き換えることの正当性を、名前のいみが記述であるということに求める必要はないかもしれません。しかし名前のいみが記述であるということに、名前を記述句に書き換えることの正当性を求めないならば、名前を全部記述句に書き換えるという戦略は、ad hoc とまでは言わないものの、説得力の下がる結果となると思われます。もちろん、名前をすべて記述句に書き換えて名前という syntactical な単位を消去し、名前が指しているものを巡る存在論上の論争を、束縛変項の値の集合に移し替えることによって、論争の混乱を鎮め、理論を単純化できるという Quine のこの手立ては斬新であり、私にはとても思い付けない idea だとは思います。しかし、Kripke 以降の現在から振り返ってみるならば、この idea はいささか説得力が下がっており、魅力を減じているものと思われます。

何があると言っているのかという問題については、名前をすべて記述句に書き換え、そうして名前を消去し、そのあと存在量化子の束縛変項の値に着目することによって、その問題は解くことができると Quine は主張していましたが、これに対する二つ目の疑問は、次のとおりです。それは今回、上で記したことにかかわるのですが、なぜ束縛変項の値を存在するものと見なすのか、というと、その変項を束縛している存在量化子が、もともと普段の言葉「存在する」を引き写して作られているからだ、というのが Quine の話でした。上のほうで言及しました「変項とその値」という引用文をもう一度引いてみますと、

A variable ''x'' is ordinarily thought of as associated with a realm of entities, the so-called range of values of the variables.*15

とありますが、ここで 'ordinarily' と言っていますものの、確かに通常そうしていますが、通常みんなそうしているからと言って、そうすることが正しいとは限りません。「みんな赤信号を渡っているから、赤信号を渡るのは正しい」とは言えません。それに存在量化子 '(∃x)' を通常「x は存在する」と読みますが、通常みんなそうしているからといって、そう読むのが正しい、とは限りません。大体、存在量化子が日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を引き写すようにして作られた、というのは、必ずしも事実に適っているとは言えません。Quine も評価する、現代量化理論の創始者のうちの一人 Frege は、そもそも存在量化子に相当するものを考え出した時*16、日常の言葉「ある (在る)」や「存在する」に合わせてそれを作っていたのではありません。このことは Frege を勉強している人ならみんな知っていることだと思います。

存在量化子は日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を copy して作ったという Quine の主張は、Frege の例からもわかるとおり、反証されていると思います*17。したがって、日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」に存在関与があるのだから、存在量化子にもそれはあるという、Quine が保持していると思われるこの教説は必ずしも成立しないと思います。よって、存在量化子を存在に関与するように読まねばならないという Quine の主張は根拠を、少なくともその限りは失うと思います。そうであるならば、存在量化子を存在に関与するようなものとして必ずしも読む必要はない、と考えることも可能かもしれません。存在量化子を「存在する」と読まねばならない必然性はないかもしれません。そして存在量化子を存在に関与しないような形で読むこともできるかもしれません。その可能性は開かれていると思われます。

あるいはたとえ Quine の考えるとおり、存在量化子は日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を copy して作ったのだとしても、日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」は一義的*18ではなく、多義的な可能性があります*19。 もしそうであるならば、「ある (在る)」、「存在する」の多義的な語義のうちからどれか一つを取って、それにふさわしい存在量化子を複数考えるということもできるかもしれません。仮に「ある (在る)」、「存在する」に語義が三つあるとし、そのそれぞれを、a, b, c とするならば、a を copy した a-存在量化子を作り、この他にも b を copy した b-存在量化子、そして c を copy した c-存在量化子を作って運用することも可能かもしれません。

それにしても、Quine にとって、存在量化子は日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を copy して作られているとすることから、最終的に the slogan 'To be is to be the value of a variable' が言えるのだとすると、Quine のこの有名な slogan は、私たちの日常的な「ある (在る)」、「存在する」という言葉の含みに依存しているということになり、確かに名前をすべて記述句に変えて消去するという idea は斬新ですが、結局はその slogan も、存在に関する私たちのありふれた日常感覚依拠しているという点で、ありきたりで斬新ではないと思われます。つまり理論や文が何を存在するものとしているのかを見るのに、名前ではなく変項を見よ、と言うだけで (それはそれで重要ですが)、そのあとの存在に関する私たちの受け止め方は、以前のまま、変わらず保持し、存在に対する視点の変換までも求めてはいない、ということになります。例の slogan は深いことを述べているように見えますが、そして私は何となくそう感じていたのですが、存在概念そのものについては、例の slogan は常識に依存しているだけのようです。しかし常識に依存しているからこそ、その slogan は人口膾炙したのかもしれませんが…。とはいえ、常識に依拠しているならば、その常識を再検討してみる必要があるでしょうし、その結果、その常識は通用しないとわかったならば、例の slogan の改訂も必要となってくるかもしれませんね。

今回、Quine の論文 ''Designation and Existence'' を読み終わってすぐに感じた疑問は、とりあえず以上の2点です。これら以外にも以前から Quine の存在に対する捉え方に関しては、存在量化子の substitutional interpretation との関連や、free logic との関連が気になっておりましたし、Quine が syntax と semantics の関係をどのように考えているのかも、気になっておりました。今回読んだ ''Designation and Existence'' から得られる Quine の考え方と、存在量化子の substitutional interpretation, free logic, syntax/semantics との関連は、今後私自身の検討すべき課題として残しておきたいと思います。(今回 pass した論文 ''On What There Is'' の再読も必要となると思います。)


私は Quine 先生に大変影響を受けている人間です。先生の哲学から多くを学んできました。今回、私は師匠の胸を借りてけいこを付けてもらったつもりです。私の話には間違っていることも多々あると思います。それらが明らかになりましたら訂正させていただきます。Quine 先生のお考えについて、色々と否定的なことを書きましたが、他意はありませんのでお許しください。誤字、脱字などにもお詫び申し上げます。

*1:同時期に出版された次の論文にも件のセリフが出てきます。W. V. Quine, ''A Logistical Approach to the Ontological Problem,'' in his The Ways of Paradox and Other Essays, Revised and Enlarged Edition, Harvard University Press, 1976, the paper was first published in 1939. この ''A Logistical Approach to ...'' は ''Designation and Existence'' の長めの abstract です。当日記では2017年5月28日に ''A Logistical Approach to ...'' を論じています。

*2:''Designation and Existence,'' p. 708. この論文については、以下 'DE' と略記します。

*3:DE, p. 706.

*4:この話は、彼の ''On What There Is'' や Methods of Logic の諸版の後半部分で、しばしば語られている有名な話ですので、その内容の説明や出典情報は省きます。

*5:Willard V. O. Quine, ''Existence,'' in W. Yourgrau, A. D. Breck eds., Physics, Logic, and History, Plenum Press, 1970, p. 90.

*6:DE, pp. 706-707.

*7:DE, p. 707.

*8:DE, p. 708.

*9:Quine, ''A Logistical Approach to the Ontological Problem,'' pp. 197-199.

*10:W. V. Quine, ''Existence and Quantification,'' in his Ontological Relativity and Other Essays, Columbia University Press, 1969, p. 94.

*11:Quine, ''Existence and Quantification,'' p. 108.

*12:Quine, ''Existence,'' p. 90.

*13:Quine, ''Existence,'' pp. 91-92.

*14:DE, p. 703.

*15:DE, p. 707.

*16:Frege に存在量化子を表す単一記号がなかったのはよく知られていると思います。彼は普遍量化子に当たるものと否定記号の組み合わせで、存在量化子に相当する記号を考えていました。Begriffsschrift をご覧ください。

*17:Quine が大きく影響を受けている Russell や Carnap の論理学では、日常の言葉「ある (在る)」、「存在する」を copy して存在量化子を作っていたのかもしれません。このことについて私は未確認です。しかしそれでも Frege はそうではなかったという反例があることに変わりはありません。

*18:当日記、2017年6月8日の、次の文章「なお Quine はここで、存在することを変項の値であることと同一視し」から始まる段落を参照ください。

*19:当日記、2017年5月24日、項目 'Why Everything Exists' を参照。

2017-06-08 Why Quine Takes Existential Quantification to be ...

[] Why Quine Takes Existential Quantification to be Existentially Committing. Additional Materials.

前回の日記では、なぜ Quine は存在量化子を存在に関与するものと見なしていたのか、という疑問について、その答えと思われるものを若干記しました。

彼によると存在量化子がなぜ存在に関与しているのかと言うと、論理学の存在量化子が、存在に関して語っている日常言い回し「在る」、「存在する」を引き写す形で作られているからだ、ということだそうです。このことを、彼の ''A Logistical Approach to the Ontological Problem'' (1939年) という論文確認しました。これは、彼の論文 ''Designation and Existence'' (1939年) とともに、例の有名な 'To be is to be a value of a variable' というセリフが出てくる最初期の論文だと思われます

論理学の存在量化子が存在に関与しているのは、それが普段の言い回し「在る」、「存在する」を引き写すように作られたからだ、という Quine の主張ですが、このことを裏付ける彼の論文がその他にも見られましたので、ここで追加して記しておきます。(前回の日記でもそうでしたが、Quine の論文 ''On What There Is'' など、彼の From a Logical Point of View に載っている論文は、今回も便宜上 pass します。)


まず次です。

  • W. V. Quine  ''Existence and Quantification,'' in his Ontological Relativity and Other Essays, Columbia University Press, 1969.

Quine によると、たとえば「犬」という表現は、名前として使われた場合、犬という種を指しているとされることがあります。他方、その表現は名前ではなく、述語の一部として使われた場合には、それは個々の動物に当てはまるだけで、何も指していないとされます。言い換えると、表現「犬」を名前として使った場合は、犬という種類の対象を指しており、それを述語の一部「〜は犬である」として使った場合は、何も対象を指していない、ということです。

さて、このような話のあとに、Quine は次のように言います。試訳も付けておきます。誤訳しておりましたらお許しください。下線は引用者によるものです。以下同様です。

 An expression ''a'' may occur in a theory, we saw, with or without purporting to name an object. What clinches matters is rather the quantification ''(∃x)( x = a ).'' It is the existential quantifier, not the ''a'' itself, that carries existential import. This is just what existential quantification is for, of course. It is a logically regimented rendering of the ''there is'' idiom.*1


 見たように、表現「a」理論に現われることができる場合、その表現が対象を名指しているつもりの場合もあれば、そうでない場合もある。問題となっている事柄に対して決定的に重要なのは、むしろ量化「(∃x)( x = a )」である。存在の含意を担っているのは、存在量化子であって、「a」自身ではない。[存在の含意を担うという] このことのために存在量化はまさしくあるのだ、言うまでもない。それ [存在量化] は「ある (在る)」という言い回しを論理的に統制して表したものなのだ

下線部をご覧ください。Quine によると、論理学の存在量化子は、(日本語では) 「ある (在る)」という普段の言い回しを言い直したものなのだ、ということです。


同じ論文の中で、次のような発言も見られます。

 Existence is what existential quantification expresses. There are things of kind F if and only if (∃x)Fx. This is as unhelpful as it is undebatable, since it is how one explains the symbolic notation of quantification to begin with.*2


 存在とは、存在量化が表しているもののことである。 F という種類のものがあるのは、(∃x)Fx という時、かつその時に限る。この説明には異論はないが、それと同様、その説明では役にも立たない。なぜなら私たちがどのように量化の記号法をまず最初に説明されるのかと言うと、今述べたように説明されるからである。


[T]he existential quantifier, in the objectual sense, is given precisely the existential interpretation and no other: there are things which are thus and so.*3


存在量化子は、対象に直接かかわる読み方では、まさしく存在を含んだ解釈によって与えられるのであって、それ以外ではない。その量化子は、かくかくしかじかのものがある、と読まれるのである。


[O]bjectual existential quantification was devised outright for ''there is.''*4


対象に直接かかわる読み方のもとでの存在量化は、まったくもって「ある (在る)」という言葉のために考え出されたのだ。

直前の引用文でも、論理学の存在量化子は、普段の「ある (在る)」という言い方のために案出されたのだ、と Quine は述べています。


次に、

  • Willard V. O. Quine  ''Existence,'' in W. Yourgrau, A. D. Breck eds., Physics, Logic, and History, Plenum Press, 1970,

です。

 We have the modern logic of quantification to thank for making evident the existential force of the variable. The existential quantifier ''(∃x)'' is the distilled essence of existential talk. All imputations of existence can be put as existential quantifications.*5


 我々には量化の現代的な論理学がある。そのおかげで変項に存在関与の力があることが、明らかにされている。存在量化子「(∃x)」は、存在についての語り口から抽出してきたエッセンスなのである。 存在に関して帰せられることのすべては、存在量化として言い表すことができるのだ。

下線部は、もうそのままですね。


以下も同じ論文からの引用です。

[T]he quantifier ''(∃x)'' is meant to mean precisely ''there is something x such that.''*6


量化子「(∃x)」は、まさに「〜というような、何らかの x がある」を意味するものとされているのである。

論理学の存在量化子は、日常の「しかじかというようなものがある」という言い方で意味していることを、同じように意味するよう意図されているということです。


なお Quine はここで、存在することを変項の値であることと同一視し (equating existence with the value of variables)*7、存在することに level や濃淡、種類を設けず、存在するということを一義的かつ最広義に取っているのですが *8、Quine は、私によるこのような存在の説明を本気で拒否する人がいるなんて、ほとんど想像できない、と言っており*9反論があるならそれは誤解に依るのだ、とも述べ*10、自説をちゃんと読み、存在量化子が意味していることを振り返れば、自説の正しさは明らかであり、よほどのことでもなければ、それはあまりにも明らかすぎて、あらためて説明する価値もないだろう、という主旨のことを言っています*11


最後にもう一つ。

Quantification is an ontic idiom par excellence, [...]*12


量化は、存在に関与する言い回しのなかでも一段と優れて存在関与的な言い回しなのである。


普段の言い回し「在る」、「存在する」は、これらの語の主語となっているものについて、話者が本気でそれを「存在する」と言って主張するならば、それらの語は存在に関与していると言えるでしょう。ところで上で見たごとく、Quine によると論理学の存在量化子は、これらの普段の言い回し「在る」、「存在する」を、copy するようにして作られました。ゆえに論理学の存在量化子も存在に関与しているのだ、ということになります。これが Quine の考えだと思われます。このようなわけで、Quine にとっての存在量化子は、存在に関与しているのだろうと思われます。


前回の日記では、Quine の論文 ''A Logistical Approach to the Ontological Problem'' (1939年) を通じ、なぜ彼が存在量化子を存在に関与するものと見なしていたのか、という疑問を調べてみました。その答えは、論理学の存在量化子は、存在に関して語っている日常の言い回し「在る」、「存在する」を copy するようにして作られたからだ、というものでした。今回取り上げた彼の論文は1960年代終わり頃から1970年にかけての論文ですが、彼の career の後半においても、初期の1939年頃と同様の見解を保持していたことがわかります。


以上の Quine の考えについて、可能ならば最低でもあと一回、この日記で私の感じているところを記したいと思います。可能であればであって、できるかどうかはわかりません。ここまで、至らない記述がありましたらお許しください。誤訳もお許しください。

*1:''Existence and Quantification,'' p. 94.

*2:''Existence and Quantification,'' p. 97.

*3:''Existence and Quantification,'' p. 106.

*4:''Existence and Quantification,'' p. 108.

*5:''Existence,'' p. 90.

*6:''Existence,'' pp. 91-92.

*7:''Existence,'' p. 91

*8:''Existence,'' p. 91.

*9:''It is hard to picture anyone deliberately rejecting this account,'' (''Existence,'' p. 91.)

*10:''Such objections as I have noticed turn on misunderstandings.'' (''Existence,'' p. 92.)

*11:''The doctrine must, I say, be obvious to anyone who reads it right and reflects how the existential quantifier is meant. It would seem too obvious to be worth propounding, were it not for the surprising and glaring cases of the need of it.'' (''Existence,'' p. 92.)

*12:''Existence,'' p. 92.

2017-05-28 Why Quine Takes Existential Quantification to be ...

[] Why Quine Takes Existential Quantification to be Existentially Committing.

意外に思ったことで、なおかつ私には残念に思ってしまったことを記します。

先日、次の本

  • Graham Priest  Towards Non-Being, Second Edition, Oxford University Press, 2016

を拾い読みしていましたら、Priest 先生がこの本の Chapter 18: How the Particular Quantifier Became Existentially Loaded Behind our Backs, Section 18.3.5: Quine の中で、Quine は彼の論文 ''On What There Is'' (1948) において、existential quantifier が existentially committing である理由をまったく論証していない、と言って批判しておられました。そのように述べておられる部分を引用してみます。先生による註は省いて引きます。試訳も付けておきます。誤訳しておりましたらお許しください。

Quine argues that the use of names and predicates is not existentially committing; but there is absolutely no argument given as to why quantification is existentially committing. Quine simply assumes that the domain of quantification comprises existent objects − or what comes to the same thing, that the particular quantifier [the existential quantifier] is to be read as 'there is (exists)'. So if neither names, nor predicates, nor quantifiers are ontologically committing, what is? To say that something exists, of course! Quine, one might say, is one of those philosophers who have united in ruining the good old word 'exist'. At any rate, If Russell used bad arguments for the view [that the existential quantifier is existentially committing], Quine uses none at all.*1


名前と述語を使うことでは存在に関与しないと Quine は主張している。しかしなぜ量化が存在に関与するのかについての論証は、まったく与えられていない。量化の領域は存在する対象から成ると Quine は単に想定しているだけなのである。− あるいは同じことになるが、特称量化子 [存在量化子] は「在る (存在する)」と読まれるべきだと想定しているにすぎないのである。そうだとすると、名前も述語も量化子も存在論的に関与しないのならば、何によってならば関与するのだろう? もちろん、何かが存在すると言うことによってだ! Quine は、古き良き語「存在する」をみんなで結束して駄目にしようとしてきた哲学者たちのうちの一人であると、人は言うことだろう。いずれにせよ、Russell は [存在量化子が存在に関与しているという] 件の見解擁護する、まずい論証を利用してみせたとしても、Quine はその種の論証をそもそもまったくしてみせてもいないのだ。

もしかすると Priest 先生のおっしゃるとおり、''On What There Is'' では existential quantifier が existentially committing である根拠が論証されていないのかもしれません。そのことを確認する余裕が今の私にはないので、先生のおっしゃるとおりだとしてみましょう。ただ、そうだとしても、Quine が件の論証を生涯で一度もしていないとは言い切れないかもしれません。

たとえば、''On What There Is'' が書かれた後では Lejewski, Marcus さんたちと Quine は ontological commitment/substitutional quantification の議論をしていたことが思い出されます。これはよく知られた話だと思います*2。その際に件の論証を展開していた可能性はないではありません。

''On What There Is'' が書かれる前では Lesniewski と Quine が ontological commitment, あるいは substitutional quantification らしき事柄について議論していたことが思い出されます。これはそれほど知られてはいないかもしれません*3

本当に Lesniewski, Lejewski, Marcus さんたちに Quine が existential quantifier について、それが existentially committing である根拠を論証していたのかどうか、これも確認する余裕が今の私にはありませんので、その確認は今後の課題にします。

ともあれ Priest 先生は、Quine が ''On What There Is'' で、existential quantifier について、それが existentially committing である根拠を論証していないと言って批判しておられ、さらには、私の印象では、生涯に一度もその論証を Quine は展開していないかのように先生は述べておられるように見受けられます (少なくとも今回取り上げている先生の本の Chapter 18 を全部読んでみたかぎりではそう見受けられます)。しかし、先日たまたまのことだったのですが、''On What There Is'' が書かれる前に Quine が問題の論証らしきものを展開しているように見える文献を見かけましたので、ここで紹介しておきたいと思います。

ただし、私が見かけたその文献では、私の読んだ感じからすると、問題の論証が十分展開されているというほどではなく、実際にはその件に関し軽く触れられている程度です。十分な論証とは言えないかもしれません。しかもその論証らしきものを提示している際の Quine による根拠は、Priest 先生に利するものであり、Quine にとって不利なものとなっているように思われます。

いずれにしても、existential quantifier が existentially committing である根拠を Quine が、通りすがりではあれ、明示的に言及している個所として、以下に紹介する文章は大変興味深いと思います。私は読んでみて、実は言うと、結構意外に思いました。そしてかなりがっかりしてしまいました。以前から「なぜ Quine は existential quantifier を existentially committing であると強固に見なしていたのか? その根拠は一体何だったのか?」という疑問を感じておりました。以下にその答えが手短に書いてあります。

  • W. V. Quine  ''A Logistical Approach to the Ontological Problem,'' in his The Ways of Paradox and Other Essays, Revised and Enlarged Edition, Harvard University Press, 1976, the paper was first published in 1939.*4

長くなりますがとても興味深い文章なので引用してみます。そして試訳を付けてみます。誤訳しておりましたらお許しください。註は引用者によるものです。そして下線を引いた部分が問題の答えです。下線も引用者によります。

A Logistical Approach to the Ontological Problem


What does it mean to ask, e.g., whether there is such an entity as roundness? Note that we can use the word 'roundness' without acknowledging any such entity. We can maintain that the word is syncategorematic, like prepositions, conjunctions, articles, commas etc.: that though it occurs as an essential part of various meaningful sentences it is not a name of anything. To ask whether there is such an entity as roundness is thus not to question the meaningfulness of 'roundness'; it amounts rather to asking whether this word is a name or a syncategorematic expression.

Ontological questions can be transformed, in this superficial way, into linguistic questions regarding the boundary between names and syncategorematic expressions. Now where, in fact, does this boundary fall? The answer is to be found, I think, by turning our attention to variables. If in the statement:


(1) Pebbles have roundness


the word 'roundness' is regarded as a merely syncategorematic fragment of its context, like 'have' or indeed 'bles' or 'ness', then the truth of (1) does not entitle us to infer:


Pebbles have something,


i.e.:


(2) (∃x)(pebbles have x).


Where 'have' is understood as in the context 'have roundness', and 'roundness' is understood syncategorematically, the use of the variable 'x' after 'have' as in (2) would be simply ungrammatical - like its use after 'peb' in:


(∃x)(pebx have roundness).


 Variables are pronouns, and make sense only in positions which are available to names. Thus it would seem that admission of the inference of (2) from (1) is tantamount to recognizing 'roundness' as a name rather than a syncategorematic expression; tantamount, in other words, to recognizing an entity roundness.

 The same conclusion can be reached through less explicitly syntactical channels. (2) says that there is an entity which pebbles ''have''; hence, if we allow ourselves to infer (2) from (1), we have countenanced an entity roundness and construed (1) as saying that pebbles ''have'' it. Some may protest, however, that the quantifier '(∃x)' in (2) says nothing of entities nor of existence; that the meaning of so-called existential quantification is completely described merely by the logical rules which govern it. Now I grant that the meaning of quantification is covered by the logical rules; but the meaning which those rules determine is still that which ordinary usage accords to the idioms 'there is an entity such that', 'an entity exists such that', etc. Such conformity was the logistician's objective when he codified quantification; existential quantification was designed for the role of those common idioms. It is in just this usual sense of 'there is' that we mean to inquire whether there is such an entity as roundness; and it [is] in just this sense that an affirmative answer is implicit in the inference of (2) from (1).

 We seem to have found a formal basis for distinguishing names from syncategorematic expression. To say that 'roundness' is a name, i.e., that there is such an entity as roundness, is to say that from a context '... roundness ...' we may infer '(∃x)( ... x ... )'. But if such inferences are valid, then in particular from a negative context '~( ... roundness ... )' it will be valid to infer '(∃x)~( ... x ... )', i.e., '~(x)( ... x ... )'; wherefore, by contraposition, it will be valid conversely to infer '... roundness ...' from '(x)( ... x ... )'. The law whereby the existential statement follows from the singular is indeed equivalent to the law whereby the singular follows from the universal.

 It thus appears suitable to describe names simply as those constant expressions which replace variables and are replaced by variables according to the usual laws of quantification. Other meaningful expressions (other expressions capable of occurring in statements) are syncategorematic. It is to names, in this sense, that the words 'There is such an entity as' may truthfully be prefixed. Elliptically stated: We may be said to countenance such and such an entity if and only if we regard the range of our variables as including such an entity. To be is to be a value of a variable.*5


存在論的問題に対する論理学アプローチ


たとえば丸さのような存在者*6があるのかどうかを尋ねることは、何を意味しているのだろうか? 注意すべきは、語「丸さ」は、何らそのような存在者を認めずとも使うことができる、ということである。私たちはその語を共義的*7であると主張できる。それは、前置詞、接続詞、冠詞コンマなどのようにである。つまりそれは意味を持った様々な文の不可欠な一部として現れるが、何の名前でもない、ということである。こうして、丸さのようなものがあるのかどうかを尋ねることは、「丸さ」が意味を持っているのかを問うことではないのである。むしろ、それはこの語が名前であるのか、または共義的表現であるのかどうかを尋ねることに当たるのである。

 このように外面から見るならば、存在論的問題を、名前と共義的表現との間の境界線に関する言語の問題に変形することができる。では実際に、その境界線はどこに引かれるのだろうか? 私が思うに、その答えは変項に注意を向ければ見つかるのである。もしも言明


(1) 小石は丸さを持っている


において、語「丸さ」をその文脈の単なる共義的断片と見なすならば、それは「持っている」や、それどころか「小」、「さ」のようになのだ*8、そのときには、(1) が真理だとしても、


小石は何かを持っている


すなわち、


(2) (∃x)(小石は x を持っている)


を推論する資格は私たちにはない。「持っている」を文脈「丸さを持っている」のなかにあるものとして理解し、「丸さ」を共義的に理解する場合には、(2) におけるような「持っている」の前で変項「x」を使うことは、単に非文法的なことだろう。それは、


(∃x)( x 石は丸さを持っている)


において、「石」の前でそれを使うようにである。

 変項は代名詞であり、名前が利用される位置においてのみ理解される。こうして (1) から (2) への推論を承認することは、「丸さ」を共義的表現であるよりも、名前として認めることに相当するのであり、言いかえると、存在者丸さを認めることに相当するのである。

 同じ結論には、あまり明示的ではない統語論的経路を通って到達することもできる。(2) は小石が「持っている」存在者があることを言っている。それ故、もしも (1) から (2) へ推論することが許されるならば、私たちは存在者丸さを是認しているのであり、(1) は小石がそれを「持っている」と言っているものとして解しているのである。しかしながら、(2) における量化子「(∃x)」は、存在者についても存在についても何も言っていない、と言って異議を唱える人がいるかもしれない。つまり、いわゆる存在量化と呼ばれるものの意味は、それを統制する論理規則によってのみ、完全に記述されるのだ、と言うのである。よろしい、量化の意味は論理規則によってカバーされることを、私は認めることにしよう。しかしその規則が規定する意味とは依然として、日常の語法によって語句「であるような存在者がある」、「であるような存在者が存在する」などに与えているもののことなのである。このように [論理規則の意味と日常の語句の意味を] 合致させることを、論理学者は量化を制定した際に、目指していたのである。存在量化とは、今述べた日常の語句の役割を果たすために作られたのである。「ある [在る]」についてのまさにこの普段の意味で、丸さのような存在者があるのかどうかを私たちは探究しようとしているのであり、まさにこの意味で、肯定的な答えが (1) から (2) への推論のなかに、暗に含まれているのである。

 私たちは名前を共義的表現から区別する形式的な基礎を見つけたようである。「丸さ」は名前であると言うことは、すなわち丸さのような存在者があると言うことは、文脈「... 丸さ ...」から「(∃x)( ... x ... )」を推論してよいと言うことである。しかしもしそのような推論が妥当なら、そのときにはとりわけ否定的文脈「〜( ... 丸さ ... )」から「(∃x)〜( ... x ... )」を、すなわち「〜(x)( ... x ... )」を推論することは妥当となるだろう。それ故、対偶を取れば、逆に「(x)( ... x ... )」から「... 丸さ ...」を推論することは妥当となるだろう*9単称言明から存在言明が出てくるという法則は、普遍言明から単称言明が出てくるという法則に、実際同値なのである。

 こうして、量化の通常の法則に従って変項に取って代わり、かつ取って代わられる単なる定項表現として、名前を記述するのがちょうどいいだろう。意味を持っている他の表現 (言明に現れることのできる他の表現) は共義的である。この意味で、名前に対し、語句「のような存在者がある」を、真理を問うことのできる形で後置できるのである。手短に言えば、私たちがしかじかの存在者を是認していると言われてよいのは、私たちの変項の範囲に、そのような存在者を私たちが含めると見なすとき、かつそのときに限る、ということである。つまり、あるとは、変項の値であることなのである。


ここからは、Quine の文章に対する私の感想を述べてみます。

さて、なぜ Quine は existential quantifier を existentially committing であると見なしたのでしょうか? その根拠は何だったのでしょうか? この答えとなっている部分をもう一度引用してみます。

Some may protest, however, that the quantifier '(∃x)' in (2) says nothing of entities nor of existence; that the meaning of so-called existential quantification is completely described merely by the logical rules which govern it. Now I grant that the meaning of quantification is covered by the logical rules; but the meaning which those rules determine is still that which ordinary usage accords to the idioms 'there is an entity such that', 'an entity exists such that', etc. Such conformity was the logistician's objective when he codified quantification; existential quantification was designed for the role of those common idioms.


しかしながら、(2) における量化子「(∃x)」は、存在者についても存在についても何も言っていない、と言って異議を唱える人がいるかもしれない。つまり、いわゆる存在量化と呼ばれるものの意味は、それを統制する論理規則によってのみ、完全に記述されるのだ、と言うのである。よろしい、量化の意味は論理規則によってカバーされることを、私は認めることにしよう。しかしその規則が規定する意味とは依然として、日常の語法によって語句「であるような存在者がある」、「であるような存在者が存在する」などに与えているもののことなのである。このように [論理規則の意味と日常の語句の意味を] 合致させることを、論理学者は量化を制定した際に、目指していたのである。存在量化とは、今述べた日常の語句の役割を果たすために作られたのである。

Quine はなぜ existential quantifier を existentially committing であると見なしたのかと言うと、existential quantifier を日常の語句である 'there is an entity such that', 'an entity exists such that' という言葉のために作った (was designed for) からだ、あるいはそれらの言葉に合わせて/それらの言葉に向けて/それらの言葉用に作ったからだ、ということです。

つまり、Quine にとって existential quantifier は、日本語で言えば「ある (在る)」、「存在する」という普段の言葉のいわば copy というわけです。「ある (在る)」、「存在する」という日常の言葉は存在への commitment を持っており、かつその日常の言葉の copy である existential quantifier は存在への commitment をそのまま引き継いでいるというわけです。どおりで existential quantifier が存在に commit するわけです。Quine にとって、なぜ論理学の記号の一つである existential quantifier が existentially committing なのかと言うと、それは「ある (在る)」、「存在する」という日常の言葉を論理学の人工的な記号で単に表しているから、というわけです。すごく simple ですね。もっと深いいみがあるのかと思っていましたが、そうではないようです。意外です。そしてちょっと残念に思いました。あまりに simple すぎるように感じられるからです。単に日常の言葉に合わせて作ったから existential quantifier は existential import を持つのだ、ということのようです。

以上のとおりだとすると、疑問がわいてきます。次がそれです。

Quine にとって、'there is an entity such that', 'an entity exists such that' という日常の言葉がまずあり、これらの言葉のいみを彼がくみ取って existential quantifier を作っているのだとするならば、それらの言葉のいみを彼は正確にくみ取れているのか、十分にくみ取れているのか、くみ取ったいみをつつがなく existential quantifier として定式化できているのか、例の言葉から彼がくみ取ったいみは誰にでもうなずくことのできるものなのか、彼がくみ取らず捨象してしまったいみのうちにも existential quantifier の rule として反映させるべきものがあったのではないのか。もしそうならば、既存の existential quantifier 以外に類似の quantifier が必要ではないのか。たとえば material implication 以外に strict implication や relevance/relevant implication があるように、existential quantifier にも、似ているがしかし違った特徴を持った quantifier を設定する必要はないのか*10。もしも設定する必要があるならば、strict implication から modal logic が生まれたように、あるいは relevance/relevant implication から relevance/relevant logic が生まれたように、新たな quantifier によって新たな logic を創出する必要はないのか。

これらの疑問がすぐに心に浮かびます。ですが、その答えはすぐには心に浮かんでこないので、またはただちに浮かんでくる答えでも、それが正しい答えだとは、すぐには判断が付かないので、上の疑問文を疑問文のまま置いておきます。

この日記の冒頭で、Priest 先生は述べておられました。すなわち、Quine が existential quantification を existentially committing としているのは、彼がただそう想定しているだけのことであり、Quine が existential quantifier を 'there is (exists)' と読むのは、彼がただそうすべきだと言っているだけのことであって、existential quantification を existentially committing とすることにも、existential quantifier を 'there is (exists)' と読むことにも Quine は根拠を上げて論証していない、と。これに対する Quine からの反論としては、日常語 'there is an entity such that' を copy するようにして existential quantifier を作っているのだから、そうなるのが当然だ、というものが考えられます。確かに、これは一つの根拠だろうと思います。しかし、Priest 先生は再反論を加えて「それでは実質的にただ想定しているだけであるのと変わりがない」と述べられるかもしれません。私もそう思います。

Quine によると、existential quantifier は日常語 'there is an entity such that', 'an entity exists such that' を copy するようにして作った (was designed for) のだそうです。Quine にとって existential quantifier が existentially committing なのは、もっと深くて複雑な理由がそこには隠されているのだろうと私は思い込んできましたが、どうやらそうではないようで、意外です。少なくとも Quine の論文 ''A Logistical Approach ... '' に関するかぎりでは、全然事情は深くもなく複雑でもないと思われます。生涯に渡ってこのような simple な理由を Quine は堅持し続けたのか、あるいはこれ以外に深くて複雑な理由があったのか、それは私にとって今後明らかにして行くべき課題ですが、existential quantifier が existentially committing なのは、以上のようなごく simple な理由しかない場合には、理論談話にとって、存在するということを、その理論や談話の束縛変項の値と見なすという Quine による基準は、再考が必要であるように私には感じられました。

以上です。誤解しているなど、至らない点がありましたらお許しください。よく読み返していないので、英単語の誤字、誤記があるかもしれません。その場合もお許しください。

*1:Priest, p. 340.

*2:どこで議論していたかはお調べいただければ、たぶんすぐにそれに関する彼ら/彼女らの文献が見つかると思いますので、ここではその文献名を上げることは控えます。

*3:一応、文献情報を記しておきます。W. V. Quine, The Time of My Life: An Autobiography, The MIT Press, 1985, p. 104. ''With Leśniewski I would argue far into the night, trying to convince him that his system of logic did not avoid, as he supposed, the assuming of abstract objects. Ontology was much on my mind.'' なおここで言う 'Ontology' とは Lesniewski の開発した三つの体系である Protothetic, Ontology, Mereology の Ontology のことではたぶんなく、単に存在に関する学問のことを言っているものと思われます。夜遅くまで行われた彼らの議論は1933年5月の Warsaw でのことでした。および次の文献も参照。W. V. Quine, ''Existence and Quantification,'' in his Ontological Relativity and Other Essays, Columbia University Press, 1969, pp. 105-106, and P. 106, n. 9.

*4:この論文は、Quine の次の論文の長めの abstract です。Willard V. Quine, ''Designation and Existence,'' in: The Journal of Philosophy, vol. 36, no. 26, 1939. ''Designation and Existence'' も読んでみましたが、同じテーマを扱っているものの、''A Logistical Approach to the Ontological Problem'' とはかなり印象を異にします。Quine にとってなぜ existential quantifier が existentially committing であるのかについては、''A Logistical Approach ...'' のほうが直截、かつ簡明にその理由が述べられているように思われます。そのため、''Designation and Existence'' については今回その内容には触れません。

*5:Quine, ''A Logistical Approach to the Ontological Problem,'' pp. 197-199.

*6:'entity' を「存在者」と訳しました。Quine はここでは存在しているもののことを 'entity' と言っているので、'entity' を「対象」、「もの」と訳すよりも「存在者」と訳したほうがよいと判断しました。

*7:「共義的 (syncategorematic)」は「共義語 (syncategorematic word/term, syncategoremata)」という言葉でも使われます。西欧中世の論理学者が主に関心を持っていた定言命題典型は、二語からなる文で、そのうちの一つが主語、もう一つが述語でした。たとえば英語で言えば 'Socrates runs' です。もっぱら主語で使われるか、または述語で使われる語はどれも自義語/独義語 (categorematic word) として分類され、それ以外の語はすべて共義語に分類されました。この共義語は、定言命題であれ仮言命題であれ、一つの命題に現われる語で、正しく組み合わされた自義語の組の中に出てきます。たとえば英語で言えば 'Socrates runs slowly' の 'slowly' がそうです。語はどれも自義語か共義語に分類され、どちらにも分類されないというような語はないとされていたようです。品詞上、自義語に分類されていたのは、一般名詞固有名詞形容詞人称代名詞、指示代名詞助動詞を除いた動詞でした。共義語はそれら以外のすべてでした。たとえば、接続詞副詞、前置詞です。ここまでの自義語、共義語の説明は、次に出てくる文章を大体そのまま翻訳したものです。Norman Kretzmann, ''Syncategoremata, Exponibilia, Sophismata,'' in Norman Kretzmann et al. eds., The Cambridge History of Later Medieval Philosophy, Cambridge University Press, 1982, pp. 211-212. 自義語の典型である名詞は何かを指しているように見えます。共義語の典型である前置詞は何も指していないように見えます。たとえば 'the hut of Mary' では、'Mary' が Mary を指しているようであり、彼女とあいさつして握手したりすることができますが、'of' は何も指していないように見え、もちろんあいさつしたり触ったりはできません。しかしそのような 'of' でも、何ら意味がなく不要な語かと言えばそうではなく、ちゃんと意味があって先の語句では不可欠の要素です。このように 'of' のような共義語は、それが指している存在者はないようですが、それでもちゃんと意味があって問題なく使うことができている語です。語「丸さ」が共義語だとすると、この語が指している存在者がなくても、問題なく使うことができる語だ、と Quine はここで言っているようです。

*8:語「小石」は「小」と「石」が不可分にひとまとまりになった語だとし、分離すると各部分「小」、「石」は意味をなさないとすると、「小石」のうちの「小」も「石」も共義的断片です。同様に語「丸さ」の部分である「丸」も「さ」もそれぞれ共義的断片です。語「持っている」が共義的断片だというのは、たぶんですがこの語は何かを指しているように見えますが、小石が丸さなるものを手に取って握るようにして持っているなどということはありえませんので、「持っている」という語は実際には何も指しておらず、そのため自義語のように見えながら実のところ共義語に分類され得ると思われます。このようなわけで語「持っている」は共義的断片と言われているのではないかと思われます。誤解しておりましたらすみません

*9:文脈「... 丸さ ...」から「(∃x)( ... x ... )」への推論は一般妥当です。とりわけ否定的文脈「〜( ... 丸さ ... )」から「(∃x)〜( ... x ... )」への推論は妥当です。すると「(∃x)〜( ... x ... )」は「〜(x)( ... x ... )」と同値ですから、「(∃x)〜( ... x ... )」から「〜(x)( ... x ... )」を推論することは妥当です。こうして否定的文脈「〜( ... 丸さ ... )」ならば「〜(x)( ... x ... )」です。そこでこの対偶を取れば、「〜〜(x)( ... x ... )」ならば「〜〜( ... 丸さ ... )」です。この条件文の前件と後件の二重否定を除去すれば「(x)( ... x ... )」ならば「... 丸さ ...」です。

*10:Priest 先生の the particular quantifier が、そうした新たな quantifier の候補と考えられます。

2017-05-24 Why Everything Exists.

[] Why Everything Exists.

ちょっと意外に思ったことを一つ記します

分析哲学を学んだかたなら、次の論文

の冒頭部分を目にしたことがあると思います。引用してみましょう。

 A curious thing about the ontological problem is its simplicity. It can be put in three Anglo-Saxon monosyllables: 'What is there?' It can be answered, moreover, in a word - 'Everything' - and everyone will accept this answer as true.*1


 存在論問題に関して不思議なことのひとつは、その単純さである。この問題は、「なにがあるのか」というごくありふれた言葉だけから成る問いの形で表現できる。それだけでなく、この問いにはただ一語 − 「すべて」 − で答えることができ、だれもがこの答えを正しいと認めるだろう。*2

「なにがあるのか」と問われて「すべてが、すべてのもの存在する (Everything exists) 」と答えれば、まったくそのとおりであり、当たり前のことであって、自明なことのように思われます。上記引用文を読んだかたの多くがそうだと思うのですが、私も今の質問の答えは自明すぎて「それはそうだ、当然だ」と感じました。

いかえると、「すべてのものがある、すべてのものが存在する」という文の正しさはあまりに自明なので、この文のみでその正しさは言い尽くされており、この文とは別に、この文の正しさを立証する根拠が他にあるとは思ったことがありませんでした。多くのかたも同様ではないでしょうか? 実際、Quine は上記の引用文に続いて次のように言っています。

However, this is merely to say that there is what there is.*3


しかしながら、そう言うことはただ、あるものがあると言うだけのことである。*4

「すべてのものがある、すべてのものが存在する」と言うことは、「あるものがある」という同語反復のような自明の真理であると、Quine は見ていたように思われます。

ところが先日、次の論文を読み直していて、

  • Czeslaw Lejewski  ''Logic and Existence,'' in: The British Journal for the Philosophy of Science, vol. 5, no. 18, 1954, reprinted in Jan T. J. Srzednicki et al. eds., Lesniewski's Systems: Ontology and Mereology, Martinus Nijhoff, 1984,

この論文の出だし、journal では p. 105, 再録されている本では p. 46 のところを読んでいましたら、意外なことを教えられました。「すべてのものが存在する」という Quine の有名なこの言葉は、この文だけで正しいものだと思っていたのですが、Quine 本人はこの文が別の文からの帰結であると考えていたようです。別の文が正しいがゆえに「すべてのものが存在する」という文も正しくなるのだ、と考えていたようなのです*5

このことを立証する文章を Quine はある自著で記しています。次がそうです。

  • W. V. Quine  Mathematical Logic, Revised ed., Harvard University Press, 1951, (1st ed. published in 1940.)

該当個所を引用してみましょう*6。試訳も付けます。誤訳しておりましたらお許しください。Italics は原文にあるものです。

 To say that something does not exist, or that there is something which is not, is clearly a contradiction in terms; hence '(x)( x exists )' must be true.*7


あるもの存在しないと言うことは、あるいは、ないものがあると言うことは、言葉の上で明らかに矛盾である。故に '(x)( x は存在する )' は真でなければならない。

'(x)( x は存在する )' は、「すべてのものが存在する」と読まれます。

念のために、どうして「ないものがある」から '(x)( x は存在する ),' すなわち「すべてのものが存在する」が出てくるのかを説明しておきます。

「ないものがある」、または「存在しないものが存在する」という文を、英語を交えて古典論理記号で一部言いかえてみますと、まず


  • [1] (∃x)( x does not exist )

となります。これは、x は存在しないものであって (x does not exist)、そういう x が存在する ( (∃x) )、ということです。次に、上の英文交じりの式 [1] には否定語 (not) が含まれています。これも古典論理の否定記号 (¬) で書きかえることができますので、そのようにしてみますと、


  • [2] (∃x)¬( x exists )

です。これは、x は存在する (x exists) のではない (¬) という、そういう x が存在する ( (∃x) )、ということです。つまり、存在しないようなもの x が存在する、ということです。これについて Quine は言葉の上でそれは矛盾しており間違っていると考え、それを否定しています。ですから、すぐ上の式 [2] を否定したものが正しいということです。そのようにしますと、


  • [3] ¬(∃x)¬( x exists )

となります。

ところで、「⇔」を同値記号/必要十分条件の記号とし、F を任意の述語とすると、一般


  • [4] (∀x)(Fx) ⇔ ¬(∃x)¬(Fx)

が成り立ちます。念のためにこの式の右辺を読んでみると、「x が F でないような、そういう x はない」ということであり、これはつまり「どんな x も F である」ということで、この後者は上の式 [4] の左辺になっています。

さてそうすると、先の [3] は [4] に従って、次のように書きかえられます。


  • [5] (∀x)( x exists ).

これは上記 Quine の引用文中の '(x) ( x exists )' の現代表記に他なりません。つまり「すべてのものが存在する」です。

こうして「すべてのものが存在する」という文 [5] は、「存在しないものが存在する」という文 [1] が間違っている [3] ということを根拠に出てきました。「すべてのものが存在する」という、''On What There Is'' (「なにがあるのかについて」) の冒頭の有名な文は、「存在しないものが存在する」という文は間違っている、という別の文を元にして出てきているということです。「すべてのものが存在する」という文の正しさは、それ単独で自明である故に正しいとされているのではなく、別の文に依存するような形で主張されているのです。

さて、その別の文とは、[3] ¬(∃x)¬( x exists ) (存在しないものが存在する、ということはない) というものでした。これが正しいが故に「すべてのものが存在する」[5] と言われていると思われます。そうすると、文 [5] が正しいと言えるためには、[3] すなわち


  • [6] 存在しないものが存在する、ということはない

という文が正しいと言えなくてはなりません。少なくとも Quine の理路からすると、そうです。そして私たちもそれに同意すると思います。

しかし、ここでちょっと立ち止まって考えてみたいのですが、[6] 「存在しないものが存在する、ということはない」という今の文の前半「存在しないものが存在する」という文と、ほとんど同じことを言っていると思われる次の文を見てください。


  • [7] 存在しないものがある。

「存在しないものが存在する」という文を見たとき、おそらく誰もが Quine とともにすぐさま「矛盾している」と言うのではないでしょうか? しかし上の文 [7] 「存在しないものがある」と言われたとき、すぐさま「矛盾している」と誰もが言うでしょうか? もちろんそう言うかたもいると思いますが、むしろ「そうだね、存在しないものと言えば、Sherlock Holmes はいないし、Pegasus も存在しないよね、存在しないものは案外いろいろあるものだ」などと言うことが多いのではないでしょうか? ですから [7] を [6] のように否定した文


  • [8] 存在しないものがある、ということはない

と言われれば、「ちょっと待ってほしい、それは間違っているのではないか? Holmes は存在しないし、Pegasus だって存在しない、存在しないものはあるよ、だから今の [8] は間違っている」と言う人も結構いるのではないでしょうか?

[3] ¬(∃x)¬( x exists ) の読みを [6] 「存在しないものが存在する、ということはない」とするのではなく、[8] とするならば、[8] は私たちの日常的な感覚から間違っているとも思われるので、その場合には [8] は否定されねばなりません。そのとき [3] も否定されることになりますので、そのようにすると、


  • [9] ¬¬(∃x)¬( x exists )

であり、この式の二重否定を肯定として除去すると、


  • [10] (∃x)¬( x exists )

となります。つまり「存在しないものがある」ということです。これは私たちの日常的な感覚に合った主張と思われます。

ところで一般に次が成り立ちます。


  • [11] (∃x)¬(Fx) ⇔ ¬(∀x)(Fx).

この [11] に従って [10] を書きかえてやると、


  • [12] ¬(∀x)( x exists )

であり、「すべてのものが存在するというわけではない」となります。これも私たちの日常の感覚に合っていると思われます。そしてこの式をよく見ると、それは問題の Quine の論文冒頭の主張「すべてのものが存在する」([5] (∀x)( x exists ) ) の否定に他ならないことがわかります。


私たちは Quine の主張「すべてのものが存在する」([5] (∀x)( x exists ) ) を自明の真理で当然成り立つものと考えました。そしてこの主張は、実はある別の式 [3] ¬(∃x)¬( x exists ) から帰結することによって、正しいとされていることがわかりました。確かに [3] を [6]「存在しないものが存在する、ということはない」と読めば、「すべてのものが存在する」という Quine の主張は帰結します。しかし [3] を [8]「存在しないものがある、ということはない」と読めば Quine の「すべてのものが存在する」という主張は帰結しないように思われます*8

こうして問題は、式 [3] ¬(∃x)¬( x exists ) をどう読むか、そしてその読みのどれが成り立つと考えるかにかかっていることがわかります。つまり Quine の主張「すべてのものが存在する」は、実はそれほど自明ではなく、この主張が因って立つ根拠をどう考えるかによって、Quine の主張は正しいとも言えるし、正しくないとも言える、ということです。

「すべてのものが存在する」という、一見自明に見えながら意外にもそうとは言えないと思われるこの主張については、その因って立つ根拠をどう読み取るか、そしてその読みを正しいと考えるかどうかが重要だと思われます。ではどの読みが正しいのでしょうか? これはとても難しい問題です。私には現時点で何とも言えません。この疑問は開かれたまま、置いておきたいと思います。


以上で終わります。至らないところがありましたら、お許しください。

*1:Quine, ''On What There Is,'' p. 1.

*2:クワイン、「なにがあるのかについて」、1ページ。

*3:Quine, loc. cit.

*4:クワイン、同上。

*5:2017年5月28日追記: 既に類似の指摘があるのを見かけたので記しておきます。Toshiharu Waragai, ''Ontological Burden of Grammatical Gategories,'' in: Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol. 5, no. 4, 1979, p.37.

*6:ここでは名前記述句に書き換える利点が述べられています。名前を記述句に書き換えるならば、指示対象を持たない名前を使って、その名前の指しているものはないと、自家撞着に陥ることなく語ることができる、という話なのですが、そこで出てくるのが以下の文章です。

*7:Quine, Mathematical Logic, p. 150.

*8:あるいは、偽からは何でも導き出せる (ex falso quodlibert) とすれば、trivial に Quine の主張は帰結しますが…。