nuhsnuhの日記

2017-09-10 A Note on Thoreau’s Civil Disobedience

[] A Note on Thoreau's Civil Disobedience

最近、まったく日記更新しておりませんでした。特に記すほどのことがなかったのです。今日も特にないのですが、あまり更新しないのもさびしいので、ほんのちょっとしたことを記します。

私は論理学哲学や Frege の論理学について特に勉強しているのですが、これらの勉強は今足踏み状態で、この頃はまったく畑の違う、哲学者戦争責任について考えていました。それで関連する文献を多数、あれやこれやと拾い読みしておりました。


そのような中で、次の文献を今回初めて拝読しました。

大変感心しました。実に立派な内容です*4。これらを次の文献と読み比べてみました。

大変がっかりしました。実に悲しい内容です。


上記の文献で、西田さんは国家が、そして王室道徳臣民に与えるのである、それ以外にはない、と考えておられるように見えます。法と道徳の基礎は王室にあると、西田さんは述べておられます。また、国家道徳と言われるものと道徳との二つのものがあるのではなく、道徳というのはただ一つ、国家道徳と呼ばれるものだけであると、西田さんは述べておられます。そして「国家即道徳」であると主張されています。(ここまで、西田さんの文献200-203ページ参照。) これは私にはとても恐ろしい考え方です。これでは個人内面自由を、物理的な力を著しく持った者に明け渡すことに等しいと思われます。(西田さんは、教育勅語の存在に強い影響を受けていたのではないかと推察されます。)


上記文献の『歴史的現実』で、田辺さんは、近代的な自然法人間の頭の中だけでひねり出された抽象思弁観念であり、現実においては無効である、という主旨のことを述べておられます (15-16ページ)。これはいわゆる基本的人権否定であると考えられます。こわいことです。また、『歴史的現実』の末尾では、国家のために死ぬことはよいことなので、そうするようにと学生に勧めておられます (71-73ページ)。これも大変こわいです。

田辺さんは、「種の論理の弁証法」の「序」で、戦後になって次のように述べておられます。昭和9年から15年に至る間に、田辺さんが試みた「種の論理」と呼ばれる哲学では、

飽くまで國家を道義立脚せしめることにより、一方に於てその理性的根據を確保すると同時に、他方に於て當時の我國に顯著であった現實主義の非合理的政策を、できるなら少しでも規正したいと念願したわけである (253ページ)

ということだそうです。この引用文での田辺さんの話は、次のように言い換えられると思われます。

「当時の日本の国を倫理・道徳の観点から正当化し基礎づけ、そのことによって日本という国を理論的に正当化し、道徳的理論的正当化によって確立された論から論理的帰結しないような政策を日本が提案し実行した場合には、それを非合理的政策として批判是正規制したいと考えていた」。

いずれにしましても、田辺さんは当時の日本の行いを道徳的に正当化しようとしていたとわけです。もしも正当化に成功していたならば、本当に恐ろしいことです。


上記和辻さんの文献は、太平洋戦争さなのものです。これは、全編に渡って、まったく人命軽視もはなはだしいものだと思います。ほとんど神がかりです。恐ろしいのを通り越しています。引用する気が起こりません。


上記文献の Arendt さんは、Heidegger さんの Sein und Zeit解説しておられるようです。彼女の説明が正しいとするのならば、Heidegger さんは次のようなことを述べようとしているものと私は理解しました。

すなわち、私の死は私自身が経験しなければならないことであって、他の誰かに代わってもらうことのできないことである。この点で、私は他の誰とも違う (245ページ)。ここに私と他の人との決定的で乗り越えることのできない違いがある。私は私でしかなく、他の誰でもない。私は一人しかおらず、他の人間ではない。私の死という経験を他の人に一般化することはできない (245-246ページ)。だから私は他の人間一般ではなく、他の人間一般を代表する者でもない (同ページ)。私はどこまでも孤独であり、他の人間と連帯したり共感したりし合うことはできない。私は決定的に孤立していて、他の人間と手を取り合うことはできない。私は自分の死と向き合うことだけに専念しており、私は私の存在にどこまでも気遣うばかりで徹底的に自分の中に没入している (246ページ)。これは誰もがそうであり、人間はどこまでもただの一人の私でしかないのだ。よって、普遍的な人間なるものは、ありはしない。人類一般は、ありはしないものである。したがってフランス革命の際の人権宣言に見られる人間という概念は無効である (245-246ページ)。Kant定言命法に見られる普遍的な人間という概念も無効である (246ページ)。

そうすると、人間一般を想定している基本的人権という考えも無効である、ということになると思われます。これはこわいです。(誤解しておりましたら、すみません。)


以上に対し、Thoreau の三編は、よりよい政府やよりよい社会を考えていくために大変参考になります。Thoreau の提示している考えですべてが解決されたというわけではもちろんありませんし、彼の主張にはいただけないものもありますが*5、西田さんたちの考えの上にではなく、Thoreau の考えの上にこそ、不完全なものとはいえ、未来があると私には感じられます。Thoreau の三編からは、勇気ももらいました。元気が出てきました。いただけない発言もありましたが、彼の三編には磨き上げていきたい考えがあるのは確かだと私には思われました。


今日はこれで終わります。無理解勘違い、誤解や見当違いなど、不備が多数あるかと思います。真夜中に手早く書き上げたものですので、どうかご容赦いただければ幸いです。西田さん、田辺さん、和辻さん、Heidegger さんを誤解しておりましたら謝ります。すみません。また勉強致します。

*1:''Civil Disobedience''

*2:''A Plea for Captain John Brown''

*3:''Life Without Principle''

*4:内容説明は省略させてもらいます。どれも有名なものばかりですので、調べればすぐにその説明が見つかると思います。

*5アジア人差別発言。「市民の反抗」、43ページ、「原則のない生活」、235ページ。

2017-07-30 The Appearance of Otto Neurath in Modern Japan

[] The Appearance of Otto Neurath in Modern Japan

既にご存じのかたもおられるかもしれませんが、つい先日まで、私自身気がつかなかった出版物に関する情報をここに記します

このあいだ、Otto Neurath の執筆した本の一つが日本語翻訳され刊行されました。以下がそうです。



Neurath の本が日本語になるとはめずらしいと思います。この6月に出たようで、7月になってから私は気がつき購入させていただきました。

この本は International Picture Language (1936), および Basic by Isotype (1937) の全訳と Modern Man in the Making (1939) に掲載されている全図表を収録した合本です。

本書は現代絵文字の先駆形態である pictogram の一種を収録した本です。そのため、見ているだけでも楽しい本です。「いかにも modernism だなぁ〜」と見入ってしまいます。Logical Positivism に興味のあるかたは must の1冊だと思います。私も見かけて即購入致しました。本屋さんでは design の棚に並んでいるみたいです。まれ哲学の棚にも並んでいるようです。

International Picture Language については、以前にこの日記で少しだけ言及しています。2013年9月29日の日記です。そこではこの本が net から無料download 可能であり、私自身入手したと記しています。今も入手可能かどうかについてはわかりません。どこから download したのかも忘れてしまいました。たとえ今も無料で download 可能だったとしても、上記の邦訳を購入することをお勧め致します。というのも、本の装幀がとてもよく、物として手元に置いておきたいと思わせるような仕上がりになっているからです。物質としての手触りや質感は、net で入手した data としての本では味わえない、代替不能なものですね。夏目さんだか野口さんだかを3〜4人集めれば入手できますので、お買い得だと思います。


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ビー・エヌ・エヌ新社さんの home page <http://www.bnn.co.jp/books/8733/> から、本書の書影をお借りしております。

この URL の page では本書本文内の様々な design も見ることができますので、よろしければのぞいてみるといいです。

2017-07-23 Some Characteristics of Leśniewski’s Formula ’A ε b’. 2

[] What Characteristics Does Leśniewski's Formula 'A ε b' Have?: Some Materials. Part 2

前回に続き、Leśniewski's Ontologykey term 'ε' を理解するのに有用文章の列挙、part 2. 今回で完結です。


The functor of singular inclusion occurs in expressions of the type 'a ε b' (to be read: a is b). A proposition of this type will be said to be true if and only if diagram II.1 or diagram II.3 illustrates the semantical status of the two names for which the 'a' and the 'b' stand. Otherwise it will be a false proposition.*1

単称包摂関数」は、''α ε b'' (α は b であると読む) という形の表現において現われる。このような種類の命題は図表 II・1、あるいは II・3 が ''α'' と ''b'' に対応する二つの名辞の意味論上の地位を表わしているときに、またそのときに限って真である。それ以外の場合にはこれは偽なる命題である。*2

この引用文によると、'a ε b' が真であるのは、Diagram II.1, II.3 が見られるとき、かつそのときに限る、ということになります。そこで、Diagram II.1, II.3 を説明します。

まず、Diagram I.1, I.2 の説明。I.1 は単称名のことです。下の黒丸のオタマジャクシみたいな図がそうです。言語表現で言えば、たとえば、'Venus', 'Hesperus', 'Phosphorus', 'Cuba' などです。I.2 は一般名のことです。下の白玉のオタマジャクシみたいな図のことです。言語表現で言えば、たとえば、'island', 'man', 'book' などです。

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次に、Diagram II.1, II.3 の説明。

II.1 は I.1 が二つ ('a' と 'b')、ぴったりと重なり合っているところを表しています。それは主語である単称名 ('a') と述語である単称名 ('b') が、ぴったり重なり合っていることを示しています。

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II.3 は I.1 の小さな黒丸 ('a') が I.2 の大きな白丸 ('b') に含まれるように重なっているところを表しています。主語である単称名 ('a') が述語である単称名 ('b') に、含まれるようにして重なっていることを示しています。

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上の Diagram II.1 が示しているのは、'a ε b' の 'a' と 'b' の両方に単称名が来ていて、それぞれの単称名が指しているただ一つのものが実際に存在しており、かつ 'a' と 'b' が指しているものが同じ場合のことです。たとえば、'a' を 'Hesperus', 'b' を 'Phosphorus' とすれば、'Hesperus ε Phosphorus' とした場合です。'Hesperus', 'Phosphorus' はどちらも金星を、かつ金星だけを指しています。

上の Diagram II.3 が示しているのは、'a ε b' の 'a' に単称名が来ていて、その単称名が指しているただ一つのものが実際に存在しており、かつ 'a ε b' の 'b' に一般名が来ていて、'a' が指しているものが 'b' に関して成り立つ場合 ('b' に当てはまる場合) です。たとえば、'a' を 'Cuba', 'b' を 'island' とすれば、'Cuba ε island' とした場合です。'Cuba' は the USA の南に浮かぶ島を、かつその島だけを指し、'island' は島を表す一般名です。

こうして、図表を使って言うならば、'a ε b' が真であるのは、Diagram II.1, II.3 が見られるとき、かつそのときに限る、というわけです。


ここから下の box 内の式 (1) から (4) に関する話は、(一部、式の番号は違いますが) 次を参考にして私がまとめたものです。Slupecki, ''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in Studia Logica, pp. 20-21, or in Leśniewski's Systems, pp. 72-73. および次も参照しました。Sinisi, ''The Development of Ontology,'' p. 60, note 7. Russell, Introduction to Mathemarical Philosophy, pp. 176-177, 邦訳、ラッセル、『数理哲学序説』、弘文堂書房、270-272ページ、岩波文庫、231-232ページ。

なお、ここでの話は前回の日記で引用した Sobocinski, ''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 42, c) の詳しい説明です。

次の (1) は Leśniewski の体系 Ontology の公理であり、その右辺が 'ε' のいみを文脈的に明らかにしていると言えるものです。(なおこの式は 'ε' の定義ではありません。式中の '≡' の両辺に 'ε' が出てきているので、定義ではありません。)


 (1) x ε X ≡ [∃y]{ y ε x } ∧ [y, z]{ y ε x ∧ z ε x ⊃ y ε z } ∧ [y]{ y ε x ⊃ y ε X }.


この右辺は、次の連言から成っていることがわかります。


 (2) [∃y]{ y ε x },

 (3) [y, z]{ y ε x ∧ z ε x ⊃ y ε z },

 (4) [y]{ y ε x ⊃ y ε X }.


これらの連言が、(1) の左辺の 'ε' のいみを詳らかにしていると言えます。


さて、(2) は「少なくとも一つ (at least one) の y が x である」と言っています。(一応 '∃' は、厳密なところ、Leśniewski の Ontology においては存在を含意しないとされています。ですから '∃' に関しては、「少なくとも一つのかくかくが、しかじかである」と読まれます。もっと厳密に言うと、そもそも Leśniewski は '∃' という記号公式には使いません。彼は Frege と同様に、普遍量化子と否定記号でそれに代えています。ただし、非公式にはそれを使いますが。)


(3) は何を言っているのでしょうか。それは次のとおりです。

(3) の [y, z] は、'∀y∀z' のことで、この (3) をそのまま普遍例化すると、


 (3.1) y ε x ∧ z ε x ⊃ y ε z.


今度は (3) の [y, z] における、y を z で、z を y で普遍例化すれば、(3) は


 (3.2) z ε x ∧ y ε x ⊃ z ε y.


この式の連言肢を入れ換えると、


 (3.3) y ε x ∧ z ε x ⊃ z ε y.


この (3.3) の条件文前件は、(3.1) の条件文前件と同じ。ところで (3.1) の条件文後件は 'y ε z'. (3.3) の後件は 'z ε y'. したがって (3.1) および (3.3) の同じ前件からは 'y ε z ∧ z ε y' が出ます。以上、'y', 'z' はともに普遍例化して出てきた表現なので、(3) からは普遍量化子を前置した次の式を結論して構いません。


 (3.4) [y, z]{ y ε x ∧ z ε x ⊃ y ε z ∧ z ε y }.


さて、式 'α ε β' が成り立つ時、'α' は単称名であって、存在しているものを一つ、かつ一つだけ指しています。'β ε α' も成り立っていれば、'β' も単称名であって、存在しているものを一つ、かつ一つだけ指しています。よって、'α ε β ∧ β ε α' が成り立っていれば、'α' と 'β' は同じ一つのものを指していることになるので、この場合、'α = β' と言えます。したがって、(3.4) の条件文前件が成り立つならば、その後件 'y ε z ∧ z ε y' も成り立って、この時、'y = z' です。そしてこの 'y' と 'z' は (3) の前件中の連言肢 'y ε x' と 'z ε x' に出てきていたことを一瞥しておきましょう。

こうして (3) が言っているのは次のことになります。すなわち、(3) の前件の x であるもの y, z は、どれも等しい。つまり x となるもの y, z は、あるなら一つだけ、たとえば y だけです。要するに x であるもの y, z があるとしたら、高々一つ (at most one), たとえば y だけだ、ということを述べているのが (3) です。

こうして (2) では「少なくとも一つの y が x である」と言われ、(3) では「x であるもの、たとえば y は、高々一つである」と言われており、要するに「y は少なくとも一つであり、かつ高々一つである」と言われているから、これはつまるところ「y はちょうど一つである」と言っていることになります。


最後に、(4) はほとんど字義通りです。つまり、何であれ x であるものは、X でもあります。何かが x であるならば、それは X でもあります。だから、「何であれ」とか「何かが」という言葉を略して言い直せば、x は X である、ということを (4) は述べています。


(2), (3), (4) を合わせて考えると、(1) の左辺 'x ε X' が言っているのは、'x' は実際に一つのものを、かつ一つのものだけを指し、その指されたものは X である、ということになります。

(以上に関しては、当日記、2012年1月15日、項目 ''The Longer Single Axiom of Leśniewski's Ontology Comes from the Contextual Definition of the Definite Article of Russell's Theory of Descriptions. In Particular, its Axiom Comes from the Definition in Russell's Introduction to Mathematical Philosophy.'' も参照ください。それにしても長い項目名ですね。我ながらそう思います。)


これで終わります。'ε' を含んだ式のいみが、大体のところ、おわかりになった感じでしょうか? 私は何となくですが、大体のところでは、わかったような感じがしてきました。大体ですが…。

以上、間違ったことを書いておりましたら謝ります。どうかお許しください。

*1:''On Leśniewski's Ontology,'' in Ratio, p. 157, also in Leśniewski's Systems, p. 129.

*2:「レスニェウスキーの存在論について」、209ページ。邦訳引用文中の ''α ε b'' は、邦訳原文では ''α ∈ b'' となっていますが、引用の際に ''α ε b'' と改めました。なおこの邦訳は、英語論文からではなく、ドイツ語論文からの邦訳のようです。

2017-07-15 Some Characteristics of Leśniewski’s Formula ’A ε b’. 1

[] What Characteristics Does Leśniewski's Formula 'A ε b' Have?: Some Materials. Part 1

Leśniewski の logic について興味を持っておられるかたは、ほとんど絶無と想像されますしかし、はやっていてもいなくても、人気があってもなかっても、それでも一応今日も Leśniewski のお話です。Leśniewski の logic はすごいのかどうか、私にはよくわかりませんが、よくわからないがゆえに私は勉強しています。

さて、Leśniewski の論理体系の一つ Ontology で鍵を握っている無定義語 'ε' は、理解するのがなかなか難しいものであることを、前回の日記で記しました。今回は、この 'ε' の理解を促進してくれそうなその語の説明文を列挙してみます。列挙する順番に特にいみはありません。なお、以下に列挙する文は、今の私にとって 'ε' を理解するのに役立ちそうなものだけに限定しています。網羅的なものではありません。また、引用文中の下線はすべて引用者によるものです。特に注目したい文に下線を引いております。


まず一つ目の文献。

  • Boleslaw Sobocinski  ''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' translated by Robert E. Clay, in Jan T. J. Srzednicki et al eds., Leśniewski's Systems: Ontology and Mereology, Martinus Nijhoff Publications, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 13, 1984.

 In order to facilitate the understanding of the proofs, it is also necessary to clarify the meaning ''individual proposition'' which we use here. It is important to note that we use the expression ''A is b'' (in symbols, ''A ε b'') in exactly the same way that one uses propositions such as ''Socrates is mortal''. This proposition says that a concrete, individual, really existing object is something or other. Thus it is necessary to distinguish individual propositions in this strict sense from the apparently individual propositions often employed in ordinary language, but which are really abbreviations of proposition of another type, e.g. universally affirmative propositions. This is the case when one says, for example, ''Man is mortal'' instead of saying ''Every man is mortal.'' Consequently, for a proposition of the type, ''A ε b '' to be correctly employed, one can only substitute names of individual for the subject, i.e. ''A''; that is only names like Socrates, Napoleon I, ''this table'', etc. can be substituted for ''A'', while for ''b'', that is to say, for the complement of an individual proposition, we also permit - and this conforms to ordinary language - the substitution of names of individuals; for example ''St. Peter, the Apostle, is the first pope'' is a correctly constructed proposition. In other words, we suppose that the subject and the complement of an individual proposition belong to the same logical type (according to recent terminology) or to the same semantical category (according to Leśniewski's terminology). Thus we employ the word ''is'' (''ε'') as it was used before the reform of G. Peano. We believe we are thus conforming not only with the intuitions associated with ordinary language, but also (and this does not seem to have been noted by historians of logic) with the Aristotelian and Scholastic tradition [...].*1

最初の下線により、'A ε b' が成り立つ時、この式の 'A' が指しているのは、一つの ('a'), 具体的で ('concrete'), 個物/個体であり ('individual'), 現実に ('really'), 存在する ('existing'), 対象/もの ('object') である、ということです。'A ε b' という式が成り立っている時、A とは、一つの具体的で、現実に存在している個物としての対象だ、ということです。

以上からもわかりますが、二つ目の下線により、'A ε b' が正しい時、'A' に入るのは単称名だ、ということです。


[Regarding the phrases ''the set of objects a'' or ''the class of objects a'' (in symbols, ''Kl(a)''),] ''A ε Kl(a)'' we mean ''A is the set of all the objects a'' or ''A is the set formed by all the objects a''.*2

この文からわかるのは、'A ε Kl(a)' のような式がある時、述語の部分にクラス名が来ている場合は、その式の 'ε' を要素関係 '∈' を表すものとして読んではいけない、ということです。その時、'ε' はまるで要素関係を表していません。ついつい思わず要素関係と思って読んでしまいますが、今の式において 'ε' は同一性を表しています。すなわち、'A = Kl(a)' です。'A ε Kl(a)' の A は a の一つなのではなく、まるまる Kl(a) そのもののことになっています。'ε' と '∈' は形がよく似ていますから、勘違いしそうですが、この場合は 'ε' は要素関係 ∈ を表していません。


We point out that the ''ε'' of ontology differs from the ''ε'' utilized in [Principia Mathematica of] Russell and Whitehead [...] and from the ''∈'' of set theory.*3

Leśniewski の Ontology における 'ε' は、Principia の 'ε' とも集合論の '∈' とも違うそうです。集合論の '∈' とは違う、というのは比較的わかりやすいと思いますが、Principia においては 'ε' は何を表しているのでしょうか? その語に関する Principia での説明を見てみましょう。


  • Alfred North Whitehead and Bertrand Russell  Principia Mathematica to *56, Cambridge University Press, Cambridge Mathematical Library, 1997, 1st ed. published in 1910, 2nd ed. published in 1927.

 Following Peano, we shall use the notation


x ε {¥rm ¥hat{z}}(ψz)


to express ''x is a member of the class determined by ψ{¥rm ¥hat{z}}.'' We therefore introduce the following definition:


20・02.  x ε (φ ! {¥rm ¥hat{z}}) .=. φ ! x  Df*4

 We shall use small Greek letters (other than ε, ι, π, φ, ψ, χ, θ) to represent classes, [...]*5

これらの引用文から、Whitehead and Russell たちにとって、'ε' は実質的に集合論の '∈' であることがわかります。


なお、少し話が逸れますが、Principia で使われている記法の説明文といえば、次がよく参照されているだろうと思います。

  • Bernard Linsky  ''The Notation in Principia Mathematica,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2016 Edition), <https://plato.stanford.edu/entries/pm-notation/>.

この文献の Section 9. Classes, <https://plato.stanford.edu/entries/pm-notation/#Clas> では、上記引用文中の式 *20・02. の 'ε' が '∈' と表記されており、誤解を招くものとなっています。B. Linsky 先生の説明文を読んで、Principia では '∈' が membership relation を表しているならば、それとは異なる 'ε' は membership relation とは別のいみを担っているのだろうと私は思ったのですが、Principia Mathematica to *56 を開いて確認を取ってみるとそうではなく、上記引用文のとおり 'ε' はれっきとした membership relation を表していることがわかりました。だから結局現代では *20・02. の 'ε' を '∈' と表しても結果としてはいいのですが、''The Notation in Principia Mathematica'' という Principiaoriginal表記法解説する説明文では、やはり original は original なままで説明するか、original と異なっているならば、異なった表記にしていることを明記すべきだろうと思われます。その説明文では 'ε' を '∈' で代用しているとは、何も書かれていないように見えます。


本題に戻りましょう。次の文献の文章でも、'ε' と '∈' とが異なる役割を持っていることがわかります。。

  • Jerzy Slupecki  ''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in: Studia Logica, vol. 3, 1955, reprinted in Jan T. J. Srzednicki, V. F. Rickey, J. Czelakowski eds., Leśniewski's Systems: Ontology and Mereology, Martinus Nijhoff / Ossolineum, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 13, 1984. The citation is from the journal Studia Logica.

 I shall also point out that the meaning of the term ''ε'' as fixed in the theory of sets not based on the theory of types allows the following propositions to be simultaneously true.

 x ∈ z, y ∈ z, 〜(x ∈ y), z ∈ t.

On the other hand, in ontology the corresponding propositions are not allowed to be simultaneously true, for if the propositions ''x ε z'', ''y ε z'' and ''〜(x ε y)'' are all of them true, then ''z'' is a general name and hence the proposition ''z ε t'' is false for any ''t''. *6

この引用文の 'On the other hand' 以下の文言証明。'z' が空でなく、かつ 'z' が単称名でないならば、それは一般名であることをまず前提としましょう。さて今、'z' が単称名だと仮定します。すると 'x ε z', 'y ε z' により、x = z = y. 故に x = y. よって x ε y. ところが 〜(x ε y). これは矛盾です。したがって仮定は否定されねばならず、'z' は単称名ではない、すなわち一般名です。


次は再び文献 ''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox'' から引用します。'ε' を含む式の表現に関する規約です。式 'A ε b' について、

We employ capital letters as individual variables and lower case letters as universal variables. It is only a written convention which seems to render the theorems more intuitive; it is not an obligatory rule.*7

私たちは 'A' を単称名ではなく述語などとし、'b' を述語ではなく単称名として扱うのが普通ですが、Leśniewski においてはそうではない、ということです。これは要注意です。


 a) Expressions of ordinary language such as, for example, the propositions ''John loves'' and ''John is American'', symbolically rendered by ''φ{A}'' and ''A ε a'' are two different logical structures in ontology.

 b) The subject and the complement of the individual proposition ''A ε a'' always belong to the same semantical category. The copula ''ε'' is the sole primitive term of ontology.

 c) For the individual proposition ''A ε a'' to be true, it is necessary (and sufficient) to assert: 1) for any B, if B ε A then B ε a; 2) A is not an ''empty object'' (''contradictory object''); 3) A is unique.

 d) If the complement is an object, the subject of the individual proposition is identical with its complement [...].*8

c) は、'ε' を含む式の真理条件を記していると言っていいでしょう。興味深いものです。まず、c) の 2) によれば、'A ε a' が真である場合、'A' は空な名前であってはいけない、ということです。'A' が何も指さない、ということはない、ということです。何かを指している、ということです。そして c) の 3) によると、'A' が指しているものはただ一つだけだ、ということです。2) により 'A' はとりあえず何かを指しているのですが、3) によると、その指されているものは一つしかない、ということです。最後に c) の 1) によると、A であるものは何であれ a である、ということです。この 1) により 'A' によって指されているただ一つのものは、a である、と言うことができます。この真理条件の詳細は、また後ほど説明致します。

d) によると、'A ε a' が成り立っている時、その 'a' がただ一つのものを指しているのなら、'A ε a' は 'A = a' だ、ということです。


次の文献。

  • Stanislaw Leśniewski  ''On 'Singular' Propositions of the Type 'A ε b','' in his Collected Works, Volume I, Stanislaw J. Surma et al. eds., PWN- Polish Scientific Publishers / Kluwer Academic Publishers, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 44/I, 1992, first published in Polish in 1931, 抄訳、スタニスワフ・レシニェフスキー、「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」、藁谷敏晴訳、『科学哲学』、第13巻、1980年

この論文は、Leśniewski 本人が式 'A ε b' について主題的に語っているという点で、大変興味深いものですが、先の式を考えるに至った経緯と、Ontology において、この式を左辺に持つ公理論理的な由来、先の式の日常語による具体例、そしてその式が多くの人に理解困難である様子が語られていはいるものの、私はこの論文を何度か今まで読んできて、'ε' を理解するのにとても役に立ったかと言われれば、「それほどでもない」と答えざるをえません。別に Leśniewski の説明が悪いと言いたいわけではなく、お互いの関心の方向が微妙にずれているせいだと思われます。そのため、この論文で今のところ 'ε' の理解にすぐに役に立ちそうな文言は、現在の私にとってはさしあたり次の文ぐらいです。

(2) if A is b, then A is an object.*9

(2) ある A が b であるならば、A は対象である。*10

念のため、ポーランド語原文に当たってみると、

  • Stanislaw Leśniewski  ''O podstawach matematyki XI,'' in: Przegląd Filozoficzny, vol. 34, nos 2-3, 1931, p. 157*11,

では (2) は次のようになっています。原註は省いて引きます。

(2) jeżeli A jest b, to A jest przedmiotem,

私はポーランド語は読めませんが、白水社辞書を引き引き、このポーランド語を解読すると、

    •  jeżeli (イェジェリ) = jeśli (イェシリ) = if (もしも 〜 ならば),
    •  jest = być (ブィチ) = be (である),
    •  to (ト) = then (それなら),
    •  przedmiotem = przedmiot (プシェドミョト) = things, material things, object (物、物体、対象),

なので (英語訳は私が追加しました)、試訳/私訳を付せば、

(2) もしも A が b であるならば、それなら A は対象である、

となります。

私以外のかたが論文 ''On 'Singular' Propositions of the Type 'A ε b' '' を読まれれば裨益するところもあると思いますので、私は上の (2) しか引用しておりませんが、未読のかたは論文全体の一読をお勧め致します。

なお、論文 ''On 'Singular' Propositions of the Type 'A ε b' '' については、この論文から多数文章を (英訳しながら) 引用して書かれた解説論文もあります。次がそれです。

  • Vito F. Sinisi  ''The Development of Ontology,'' in: Topoi, vol. 2, no. 1, 1983.

この論文では直前の引用文の (2) は、p. 54 に出てきます。

訳者藁谷先生によると、(2) を記号化して表すならば、以下のようになります。

(2)* A ε b ⊃ οb(A)*12

'ob' とは対象を表す関手/関数のことのようであり、対象とは「アリストテレス意味での第一実体」のことだそうです。*13

そして「アリストテレス的意味での第一実体」とは ousia のことであろうから

で、ousia の簡潔な説明を見ると、次のとおりです*14。長くて読むのが面倒だというかたは、下線だけでも読んでみてください。

 ウーシア{¥tiny^{(1)}} 〔実体〕 と言われるのは、

(一) 単純物体、たとえば土や火や水やその他このような物体、また一般に物体やこれら諸物体から構成されたものども、すなわち生物や神的なものども、およびこれらの諸部分のことである。これらすべてが実体 (ウーシア) と言われるが、そのわけは、これらが他のいかなる基体 〔主語〕 の述語 〔属性〕 でもなくてかえって他の物事がこれらの述語であるところの 〔基体的な〕 ものどもである{¥tiny^{(2)}}からである。しかし他の意味では、

(二) このように他の基体の述語となることのない諸実体のうちに内在していてこれらの各々のそのように存在するゆえんの原因たるものを実体と言う、、たとえば生物では、それに内在する霊魂生命原理〕 がそうである。さらにまた、

(三) あのような諸実体の部分としてこれらのうちに内在し、これらの各々をこのように限定して「これ」として指し示すところのものをも実体と呼ぶ、、そしてこれは、これがなくなればその全体もなくなるに至るような部分である。たとえば、或る人々の言っているように、面がなくなれば物体がなくなり、線がなくなれば面がなくなるがごときである。また一般に、かれらの考えでは、数もそのような実体である、というのは、数がなくなればなにものも存在しなくなり、数がすべてを限定しているというのだから。さらに、

(四) もののなにであるか (ト・テイ・エーン・エイナイ) 〔本質〕、− これを言い表わす説明方式 (ロゴス) がそのものの定義 (ホリズモス) であるが、− これがまたその各々のものの実体 (ウーシア) と言われる。

 これを要するに、実体というのには二つの意味があることになる、、すなわち、その一つは、

(一) もはや他のいかなる基体 〔主語〕 の述語ともなりえない窮極の基体 〔個物〕 であり、他の一つは、

(二、三、四) 「これ」と指し示されうる存在であり且つ離れて存しうるものである、− すなわち各々のものの型式 (モルフェー) または形相 (エイドス) がこのようなものである。*15


[訳者註]

(1) [...] この 'ousia' [は]、「物」「実物」 (実 (み) のある物) の意をもち、ことに日本語で、田地持ち・金持ちなどが「物を持っている」「物持ちである」と言われる場合の「物」の意に近く、それの持主の価値 (存在理由) がそれの有無・多少によって決定されるような「たいせつな物」、この意味でかれの「所有財産」「資産」を意味した。[...] しかし、これらの「物」が、我々のいう「物」とは含みがちがって、ギリシャ語ではこれらが同時に「存在する物」であり、存在しないもの・つかみえないものは、物でなく、物の数にはいらないのであった。ことに 'ousia' と呼ばれる「物」は存在する物どものうちで最も真に存在するもの・最も真に所有するに値するものを意味したであろう。それが具体的には、地主にとっては土地資本家にとっては資本貴族にとってはその家柄、すなわち要するに「資産」「資力」なのであった。しかし、果たしてこれら (土地・資本。家柄等々) が真に実在するものであろうか。なにが真に価値ある 'ousia' であり、なにが真に実在する 'ousia' か。これがソクラテスの問答活動 (哲学) の主題となり、これがプラトンイデア論を経て、ここにアリストテレスのこのウーシア研究となったのである。アリストテレスにおいて、そのウーシアが質料と離れて存するイデアのごときものではなくて質料と結ばれた具体的な個物であり、これこそ真に実在するウーシアであると主張されながら、しかもさらにこの個物において真に実在するウーシア (個物の本質) はなにかと問い求められざるをえなかったのは、一つにはこの語のかかる伝統によるものである。[...] *16

(2) 『範疇論』第五章二a一一以下では「実体というのは、その最も優れて第一のまた最も主要な意味では、〔他の〕 いかなる主語の述語ともならず、〔他の〕 いかなる主語 (または基体) のうちにもあらぬもの、すなわち個物、たとえばこの人、この馬」と定義されている。これがアリストテレスの「第一実体」と言われるものの有名な定義 (簡単には「常に自ら主語 (基体) であって他のなにものの述語 (属性) ともならぬもの」) である。[...] *17

藁谷先生によると、'A ε b' の 'A' は対象を指しており、この対象は Aristotle の ousia であって、すぐ上の引用文中、下線を引いた (一) によれば、ousia とは述語になれない主語の指しているもの、すなわち基体であって、上の訳註の (1), (2) に引いた下線により、ousia とは実際に存在する具体的な個物としてのこの人やこの馬のことであるとわかります。つまり対象とは、私たちの目の前にいるこの人やこの馬のことです。よって、Leśniewski の式 'A ε b' における 'A' の指す対象とは、この人やこの馬などのことだとわかります。


若干の寄り道。

藁谷先生はご自分の諸論文のあちらこちらで、式 'A ε b' の言わんとしているところを手を変え品を変え、説明されておられます*18。ただ、私はそれらを読んでもいつもピンときません。先生は特に難しいことをおっしゃっているのではないことは、私にもわかります。皆さんもお読みになられれば、わかるとおもいます。にもかかわらず、いつも何だかわからないまま終わってしまいます。どうやら、先生に自明で当然であると思われることが、私にはそうではないようで、そのため先生のご説明を読み終わっても、私の頭の中のもやもやは消えないまま残るようです。特に先生は式 'A ε b' の説明の際に「対象」という言葉をよくお使いになっていると思うのですが、私はその言葉が今までよくわかりませんでした。もちろんその言葉自身は私も知っておりましたし、自分で使ってもおりました。しかし、私の知っている「対象」という言葉のいみは、先生が先の式を説明する際にお使いになっておられる「対象」という言葉のいみとは、何か違っているような気がちょっぴりしていました。ですが今回、先生は先の式を説明する際に使っておられる「対象」という言葉のいみを Aristotle の ousia のこととして使っておられるようなことがわかりまして、ちょっとほっといたしました。「なんだ、そういうことか、あれのことなんですね」という感じで、先生の言う「対象」という言葉の落ち着き先が見つかって安心した気持ちです。すっかりわかったとは言いませんが、とりあえず近似値が見つかったという感じで、困惑から少しだけ解放された気がします。

寄り道終了。

次回に続く。

*1:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 14.

*2:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 15.

*3:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 14, footnote 5.

*4Principia Mathematica to *56, p. 188.

*5Ibid.

*6:''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in Studia Logica, p. 18, or in Leśniewski's Systems, p. 70.

*7:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 15, footnote 6.

*8:''Leśniewski's Analysis of Russell's Paradox,'' p. 42.

*9:''On 'Singular' Propositions of the Type 'A ε b','' p. 368.

*10:「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」、94ページ。

*11:<http://www.wbc.poznan.pl/dlibra/applet?mimetype=image/x.djvu&sec=false&handler=djvu_html5&content_url=/Content/120444/index.djvu>, tab p. 69.

*12:「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」、100ページ、訳者註 (5)。

*13:同上。

*14:「(一)」、「(二)」などは、訳者の出先生が付けておられるものです。わかりやすくするため、(一)、(二) などの行を引用者により段落分けして引用します。 (つまり、(一)、(二) などの各行は訳文では段落分けされていません。) 出先生の註は (1), (2) のみ引用し、他は省きます。訳文中では白抜きの読点が使われている個所があるのですが、それらは二つの連続する読点「、、」で代用しています。引用文中の「(ウーシア)」、「(ト・テイ・エーン・エイナイ)」、「(ロゴス)」、「(ホリズモス)」、「(モルフェー)」、「(エイドス)」、「実 (み)」の「(み)」は、すべて訳文ではふりがなですが、引用者により丸カッコでくくって訳文中に入れています。「〔 ... 〕」、はすべて訳者出先生の補足です。最後に、「「これ」」と言って「これ」をカギ・カッコに括って「「これ」」としてある個所が二つありますが、引用者がどちらも傍点の代りにしたものです。

*15:『形而上学 (上)』、175-176ページ。

*16:『形而上学 (上)』、365-366ページ。

*17:『形而上学 (上)』、366ページ。

*18:「型 ''A ε b'' の ''単称'' 文について (I)」の説明文以外では、たとえば一部だけ上げると邦語論文では、「集合と命題の論理形式 (承前)」、『現代思想』、1991年1月号、197-198ページ、「レシニェフスキー存在論ラッセル記述理論」、『科学基礎論研究』、第21巻、第1号、1991年、50-51ページ、「存在論に於ける単称三段論法ライプニッツ則の等値性について」、『科学基礎論研究』、第24巻、第2号、1996年、8ページ、など。

2017-07-08 Why Leśniewski’s Term ’ε’ Is Hard to Understand?

[] Why Is It Difficult for Us to Understand the Only Primitive Term 'ε' of Leśniewski's Ontology?

私は、なぜ Frege が Russell Paradox に足をすくわれたのか、その原因究明に関心があります。Frege は自身論理体系が Russell Paradox に遭遇するとわかった後、すぐにその体系に修正を施しました。これにより、この修正された体系からは、さしあたり、矛盾は出てこないものと見込まれました。しかしのちになって、Leśniewski がその修正版の体系からも矛盾が出てくることを証明したと、弟子の Sobocinski が報告しています。修正版論理体系からの矛盾発見の、最初の報告です。

私はこの報告の中にある、Frege の修正版論理体系から矛盾が出てくるという Leśniewski の証明を、二、三度、繰り返し読んでみたことがあります。Sobocinski の論文では、問題の証明の全 step までは明記されていなかったので、極力全 step を自力で書き出しつつ全体を follow したところ、私個人では一つか二つの step に不安を覚えるのですが、おそらく本当に矛盾が出てくるみたいな感じです。

ただそうだとしても、私には他に不安があります。と言うのは、この証明が Leśniewski の Ontology という彼特有の体系に基づいているという点です。この体系には、独特な無定義語 'ε' が含まれています。問題の証明は、無定義語 'ε' を含んだこの独特な体系に、素朴集合論の術語を追加して行われています。したがって、Frege の修正版論理体系から矛盾が出てくるという Leśniewski の証明を正しく理解するためには、'ε' が出てくる式を正確に把握する必要があります。

さて、時々思い出しては Leśniewski の logic について勉強したり、復習したりしているのですが、正直に言って、私はいまだに基本的なことがよくわかっていません。Leśniewski の logic の一つである Ontology に関し、基本的なことであるにもかかわらず、私がよくわかっていないことと言えば、先ほどの term 'ε', またはこの term が出てくる式が、正確に言って何をいみしているのか、ということです。この term はわかりにくいのですが、それは私の頭の能力が足りないことが第一の原因でしょうけれども、それにしても、なにゆえこれはこんなにもわかりにくいのでしょうか?*1

以前からこのような疑問を抱いてきたのですが、先日、この疑問に対する答えの一端がわかったような感じがしましたので、今回はそのことについて記してみたいと思います。Leśniewski の考えについて関心を抱いているかたは、ほとんど皆無に近いと推測しますが、私は何だかこの人の考えがちょっと気になるのです。


まず、'ε' は、英語で言えば繋辞としての be 動詞対応していると一般に言われています*2。ところで英語における繋辞としての be 動詞が持つ論理的ないみには、おそらく次があると考えられていると思います。(以下、「繋辞としての be 動詞」をすべて単に「be 動詞」と略記します。)


    1.  要素関係 membership-relation: ''Socrates is a man.'' (一つのもの Socrates が、人間の集合/クラスに属する。)
    2.  包含関係 inclusion-relation: ''The dog is an animal.'' (犬であるものの集合は、動物であるものの集合に含まれる。)
    3.  同一性関係 identity-relation: ''Socrates is the husband of Xantippe.'' (Socrates は、Xantippe の夫である人物と同一である。)
    4.  述定 predication: ''Socrates is human.'' (Socrates は、人間であるという特徴/性質/属性を持つ。)
    5.  存在 existence: ''Socrates is.'' (Socrates が存在する。)

Be 動詞の論理的ないみについて、これらの違いが存するということは、現在学校論理学を学ぶなら、明示的に教えられるか、またはそうでない場合にも、私たちが論理学の学習を通して、暗黙のうちに理解、習得していることだと思います。というのも、現代の論理学では上の五つを区別することが、基本的かつ必要不可欠なこととなっているからです。これら be 動詞のいみの違いを把握することが、現代の論理学にとって決定的に重要であるということについては、次の有名な文章がその一部を証し立てています。引用してみましょう。ただし、この引用文をどう解釈すべきかについては、ここでは立ち入りません。なお時間のないかたは、次の二つの引用文を skip していただいても構いません。論述を追うのに支障はありません。


The proposition ''Socrates is a man'' is no doubt equivalent to ''Socrates is human,'' but it is not the very same proposition. The is of ''Socrates is human'' expresses the relation of subject and predicate; the is of ''Socrates is a man'' expresses identity. It is a disgrace to the human race that it has chosen to employ the same word ''is'' for these two entirely different ideas - a disgrace which a symbolic logical language of course remedies.*3

ソクラテスは一人の人間である」という命題と、「ソクラテスは人である」とは疑いもなく等價であるが、それらは全く同じ命題ではない。「ソクラテスは人である」のある主語と述語との關係を表しているが、「ソクラテスは一人の人間である」のあるは同一性を表している。この全く違った二つの概念あるという一つの言葉を使うのは人類恥辱である − もちろん記號論理學的な言葉で矯正できる一つの恥辱である。*4

今の引用文に関しては、次も参照願います。藁谷敏晴、「集合と命題の論理形式」、『現代思想』、1990年10月号、特に206ページ。

また、以下の引用文もご覧ください。

 The above definitions show how far removed from the simplest forms are such propositions as ''all S is P,'' with which traditional logic begins. It is typical of the lack of analysis involved that traditional logic treats ''all S is P'' as a proposition of the same form as ''x is P'' − e.g., it treats ''all men are mortal'' as of the same form as ''Socrates is mortal.'' As we have just seen, the first is of the form ''φx always implies ψx,'' while the second is of the form ''ψx.'' The emphatic separation of these two forms, which was effected by Peano and Frege, was a very vital advance in symbolic logic.*5

 上にのべたいろいろな定義は、傳統的論理學の初めにおかれる「すべての S は P である」というような命題が、簡單な形から非常にかけ離れていることを示している。傳統的論理學では「すべての S は P である」と「x は P である」とを同じ形式、例えば「すべての人は死ぬ」という命題と、「ソクラテスは死ぬ」という命題とを同じ形式として取扱っているが、これはそのような論理學に含まれる不十分な分析の標本的なものである。上に説明したように、明かに前者は「φ(x) は常に ψ(x) を含む」という形のものであり、後者は「ψ(x)」の形のものである。この二つのものを明確に分離させたのはペアノとフレーゲで、これこそ記號論理學におけるじつに重大な進歩であった。*6


さて、そこで、be 動詞を持った文が出てきたら、私たちはその動詞のいみが、今の引用文の前に掲げた上記五つのいみのうちのどれであるのかを特定しようとします。でないと、その動詞の正確ないみを理解したことにはなりませんし、理解したとは感じられないからです。Be 動詞が出てきた時は、上記五つのいみのうち、どれであるのかを特定できて初めてその be 動詞のいみを正確に理解できたと言えますし、理解できたと感じられるのです。(事実、私がそうです。) 現代の論理学を学んだ私たちは、こうするのが普通だと思います。特に意識せずに今述べたような分析を be 動詞に対してやっていると思います。

そして 'ε' は be 動詞に相当していました。そこで私は 'ε' を見たら、その 'ε' が上記五つのいみのうちのどれに当たるのかを特定しようとして来たようです。首尾よく特定できるときもあったと思いますし、そうでない時もあったようです。少なくとも特定化するのが、なかなか困難に感じることが多かった気がします。そのようなわけで、'ε' については「何だか理解しにくいなあ」と思っておりました。「なぜ理解しにくいのだろう?」と感じておりました。


そうしたところ、先日以下の文章を読み直していると、'ε' が理解しにくい理由の一端がわかった気がしました。Leśniewski の教え子の Slupecki さんの手になる文章です。長いですが興味深いものですので、引用してみます。下線は引用者によるものです。後の説明のために施しています。

  • Jerzy Slupecki  ''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in: Studia Logica, vol. 3, 1955, reprinted in Jan T. J. Srzednicki, V. F. Rickey, J. Czelakowski eds., Leśniewski's Systems: Ontology and Mereology, Martinus Nijhoff / Ossolineum, Nijhoff International Philosophy Series, vol. 13, 1984. The citation is from the journal Studia Logica.

 The task of rendering in English the intuitive sense of the symbol ''ε'' which is a primitive term of Leśniewski's ontology, meets with some difficulties. Leśniewski ''was thinking in Polish'' when constructing his ontology, the symbols of his ontology correspond to meanings in Polish and the syntax of his ontology is based upon syntactical principles of the Polish language. One of the fundamental differences between the Polish and the English language is that there are no articles in the former (just as in Latin), while they occur in the latter where the using or non-using of an article before a noun, the use of a definite or indefinite article affects the meaning of the verb which refers to that noun. The English verbal form ''is'' has three different meanings in the following sentences: ''Socrates is a man'', ''The dog is an animal'', ''Socrates is the husband of Xantippe''. One of the following three relations corresponds to the word ''is'' in these three sentences, the membership-relation, the inclusion-relation and the identity-relation. In Polish as in Latin the copula ''jest'' or ''est'', respectively, joins two nouns without any articles. In Latin it does make sense to say: ''Socrates est homo'', ''Canis est animal'', ''Socrates est coniunx Xantippae''. There are two possible viewpoints as to the meaning of the word ''est'' in these sentences. Firstly, we may hold that the above three Latin sentences are translations of the respective English sentences mentioned before, hence that the Latin ''est'' has a different meaning in each of the three sentences. Secondly, it is possible to hold that ''est'' has the same meaning in all three Latin sentences. In that case we may either identify the meaning of the Latin word ''est'' with one and only one of the above mentioned meanings of the English word ''is'', or admit that ''est'' has one meaning in all three quoted Latin sentences and that this meaning is different from any of the three meanings of the English word ''is''. This latter view has been adopted by Leśniewski. He holds, namely, that the Latin ''est'' has one meaning in all contexts of the type ''A est B'' just as the Polish word ''jest'' in contexts of the type ''A jest B'', but that this meaning is different from any of the meanings of the English ''is'' in the sentences: ''Socrates is a man'', ''The dog is an animal'', ''Socrates is the husband of Xantippe''.

  What this meaning is like we may guess from the axiom of Leśniewski's ontology. [...]

 The difference which in Leśniewski's view exists between any of the meanings attributed to the English word ''is'' and the meaning of the Polish ''jest'' or Latin ''est'' and thus also of the meaning of the primitive term ''ε'' in Leśniewski's ontology makes it impossible to illustrate the schema ''A ε B'' by means of examples taken from the English language. Neither the sentences ''Uranus is a planet'', ''John III Sobieski is the deliverer of Vienna'' nor the sentence: ''The whale is a mammal'' are good examples of the schema ''A ε B'' as Leśniewski meant it to be understood, whereas the Polish or Latin translations of the same sentences may serve as good examples: ''Uranus est planeta'', ''Johannes III Sobieski est liberator Viennae'', ''Cetus est mammale''. For the English reader, wishing to grasp Leśniewski's intentions with regard to the meaning of the symbol ''ε'', it is advisable to replace the English examples given in the text by their Latin translations, and the symbol ''ε'' of Leśniewski's ontology should be interpreted rather as the Latin ''est'' than the English ''is''.*7

 However, Leśniewski understands a singular proposition [of the type ''A ε B''] in such a manner that it can be true only if its subject is a singular name. In other words, any singular proposition, the subject of which is an empty name [e.g., ''Hamlet is the hero of a tragedy by Shakespeare''] or a general name [e.g., ''The whale is a mammal''], is false.

 One may raise the question whether the meaning of the word ''is'' in ontology is the same as that currently attributed to it. It is commonplace to say that Leśniewski was not able to fix the meaning of the primitive term of ontology so as to be in conformity with all current meanings of the word ''is'', the more so as propositions of the type ''x is S'' are used with an evident lack of consequence in current speech.*8

一つ目の引用文、その中ほどの下線を引いた文 'This latter view has been adopted by Leśniewski' の述べている内容からわかることは、Leśniewski にとって 'ε' のいみはいくつもあるのではなく、ただ一つであり、しかもそれは引用文中にあるような英文 ''Socrates is a man'', ''The dog is an animal'', ''Socrates is the husband of Xantippe'' の 'is' が持っているような論理的ないみとはまた別のものである、ということです。'ε' は 'is' に当たるものの、それは 'is' のいみを持っていない! そして一つ目の引用文の最終段落からわかることは、'ε' は 'is' のいみを持っていないのだから、'ε' が出てきたら 'is' を使った英文で置き換えて考えるのではなく、冠詞のない Latin 語の文に変換して考えるのがよいとのことです。'ε' を含んだ冠詞なしの式を、冠詞のある英文に置き換えるのではなく、それ故、しばしば主語と述語の間の論理的関係を示唆してくれる冠詞のある英文に置き換えるのではなく、主述の論理的な関係が不分明な冠詞なしの言語に置き換えよ、とは! これでは 'ε' を、引用文の前に掲げた be 動詞の論理的な五つのいみのどれかに腑分けするのではなく、五つのうち、どのいみであるのかを特定しないまま放置しておけ、と言っているに等しいように思われます。'ε' が出てきても、その論理的ないみが何であるのかを考えなくていい、と言われているようなものだと思います。'ε' を Latin 語文の 'est' に置き換えてよいならば、一般に冠詞がないとされている日本語の「〜 は − である」で 'ε' を置き換えてもいいわけだ。

私たちは 'ε' が出てきたら、これは be 動詞に相当するので、その 'ε' が五つのいみのうちのどれであるのかを確認し、それができたならば、その文脈における 'ε' のいみがわかったとして安心するのですが、実は 'ε' のいみは五つのうちのどれということはなく、したがってそのどれかに特定することはいみがなく、たとえ特定してみたとしても、それでその 'ε' がわかったことにはならない、ということになります。今まで 'ε' の言わんとしていることを、be 動詞の論理的な五つのいみのうちのどれかに落とし込もうと私は一生懸命やってきましたが、無駄だったんだ。'ε' はそういうものではなかったんだ。道理でうまくいかないはずだ。

'ε' のわかりにくさは、それを be 動詞の論理的ないみのうちの一つに特定することで解消されると考えていましたが、'ε' は五つのいみのうちのどれか一つにいみが特定されるものではなく、そうすべきものでもないので、'ε' のわかりにくさをそのように解消しようとしても無駄であるとわかりました。これで結局振り出しに戻ったわけですね。全然前に進んでいないことになりますね。

'ε' のいみの座りの悪さは、そのままにしておく他はないようです。'ε' は、日本語で言えば「〜 は − である」の代用または省略形に過ぎず、「〜 は − である」のいみを分析して出てきたものではないようです。

冠詞のない日本語文での「〜 は − である」の論理的ないみが、日本語文の表面上では明示されておらず、日本語文を一見しただけではその論理的ないみが不分明であるのとちょうど同じように、'ε' もそのいみは不分明なのであり、かつ 'ε' を記す際の意図、ねらいからして不分明であるべきなのだ、ということです。以上から、'ε' がわかりにくいのは当然なのであり、わかりにくいままでいいのだ、ということです。何だか身もふたもないですが ... 。


さて、話を一番初めに戻すと、そもそも 'ε' を理解することのむずかしさについて考え出したきっかけは、Frege が突き当たった Russell Paradox に対し、彼が修正を施した体系からも矛盾が出てくることを Leśniewski が term 'ε' を使って証明したことにありました。その証明を正確に理解するためには、'ε' の正確な理解が必要なのですが、その 'ε' がまたわかりにくいという話になってその理由を探索し、原因の一端がわかったような気がしましたので、その原因と思われるものを今回記してみたわけです。

では仮にその原因なるものが確かに本当に原因になっているとして、Leśniewski による矛盾導出の正確な理解をこれで得ることができるのでしょうか? う〜む、そう言われるとちょっと困ってしまいます。というのも、先ほど四つ前の段落で触れたように、私たちは「振り出し」に戻ってしまったので、'ε' を含んだ式の正確な理解は、従来思っていたようなやり方では、つまり 'ε' のいみを be 動詞の五つの論理的いみのうちから選び出すことによって把握するというやり方では得られない、ということがわかっただけになります。参りましたね。

とはいえ、問題解決のための方策のうち、その一つが袋小路に突き当たるということがわかっただけでも一応前進と言えるでしょう。袋小路に入り込む手は使うべきでないとわかった限り、別の手に正解があることがわかり、正解の候補の数を少し絞り込むことができたわけですから。といっても、残りの候補からただちに正解を引き当てることができるのか、と言われると、否定的な返事をせざるをえません。正直に言ってどこに正解があるのか、私にはわかりません。

ただし、'ε' が英語の be 動詞のいみを持たないとしても、'ε' がどのようなものであるかは、Leśniewski 本人や彼の弟子の方々の解説から、ある程度推測できるかもしれません。今のところそうする他はないようです。そこで、'ε' が何であるのかをいくらかなりとも明らかにしてくれている 'ε' の説明文、なかでも私にとって参考になりそうなその説明文を、可能ならば後日、この日記で列挙してみたいと思っております。ただの予定ですので、できるかどうかはわかりませんが ... 。もしもできたならば、きっと皆さんの参考にもなると思います。

今日はここまでにします。何か間違ったことを書いておりましたらすみません。どうかお許しください。

*1:'ε' がわかりにくいのは、私の能力にだけ起因しているのでないようです。以下の文献で石本先生も、それが元々理解しにくいものであることを述べておられます。石本新、「序文」、『自然言語の論理とその存在論 レスニェウスキー存在論の立場から』、石本新編著、多賀出版1990年、v-vii ページ。このわかりにくい 'ε' を理解する方法には、従来から二つあると石本先生は同じページで述べておられます。ここでその二つを、私のほうで一部解釈を入れ、敷衍しつつまとめておきます。「'ε' を理解する方法」。(1) 一つ目の方法: 'ε' を翻訳せず、直接理解する方法。あるいは 'ε' を含んだ式を、(冠詞のない) 自然言語の文に相当するものとして捉えた上で、直読直解する方法。'ε' を含んだ式を多数読むことによって、'ε' のいみの近似値を出して行く。これは Leśniewski 自身が採用している方法。問題点: それでは理解しにくい。何にも翻訳せず、あるいはせいぜい冠詞のない自然言語に翻訳するだけで、'ε' を持った式のいみを、いわば「直観」するようなものであり、そのような地道な読解の場数を踏むことで 'ε' のいみを体得して行こうとしているので、'ε' のいみの定式化になじまない。たかだか体得のコツ (tip) をいくつか示してみせることができるだけである。(2) 二つ目の方法: なじみのない 'ε' を含んだ Leśniewski の Ontology の一部を、なじみのある論理体系に埋め込むことによって、'ε' を理解する方法。'ε' の現れる式を、たとえば等号を伴う古典一階述語論理なかに埋め込む、という具合。この場合、'ε' を持った式を、古典一階述語論理の式であるかのように解釈することで、'ε' を理解していくことになる。具体的には、'a ε b' という式の 'a' を 'f(x)', 'b' を 'g(y)' などと解し、'a ε b' 全体を 'f(x) ならば g(y)' などと解する方法である。問題点: Ontology の式 'a ε b' を、古典一階述語論理で理解しようとしても、Ontology に対する理解と、古典一階述語論理に対する理解とが衝突してしまう/齟齬を来たす。具体的には、'a ε b' を 'f(x) ならば g(y)' と解することは、'a ε b' の 'a', 'b' を一種の述語と解し、それが表しているものを一種の普遍と解することになるだろうが、これは Ontology では許容できない解釈である。

*2:'Leśniewski coordinates the symbol ''ε'' to ''is'', the primitive term of ontology.' 試訳/私訳 「Leśniewski は ontology の原始的タームである記号 ''ε'' を ''is'' に対等するものとしている。」 (本文で後ほどわかってくるように、ここでは 'coordenates' を「合わせる/調節する」と訳すのは、適切ではないと判断しています。) See Jerzy Slupecki, ''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in Studia Logica, p. 12, reprinted in Leśniewski's Systems: Ontology and Mereology, p. 64. The citation is from the journal Studia Logica. これらの文献の書誌情報の詳細は、本文中で後述します。

*3Introduction to ..., p. 172.

*4:『数理哲学序説』、弘文堂、263ページ、岩波文庫、224ページ。

*5Introduction to ..., p. 163.

*6:『数理哲学序説』、弘文堂、250ページ、岩波文庫、214ページ。

*7:''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in Studia Logica, pp. 13-14, footnote ★, or in Leśniewski's Systems, pp. 65-66, footnote *.

*8:''S. Leśniewski's Calculus of Names,'' in Studia Logica, p. 14, or in Leśniewski's Systems, p. 66.