nuhsnuhの日記

2018-11-11 Kripke’s Argument against Descartes’ Doctrine of ...

[] Kripke's Argument against Descartes' Doctrine of the Creation of the Eternal Truths


0. はじめに

1. Descartes の永遠真理創造説とは何か?: 入門書から引用

2. Descartes の永遠真理創造説とは何か?: 本人の文の (和訳からの) 引用

3. Kripke 先生、Descartes を駁す。

4. Kripke 先生による Descartes 駁論再構成必要とされる制約について。


0. はじめに

次の文献を読んでいると、

  • Romina Padro  ''What the Tortoise Said to Kripke: The Adoption Problem and the Epistemology of Logic,'' CUNY Academic Works, 2015, A Ph.D. Dissertation submitted to the City University of New York, <http://academicworks.cuny.edu/gc_etds/603>,

興味深い論証がありましたので、今日はそれを記しておきたいと思います

その論証とは、Saul Kripke 先生が René Descartes さんの永遠真理創造説 (le thèse de la création des vérités éternelles) を論駁したものです。Descartes さんの永遠真理創造説を Kripke 先生が批判されているということで、面白そうですね。しかもこの批判はとても短い論証から成っていますので、近づきやすいみたいです。

ただ、この論証は Kripke 先生の手によっては、まだ刊行されていないようです。しかし先生はかつてその論証を大学の lecture で話をしており、現在その記録が残っています。そこでこの記録をもとに、上記の論文で Padro 先生がその論証を公表されました。今回はそれを引用してみたいと思います。

本日の日記のこの後の流れですが、Kripke 先生による Descartes さんの永遠真理創造説駁論を記す前に、そもそも Descartes さんの永遠真理創造説とは何であるのかを提示しておきたいと思います。そこでまず、その説の解説文を入門書から引用します。次に Descartes さん本人の話を邦訳から引用します。なお、入門書からの引用と、Descartes さんからの引用に際しては、直接関係しているところだけを切り詰めて引用するのではなく、前後文脈がつかめるように、比較的長めに引用します。どうかご了承ください。

そしてそのあと、Kripke 先生の駁論を引用し、私による和訳を付けてみます。

それからおまけとして、その駁論のやさしい言い換えを私の方で行い、これを記そうと思ったのですが、自分で作ったその言い換えを読み直してみると、どうも間違っているように思われるので、ここに記すのをやめにしました。それに Kripke 先生の駁論も読み直してみると、その駁論がどのような論証なのか、正確なところがわからなくなってきました。読み直せば読み直すほど、先生の論証を整合的に再構成できないような気がしてきて、迷路に入ってしまったみたいです。出口は目の前にあるのかもしれませんが、あったとしても、なぜだか私には見えません。能力不足かもしれません。

間違っているかもしれないものの、それでもそのような私の言い換えを記しておけば、それを一つの叩き台、踏み台にして Kripke 先生の駁論をよりよく解釈することが、皆さんにとって可能となるかもしれません。しかし、言い換えた私の案はいくつかあり、どれもひどい勘違いにとらわれているかもしれず、さすがにそれは恥ずかしすぎるので、今回は遠慮させてもらいます。

そのようなわけで、先生の駁論のやさしい言い換えの代りに、言い換える際に守るべき制約を箇条書きにしておきました。先生の論証を再構成する場合、それを順守しなければ先生の論証の再構成とはならなくなってしまうような、そのような条件のことです。もしもご自分で先生の論証を再構成してみようと考えている方は、参考になるかもしれません。(ならなかったらすみません。)

本文に入る前に一言。私の記述や私の考えが間違っていましたらごめんなさい。前もってお詫び申し上げます。



1. Descartes の永遠真理創造説とは何か: 入門書からの引用

さて、Descartes さんの永遠真理創造説とは何でしょうか。その説明を二つ、入門書から引いてみたいと思います。( ) は原文にあるものです。[ ] は引用者によるものです。


最初は、

からです。段落ごとに改行せず、すべて詰めて引用します。

そうしてデカルトは、すべての自然現象を説明しようと決心して、『世界論 (宇宙論)』の執筆にとりかかる。[...] そこで、この『世界論』の執筆が契機となって、もう一つの、デカルトの自然哲学の支柱となる重要形而上学上のテーゼが設定されることになった。それは、メルセンヌ宛の書簡 (一六三〇年) で表明される、解釈者たちによって「永遠真理創造説」と呼ばれるものである。それは、神は、伝統的に永遠真理と呼ばれ、それ自身は創造の対象とは考えられてこなかった「数学的真理」をも他の被造物と同様に創造したのであり、一方でそれの観念人間精神のうちに生得的に刻印し、他方で、それによって自然法則を構成した、というものである。*1

この後の話に関係のある限りでこの引用文をかいつまむと、従来、永遠真理と呼ばれてきた数学的真理、神が創造したものではないとされて来ましたが、Descartes さんによると、その真理は神が創造したのである、ということです。


[デカルトの永遠真理創造説という] このテーゼは、数学的真理をも神の創造の所産とすることによって、数学的真理は神の創造をも拘束する絶対的必然な真理ではなくなるという事態をもたらっす。というのも、キリスト教教義の一大原則は「神の無からの創造」ということにあり、神があるものを無から創造したということは、そうでないものをも創造しえたということを意味するからである。したがって、神が数学的真理をも創造したと解することは、神は現にわれわれが知る数学の体系以外の体系をも創造しえたと理解することになる。こうして、この「永遠真理創造説」のもとでは、数学的真理は神の知性をも規制する絶対的に必然な真理ではないということになるのである。そうすると、この「永遠真理創造説」を主張する者は、その裏面として、現にわれわれが唯一必然と思っている数学の真理も、じつはそうではないのではないか、という懐疑を引き受けなければならないことになる。ついでにいえば、デカルト以後の「大陸の合理主義者」といわれるスピノザライプニッツやマルブランシュは、いずれもこのデカルトの「数学的真理」への懐疑を真面目なものとうけとめなかった。それは彼らがみな、数学的真理は神の知性をも拘束する絶対的に必然なものと考えたからである。とりわけライプニッツは、「矛盾律」という論理法則は絶対的であって、これが神の概念 (最も完全な存在という概念) にも適用されねばならず、神の存在の証明には、それが矛盾を含まないということが前提されねばならないと考えた。*2

Descartes さんの主張に基づけば、数学的真理は神が作ったものであり、その真理は初めから神を拘束するものではないのだそうです。また、私達には必然的と思われる数学的真理は、今のものとは違うように神が創ることも可能だったので、その真理は必然的ではない、ということみたいです。


次は、

から、Descartes さんの永遠真理創造説の解説文を引いてみます。ここでも段落ごとに改行せず、すべて詰めて引用します。また、原文にある註の番号も省いて引用します。

デカルトは内外の感覚が確かな知識であることを否定し、ついで数学的真理もまた、全能の神があざむいているのかも知れぬという理由で、疑わしいと考えました。この「欺く神」または「悪い霊」の意味は何であろうか。それは第一に、神学を背景にもつ考えであって、論理的数学的真理もまた神の意志決定依存している、という思想から出ています。もし反対に、数学的真理が神の自由意志から独立であって、その真理は神にとってもどうにもならぬ必然性をもつと考えるなら、神の自由意志は数学や論理学の法則によりしばられることになるが、これはギリシャの神々が運命支配下にあったように、キリスト教の神もまた必然性の支配をうける、と考えることになり、不都合である、というのであります。そこで神には、二たす二は四でないようにすることもできた、とみとめねばならない、という。これは十四世紀のオッカムの神学、宗教改革者の神学につながり、デカルトの同時代ではジャンセニウス派に親しい考えであります。(もっとも神は矛盾律をも破りうるとまで考えるかどうかは、意見が分れる点であって、たとえばデカルトのすぐ後のパスカルは、数学的真理でなくて主に正義の法則についてであるが、これを神の意志決定に全く依存する、と主張して、同じ派でももう少し理性に寛容なアルノーと対立している。)*3

論理学や数学の真理が神の意志から独立した必然的真理であるならば、全能のはずの神が当人にはいかんともしがたい拘束をその真理から受けることになる。これは全能とされるはずの神にとっては不都合である。故に論理学や数学の真理も神によって自由に創られたのだ、神にとっては 2+2≠4 も可能であったのだ、ということが Descartes さんの主張みたいです。


2. Descartes の永遠真理創造説とは何か: 本人の文の (和訳からの) 引用

では、Descartes さん本人は永遠真理創造説を、どのように述べておられるのでしょうか。七つ、文章を邦訳から引いてみます。

まず、書簡から。引用文中の [ ], ( ) は邦訳にあるものです。{ } は引用者によるものです。註、振り仮名は、省いて引用します。なお、下線は引用者によるもので、永遠真理創造説を直接述べていると思われる部分に線を引いています。


私の自然学においては、いくつかの形而上学の諸問題に、とりわけ次のような問題には触れずにはおかないでしょう。永遠であると称される数学的真理は、他のすべての被造物と同様に、神によって確立されたものであり、神に全面的に依存している、ということです。実際、この真理が神から独立したものだと言うことは、神をユピテルやサトゥルヌスとして語ることになり、神をステュクス川と運命 [の女神たち] の支配下に置いてしまいます。あたかも王が自分の王国に法を確立するように、自然の中にこれらの法を確立したのは神であることを、どうかいたる所で断言し、公言なさるのを怖れませぬよう。

引用文中の固有名について、手を伸ばして取り出せるところに置いてある

により、調べてみると、

ということです。参考にしてみてください。


引用を書簡から続けます。

  • ルネ・デカルト  「31 デカルトからメルセンヌへ アムステルダム 1630年5月6日」、『デカルト全書簡集 第一巻』、山田弘明他訳、知泉書館、2012年、139ページ。

 永遠真理について繰り返しますが、「それらの真理が真あるいは可能となる理由は、ただ神がそれらを真あるいは可能であると認識するからであり、これに反して、それらがあたかも神から独立であるかのように、神によって真と認識されるからではありません」。そして、人が自分の言っていることの意味をよく理解しているのであれば、あることがらについての真理は、神がそれについて持っている認識に先立つと言うことは、神を冒涜*4することになりかねないでしょう。というのも、神において意志することと認識することは一つのことでしかないからです。その結果、「神があることがらを望むというそのこと自体から、神はそれによってそのことがらを認識し、それによってのみそのことがらが真となるのです」。それゆえ、「神が存在しなかったとしても、これらの真理はなお真であろう」と言ってはなりません。というのも神の存在は、およそありうるすべての真理のうちで第一のものであり、最も永遠なものであり、そこから他のすべての真理が生ずる唯一のものだからです。


  • ルネ・デカルト  「32 デカルトからメルセンヌへ アムステルダム 1630年5月27日」、『デカルト全書簡集 第一巻』、山田弘明他訳、知泉書館、2012年、141-142ページ。

 あなたは「どのような種類の原因によって、神が永遠真理を確立したのか?」と、お尋ねになっております。それは、あらゆる事物を神が創造したのと「同じ種類の原因によって」、すなわち「作用的で全体的な原因として」であるとお答えします。というのも、神が被造物の存在の作者であるように、本質の作者でもあることは確かだからです。ところでこの本質とは、永遠真理以外の何ものでもありません。私はそれが太陽の光のように神から流出するとは考えておりません。むしろ、神があらゆる事物の作者であり、この真理は何らかのものであり、その結果、神はこの真理の作者であるということを私は知っております。私はこのことを知っていると言い、理解するとも把握するとも言っておりません。というのも、有限であるわれわれの精神は神を把握したり、理解したりすることはできないにもかかわらず、神が無限で全能であるということ自体は知ることができるからです。それはちょうど、われわれは両手で山に触れることができるけれども、われわれの腕の大きさを越えない木や何であれ他のものを抱きかかえるのと同じ具合に、山を両手で抱きかかえることはできないのと同様です。というのも、把握するとは思考によって包み込むことでありますが、あることがらを知るには、思考によって触れるだけで十分だからです。

 あなたは、何によって神はこれらの真理を創造するよう余儀なくされたのか? ともお尋ねです。神は、中心から円周へと引かれたすべての直線が等しいということを真ではないようにすることができるほど自由であったのと同様、世界を創造しないことも自由であった、とお答えします。そして、これらの真理が、他の被造物よりもより必然的に神の本質に結びつけられているわけではないことは確かです。あなたは、神が永遠真理を生み出すために何をしたのか? とお尋ねです。私は「はるか永遠の昔から神がそれらの真理を望み、知性で認識したということ自体から真理を創造した」、あるいは (もしあなたが、「創造した」という言葉を事物の存在にのみ関係づけておられるのであれば) 「真理を確立し、作った」とお答えします。というのも、神においては、意志すること、理解すること、創造することは同一のことであり、理論の順序においてさえも、一方が他方のものに先行したりすることはないからです。


  • ルネ・デカルト  「454 デカルトからメランへ ライデン 1644年5月2日」、『デカルト全書簡集 第六巻』、山田弘明他訳、知泉書館、2015年、156-157ページ。

 三角形内角の和が二直角に等しいとか、あるいは一般的に、相矛盾するものは同時に存立しえない、ということを真ではないようにすることが、いかにして神にとって自由でありまた非決定であったのかを理解することの困難さについて申し上げれば、それは以下のようにして容易に取り除くことができます。すなわち、[第一に] 神の力にはいかなる限界もあり得ないと考えることです。そして [第二に]、われわれの精神は有限であり、次のような本性をもつものとして創造されたと考えることです。つまり精神は、神が実際に可能ある {ママ} ことを欲したものを、可能なものとして理解することはできても、神が可能にすることもありえたであろうが不可能にすることを欲したものを、可能なものとして理解することはできない、ということです。実際、第一の考察は、神は、相矛盾するものは同時に存立しえないということを真とするように、決定していたということはありえない、したがって神はその反対をすることもできた、とわれわれに認識させます。次に第二の考察は、このことが真であるとしても、これを把握するよう努めるべきではない、とわれわれに確信させます。なぜなら、われわれの本性ではそれが不可能だからです。そして、たとえ神がいくつかの真理が必然的であることを欲したとしても、だからといって、神がそれらの真理を必然的に欲した、ということにはなりません。と申しますのも、それらの真理が必然的であることを欲することと、そうであることを必然的に欲すること、すなわち、そうであることを欲するのが必然であるということとは、まったく別のことだからです。確かに、あなたが提示された「神は被造物が神に少しも依存しないようにすることができたであろう」ということのように、それがまったく不可能であるとわれわれが判断することなしに、それをわれわれの精神に表示することができないほどに明白な矛盾が存在することを、私はもちろん認めます。しかしわれわれは、神の力の広大さを認識するために、そのような矛盾を思い描くべきではありませんし、また、神の知性と神の意志との間にいかなる優位ないし優先をも思い抱くべきではありません。と申しますのも、われわれが神についてもっている観念は、神のうちにはまったく単純でまったく純粋な、唯一の働きしか存在しないことを、われわれに教えています。聖アウグスティヌスの次の言葉は、このことを非常に見事に表現しています。「あなた [神] がそれらのものを見給うがゆえに、それらのものは存在する ... 」。なぜなら、神においては「見ること」と「欲すること」は同じ一つのことに他ならないからです。


  • ルネ・デカルト  「665 デカルトからアルノーへ パリ 1648年7月29日」、『デカルト全書簡集 第八巻』、山田弘明他訳、知泉書館、2016年、79ページ。

確かに私には、何らかのことが神によってなしえないと言うべきであるとは決して思えません。実際、あらゆるものの真性や善性は神の全能に依っていますので、神には、谷のない山が存在したり、一に二を加えて三にならないようにすることができない、と言うつもりはまったくありません。ただ私は、谷のない山や、一に二を加えたものが三にならない、等々ということが概念できないような精神を、神が私に与えたのであり、そうした事柄は私の概念のうちに矛盾を混入することになる、と言っているのです。


次に著作から引用します。〔 〕 はフランス語原典にあるもの、[ ] は邦訳者によるもの、{ } は引用者によるものです。また、邦訳にある振り仮名は、引用者の方で丸括弧 ( ) に入れて記します。下線も引用者によるものです。

  • ルネ・デカルト  「第六反論に対する答弁」、『デカルト著作集 2』、所雄章他訳、白水社1973年、初出1641年、493ページ。

意志決定の自由について言えば、われわれのうちにおけると神のうちにおけるとでは、そのあり方が格段に異なっています。というのは、神の意志が、作られたところのもしくはいつか作られるであろうところのすべての事物 (もの) に対して、永遠の昔から非決定でなかったということは矛盾であるからで、それというのも、善なるものにせよ、真なるものにせよ、あるいはまた信ぜられるべきもの、あるいはなされるべきもの、あるいはやめられるべきものにせよ、神の意志がそれら 〔の本性〕 がそうなるという事態をしつらえるべく自らを決定するに先んじて、それらの観念が神的知性のうちにあったというようなものはなんら仮想することはできない、からです。ここで私は、時間的な優先性について語っているのではありませんし、順序、あるいは本性、あるいは 〔学院で〕 そう呼ぶような推論の規則なるものからして 〔神の意志決定に〕 先んじていた、すなわち、そうした善の観念が神を駆りやって、他の [或る] ものよりはむしろ [或る] 一つのものを選ばしめた、と言っているのですらないのです。つまり、例をあげると、神が世界を時間のうちに創造することを欲したのは、それがそういうふうになっているほうが、永遠の昔から創造されていたとしたよりも、いっそう善いであろうと見てとったから、それだからなのではありませんし、また、三角形の三つの角 [の和] が二直角に相等しくあることを欲したのは、彼がそれとはちがったようになりえないと認識したから、なのではないのです。そうではなくて逆に、神が世界を時間のうちに創造することを欲したから、それゆえそれは、永遠の昔から創造されていたとした場合よりも、かくはより善いのであり、また、神が三角形の三つの角 [の和] の必ずや二直角に相等しくあることを欲したから、それゆえに今やそのことが真なのであって、それとちがったようにはなりえないのです。かくして、それ以外のものについても事情は同様です。


  • ルネ・デカルト  「第六反論に対する答弁」、『デカルト著作集 2』、所雄章他訳、白水社、1973年、初出1641年、496-498ページ。

神の広大無辺さに注意する者にとっては、神に依存しないようなものはおよそ何も、すなわち、存在しつづけているものは何も、というばかりではなくて、またいかなる命令も、いかなる法も、あるいは真と善とのいかなる根拠も {神に依存しないものは} ありえない、ということは明瞭です。というのは、そうでないとすると、少し前に言われていたように、神は、彼が作ったものを作るのに、全く非決定であったということにはならなくなってしまうことでしょうから。というのも、善の何らかの根拠が神の予定に先行したとするならば、その根拠が神を、最善であるところのものをなすように決定したということになってしまうでしょうから。しかし、[実際には] 逆に、神が自らを、現に 〔この世界に〕 あるところのものを作るように決定したから、それだから、『創世記』に述べられているように、「それらははなはだ善である、」{ママ} のですし、言いかえるならば、それらの善性の根拠は、神がそれらのものをこのように作ることを欲したという、そのことに依存しているのです。ですから、いったいいかなる類の原因によって、そうした善性や、〔すべての〕 他の、数学のであろうと形而上学のであろうと真理 [ども] が、神に依拠しているかを問うことは必要ではありません。{...} また、神が永遠の昔から、四の二倍が八であること、等等、は真でなかったようにすることができたのはどうしてなのか、を問うことも必要ではありません。というのは、私はそれがわれわれによっては知解されえないということを認めているからです。けれども、他方では正しく私は、いかなる類の存在 (もの) のうちにも、神に依存しないようなものは何もありえないということを、そして、神にとっては或る種のもの [ども] を、われわれ人間によってそれらが現にある状態とはちがった状態にもありうることが知解されるということのないように、そういうふうに設定することは容易であったということを知解しているのですから、われわれが、知解してもいなければ、われわれによって知解されねばならぬことに気づいてもいないところのもの [理由] のために、正しくわれわれの知解しているところのものについて疑うということは、理にもとることにもなるでしょう。したがって、「永遠の真理は、人間の知性にか、あるいは、他の存在する事物 (もの) にか依存する」、とではなくて、それらの真理を永遠の昔から、この上なき立法者として制定したところの、独り神 〔の意志〕 にのみそれらは依存する、と考えるべきなのです。


3. Kripke 先生、Descartes を駁す。

さて問題の、Kripke 先生による Descartes の永遠真理創造説駁論を、次から引用します。文献名を再度掲げます。

  • Romina Padro  ''What the Tortoise Said to Kripke: The Adoption Problem and the Epistemology of Logic,'' CUNY Academic Works, 2015, A Ph.D. Dissertation submitted to the City University of New York, <http://academicworks.cuny.edu/gc_etds/603>.

Descartes さんは、上に引いた本人の説明からわかるように、論理の成り立たないような世界を神は創ることができたし、そのような世界は、神が創造することで存在しうる、と考えています。この主張に Kripke 先生は反対します。神が命令によってそのような世界を創ることができるとすることに、Kripke 先生は問題を見ています。先生の反論は以下のとおりです。

なお、引用文中にある ( ) は、英語原文にあるものです。原文の後に、私による私訳/試訳を付けておきます。私による訳ですので誤訳しているかもしれませんから、必ず参考程度にしておいてください。あらかじめ存在するであろう誤訳、悪訳に対し、お詫び申し上げます。

 We do not need to consider whether the laws of logic are necessary by divine decree, or whether a coherent conception of their necessity could accord with this. It is enough to see whether a divine decree could make the laws of logic true (in the actual world). My claim is that God's decree that every universal statement implies each of its instances will be of no use.

 For example, would the decree necessitate that ''everything can be at most at one place at a given time'' implies that such and such a rock can be in at most at one place at a given time? No, because according to Descartes there is a possible world in which every universal statement implies each of its instances, but at the same time a particular universal statement about places does not imply each of its instances. Similarly for any other particular universal statement. Thus, the decree by God that universal instantiation does hold in the world he created would be in and of itself useless.

 To repeat: is it sufficient to explain why every universal statement implies its instances that God decreed that this be so? No, because it would be possible that God should have decreed that every universal statement implies its instances and also that a particular universal statement fails to imply all of its instances. Therefore, such a decree is ineffective by itself (and God of course could have made such a conflicting decree because, according to Descartes, he is not bound by the laws of logic or anything else).

 The laws of logic need to hold for these divine decrees to be at all effective, otherwise God could decree that the three angles of a triangle equal two right angles, but nevertheless at the same time decree that the three angles of a particular triangle do not equal two right angles. Hence, such divine decrees are ineffective as to explain why the laws of logic hold in the actual world, let alone other possible worlds. With other cases, as for example why are there frogs, a decree could work as an explanation, but not in the case of logic.*5


 神の命令によって、論理法則が必然的であるのかどうか、あるいは、論理法則の必然性についての整合的な考えが、神の命令に合うのかどうか、ということを、我々は考える必要はない。神の命令が論理法則を (現実の世界で) 真にすることができるのかどうかを見るだけで、十分である。私の主張は、こうだ。すべての普遍言明はその個別例のどれをも含意する、という神の命令は、どうしても役には立たない、というものだ。

 たとえば、神の今の命令は、次のことを必然的なものにするだろうか。すなわち、「すべてのものは、高々一時に一つの場所を占めることができるだけである」は、しかじかの一つの岩は、高々一時に一つの場所を占めるだけである、ということを含意するだろうか。いいや、含意しない。なぜなら、デカルトによると、すべての普遍言明がその個別例のどれをも含意していながら、しかし同時に、場所に関する特定の普遍言明がその個別例のどれをも含意するとは限らないという、そういう可能世界があるからである。同様のことは、その他のどんな特定の普遍言明にも当てはまる。こうして、普遍例化は神が創り出した世界で成り立つのだ、とする神の命令は、それ自体では無益だろう。

 繰り返そう。なぜすべての普遍言明がその個別例を含意するのかを説明するために、すべての普遍言明がそのとおりであるようにと神が命令したからであると言うだけで、十分だろうか。いいや、十分ではない。なぜなら神は、すべての普遍言明はその個別例を含意するのだ、と命令するとともに、ある特定の普遍言明はその個別例のすべてを含意しているとは限らないのだ、と命令することもあったはずであり、このことは可能だろうからである。それ故、そのような、すべての普遍言明はその個別例を含意する、という命令は、それだけでは効力を持たない。(そして、もちろん神は、デカルトによるならば、論理法則やその他のものに縛られはしないので、今述べたような相容れない命令を、神は下すこともできただろう。)

 論理法則は、ともかく効力を持つべきこれら神の命令に対し、成り立つ必要がある。さもないと、神は、三角形の三つの角は二直角に等しい、と命令する一方で、それにもかかわらず同時に、特定の三角形の三つの角は二直角に等しくない、と命令することもできてしまうだろう。故に、そのような神の命令は、なぜ論理法則が現実の世界で成り立つのかを説明することについて、効力を持たない。いわんや他の可能世界においてをや。別の場合、たとえば、なぜ蛙がいるのか、ということについては、命令は説明として機能し得るだろうが、論理の場合には機能し得ないだろう。


4. Kripke 先生による Descartes 駁論再構成に必要とされる制約について。

最初に述べたように、Kripke 先生による Descartes 駁論を再構成する際に、課されるべき制約がいくつかあります。少なくとも全部で9つです。その制約を列挙しておきます。


1. 矛盾律が鍵。

Kripke 先生の教え子である Padro 先生によると、Descartes に対する Kripke 先生の論証では、神は「p かつ p でない、ということはない」という矛盾律*6を犯すことができるということが、鍵になっているとの話です (Padro, p. 126.)。つまり、神は矛盾したことも命令でき、矛盾したことも成立せしめることができる、ということが鍵になっているということです。そこでこの矛盾律に対する神の侵犯を中心に論証を敷衍する必要があります。


2. Epistemological argument ではなく、modal argument.

やはり Padro 先生によると、Kripke 先生の問題の論証は、何かを知っているとか知らないということに関する epistemological な argument ではなくて、metaphysical なことに関する modal argument だそうです (Padro, p. 126.)。そこで modal argument というつもりで論証を敷衍する必要があります。


3. 神の命令によって論理法則が必然的であるかどうかは関係ない。

Kripke 先生は、自身の論証の冒頭で、自分の論証では、神の命令により論理法則が必然的であるかどうかは問題になっていない、と明言しています。そこで必然性の概念を前面に立てないようにして、論証を敷衍する必要があります。


4. 神の命令が論理法則を真にできるかどうかが問題である。

Kripke 先生は、自身の論証の冒頭で、むしろ自分の論証では、神の命令が論理法則を真にできるかどうかが問題である、と言っています。そこで、論理法則が真であるかどうか、真にできるかどうか、真であるならば、どういうことになるのか、ということに注目しながら論証を敷衍する必要があります。


5. 神の命令が論理法則をこの現実の世界で真にできるかどうかが問題である。

Kripke 先生は、論証の最初の段落と最後の段落で、神の命令が論理法則を、何よりもまずこの現実の世界で真にできるかどうかを問題にされています。この現実の世界以外の特殊な可能世界を持ち出して駁論を展開されているわけではありませんので、この現実の世界を念頭に置いて論証を敷衍する必要があります。


6. 神は論理法則を真にすることはできるのだが、そのことを利用したところで論理法則が真であることの説明としては役に立たない。

Padro 先生によると Kripke 先生の問題の論証は、Descartes の永遠真理創造説が不整合だとか理解しがたいということで論難を加えているのではないそうです (Padro, pp. 125-126.)。実際 Kripke 先生が行なっている論証は、Descartes の説が、論理法則の成立することの説明としては、役に立たないということの主張です。そこで Descartes の説では役に立たないことが明らかになるように、論証を敷衍する必要があります。


7. かえる君を無視しない。

神の命令を持ち出すことで、論理法則が真であることを説明しようとしても、それは役に立たないが、かえる君がなぜこの世にいるのかを説明する際には、神の命令による説明は役に立つと、最終段落で Kripke 先生は述べておられますので、論理法則の説明には役に立たないものの、かえる君の存在理由には役に立つというように、論証を敷衍する必要があります。


8. 神の概念の深い解釈は前提しない。

神は、無限であるとか完全であるとか慈悲深い、などなどと言われます。しかし Kripke 先生の論証に現われる神は、単に全能なだけの神であると思われます。全能であるが故に論理法則に縛られない神が先生の論証で使われていますので、神のそのような特徴だけを使って論証を敷衍する必要があります。


9. 命令の概念の詳しい解釈は前提しない。

平叙文を述べることと命令文を述べることは、一般に、異なるとされています。命令するということには、他にはない特徴があるということです。しかも神の命令となると、それは人間の下す命令とは、かなり違ったものだろうと想像されます (人間の命令には逆らおうと思えば逆らえるが、神の命令は逆らうことが不可能な強制力を持つ、など)。しかし Kripke 先生の論証では、神による特殊な命令の能力は前提されていないようです。そこで神の命令に特別意味合いを持たせないようにして、論証を敷衍する必要があります。(上に挙げた Descartes さんの多数の引用文からわかることの一つは、彼の永遠真理創造説では命令の概念が持ち出されていない、ということです。Kripke 先生は盛んに「命令、命令」と言っておられますが、Descartes さんはまったくそういう言葉は言っておられないようです。これが、永遠真理創造説に対する両者の違いの一つになっています。)


以上が、再構成する際に課される特別な制約のすべてです。これ以外にも課されるべきことがあるかもしれませんが、これぐらいにしておきます。また、以上の制約を緩めるとか、減らすということも考えられますが、今回はそこまでは検討致しません。どうかご了承ください。(しかし、制約を緩めたり減らしたりすると、Kripke 先生の問題の論証はどう変わるのか、そのことを考えてみるのも面白いと思いますが。)


これで終わります。本日の記述が、少しでもどなたかのお役に立てればと思います。今日の話からは、たとえば次のような諸問題に対し、何かヒントが得られるかもしれません。論理法則/規則とは、どのような特徴を持ったものなのか、それは必然的か否か、必然的ならどのような点で必然的なのか、必然的でないならなぜ必然的でないのか、必然的でないとすると論理法則/規則はどうなってしまうのか、神は全能か、全能なら神は論理法則/規則をどうとでもできるのか、神が全能でないならこの世はどうなるのか、神に義はあるのか、などなど、などなど、です。

なお、今日記したことに誤解、勘違い、無理解、誤字、脱字などがありましたらすみません。どうかお許しください。

*1小林、70ページ。

*2:小林、98-99ページ。

*3野田、94-95ページ。

*4:引用者註。この「涜」の字は、邦訳では、さんずい偏に、士、四、貝を縦に並べた旁から成りますが、都合上、「涜」で代用しています。

*5:Padro, p. 125.

*6:「無矛盾律」とも呼ばれています。

2018-10-01 Lvov-Warsaw School and Our Philosophies

[] Lvov-Warsaw School and Our Philosophies


ニュースを一つ。そしてそれに関して、私見を思い付くままに記してみます*1

哲学論理学の Lvov-Warsaw School に関心をお持ちの日本人は、その数が極めて少ないと思われますが、この学派の哲学について、興味深い文献が本日刊行されました。それは、以下の雑誌掲載されています。



ここに次の解説翻訳が載っています。



Kazimierz Twardowski の論文ポーランド語から和訳したものに、中井先生が解説を付けておられます。すごいですね。びっくりしました。このような試みはかなり珍しいと思います。昔、藁谷敏晴先生が Lesniewski の重要文献の一部をポーランド語から和訳し、『科学哲学』誌に掲載されていたことが思い出されました。書籍では高松鶴吉先生が Lukasiewicz の論理学の教科書をポーランド語から翻訳しておられたことがありました。ポーランド語重要文献からの和訳は、ぽつぽつとはあったかもしれませんが、ほとんどないに近い状態だったように記憶しています。それを思うとかなり珍しいですね。

少し前に、「間もなく Lvov-Warsaw School に関する翻訳が、雑誌に載るらしい」という情報キャッチしたのですが、その時、私が思ったのは「かなり前に Wolenski 先生が Synthese Library Series から出された英訳本の抄訳が載るのか、あるいはその改訂フランス語版からの抄訳でも載るのかな?」ということでした。しかし本日ふたを開けてみると、Twardowski のポーランド語原典からの和訳ということで、ちょっと驚きました。直球勝負ですね。

私は Lvov-Warsaw School に少し興味があります (少しだけです。それに、詳しくもありません)。にもかかわらず私はポーランド語がまったくできません。ポーランド語の辞書文法書は、気が付けば買い揃えているのですが、そのうち勉強しようと思っているものの、まるでやっていません。勉強道具を揃えたまではいいが、その後が続かないという、よくあるパターンですね。そんななか、ポーランド語原典からわざわざ翻訳していただけるのは大変ありがたいです。なかなかできることではないと思います。

中井先生は上記の解説文冒頭で (214ページ)、Lvov-Warsaw School と今回の邦訳論文を掲載している雑誌の方針が、よく似ていると述べておられます。両者とも、厳密な方法精緻に哲学をする限り、問われる対象の種類や分野は問題ではない、とする態度が似ている、ということです。これに関連して私は次のように思いました。私が Lvov-Warsaw School に興味を持った理由はいくつかあります。そのうちの一つは、こうです。この学派の哲学するスタイルは、広くは分析哲学と同様、きちんと細かいところまで詰めて哲学をするというものなので、一歩一歩読んで行けば、ちゃんとわかるところが好ましい、ということです。これは逆に言えば、きちんと細かいところまで詰めて論証を積み上げて行けば、そのような哲学をしている当人文化的社会的歴史的背景に関わらず、誰にでも実行できる哲学である、というところが好ましい、ということです。実際、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学に触れた私が思ったのは、「これは極東島国にいる私たち日本人でもできる、世界通用する哲学だ」ということでした。

西洋の哲学の中には、難解で深遠で秘教的な哲学、思想があります。そのような哲学、思想も重要であり、興味深いところもあるのですが (確かにあります)、なにせ、あまりに難解であり、思弁的であり、観念的であって、そのあまりのことに、私はそのような哲学、思想に触れて、それは私の理解を超えているのみならず、「人間の理解を超えている」と感じることがあります。どのような人間の理解をも超えているので、書いた本人の理解さえ超えているのではないか、と思われるほどです。そのような哲学は「行ってしまっている」と感じられるので、一部の熱狂的な人以外、付いて行けないところがあります。その哲学が神秘主義を明示的に標榜しているのなら、それはそれで構わないのです。しかしやっかいなのは、その哲学が神秘主義を峻拒しているような感じがする一方で、それでも甚だしく神秘的であるところです。その哲学が論証の体をなしていないのに論証の体をなしているかのように言われ、その哲学から明確な論証を取り出せないのに取り出せるかのように言われ、一見口座には多額のお金が預けられているように見えるのに、ほとんど cash out できないというところが、非常に困るのです。(特にこの段落の話は、私個人主観的印象を述べている側面が強いです。間違っていたらすみません。)

それに対し、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学は、基本的に誰にでもアプローチできるものだとの印象を受けます。(これもまぁ、割と主観的な印象ですが。) この哲学では、哲学に酔ってしまう、あるいは哲学している自分に陶酔してしまうことが、比較的少ないと思います。しっかりと地に足を付けて、浮かれることなく地道に丁寧に正確に哲学を進めることができるという点で、Lvov-Warsaw School の哲学、論理学には学ぶべきことが多いように感じられます。かつて東欧辺境から、世界に届く哲学、論理学が生み出されました。私たちもこの学派にならって、極東から世界に届く哲学ができるかもしれません。

とはいえ、無理に世界に届かせようとしなくてもいいのですけれどもね。それは哲学の本質ではないから。それにグローバリゼーションが進んでいる今の時代に、哲学の国籍を言ってもあまり意味がなくなってきていますし。いずれにせよ大切なのは、一人一人がその人なりの哲学の問題をあたため、追究して行くことだと思います。世界に届こうが届くまいが。


さて、最初に上げた中井先生の解説文によると (231ページ)、次回の雑誌の号では Twardowski の「シンボロマニアとプラグマトフォビア (1921年)」、Kotarbinski の「教師のための論理学と数理論理学 (1925年)」の訳を掲載し、解説では、学派の中心が Warsaw に移り、戦後へと至る過程を追跡するそうです。興味深いです。


最後に。本日の日記は私の個人的な好みがかなり出ています。気分を害した方がおられましたらすみません。ある程度、哲学をして行くと、どうしても好みが出てくるのです。どうか気になさらないでください。そして私の記述に誤りがあれば、これもすみません。私見を思い付くままに記したので、文章がよれていたり、流れの悪いところがあったかもしれません。どうかお許しください。

*12018年10月2日追記。前回の日記で、次回の日記の内容は、基本的論理規則が採用できないものならば、研究上、いかなる影響が出てくるのかについて述べるつもりです、と記しました。しかしそれを述べる準備ができていません。永遠にできないかもしれません。とりあえず今回は別の話題を取り上げました。どうもすみません。追記終わり。

2018-09-02 If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule ...

[] If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule of Modus Ponens, Could He or She Adopt the Rule?

前回は、全称例化という推論規則*1が、それを知らない、わからない、身に付けていない人に、ただ示して教えるだけでは、わかってもらえない、その規則を採用してもらえないということを、飯田先生、Padro 先生の文献から学びました。

今回は、やはりお二人の先生の文献から、Modus Ponens という推論規則も (後述)、全称例化と同様にしては採用できないことを確認してみたいと思います。前回同様、次の文献を参考にさせてもらいます*2

お二人の先生は、Saul Kripke 先生の主張に基づき、Modus Ponens が、それを身に付けていない人には採用できないものであると述べておられます*3しかしどうして採用できないのかについては、詳細には説明されていません (Padro 先生は、若干されていますが)。全称例化を採用できないという論証を見れば、Modus Ponens も採用できないことは、自ずとわかるだろうということで、Modus Ponens が採用できない理由を詳しくは記しておられないのだと思われます。

そこで今回、私の方で Modus Ponens が採用できない理由を、少しばかり丁寧に記してみたいと思います。

なお、例によって、私の記述に間違いがあれば大変すみません。平易に説明したつもりですので、間違いがあれば、見つけやすいと思います。あらかじめ、私のなしているかもしれない間違いにお詫び致します。


さて、前回も登場した田中さんですが、この田中さんは、次の二つの前提


    •  明日雨ならば試合は中止である。
    •  明日は雨である。

から、以下の結論


    •  故に、試合は中止である。

を引き出すことができないとします。

ところで、今の二つの前提から、その結論を引き出すために必要な推論規則は、次のものです。


    •  条件文があり、かつその条件文の前件がある。故に、その条件文の後件を引き出してよい。

または、


    •  条件文があり、かつその条件文の前件があれば、その条件文の後件を引き出してよい。

この推論規則を Modus Ponens (MP) と言います*4。前者は論証の形をした MP であり、後者は文の形をした MP です。

Modus Ponens が採用できるものならば、元々それを採用していない人、元からその推論規則を持っていないし、知らないし、身に付けてもいないし、使ったこともない人を考えることができるはずです。このような人物として田中さんを考えます。したがって田中さんは、Modus Ponens を使うことができません*5


それならば、田中さんにこの規則を教えてあげれば、「試合は中止である」という先の結論を引き出してくれるかもしれません。そこで田中さんに、以下のようにこの規則を教えてあげることにします。


 条件文があり、かつその条件文の前件があるならば、その条件文の後件を引き出していいんだよ、田中さん。「明日雨ならば試合は中止である」は条件文で、「明日は雨である」はその前件だよね。だから、その後件「試合は中止である」を引き出していいんだよ。


しかし田中さんにはわかりません。その理由を以下に記してみます。


私が田中さんに話したことの骨格を抽出して示すならば、私の話には次の三つの段階があることがわかります。


(1) Modus Ponens の規則:


    •  条件文があり、かつその前件があるならば、その後件を引き出してよい。

(2)


    •  ここに条件文とその前件がある。

(3)


    •  故に、その後件を引き出してよい。

この骨格中では「明日雨ならば ... 」云々という具体的な文を捨象しています。

これら (1) から (3) をよく見ると、(1), (2) 自身が条件文とその前件になっており、(3) が (1) の後件であって、ここでは Modus Ponens と同じ形をした規則を使って、(1), (2) から (3) を導いていることに気が付きます。(特に、論証の形をした MP を使っています。)


この骨格に若干補足を入れながら、もう少し正確に書き直してみます。


[1] Modus Ponens の規則 MP:


    •  何であれ、条件文 Φ → Ψ があり、かつその前件 Φ があるならば、その後件 Ψ を引き出してよい。*6

この [1] は「何であれ」という、すべてのことを表す表現を含んでいます。そこで [1] に対し、全称例化を施し、[1] からその個別例を導くなら、


[2]


    •  条件文 p → q があり、かつその前件 p があるならば、その後件 q を引き出してよい。

そして、

[3]


    •  条件文 p → q があり、かつその前件 p がある。

[4]


    •  故に、その後件 q を引き出してよい。

上の p を「明日は雨である」で、q を「試合は中止である」で置き換えれば、私の田中さんに対する (少し詳しくした) 説明になります。

この補足された骨格をよく見てみると、やはり [2], [3] 自身が条件文とその前件であり、[4] が [2] の後件になっています。そして [2], [3] から [4] を導く際に、[1] の MP と同じ形をした規則を当てはめて使っていることに気が付きます。(やはりここでも論証の形をした MP を使っています。)

以上からわかることは、次のことです。そもそも田中さんは MP を使えずに困っていたのですが、それにもかかわらず、私は MP と同じ形をした規則を使って田中さんに結論を引き出すよう迫っていた、ということです。しかし、それでは上手くいくはずがありません。案の定、田中さんは私の説明がわからないと言います。それもそうでしょう。

今のことを少し言い換えると、MP に見られるパターンがわからない、使えない田中さんに、私は MP と同じパターンの推論を行いながら、田中さんに結論を引き出すよう促していた、ということです。

もっと簡単に言えば、MP を知らない、わからない人に、MP でもって MP を説明している、ということです。まったく知らない外国語文法規則を、そのまったく知らない外国語で説明されても意味不明、というのと同じようなことです。

こうして MP をまったく知らない、わからない、身に付けていない、使ったこともない人に MP を教えることは、(おそらく) できないと思われます。少なくとも、MP を命題知としては、教えられそうもありません*7ちょっと私にはまだ信じられないのですが…。


以上が、Modus Ponens を採用できないとする決定的な証明になっているのか、私にはまだわかりません。田中さんに対する私の説明を別のものに変えればよいかもしれません。しかし、たぶんですが、別の説明も本質的には今回田中さんに行なったのと、同様のものになるのではないかと推測されます。

それ以外にも、上記の「証明」なるものに対し、すぐさま思い付く疑問を少し上げれば、そもそも推論規則を採用するとはどのようなことなのか、まだ詳しく明らかにされていません。それに、今しがた命題知について触れましたが、それと対になっている技能知が、ともに正確には何であるのか、これも明らかにされていません*8。この他にも色々と考えなければならないことがあります。そのため、上の話が決定的証明だとは、私は主張しません。ただし、Modus Ponens は採用できないとする有力な主張の核になるアイデアは、示されていると思うのですが。


最後に補足を一つ。

本日の話の最初に記した飯田先生、Padro 先生の文献とは別に、本日の話を理解する上で参考になるその他の文献とその該当ページを記しておきます。

これらの文献の該当ページで説明されているのは、論理的真理のすべてを規約 (= 約束、取り決め) から証明する試みは、無限後退に陥ってうまくいかない、という例の話です。

この話の要点を、私達の話題に絡んでくる限りで、上記飯田先生ご高著該当個所により、大まかに短く述べます。(詳細は、直前の飯田文献該当個所を参照ください。でないと、よくわからないと思います。)

論理的真理の規約説によると、すべての論理的真理*9は規約によって真です。特に、「太郎の所持金は五千円以上であるか、あるいは、太郎の所持金は五千円以上ではない」のような個別的な論理的真理はすべて、規約から証明されることで、その真理が保証されます。よってその保証のためには、個別的な論理的真理はどれも規約から証明されねばなりません。ところで、「123123は3でも7でも割り切れる。故に123123は7で割り切れる」のような個別の妥当な論証*10もすべて個別的な論理的真理です。と言うのも、妥当な論証はどれも、その論証の前提の連言を前件に取り、その論証の結論を後件に取る条件文でもあり、この時この条件文は必ず論理的真理となるからです。今も述べたように、個別的な論理的真理はすべて規約から証明されなければなりませんから、個別の妥当な論証もすべて規約から証明されなければなりません。

そこで、そのことをある妥当な論証 (%) について証明するならば、それは一つの個別的な、妥当性を持った論証となります。するとこの妥当な論証も個別的な論理的真理ですから、この論証は規約から証明されなければなりません。

そこで、そのことをこの妥当な論証について証明するならば、それも一つの個別的な、妥当性を持った論証 (%%) となります。するとこの妥当な論証も個別的な論理的真理ですから、この論証も規約から証明されなければならないことになって、以下、(%%%), (%%%%), ..., のように証明が無限に後退して行きます。こうして論理的真理の規約説は、うまくいかないと言われます。

私による田中さんへの話は、この無限後退と似ているのですが、どの点が似ているのかと言うと、無限後退の列を構成している各論証 (%), (%%), ..., をそれぞれ遂行する際に、Modus Ponens に相当する規則 (#) を毎回使っている点です。相違点はと言うと、私の田中さんへの話は無限後退を含まず、1回だけの後退を含んでいるという点、つまり無限後退を1回だけの後退に制限している、その特殊例になっている、という点です。

このようなわけで、この無限後退の話は、上で私が田中さんにした話を理解する上で、参考になると思います。


次回は、可能ならば、Modus Ponens が採用できない推論規則であるとするならば、研究上、どのような影響が出るのか、そのことに軽く触れてみたいと思います。ひょっとしてひょっとすると、結構な影響が出るのではないかとも感じられます。

また、研究上の影響ばかりではなく、そもそも、ものを考えるとはどのようなことなのか、理性とは一体何なのか、という問いに対する答えも、変ってくるかもしれません。私には、こんなでっかい問題には何も答えられないでしょうけれど…。いずれにせよこの話は「可能ならば」しますということなので、次回にその話が本当にできるのか、今のところ保証できません。ちょっと自信がありません。何も用意ができていません。できない可能性の方が高いみたいに感じます。できなかった場合は、どうもすみません。先に謝っておきます。

加えて本日の日記に間違い、誤字、脱字などが含まれていましたらすみません。こちらも謝っておきます。

*1:この規則については、前回の日記を参照ください。

*2:飯田先生の下記のご高著はすべて読みましたが、Padro 先生の論文は、今のところ Chapters 2 and 3 と Chapter 4 の一部を拝読させてもらっただけです。

*3:飯田、207ページ、Padro, e.g., p. 36, and related issues, see Padro, p. 43, note 56, pp. 90-91, 99-100, and p. 100, note 117.

*4:Modus Ponens については、前回参照をお願いしたのと同じ文献の同じ個所を、ここに記しておきます。前原昭二、『記号論理入門』、日本評論社1967年、37-38, 40-41ページ, 清水義夫、『記号論理学』、東京大学出版会1984年28, 94ページ、戸田山和久、『論理学をつくる』、名古屋大学出版会2000年、63, 219ページ。

*5:このような人物がいるとは考えにくいですが、今ここで問題にしているのは現実的可能性ではなく、論理的な可能性です。論理的には田中さんのような人物はたぶん存在し得ると思います。そのような人物を想像しにくいのでしたら、次のように考えてみるといいです。推論規則 MP が理解できない人物は想像しにくいとしても、数学的帰納法背理法/帰謬法をうまく理解できない中高生を想像することは、たやすいのではないでしょうか。数学的帰納法や背理法を理解できない人がいるとするならば、MP を理解していない人がいたとしても、そのような人の数は極度に少ないかもしれませんが、想像できなくはないでしょう。あるいはこれとは別に、後件肯定の虚偽を人々がしばしば犯すことを思い出してみればいいです。この虚偽を犯してしまうということは、条件法をきちんと理解していないということを表しています。もしも条件法をきちんと理解していない人がいるならば、その人は、同じ条件法を含んでいる推論規則 MP も実はきちんと理解していないと疑われることになるでしょう。これで幾分なりとも田中さんのような人物の存在に、想像をはせることができるでしょうか。いずれにせよ、論理的可能性のみが今の問題なので、これ以上、田中さんを想像できるかどうかに関しては、問わないことにしましょう。

*6:Φ と Ψ はギリシャ文字で、それぞれファイ、プサイと読みます、念のため。

*7命題知のごく簡単な説明については、前回の日記を参照ください。

*8技能知についても前回の日記を参照ください。

*9:論理的真理については、論理学の教科書をご覧ください。

*10妥当な論証についても、論理学の教科書をご覧ください。

2018-08-26 If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule ...

[] If Someone Lacked the Ability to Follow the Rule of Universal Instantiation, Could He or She Adopt the Rule?

今日は推論規則について、一つ確認してみます。後日、もう一つ、推論規則について確認してみる予定です。ただし、予定しているだけで、その予定が実行できるかどうかは、今の段階では未定です。とりあえず、本日確認してみたいことを記してみます。


ごく基本的な推論規則は、それを持っていない人にその規則を示しても、その人はその規則を採用できない、という主張があります。 この主張は、全称例化という基本的な推論規則を例に取り、立証がなされているとの話です (全称例化については後述)。この主張とその立証は、Saul Kripke 先生によるものだそうです。このことは、今、私が読んでいる次の二つの文献に書かれています。

ちなみに、飯田先生の文献は既に読んでいましたが、改めて一部を読み返しています。

Padro 先生の文献は、まだすべてを読んだわけではありません。読んだのは (Chapter 1 の Intro. を飛ばして) Chapter 2 と Chapter 3 であり、現在 Chapter 4 に取りかかっているところです。

では、Kripke 先生は先の主張をどのように立証されているのでしょうか。本日確認したいのはこのことです。そこでこのことを、飯田先生の上記文献から引用することで見てみましょう (Padro 論文で該当する個所は、pp. 31-35, およびその p. 35 の footnote 49)。


全称例化をしたことのないひとに、そうするように教えることはできるか


 [基本的な推論規則は採用できないということを立証するために] クリプキが例にとるのは、全称例化、つまり、「F はみんな G である」から、「この F も G である」が導かれるという論理法則である。

 もしもクワインのような見方を取って、全称例化を採用することも拒否することも可能だと考えるのならば、全称例化を採用していない人物を考えることができるはずである。

 田中さんが、そうした人物だとしよう。田中さんは、全称例化という形の推論をこれまでいっさいしたことがない。田中さんはとても素直なひとなので、「どのカラスも黒い」と教えてあげると、それをそのまま信じてくれる。いま、田中さんには見えないところにカラスが一羽いる。田中さんはとても素直なひとであるけれども、先に述べたように、全称例化ということをこれまで一度もしていないし、教わってもいないので、「カラスはみんな黒い」と信じるならば、「そのカラスも黒い」と信じなければならないとは考えない。クリプキによれば、この続きはこうなる (一九七四年にピッツバーグ大学で行われた「論理は経験的か?」という講演に、こうしたやり取りがあると言うが、以下のようにアレンジしたのは私の責任である)。


 わからないんだね。じゃ教えてあげよう。どの一般命題からも、その個別例が出て来るんだよ。

田中さん そうなのか。きみの言うことを信じるよ。

 ほら、「カラスはみんな黒い」は一般命題で、「そのカラスも黒い」はその個別例だ。

田中さん たしかにそうだ。

 どの一般命題からも、その個別例が出て来る。だから、「カラスはみんな黒い」という、この特定の一般命題から、「そのカラスも黒い」という、この特定の個別例が出て来る。

田中さん うむ、そうだろうか、なぜ「だから」と言えるのか、まだ納得できないな。


「どの一般命題からも、その個別例が出て来る」と教えられても、これ自体が一般命題である以上、それを「カラスはみんな黒い」や「そのカラスも黒い」といった具体例に適用するためには、まさに全称例化という形の推論を行わなければならないが、それができない田中さんには、そうすることができない。よって、これまで全称例化を用いていなかった田中さんが、ひとに教えられて全称例化を新たに採用するということは不可能である。*1


ここでの論証は一部省略されていますので、改めてその論証を補足しながら論の運びを丁寧に追い、全称例化の規則を元々持たない人にその規則を示しても、その人はその規則を採用できないということを、確認してみましょう。

なお、私の記述に間違いが含まれていましたらすみません。平易に、丁寧に、記述したつもりですので、間違いが含まれていましたら、すぐに気付いていただけると思います。いずれにせよ、含まれているかもしれない間違いに、前もってお詫び致します。


さて、田中さんは全称例化ができません。それが何であるか知らないし、わかりません。

全称例化とは、例えば、


   すべてのカラスは黒い。


から、


   故に、このカラスも黒い。


と推論することです。

全称とは、簡単には「すべての〜」という表現のことであり、例化とは、この場合、簡単にはすべてのもののうちの、どれか特定のものを表すことを言いますが、田中さんはこの上の推論ができません。この推論を生まれてから一度もやったことがありません。教わってもいません。

田中さんはカラスを知らないとしましょう。そんな田中さんに「すべてのカラスは黒いんだよ」と教え、同意してもらった後に、中の見えない箱に一羽カラスを入れ、それを彼に差し出しながら「この中に一羽カラスが入っているけど、そのカラスは黒いだろうか?」と尋ねてみます。普通なら「黒い」という答えが返ってきますが、全称例化ができない田中さんは「わからない」としか答えられません。

ところで、「すべてのカラスは黒い」は「何であれそれがカラスならば、それは黒い」という意味を持っています。この後者の文の「何であれ」を記号 ∀ で表し、「それ」を x で、カラスを F で、「ならば」を矢印で、「黒い」を G で表すならば、「すべてのカラスは黒い」は以下のように書けます。


   1. ∀x(Fx → Gx).


この時、1. の式の全称例化とは、1. から次の式 2. を引き出すことです。つまり、特定の何らかのもの a について、


   2. FaGa,


です*2。これは「a がカラスならば、a は黒い」を意味します。田中さんは全称例化ができない、ということは、この 1. から 2. へと推論を進めることができない、ということです。


ここで、もしも箱の中のカラスの名前が a だとするならば、a はカラスなので、


   3. Fa,


と言うことがでます。これは「(箱の中の) a はカラスである」を意味します。さらに田中さんとは違い、全称例化ができるならば、1. から 2. へと推論を進め、続いて 2. と 3. とを合わせて (Modus Ponens という推論規則を使い*3 ) 次の 4. を引き出すことができます。


   4. Ga.


これは「(箱の中の) a は黒い」ということを表しています。結局、4. によって (箱の中の) この特定のカラスも黒いということが結論できたことになります。こうして全称例化ができれば、「すべてのカラスは黒い」から「このカラスも黒い」というように推論でき、つまるところ、全称表現を持った文 (全称文と言うことにしよう) から、その個別例を含んだ文を引き出すことができる、というわけです。

しかし、上のようにして私達は 4. まで推論を進めることができたものの、田中さんはそもそも全称例化ができないから、上の 1. から 2. へと進むことができないので、4. にまで至り着かず、特定のカラスが黒いことを、引き出すことができないのです。


田中さんが全称例化を知らず、できないないのならば、それが何であるかを伝えれば、その規則を採用し、全称文から個別例を引き出してくれるかもしれません。そこで、田中さんにその規則を教えてあげることにしましょう。次のように田中さんに話しかけてみます。


   「すべての全称文は、その個別例を持つんだよ。「すべてのカラスは黒い」は全称文だよね。だからこの文からその個別例「このカラスも黒い」が出るんだ。」


しかし、田中さんは「わからない」と言います。それもそのはずです。理由は次の通りです。

直前の発言の「すべての全称文は、その個別例を持つ」は「何であれそれが全称文ならば、それは個別例を持つ」ということを意味しています。これを先ほどと同じような感じで記号の式に直せば、以下のようになります。H は全称文であることを、I は個別例を持つことを表します。


   5. ∀x(Hx → Ix).


今、文「すべてのカラスは黒い」の名前を b とすれば、b は全称文なので、次が成り立ちます。


   6. Hb.


これは「b は全称文である」ということを言っています。

そして、全称例化ができる人ならば、その全称例化を使って 5. から


   7. Hb → Ib,


を引き出すことができて (「b が全称文ならば、b は個別例を持つ」)、6. と 7. とで (Modus Ponens を使い)


   8. Ib,


を引き出すことができます。この式の意味は「b, すなわち文「すべてのカラスは黒い」は、個別例を持つ」です。

するとここから個別例「このカラスも黒い」を結論してよいことになります。なぜなら 8. が言えるので b には個別例があるはずであり、実際先ほど行なった 1. 「すべてのカラスは黒い」(=b) から 4. 「このカラスも黒い」への導出過程をここで再び繰り返せば、個別例「このカラスも黒い」が出るからです。

だが、田中さんは、このように結論することができません。そもそも 5. から7. へと全称例化ができないから、8. へと到達できないのです。だから、全称例化を知らず、わからず、身につけていない田中さんに全称例化の規則を示しても、田中さんはどうにもできません。全称例化の規則を特定の全称文に適用し、そこからその全称文の個別例を引き出そうとしても、全称例化の規則を上記の a であれ b であれ、どんな個別例にも適用できないので、立ち往生してしまうのです。


どうやら全称例化という推論規則は、それを身に付けていない人に、その規則を単に差し出すだけでは採用できないもののようです。実は私はまだちょっと信じられないのですが、全称例化という規則は、それを身に付けていない人に、ただ示し、読んで内容を一通り理解してもらうだけでは採用できたとは言えないものみたいです。

ところで知識には、事実がどうなっているのかを述べているものと、何かをするにはどうすればいいのかを述べているものがあるようです。前者の知識は「命題知 (propositional knowledge/knowledge-that)」と呼ばれ、後者の知識は「技能知 (procedual knowledge/Knowledge-how)」と呼ばれています。飯田先生の話によると、全称例化のような基本的な推論規則についての知識は技能知だとのことです (飯田、188-192, 206ページ)。

命題知の典型例は「富士山日本一高い山である」のようなものです。技能知の典型例は「短距離をクロールで泳ぐ際には、腕を I 字でかいた方が S 字でかいた方よりも速く泳げる」のようなものです*4。前者の知識は、富士山、日本、一番、高い、山のそれぞれがわかれば (その他の文法知識と合わせて) 一応わかったと言えるものであり、富士山に登らなければそれをわかったことにはならない、などとは言えませんが、後者の知識は、短距離、クロール、腕、かく、I 字、S 字、速い、泳ぐなどがわかっただけでは (その他の文法知識がわかっていたとしても)、きちんとわかっていることにはならず、それがちゃんとわかっていると言えるのは、実際にそのように泳ぐことができた時だろうと思われます (ゆっくりとしか泳げなかったとしても)。あるいは、泳げない人は畳の上でその真似をできた時だと考えられます。

もしも全称例化のような基本的な推論規則の知識が命題知ではなく、技能知であるとするならば、全称例化を命題知としては採用できないとしても、技能知としてならば採用できるのでしょうか。今の私にはわかりません。とても興味深い問題ですが、本日確認すべきことは一応確認しましたので、今日はこのあたりで話を終えることにします。次回は本日の続きで、もう一つ確認したいことがあります。その内容をこの日記に up できるかどうかは、まだ不確定ですが。


本日の記述に間違いがありましたら謝ります。申し訳ありません。勉強し直します。

*1:飯田、203-206ページ。

*2:全称例化については、論理学教科書を参照。比較的著名な教科書から、その規則が載っている個所を記しておけば、前原昭二、『記号論理入門』、日本評論社1967年、46-48ページ、清水義夫、『記号論理学』、東京大学出版会1984年、57-58, 95ページ、戸田山和久、『論理学をつくる』、名古屋大学出版会2000年、129-130, 236ページ。

*3:Modus Ponens については、前原、37-38, 40-41ページ, 清水、28, 94ページ、戸田山、63, 219ページ。

*4:これは事実のようです。研究結果で示されているみたいです。高木英樹、中島求、「S 字ストロークか? I 字ストロークか? 最適クロール泳法のメカニズムを解明」、筑波大学東京工業大学共同研究、2016年、<http://www.tsukuba.ac.jp/wp-content/uploads/160112takagi1.pdf>.

2018-07-16 Dash or Prime

[] Dash or Prime, Which Is the Correct Reading of the Mark " ' "?

本屋さんで、出たばかりの

を手に取り、中を見てみると、

という記事を見かける。ちょっと興味を覚えました。拝見させていただくと、「えっ、それは知らなかったな」というようなことが書かれていました。


論理学数学の文献で「a'」や「a''」のような表現を目にすることがあります。この「a'」における「a」の右肩の点「 ' 」は、何と読めばよいでしょうか? それは「ダッシュ」と読まれることがありますが、正しくは「プライム」と読むのだろうと、私は思っておりました。(日本では) 「プライム」が正しく、「ダッシュ」は間違っていると思っていました。しかしこれは、上記文献、田野村先生調査によると、正しくないようです。先生は英語で書かれた数学の文献で、問題の点「 ' 」が、歴史上、いつ出てくるのか、さかのぼって調査されています。

先生によると、問題の点が英語の数学文献に現れるのは、先生が確認できた限りでは、19世紀半ばだそうです (『数セミ』、55ページ)。

先生が見つけられた19世紀半ばのある数学文献には、問題の点は「ダッシュと読む」と (英語で) 記されていました (同ページ)。また同じ頃の別の数学文献では「プライムと読む」と (英語で) 記されていました (同ページ)。

つまり、もしもこれらの文献が問題の点の出現初期の事例だとするならば、問題の点が世に現われた当初、その点を英語で「ダッシュ」とも「プライム」とも読んでいた、ということです。

しかし、それでも「従来アメリカでは、その点は専ら「プライム」と呼ばれていたのではないか」と思われるかもしれません。ですが、先生の調査によると、しばらく前のアメリカの数学文献 (1936年) にも、その点は「ダッシュと読む」と記されていました (56ページ)*1

しかし、それでも「最近では、問題の点を、英語では専らプライムと読むはずだ」と思われるかもしれません。ですが、ここでも先生の調査によると、2000年代に入ってからの英語理工系文献でも、その点を「ダッシュと読む」と書かれている事例があります (57-58ページ)。


以上の実証的な調査により、問題の点「 ' 」は、昔から今に至るまで、英語の数学文献で「ダッシュ」とも「プライム」とも読まれてきたのであって、その点はどちらで読んでもよい、ということです。「プライム」が正しく、「ダッシュ」と読むのは間違っている、というのは間違っている、ということです。これは知りませんでした。私は何となく、点「 ' 」は「プライム」と読むのが正式で、「ダッシュ」と読むのは間違い、または通俗的な読み方に過ぎないとばかり思っておりましたが、歴史的事実からすると、どちらの読み方でも OK だ、ということみたいです。確かに大切なのは、誤解なく相手に伝わる読み方であることです。そうすると、誤解なく内容の伝わる読み方であれば、ことさら「ダッシュ」を間違いとする理由はない、ということになりそうです。

先生のこの調査に対しては、数学史家による検証があるといいですね (先生は言語学者のようです)。先生の調査が正しいものとして追認されるかもしれませんし、あるいはひょっとすると反例のようなものが見つかって、さらに深い研究の展開が見られるかもしれません。


本日の話に関し、私による記述に間違いが含まれていてはいけませんので、詳細、正確には、上記の田野村先生の文献をご覧ください。含まれているかもしれない私の間違いに、ここでお詫び申し上げます。先生の貴重な調査に感謝致します。

*1アメリカで出たという文献について一言。元々イギリスで出た本が、アメリカで出版し直されるということがあります。この場合、アメリカで出てはいても内容はイギリス版と同じということもあり得ます。そこで、先生が確認された「しばらく前のアメリカの数学文献 (1936年)」も、もしかすると元々イギリスで出ていたもので、それと同じ文献がアメリカで焼き直しされただけなのかもしれない、と推測することもできます。この推測が当たっているならば、その1936年の「アメリカ」の文献で、問題の点を「ダッシュと読む」と記されていても、そう読んでいたのはイギリスでのことであって、アメリカでその点を「ダッシュ」と読んでいた証拠にはならない、と主張することもできます。しかし先生のその1936年の文献は、アメリカ科学アカデミーの Proceedings ですので、イギリス版の焼き直しという可能性はないと思われます。