2013-05-19 入手文献
ここのところ、ものすごく忙しい。
あと一週間ぐらいは、この調子が続くと思う。
そのような訳で、今回の日記には、特段、記すべきほどの話題がありません。すみません。
とりあえず入手した文献名を記しておきます。
■[入手文献]
洋文献
- E. J. Lowe Forms of Thought: A Study in Philosophical Logic, Cambridge University Press, 2013
- Guy Kahane, Edward Kanterian, Oskari Kuusela eds. Wittgenstein and His Interpreters: Essays in Memory of Gordon Baker, Wiley-Blackwell, 2007/2013
- Andreas Vrahimis ''''Was There a Sun Before Men Existed?'': A. J. Ayer and French Philosophy in the Fifties,'' in: The Journal for the History of Analytical Philosophy, vol. 1, no. 9, 2013
- Agustin Arrieta-Urtizberea ''Lowe on Locke's and Frege's Conceptions of Number,'' in: Organon F, the Slovak Republic, vol. 17, no. 1, 2010
Vrahimis さんの論文は、Ayer さんと Bataille, Merleau-Ponty さんらが、Paris の bar で哲学的議論を闘わせた歴史上の話を取り上げて、「人類が誕生する前に、太陽はあったのか」という疑問に、これらの人たちがどのように考えていたのかを、明らかにしようとされているみたいです。まだ中をよく読んでいないので、はっきりしたことはわかりませんが、たぶん Ayer さんは「太陽はあった」と考え、Merleau-Ponty さんは「なかった」と考え、Bataille さんは「その疑問は無意味 (meaningless) である」と考えていたようです。Ayer さんと Bataille さんが Paris の bar で議論を闘わせたことがあるという話は、聞いたことがありましたが*1、詳しい話はよく知りませんので、興味を覚えます。France のいわゆる現代思想は、難解になりがちだと思いますが、単純な疑問に straight に答えて議論を闘わせることは、いいことだと思います。ちなみに、Vrahimis さんは、次のような本を間もなく出版されるようです。
- Andreas Vrahimis Encounters between Analytic and Continental Philosophy, Palgrave Macmillan, Language, Discourse, Society Series, Due in May 2013
この本の中に、今回の論文も収録されているみたいです。この本については買うかもしれませんし、すみませんが買わないかもしれません。ちょっと考えてみます。
和文献
- V. クラーフト 『ウィーン学団 論理実証主義の起源・現代哲学史への一章』、寺中平治訳、双書プロブレーマタ II-2、勁草書房、1990年、2013年復刊
- 寺澤順 『現代集合論の探検』、日本評論社、2013年
クラーフトさんの本は、その富士書店版を持っていますが、勁草書房版は持っておらず、この勁草書房版には、Vienna Circle のいわゆる宣言文の邦訳が収められていますので、購入しました。(とはいえ、その宣言文も、copy して持っており、読んでもいましたが、ちゃんと買っておきたかったのです。)
2013-05-12 入手文献
ある論理学者の伝記が、internet 上で無料で読めることに気が付く。たぶんだいぶ前から公開されていたものです。それを読んで一部を翻訳している。可能ならば、この日記上で報告したい。しかし、結構長い訳文になりそうなので、報告できるかどうかは、今のところわからない。
■[入手文献]
- Friederike Moltmann Abstract Objects and the Semantics of Natural Language, Oxford University Press, 2013
- N. Guarino ed. Formal Ontology in Information Systems: Proceedings of the First International Conference (FOIS'98), June 6-8, Trento, Italy, IOS Press, Frontiers in Artificial Intelligence and Applications, vol. 46, 1998 (古書)
後者の本を古書店のエサ台で見かける。次の有名な研究者の論文が収録されており、安価でもあったので購入。(300円)
あるいは、両人の HP から無料でこれらの論文を DL できたかもしれないが、面倒なので、そのまま購入しておきました。
ε-δ 論法について、30ページ以上を使って解説されています。そのような訳で購入。
沢木さんが国内外で何気なく撮った snapshot を見開きの左ページに配し、その右ページで短い文章を添えた、旅の印象記。村上春樹さんの『使いみちのない風景』に、何となく似ている気がします。ただし、村上さんの本の写真や文章のように、それほど感傷的なものではないようです。
2013-05-05 On the Terms ’Logical Positivism’ And ’Logical Empiricism’
■[入手文献]
- A. J. Ayer ed. Logical Positivism, The Free Press, The Library of Philosophical Movements Series, 1959
- 橘高倫一 『對象論』、現代哲学叢本、啓明社、1929年 (古書)
某古書市で入手。箱入り。箱は少し痛んでいるが、本自体はそうでもなく、本文もまずまずきれい。500円玉1枚で購入できた。
この本が書かれた時代に「対象論」と言えば、Meinong か Mally というところだと思いますが、この本には Mally の論説が邦訳されて掲載されていましたので入手。その論説とは次のもの。
- エルンスト・マリー 「近代對象論の本質及び課題について」 (Ernst Mally, ''Über Wesen und Aufgabe der modernen Gegenstandstheorie,'' 1914).
この論説の各節の題名を記しておくと、
- (その一) 學とその對象的基礎
- (その二) 對象論の課題とその本質
- (その三) 對象論と心理學
- (その四) 對象論と認識論
- (その五) 論理學及び論理計算と對象論
- (その六) 對象論と數學
- (その七) 對象論の特異性
- (その八) 附記
となっています。貴重な邦訳かどうかはわかりませんが、Russell 経由で the theory of objects に興味がない訳でもなく、analytical metaphysics にも興味がない訳でもないので、入手しておきました。
この他に入手した古書は次の二点。
Minkowski 「空間と時間」も収録。本書の具体的な内容は次の通り。
英文解釈や、仏文解釈、独文解釈の本がありますが、それらと同様に、このポーランド語についての本は、1ページ弱から数ページにわたるポーランド語の文章を読解し、解説を加えた参考書。ポーランド語解釈の参考書は、たぶんめずらしいと思います。論理学や哲学の Lvov-Warsaw School に興味があるので、勉強のために購入。いつ勉強をするのかは不明ですが…。
■[Carnap][Reichenbach] Are the Terms 'Logical Positivism' And 'Logical Empiricism' Everywhere Interchangeable Salva Veritate? A Draft
以下に記すのは、下書きです。とりあえず書き留めているだけですので、まったく不十分なところがありますから、そのまま無批判に受け入れてしまわないようにお願い致します。読み直して推敲した上で書き記しているのではありませんから、誤解や事実誤認が含まれているかもしれません。間違っておりましたら謝ります。誠にすみません。
先日、以下の文献を一通り読んだ。
- Thomas Uebel ''''Logical Positivism'' — ''Logical Empiricism'': What's in a Name?,'' in: Perspectives on Science, vol. 21, no. 1, 2013.
以前から、「論理実証主義」という言葉と、「論理経験主義」という言葉は、どのように違うのだろうかと、何となく思っていた。どちらも似たようなものだろうから、どちらでもいいようなものだけれど、何か違いでもあるのか、漠然と疑問に思っていた。そのような疑問を持っていたので、上記の論文を読んでみた。
本題に入る前に、上記論文題名について一言添えておきます。上記論文名副題にある 'What's in a Name?' は、William Shakespeare の Romeo and Juliet に出てくる有名なセリフで、名前自身には、その名前が名指している対象の特徴は備わっておらず、その対象を呼ぶのに、その名前でなければならないという必然性はないのであって、どんな名前で呼ぼうとも、その対象に変わりはない、ということを表しています。そのセリフを実際に引いておきます。Juliet のセリフです。
What's in a name? That which we call a rose
By any other name would smell as sweet;
So Romeo would, were he not Romeo called.
Romeo and Juliet, 2. 2. 43-45.
名前に何があるというの? 私たちがバラと呼んでいる花は、
たとえほかの名前で呼んでも、その香りに違いはないはず。
ロミオだって、かりにロミオという名前でなくても、同じロミオに変わりはないはず。
『ロミオとジュリエット』 2幕2場 43-45行*1
上記論文著者の Uebel さんは、「「'Logical Positivism' と呼ぼうが、'Logical Empiricism' と呼ぼうが、どちらでもいいはずだ」と人々は思うかもしれないが、そうではない」と考えておられます。どのように呼ぶかということを精査していくと、ある徴候が見えてくる、とされておられます。
さて、本題に入ります。日本語では「論理実証主義」も「論理経験主義」も、たぶんあまり区別せず、その使い分けに関しては神経質になっていないように思われます。一つの例を引いてみましょう。
ウィーン学団 (Wiener Kreis; Vienna Circle) は、一九二〇年代から三〇年代にかけて、オーストリアのウィーンを中心として、科学的な哲学を目指した哲学者・科学者たちのネットワークであり、ベルリン・グループとともに、論理実証主義/論理経験主義 (logical positivism; logical empiricism) の中核を担った。*2
ここでは、「論理実証主義」も「論理経験主義」も、特に注意を与えず併記されています*3。
英語に関しても、その英語名を同じようなことをいみするものとして扱っているようです。その例を引いてみましょう。この例は、今、私たちが取り上げている Uebel 論文の最初のページ (p. 58) の最初の脚註 (n. 1) で言及されているものです。
1 Throughout this book [i.e., The Cambridge Companion to Logical Empiricism] ''logical empiricism'' is understood to be synonymous with ''logical positivism,'' or even ''neopositivism,'' unless it is clear in context that a distinction is being drawn. Some logical empiricists thought the names had different reference, but most did not; in any case, by the middle of the 1930s, ''logical empiricism'' was the preferred term for leading representatives of both camps. Thus, we have chosen it rather than the more well-known but more misleading ''logical positivism.''*4
最初にも述べましたように、私自身、「論理実証主義」でも「論理経験主義」でも、どちらでもあまり変わりはないと思っておりました。他の方々も、大体同じように感じておられるものと推測します。しかし、今回の Uebel 論文を読んで、初めて教えられたのですが、確かに 'logical positivism' と呼ぼうが、'logical empiricism' と呼ぼうが、どちらでもよいと考える人は多いものの、これら二つの言葉のうち、一方を好ましく思い、他方を好ましく思わない人もおり、または、二つの言葉を使い分けようとしている人もいることを知りました。そしてなぜ一方を好み、他方を好まないのか、また、なぜそれら二つの言葉を使い分けようとしているのか、その理由も知りました。そして、このような使い分けを実際に行っていた人がいるという歴史的事実から、何が見えてくるのかも知りました。
以下では、Uebel 論文を走り読みし、メモした事柄を箇条書きにして書き下します。現時点では、詳細を一切省きます。私が興味を持った部分だけを箇条書きにしますので、Uebel 論文の全体像を伝えるものではありません。詳しい話は、後日、可能であれば、この日記に記します。ただし、そうするかどうかは、現在のところまったく未定です。詳細を記す場合も、まったく書き直してしまうかもしれません。
- 現在では通常、'logical positivism' という名前で、the Vienna Circle の考えを表すものとして使っている。[なお、もっと広く取って使っている場合もある。以下の箇条書きに出てくる Ayer 編集本に対する日記著者の注記を参照。日記著者注記]
- 歴史的には、'logical positivism' よりも、'logical empiricism' という言い方が好まれた。後者の方を使用しても、特に物議は醸さなかったが、前者を使うと物議を醸すことがあった。[Uebel さんの見解とは異なり、'logical empiricism' という表現は好ましくないと考える人もいたようである。クラフト、『ウィーン学団』、24ページにそのような記述がある。ただし、誰が 'logical empiricism' という名称を好ましくないと思っていたのか、Kraft さんの本ではその人物の名が記されていない。しかも、このような反対意見があったことを裏付ける情報の典拠が記されていない。Kraft さん自身が見聞した結果を書き付けているのかもしれない。だが、はっきりしたことはわからない。日記著者注記]
- E. Kaila がドイツ語で、'logical positivism', 'logical empiricism' に相当する言葉を使い始める。
- J. Dewey も 'logical positivism' という言葉を早い段階で使っている。[ただし、the Vienna Circle のこととしては使っていないようである。日記著者注記]
- The Vienna Circle の Manifesto, Wissenschaftliche Weltauffassung. Der Wiener Kreis では、'logical positivism', 'logical empiricism' に相当するドイツ語は、類似した言い方は出てくるが、本質的には出てこない。
- 英語ではっきりと最初に 'logical positivism' を使ったのは、A. E. Blumberg and H. Feigl, ''Logical Positivism,'' in: Journal of Philosophy, vol. 28, 1931 である。
- 'logical positivism' という言葉が広まったのは、次の諸文献に依るところが大きい。
- S. Stebbing ''Logical Positivism and Analysis,'' in: Proceedings of the British Academy, vol. 19, 1933,
- M. Black ''Introduction,'' in R. Carnap ed., The Unity of Science, Kegan, Paul, Trench, Trubner & Co., 1934,
- J. Weinberg An Examination of Logical Positivism, Kegan Paul, 1936,
- A. J. Ayer Language, Truth and Logic, 1st ed., 1936,
- A. J. Ayer ed. Logical Positivism, The Free Press, 1959. [多くの人が想像するように、'logical positivism' という言葉が流布するのに最も貢献したのは、ここでの諸文献のうち、Ayer の二つの文献であろう。この二つの文献のうち、後者をひもといてみると、そこで Ayer は 'logical positivism' が指すのは the Vienna Circle の考えであるとしつつ、後になって、Russell, Moore, Wittgenstein の教え子たちの哲学と、Oxford 日常言語学派の哲学も指すようになった、としている。特に、このように件の名称の指す範囲が拡大したのは、the Vienna Circle や analytical philosophy に敵対的な人々が、the Vienna Circle と analytical philosophy を一括りにする傾向の結果であると見なしている。そしてこの傾向を利用して、Ayer 編集の本 Logical Positivism には、the Vienna Circle に直接所属していた人々の文章ばかりでなく、Russell や Ramsey, Ryle の文章も収められている。See Ayer 1959, p. 3. なお、Ayer 著、Language, Truth and Logic の邦訳を軽く眺めてみた限りでは、'logical positivism' という名称に関しての詳しい話は、出ていないように見える。ただし、私が見落としている可能性もある。日記著者注記]
2) この学団 [ウィーン学団] による運動自身のための適当な名前がないので、私はこの地理的な呼称 [「ウィーン学団」] を用いる。それは時折論理実証主義と呼ばれた。しかしこの名前は以前の実証主義、とりわけコントとマッハへの余りにも親密な依存関係を暗示しはしないかと思う。なるほどわれわれは歴史的な実証主義によってかなりの程度影響を受けはした。殊にわれわれの発展の初期の段階においてはそうであった。しかし今日では、類縁の見解を発展させた諸外国の諸グループを包括するような、より一層一般的な名前をわれわれの運動の名前としたい […]。'科学的経験主義' という用語 […] は、多分適当であろう。しかし以下では主としてわれわれの原グループに関係する幾つかの歴史的所見を述べる際には 'ウィーン学団' という用語を用いる。*5
- G. Bergmann は、phenomenalism を支持していた頃までの初期の運動を 'logical positivism' と呼ぶ。
- Kaila は後に、'logical empiricism' という言い方はするが、'logical positivism' という言い方はしなくなる。'logical positivism' という言い方は、ideological だからである。
- Jørgen Jørgensen は、大体 Feigl に従っている。Carnap の Aufbau までは 'logical positivism', Logical Syntax of Language からは 'logical empiricism' と呼んでいる。
- Richard von Mises は、'logical positivism' と 'logical empiricism' を無差別に使っている。
- P. Frank もそれら二つの言い方を interchangeable に使っている。The Vienna Circle の考え方を、大胆にも 'positivism' と呼んでいる。
- Hempel も 'logical positivism' と 'logical empiricism' を無差別に使っている。
以上、単なるメモを箇条書きにしました。これら、箇条書きされた事柄について、注目すべきことを若干述べます。
'logical positivism' と 'logical empiricism' という言い方について、Carnap が前者の言い方を好まず、後者を好んでいることがわかります。そこには positivism という考え方に対する否定的なイメージがあったことが、関係しているように思われます。どちらの言い方をするべきか、Carnap や Feigl や Neurath のように、sensitive な人もいましたが、von Mises, Frank, Hempel のように、無頓着な人もいました。
そして、この Uebel 論文の一番の point は、Reichenbach が 'logical positivism' と 'logical empiricism' という言い方を意識的に使い分け、前者の名称を Carnap らに付け、後者の名称を自分たちのものとし、このように使い分けながら、the Vienna Circle と the Berlin Group の違いを強調し、相手方に競争意識を持って張り合っていたことが、見えてきます。つまり、'logical positivism' と 'logical empiricism' という言い方を区別したり、一方を好んで他方を好まない人がいたということは、現在一般に、ひとまとめに呼ばれている logical positivism には、多様な考え方と様々な立場にいる人々が存在していたことを示唆しており、その運動の内部では、大なり小なり、政治的闘争のような、社会的闘争のような、張り合い、またはやり合いが見られた、ということです。今となっては 'logical positivism' と呼ぼうが 'logical empiricism' と呼ぼうが、どちらでもよいのかもしれません。しかし、この運動に携わっていた人々皆が、どちらで読んでもよいと考えていた訳ではなく、考えの違いや立場の違い、目指すものの違いにより、呼び方にこだわりがあったのであって、呼び方を通して、自己を認識し、他者を把握してやり合うという、多様性と dynamism があったということです。十把一からげに 'logical positivism' と呼べばいいというものではないということです。歴史的により正確な姿を捉えようとするならば、'logical positivism' と呼ぼうが 'logical empiricism' と呼ぼうが、どちらでもよいだろうというような無頓着な姿勢は正されねばならないということです。
最近購入した本の中にも、次のような文がありました。
Too many authors today conflate these developments [i.e., the Berlin Group's and the Vienna Circle's developments], and simply identify the Vienna Circle philosophy as ''logical empiricism.'' […]
If the evidence adduced in the preceding discussion has made anything clear, it is that such a reading is a mistake. The two movements formulated and pursued two different, albeit related, programs of scientific philosophy. To ignore this difference is to obscure the historical record.*6
この引用文を含む Milkov さんの論文を全部読んでみたところ、Milkov さんは 'logical positivism' と 'logical empiricism' という表現をあまり使っておられません。使われる場合にも、それら二つの表現を厳格に区別しようとは、されていないように感じられます。しかし、Milkov さんのこの論文は、Reichenbach とその Group を肯定的に再評価しようとされていることから、Reichenbach がしたように、the Berlin Group の考えを 'logical empiricism' と呼び、the Vienna Circle の考えを 'logical positivism' と呼ぶことに、おおむね賛成のようです。そうすると Carnap たちに対しては、否定的な立場に立つことへと繋がりますので、Uebel さんからすれば、歴史学的観点から Milkov さんの態度は、公平性が保たれているのか、疑問なしとはしない、ということになると思われますが、いずれにせよ、Uebel さんも Milkov さんも、現在「論理実証主義」とか、'logical positivism' と呼ばれている哲学的立場や運動が、一般に思われているよりもはるかに多様性に富んだものであって、にもかかわらず、そのことに気付かないまま、その哲学や運動をただ一色で塗りつぶして終わりにしてしまうということに対しては、共闘して反対の立場を取られるものと思います。
とにかく、logical positivism は終わったものと見なされていると思うのですが、実際私たちが知っている logical positivism は、かなり単純化され戯画化されている可能性があり、そのような一面的理解のもとで、この運動の意義を顧みずに切り捨ててしまうことは、拙速というものだろうと思われます。今後は、今も継続的に行われている the Vienna Circle 内部の動向の研究だけでなく、Reichenbach たちの the Berlin Group の研究の進展が待ち望まれます。きっと分析哲学史の一部書き換えが、必要になってくると思われます。
なお、上記 Milkov 論文も、なかなか興味深く、今さらながらこの論文から教えられたのですが、the USA に科学哲学が移植されるに当たって、私は Carnap らの the Vienna Circle の影響が一番大きく、それが当地を席巻したものだとばかり漠然と感じていたのですが、これはまったく間違いだろうと思うようになりました。少なくとも当時の当地では、Carnap や Feigl らの the Vienna Circle 系統と、Reichenbach や Hempel らの the Berlin Group 系統の、二つの異なる系統が同居して、発展、展開して行ったものだということがわかってきました。The Vienna Circle の stance と the Berlin Group の stance の違いについては、Milkov 論文の section 1.7 Autonomy of the Berlin Group, pp. 18-24 に、わかりやすくまとめられています*7。特に、p. 18 の末尾と、p. 24 の後半では、これら二つの group が明らかに一枚岩ではない、互いに譲れない、認められない部分があったことを示唆する話が手短に記されています。Reichenbach が the Vienna Circle に競争心を持つのも、うなずけるという感じです。
また、いわゆる the Society for Empirical/Scientific Philosophy が、Reichenbach たちの the Berlin Group なのだろうと、何となく思っておりましたが、どうやらこれは違うらしい。これら二つの group を同一視する研究者もいるようですが*8、Milkov 論文によると、二つの group は別物のようです*9。私はまったく知らなかった。前者は公的な集団であるのに対し、後者は私的な集団のようです*10。前者を作ったのは Reichenbach ではなく、彼は後にこの前者の group の top を務めるようになったみたいです*11。この group には Nobel 賞受賞者のような有名な研究者や、Gestalt Psychology のような当時新興の学問の研究者が加わっていたのに対し*12、the Berlin Group は Reichenbach たちの、ごく内輪の研究仲間という感じみたいです。さらに、the Society for Empirical/Scientific Philosophy は、当初、英語で言えば 'the Society for Empirical Philosophy' と称していましたが、後に、英語で言えば 'the Society for Scientific Philosophy' と名前を変更しています。実はこのように変更したのは、Hilbert がそのように変えた方がよいと Reichenbach に指南することで実現したみたいです*13。
まだまだ記しておきたいことはありますが、切りがないので、ここで終えます。以上はすべて不十分な下書きです。考察の不足しているところや、調査、推敲の足りない部分など、色々あると思いますが、とりあえず、上記のように書き留めておきます。後日改稿して正式なものをここに up するかもしれませんし、しないかもしれません。いずれにしましても、間違いが含まれているかもしれませんので、そのまま信用してしまわないようにお願い致します。最後に、含まれているであろう誤りに対し、お詫び申し上げます。
*1:安西徹雄、『英和対訳 シェイクスピアの名せりふ100』、丸善ライブラリー 348, 丸善株式会社、2001年、136ページ。
*2:蟹池陽一、「ウィーン学団とカルナップ」、飯田隆編、『哲学の歴史 第11巻 論理・数学・言語 【20世紀】』、中央公論新社、2007年、432ページ。
*3:ウィーン学団について日本語で読める単行本に V. クラフトさんの著した『ウィーン学団』がある。勁草書房と富士書店から邦訳が出ているが、後者の版 (V. クラフト、『ウィーン学団 論理実証主義の起源』、 飛田就一、里見軍之監訳、富士書店、1990年) を持っているので確認してみると、Kraft さんは主として 'neopositivismus' という言葉を使っている。富士書店版翻訳副題の「論理実証主義」は訳者の先生方が付けたもの。翻訳書本文中でもこの言葉は出てくるが、その他に「新実証主義」、「論理経験主義」という言葉も出てきており、あまり厳密な使い分けはされていないように見えます。これらの言葉の異同については、Kraft さんの邦訳24ページを参照ください。(勁草書房版では、22-23ページを参照。2013年5月19日追記。)
*4:Alan Richardson and Thomas Uebel, ''Introduction,'' in their eds., The Cambridge Companion to Logical Empiricism, Cambridge University Press, Cambridge Companions to Philosophy Series, 2007, p. 1, n. 1.
*5:ルドルフ・カルナップ、「テスト可能性と意味」、永井成男訳、永井成男、内田種臣編、『カルナップ哲学論集』、紀伊國屋書店、1977年、181ページ、原註 2. 原論文初版初出1936-1937年、第二版1950年。以下の邦訳引用文は、1950年の第二版からの訳文。
*6:Nikolay Milkov, ''The Berlin Group and the Vienna Circle: Affinities and Divergences,'' in Nikolay Milkov and Volker Peckhaus eds., The Berlin Group and the Philosophy of Logical Empiricism, Springer, Boston Studies in the Philosophy and History of Science, vol. 273, 2013, p. 26. なお、この Milkov 論文は、本を購入せずとも、論文著者の home page から誰でも無料で全文 download できるようになっています。
*7:The Vienna Circle の stance と the Berlin Group の stance が、どのように違うのかを、ここで詳しく報告したいところですが、話が際限なく脱線していきますし、時間もありませんので、残念ながらやめます。しかしとても興味深い話題です。いずれにせよ、その違いについては、Milkov 論文の該当箇所でわかりやすくまとめられていますので、一読をお勧め致します。
*8:Milkov, p. 8.
*9:Milkov, p. 8.
*10:Milkov, p. 8.
*12:Milkov, p. 10.
*13:Milkov, p. 12.
2013-04-28 入手文献: 飯田先生文献
■[入手文献] 通常の文献
- Anssi Korhonen Logic as Universal Science: Russell's Early Logicism and its Philosophical Context, Palgrave Macmillan, History of Analytic Philosophy Series, 2013
- Mark Textor ed. Judgement and Truth in Early Analytic Philosophy and Phenomenology, Palgrave Macmillan, History of Analytic Philosophy Series, 2013
- Jed Z. Buchwald ''A Reminiscence of Thomas Kuhn,'' in: Perspectives on Science, vol. 18, no. 3, 2010
- 河田直樹 『無限と連続 哲学的実数論』、現代数学社、2013年
■[入手文献] 飯田先生文献
飯田先生の HP が一新されていて、各種論文が無料で誰にでも DL 可能になっている。そこでそれらをほぼすべて DL させていただきました。以下が、そのようにして入手させてもらった文献です。
飯田隆著
- ''Perceiving Abstract Objects: Inheriting Ohmori Sh
z
's Philosophy of Perception,'' in S. Watanabe ed., Logic and Sensiblity, Keio University Press, 2012 *
- ''Japanese Passives and Quantification in Predicate Position,'' in: Philosophia Osaka, no. 6, 2011
- ''Russell on Plurality,'' in: CARLS Series of Advanced Study of Logic and Sensibility, vol. 4, 2011
- ''How Are Language Changes Possible,'' in M. Okada ed., Ontology and Phenomenology: Franco-Japanese Collaborative Lectures, Keio University Press, 2009
- ''Existence, Identiy and Empty Names,'' in M. Okada ed., Interdisciplinary Logic, vol. 1, Keio University Press, 2008
- ''Comments on P. Boghossian's Paper 'Blind Rule Following','' A Talk Given at the Tokyo Wittgenstein Workshop Held on June 2, 2007 at Tokyo University, 2007
- ''Towards a Semantics of Japanese Existential Sentences,'' in M. Okada ed., Essays in the Foundations of Logical and Phenomenological Studies, Keio University Press, Interdisciplinary Conference Series on Reasoning Studies, vol. 3, 2007 *
- ''Frege and the Idea of Formal Language,'' in: Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol. 12, no.1, 2003 *
- ''Professor Quine on Japanese Classifiers,'' in: Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol. 9, no .3, 1997 *
- ''Indirect Passives and Relational Nouns,'' Work in Progress, 2011
- ''Existence, Identiy and Empty Names,'' 2008
- ''Descriptions in a Language with No Articles,'' Previously Unpublished, 2006
- 「論理学におけるモダリティ」、2009年原稿、澤田治美編、『モダリティ I 理論と方法』、ひつじ意味論講座 第3巻、ひつじ書房、未刊
- 「複数論理と日本語意味論」、西日本哲学会編、『哲学の挑戦』、春風社、2012年 *
- 「哲学から見た言語」、遊佐典昭編、『言語と哲学・心理学』、シリーズ朝倉 言語の可能性 9, 朝倉書店、2010年 *
- 「量化と受身」、『哲学雑誌』、第795号、2008年 *
- 「ゲーデルの完全性定理とタルスキの定理」、『哲学の歴史 別巻 哲学と哲学史』、中央公論新社、2008年 *
- 「「見る」と「見える」 日本語から哲学へ」、『いま「哲学する」ことへ』、岩波講座 哲学 1, 岩波書店、2008年 *
- 「論理の言語と言語の論理」、納富信留、岩波敦子編、『精神史における言語の創造力と多様性』、慶応義塾大学出版会、2008年 *
- 「ゲーデルと哲学」、田中一之編、『ゲーデルの20世紀』、シリーズ ゲーデルと20世紀の論理学 1, 東京大学出版会、2006年 *
- 「付論 ゲーデルと第二次大戦前後の日本の哲学」、田中一之編、『ゲーデルの20世紀』、シリーズ ゲーデルと20世紀の論理学 1, 東京大学出版会、2006年 *
- 「'Begriffsschrift' という名称について」、飯田隆編著、『西洋精神史における言語と言語観 継承と創造』、慶応義塾大学出版会、2006年 *
- 「分析哲学としての哲学/哲学としての分析哲学」、『現代思想』、2004年7月号 *
- 「文の概念はなぜ必要なのか」、『哲学の探求』、第31号、2004年 *
- 「記述について」、松田隆美編著、『西洋精神史における言語観の変遷』、慶応義塾大学出版会、2004年 *
- 「『概念記法』の式言語はどんな言語なのか」、『思想』、岩波書店、2003年10月号 *
- 「言語の知識」、野本和幸、山田友幸編、『言語哲学を学ぶ人のために』、シリーズ 学ぶ人のために、世界思想社、2002年 *
- 「言語と存在 存在文の意味論」、中川純男編、『西洋精神史における言語観の諸相』、慶応義塾大学出版会、2002年 *
- 「相対主義的真理観と真理述語の相対化」、『哲学雑誌』、第786号、1999年 *
- 「哲学と「哲学の言葉」」、『三色旗』、1998年12月号
- 「言語とメタ言語」、1997年、『現代思想』、1998年1月号 *
- 「悪霊とマッド・サイエンティスト」、1996年、小林道夫、湯川佳一郎編、『デカルト読本』、法政大学出版局、1998年 *
- 「綜合的アプリオリから規約へ 論理実証主義とカント哲学」、牧野英二、中島義道、大橋容一郎編、『カント 現代思想としての批判哲学』、情況出版、1994年 *
- 「存在論の方法としての言語分析」、『分析哲学とプラグマティズム』、岩波講座 現代思想 7, 岩波書店、1994年 *
- 「意味と経験」、森俊洋、中畑正志編、『プラトン的探究』、九州大学出版会、1993年 *
- 「不完全性定理はなぜ意外だったのか」、『科学基礎論研究』 、第20巻、1992年 *
- 「懐疑と意味」、飯田隆、土屋俊編、『ウィトゲンシュタイン以後』、東京大学出版会、1991年 *
- 「ケベス あるいはAIの臨界」、 『ゲームと計算』、シリーズ 現代哲学の冒険 9, 岩波書店、1991年 *
- 「偽テアイテトス あるいは知識のパラドックス」、 『現代思想』、12月号、1989年 *
- 「現代論理学が伝統的論理学よりもすぐれていると考えるのはなぜだろうか」、1989年、藤田晋吾、丹治信春編、『言語・科学・人間』、朝倉書店、1990年 *
- 「科学の方法」、1986年、沢田允茂、黒田亘編、『哲学への招待』、有斐閣、1988年 *
- 「哲学者のためのパラダイム論」、『理想』、第628号、1985年 *
- 「知識論のためのノート (I)」、『文学部論叢』、熊本大学文学会、第14号、1985年
- 「『知る』は多義的か?」、『哲学雑誌』、第770号、1983年
- 「共約不可能性・翻訳・論理」、『文学部論叢』、熊本大学文学会、第10号、1983年
- 「テレポートとテレパシー」、『西日本哲学会年報』、第2号、1994年 (1982年草稿)
- 「相対主義における真理と意味」、『文学部論叢』、熊本大学文学会、第6号、1981年 *
- 「一貫性と無矛盾性」、『文学部論叢』、熊本大学文学会、第2号、1980年、初出タイトル「連接性と無矛盾性」 *
文献名末尾の '*' は、私が既に読んだことのある論文のこと。そのすべてを持っているはず。ただし、失くしてしまったものもあるかもしれませんが…。なお、今、'*' の印が付いている先生の論文を「既に読んだ」と記しましたが、私にとって、その論文を読んだことと、その論文を理解したこととは、同値ではありません。ですので、読んでいるのに理解できていない論文が、たくさんあります。それに、理解できたことがあったとしても、今ではすっかり忘れてしまっています。大変すみません。今回色々と DL させていただきましたので、また勉強致します。
上記の文献とは別に、一新された先生の HP には載っていませんが、以下の文献は、先生の論文関係のうち、私にはとりわけ興味深く拝見させていただいたものです。
上記の前者は Hale and Wright さんたちの Neo-Fregeanism にも通じるものがあると思います。たぶん1984年頃に起草された論考だったと思います。そうだとすると、Wright さんの Frege's Conception of Numbers as Objects が出たのは 1983年でしたから、ものすごく早い時期に先生も Hale and Wright さんたちと似たようなことをお考えになられていた可能性があり、とても興味深く思います。ただし、この論考は、先生もその論考中で記されているように、構想段階の考えを取り合えず書き留めたと言えるようなものでしたので、一新された先生の HP には、掲載されていないのかもしれません。けれども、興味深いことは興味深いです。
上記の後者は、数学の哲学の重要性を教えていただいた論考として、よく覚えており、影響も受けました。今も、この論考の延長線上で、哲学をさせていただいていると感じます。この論考は、読んでみた様子から、少し軽めの論考で、論文と言えるほどのものではないかもしれません。そのため、先生の HP では上がっていないのかもしれません。しかし、とても参考になる意見が述べられた論考だと思います。
他にも、先生のお書きになられた論文類で、軽い読み物風のものにも、感化されたことがよくありました。小品ではありますが、面白かったです。それらも net で読めると、皆さん、ありがたく思うかもしれません。
次のセリフは、僭越なことではありますが、私にも実感としてよくわかります。
松永[雄二] […] うまく表現できないけれど、西洋哲学ってのは、やっぱり西洋哲学という哲学なんですよね。そういうものがちゃんと方法としてわからなくちゃいけない。私が幸福だったのは、黒田[亘]君と一緒にやっていたことで、それでもう哲学とはこういうもんだと決まった。君たち[岡部勉、岡部由紀子]の場合、飯田隆君がいたから、そこらへんで哲学ってこういうもんだって決まったようにね。*1
私も飯田先生で、哲学が決まってしまったようなものです。迷惑なことかもしれませんが…。(他には、Frege と Quine で決まってしまったようです。) という訳で、さらに net で読めるようになると、皆助かるかもしれません。とはいえ、net に up するのも、手間は手間でしょうけれど…。
2013-04-21 How Does Dagfinn Føllesdal Block Quine’s Slingshot?
■[入手文献]
まず、購入した英語の書籍。
- Timothy Williamson Modal Logic as Metaphysics, Oxford University Press, 2013
- Roy T. Cook Paradoxes, Polity, Key Concepts in Philosophy Series, 2013
- Saul A. Kripke Naming and Necessity, Wiley-Blackwell, 1991
- Saul A. Kripke Wittgenstein on Rules and Private Language: An Elementary Exposition, Harvard University Press, 1984
次に、定期購読している英語の journal.
- History and Philosophy of Logic, vol. 34, no. 2, 2013
Contents
- Saloua Chatti and Fabien Schang ''The Cube, the Square and the Problem of Existential Import''
- John N. Martin ''Distributive Terms, Truth, and the Port Royal Logic''
- Paul Rusnock ''On Bolzano's Concept of a Sum''
- Owen Griffiths ''Problems for Logical Pluralism''
次は、英語の有名な series である Minnesota Studies in Philosophy of Science の中から。先日、この sereis のうち、vol. I - XIV がすべて、net 上から DL できることに気が付く。誰でも無料で PDF 形式で入手できます。私はついこの間まで知らなかった。そこで、第11巻と第12巻をすべて入手させてもらう。既に copy して読んだ論文もあるが、digital 版もあると便利なので、DL させてもらいました。
- Minnesota Studies in Philosophy of Science
- Vol. 11, William Aspray and Philip Kitcher eds., History and Philosophy of Modern Mathematics, 1988
- Vol. 12, C. Wade Savage and C. Anthony Anderson eds., Rereading Russell: Essays on Bertrand Russell's Metaphysics and Epistemology, 1989
また、Wesley Salmon さんが科学的説明についての研究史をまとめておられる論文も DL させてもらう。
Minnesota Studies in Philosophy of Science, vol. 13, Philip Kitcher and Wesley C. Salmon eds., Scientific Explanation, 1989
- Wesley C. Salmon ''Four Decades of Scientific Explanation: Introduction''
- Ditto ''The First Decade (1948-57): Peace in the Valley (but Some Trouble in the Foothills)''
- Ditto ''The Second Decade (1958-67): Manifest Destiny - Expansion and Conflict''
- Ditto ''The Third Decade (1968-77): Deepening Differences''
- Ditto ''The Fourth Decade (1978-87): A Time of Maturation''
- Ditto ''Conclusion: Peaceful Coexistence?''
この他に、次の論文を入手。
- Hilary Putnam ''The Meaning of ''Meaning'','' in: Minnesota Studies in Philosophy of Science, vol. VII, 1975
- Robert Merrihew Adams ''Actualism and Thisness,'' in: Synthese, vol. 49, no. 1, 1981
和文献としては次を入手。
■[Quine][Slingshot Argument] How Does Dagfinn Føllesdal Block Quine's Slingshot Argument?
Dagffin Føllesdal さんが、Quine's Slingshot Argument を、どのように block するのか、そのことを詳しく説明しようと、先日長い文章を書いたのですが、どうも納得がいかないので、申し訳ありませんが、この日記に up することは止めにします。ただ、結論のようなものだけを、手短に書いてみようと思います。ごく手短に書きますので、詳しい説明と、以下の主張を正当化するための論拠や論証は一切省きます。すみません。お許しください。今回の日記を読まれる前に、当日記、2013年3月24日、''Føllesdal and Quine's Slingshot Argument at a Glance'' と、2013年3月31日、''Quine’s Slingshot Argument Reconstructed by Dagfinn Føllesdal'' を前もってお読みください。Quine's Slingshot Argument や the new theory of reference に詳しい方なら*1、そうされなくても大丈夫ですが、詳しくないようでしたら、まったく何の話かわからないと思いますので。また、以下の話は、Føllesdal さんの Quine's Slingshot に対する評価を記しているだけで、Føllesdal さんのお考えの正否は論じておりません。加えて、私の話は、絶対に正しいと思って書いている訳ではありません。たぶんこのような感じではなかろうか、というつもりで書いています。よくよく勉強してから書いているのではありません。ですから、まったく間違っているかもしれません。見当違いや完全な誤りを述べているかもしれません。前もって、含まれているであろう間違いに対し、ここでお詫びしておきます。そして、話を始める前に、今回私が参考にした Føllesdal さんの文献を、刊行年代順に掲げておきます。
Dagfinn Føllesdal
- Føllesdal [1961], Referencial Opacity and Modal Logic, Routledge, Studies in Philosophy Series, 1961/2004,
- Føllesdal [1968], ''Quine on Modality,'' in: Synthese, vol. 19, nos. 1-2, 1968,
- Føllesdal [1983], ''Situation Semantics and the ''Slingshot'' Argument,'' in: Erkenntnis, vol. 19, nos. 1-3, 1983,
- Føllesdal [2004], ''Quine on Modality,'' in Roger F. Gibson Jr. ed., The Cambridge Companion to Quine, Cambridge University Press, Cambridge Companions to Philosophy Series, 2004,
- Føllesdal [2005], ''[Short Interview Based on 5 Questions],'' in Vincent F. Hendricks and John Symons eds., Formal Philosophy, Automatic Press, 2005,
and
- Michael Frauchiger [2013], ''Interview with Dagfinn Føllesdal'' in Michael Frauchiger ed., Reference, Rationality, and Phenomenology: Themes from Føllesdal, Ontos Verlag, Lauener Foundation for Analytical Philosophy, vol. 2, 2013.
さて、Føllesdal さんから見た Quine's Slingshot Argument ですが、簡単に言うと、Føllesdal さんは Quine の Slingshot を、あまりに破壊的な帰結を招くので、それが故に背理法を取って、この論証が間違っているに違いないとお考えです*2。Quine の Slingshot を受け入れてしまえば、真理様相のみならず、義務様相や、認識の様相、信念様相も崩壊し、おそらく知的な営みのすべてが崩壊するのではないかと、予想されます*3。
このように、その論証は間違っているに違いないと予想されますが、一方で Føllesdal さんは Quine の Slingshot を妥当な論証と見なしているようです。しかし妥当としながらも、Føllesdal さんは、この論証を健全ではないとお考えのようです*4。だとすると、この論証には、少なくとも一つ、実際には偽である前提が紛れ込んでいると考えられます。例えば、次のような論証を考えてみましょう。サメは人間である。故に、サメか、またはカメは人間である。この論証は妥当です。しかし、この論証の結論を本気で受け入れる人はいないでしょう。この論証の結論を見て、本当に驚いたり、おののいたりする人はいないでしょう。この妥当な論証から、この地球上のサメか、カメは、本当は人間なのかもしれない、と思い込んだりする人はいないと思います。というのも、この論証は妥当ですが、健全ではないので、結論が実際に真であるとは認められないからです。健全でない論証は、前提の少なくとも一つは、実際には真でなく、それ故、結論も実際には真ではないのが普通です。このように、Quine の Slingshot も、妥当な論証であったとしても、健全な論証ではないとするならば、その結論が本当に真であると、認める必要はないという訳です。こうして Quine の Slingshot は、実際上の効力を失い、事実上、 block できたものと考えられます。
では、詳しい話は一切省略して、すぐさま結論に向かいますと、Føllesdal さんは Quine の Slingshot の、どの前提が実際には偽であるとお考えなのでしょうか。この日記上では、Quine の異なる Slingshot を二つ、提示しました。一つは、2013年3月31日、項目 ''Quine's Slingshot Argument Reconstructed by D. Føllesdal'' におけるものです。もう一つは、2011年8月15日、項目 ''Quine's Main Criticisms Directed to Quantified Modal Logic'' におけるものです。前者の Slingshot で Føllesdal さんが、おそらく偽であると見なす前提は、たぶん
- *(3') (iy)( y = x . p ) = x ['i' is a definite description operator.]
です*5。'(3')' は、この式の便宜的な名前で、その前の '*' は、この式が仮定として立てられていることを表します。さて、この式では、任意の対象 x を、ある確定記述 (iy)( y = x . p ) に等しいものとしています。そしてこの式について、いわゆる substitutional な観点から見てみますと、その右辺にどのような名前がきても、それに対応する記述句が左辺にある、ということを言っているものと理解できると思います。例えば、右辺に名前 'Pegasus' を置くと、左辺として、確定記述句 '(iy)( y は、Perseus が Medusa を殺した時に、その血から生まれた翼を持った馬である。)' を考えることができます。この左辺に対しては、さらに trivial に、'(iy)( y は pegasize するものである。)' を考えることもできます。この trivial な technique は、Quine の有名な論文 ''On What There Is'' の中で、名前 'Pegasus' を trivial に述語化して、'pegasize' という動詞を作る話がありましたが、あれのことです*6。このように、式 *(3') を substitutional に見るならば、そこで言われていることは、x に任意の名前が入ると、いつでもそれを、ある確定記述句に書き換えることができる、ということだと思われます。もう一度言いますと、どんな名前も、必ず確定記述句に書き換えることができる、ということです。これは Quine の the primacy of predicates という有名なテーゼです*7。どんな名前も記述句に変換することができて、名前をすべて、変項と述語と量化子などの、量化の道具立てで済ましてしまうことができ、したがって、名前は実は要らないのである、名前は理論的には一切不要なのだ、という例の話のことです。
Quine が主唱するこの the primacy of predicates は、名前が端的にその対象を指しているとするのではなく、どの名前も、その名前に対応する述語があって、その述語により、この述語に当てはまる対象が一つに特定されると考える立場です。そうすると、名前は何も介さず、端的に対象を指し示すのみ、というのではなく、名前は、いわば述語を介して対象を特定化するのだ、ということになります。これは実質的に、名前は記述を介して対象を指示している、あるいは、名前は Frege の Sinn のようなものを介して対象を指示している、ということになるでしょう*8。名前はすべて、記述を介して対象を特定する、または、対象は、特定されるのに、その対象が当てはまるような特徴をもってなされるのだ、とするならば、任意の対象もしくはその名前は、必ず記述を持つもしくは記述句に書き換えることができる、としてよいと思われます。そして実際にこのことを体現し、それを暗に示しているのが、上記の式 *(3') だと言えます。
Føllesdal さんは、おそらくこの *(3') を偽と見なすのです。これが偽であるならば、どのような名前も、必ずしも確定記述句に書き換えられる訳ではない、ということになります。実際、今の結論をさらに一歩進めて、Føllesdal さんの取っていると思われる立場を鮮明にすれば、名前には、確定記述句に書き換えられるものと書き換えられないものとがある、とするのではなく、そもそも「すべての本物の名前 (rigid designators, genuine singlar terms) は、またはすべての本当の名前は、確定記述句に書き換えることができないのだ」ということになると思われます。名前はすべて、確定記述句ではなく、確定記述句はどれも、名前ではないと考えておられるのです。実際、確定記述句を、いわば展開してやると、文になります。文は、通常名前ではありません。ですから、確定記述句は名前ではありません。一方、正真正銘の名前は、確定記述句ではなく、それに書き換えることはできず、単なる tag であり、記述を介して対象を指示するものではない、とされているものと考えられます。
はたして、名前を一切確定記述句に書き換えることができないというのは、本当か否か、このことについて、今は詳しい検討を控えます。ただ、少し考えてみるだけで、いくばくかの疑問がわいてくるのは確かです。例えば、数詞 '3' ですが、これは、'the positive square root of nine' というように、確定記述句に書き換えることができると思います*9。しかもこの確定記述句は、どのような場合においても、つまり、どのような可能世界においても、同じ対象である 3 を指示します*10。したがって、正真正銘の名前だけが、どのような場合においても、同じ対象を指示し続けると言うのならば、それは間違いであって、確定記述句 'the positive square root of nine' も、あらゆる場合を通じて、3 を指し続けるのだ、と言えます。しかし、3 は必然的に存在する対象だから、それが備えている特徴を表した確定記述句によっても、常にいかなる可能世界においても、同じ対象として指示され続けるのかもしれません。そこで、偶然的に存在する対象ならば、それを特徴付ける記述は、時と場合に応じて、その対象を指示したり指示しなかったりするのでしょうか。偶然的な対象が持っている特徴のなかには、その対象をどのような場合にも、つまりその対象が存在するどのような可能世界においても、その対象を特定化できるような特徴は、一つもないのでしょうか。そのような特徴はあるように思われます*11。例えば、Ludwig Wittgenstein は、数の 3 のように、必然的に存在するような対象ではないと思われますが、その彼は1889年4月26日午後8時半に、父 Karl と母 Leopoldine の9番目の子として Wien の Alleegasse に生まれました。Ludwig に関するこの属性は、彼を、かつ彼だけを特定化する特徴の一つだと思われます。しかも、彼が存在する場合はいかなる場合でも、この特徴を彼は有しているように思われます。というのも、彼が彼である所以は、父 Karl と母 Leopoldine という両親から生まれたことにあり、この両親以外から生まれながら、それでも Ludwig が以前と変わらぬ Ludwig であり続けたということは、ありそうにないからです。以上のように、必然的対象であれ偶然的対象であれ、そのそれぞれを特定化する確定記述の実例があり得るのであり、しかも、それぞれの記述は、それに対応する対象が存在する可能世界では、いつでもその同じ対象を指し続けるように思われます。名前を一切確定記述句に書き換えることができないということは、本当に正しいことなのかどうか、このように疑問なしとはしません。この点については、色々と論じられているようで、これ以上は何も言いません。
また、上記の式 *(3') について、今までその式を、いわば substitutional に読んできましたが、いわゆる referential に読んだ場合には Føllesdal さんの「名前は確定記述句に書き換えることはできない」という見解はどうなるでしょうか。おそらく referential に件の式を読むならば、それは次のような感じになるものと思われます。すなわち、任意の対象 x には、それを、かつそれのみを特定化する特徴がある、と。このようなことを式の *(3') が referential には述べているものとするならば、この式を偽とする Føllesdal さんは、どのような対象であれ、各対象は、自身を、かつそれのみを、特定化するような特徴を必ずしも備えているとは限らない、と主張していることになります。対象によっては、それを特定化できるような特徴を持ち合せていないものがある、ということです。これが事実であるかどうかは、私にはよくわかりません。物理的な対象の場合には、それを、かつそれのみを特定化できるような特徴を、もしかすると、どの対象も持ち合せているかもしれません。例えば、ガンジス川の川岸の砂粒も、一つ一つ、その物理的特徴を精査すれば、分子の配列の違いや、その粒が地球上のどの時空間を占めているかを明らかにすることによって、それぞれを特定できるかもしれません。このような作業はものすごく大変であり、実際にやってみることなど、できはしませんが、理屈の上では可能であるように思われます。一方で、物理的な対象ではなく、抽象的な対象が存在する場合には、そのそれぞれを特定化できるのかどうか、これも私にはわかりません。例えば、個々の自然数ならば特定化することは可能かもしれません。具体的には、自然数の 0 は、いかなる自然数の後続者とはなっていない自然数であり、自然数の 1 は、自然数 0 に一つだけ後続する抽象的対象であり、自然数 2 は自然数 1 に一つだけ後続する抽象的対象であり、以下同様にして行けば、自然数という抽象的対象は、各々特定化することができるかもしれません。しかし、あらゆる抽象的対象がこのように整然と特定化されるものかどうかは、明らかではありません。このことについてもこれ以上述べることは、やめにしておきます。
何にせよ、Føllesdal さんは、ここまで論じてきた式 *(3') を偽と見なすだろうと思われます。この式は、当日記の2013年3月31日、項目 ''Quine's Slingshot Argument Reconstructed by D. Føllesdal'' において示されている Slingshot に現われています。この Slingshot は Føllesdal さんが Quine の Slingshot を再構成したものです。この再構成された Slingshot とは別に、当日記の2011年8月15日、項目 ''Quine's Main Criticisms Directed to Quantified Modal Logic'' においても、Quine の Slingshot が記されており、こちらの方は、Quine の Word and Object で出てくる Slingshot により近いものになっています。ではこの後者の Slingshot においては、どの式を Føllesdal さんは偽と見なすのでしょうか。それは、2011年8月15日の日記で、
- (g) ∀y( p ∧ y = w .≡. y = x )
- (h) ∀y( y = w .≡. y = x )
と記した式だろうと推測されます。Quine は Word and Object で、これらの式に相当する式がどちらも成り立つものと考えていますが*12、おそらく Føllesdal さんは、これらの式について、実際には偽であると踏んでいるものと思われます。というのは、これらの式は、いわゆる展開された確定記述句に他ならないからです。これらの式に出ている x を一意に定める記述的条件になっているからです。任意の x について、それをただ一つに特定化する条件を述べていることになっているからです。式中の x に名前を入れてやると、その名前の指示する対象を一つに定める条件が述べられていることになっているからです。つまり、簡単に言えば、事実上、確定記述句の代理をしているのです。そしてこのことは、今まで述べてきたように、Føllesdal さんの反対することでした。したがって、今上げた二つの式が、いつも成り立つと考えるのは間違っている、これらの式は実際は偽なのだ、と Føllesdal さんは考えているものと思われます。
ここでの私の話の目的は、Føllesdal さんが Quine の Slingshot を、どのように block するのか、ということを、詳細な論証抜きで示してみることでした。不十分ながら、ここまでで示されたことをまとめてみますならば、どのように Føllesdal さんが Quine の Slingshot を block するのかというと、その Slingshot は健全な論証ではないだろうから、前提に少なくとも一つは偽であることが含まれているはずで、二つ提示した Quine の Slingshot のうち、一つ目では、前提となっている式の
- *(3') (iy)( y = x . p ) = x ['i' is a definite description operator.]
を Føllesdal さんは、おそらく偽とするであろうということと、二つ目では、前提となっている式の
- (g) ∀y( p ∧ y = w .≡. y = x )
- (h) ∀y( y = w .≡. y = x )
を Føllesdal さんは、おそらく偽とするであろうということを記しました。名前と確定記述句との異同については、詳しく論じている暇も能力もないため、上記の私の話では、表面を軽く引っ掻いた程度のことしか語られていません。きちんと論じようと思えば、the new theory of reference を本格的に検討してみなければなりませんが、今は時間もなく能力も欠けていますので、差し控えます。この種の話題は、しばしば論じられていると思いますから、私の出る幕ではないので、これで話は終わりにしますが、最後に一つだけ、記しておきたいことがあります。
Føllesdal さんの話を読んでいて気が付いたのですが、Føllesdal さんによると、いわば本当の名前は、確定記述句に書き換えることができないという立場を取っておられると思います。ところで、話は飛ぶようですが、「存在論的 commitment の基準として、あなたはどのような基準を採用されますか?」と聞かれれば、何と答えますでしょうか? 私は the new theory of reference をよく知らないこともあり、何となく漠然と、「たぶん束縛変項の値であることじゃないだろうか」と答えるように思います。Quine と同じですね。存在論的 commitment の基準として Quine が採用していると思われるのは、非常に有名なことですが、有意味な名前のいみや指示対象であることではなく、束縛変項の値であること、です。ひょっとしてひょっとすると、私と同じように、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを採用しようとする人は、他にもいらっしゃるかもしれません。しかし、Føllesdal さんが言うように、本当の名前は、確定記述句に書き換えることができないということが正しいとするならば、つまり、the new theory of reference が正しいとするならば、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であること、という基準を採用することはできなくなってしまうと思います。名前が必ずしも確定記述句に書き換えることができる訳ではないとするならば、存在論的 commitment の基準として、Quine と同様に、束縛変項の値であること、というよく知られた基準を採用することは、おそらく不可能になるということです。このことに気が付いて、私はちょっと驚きました。気が付くのが、ものすごく遅いとは思いますが…。今さら仕方がないですよね。気が付かなかったものは気が付かなかったのだから、もうどうしようもない。なぜ今まで気が付かなかったのか、不思議と言えば不思議だし、私の能力では当然と言えば当然ですが…*13。まあ、それはさておき、どうして名前を確定記述句に書き換えることができなければ、存在論的 commitment の基準として、Quine 同様、束縛変項の値であることを採用できないのかというと、Quine にとり、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを採用できるのは、名前がすべて例外なく確定記述句に書き換えることができるということを根拠にしているからです*14。あらゆる名前が確定記述句に書き換えることが可能であるということを理由として、束縛変項の値であることを、存在論的 commitment の基準に採用できるのです。名前を確定記述句に書き換えることができるから、有意味な名前のいみや指示対象であることを存在論的 commitment の基準に据えるのではなく、束縛変項の値であることに、その基準を据えることができるのです。これは Quine の ''On What There Is'' を読めば、文字通り、そう書いてあります*15。異なる解釈が出てくる余地はないと思います。それぐらい明白に書いてあります。断言してしまいますが…。ということで、名前を必ず確定記述句に書き換えることができるから、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを採用すべきだ、ということが Quine の主張ですが、上記の Føllesdal さんのお考えによると、Quine's Slingshot Argument を阻止するには、上で提示した *(3') などの三つの式を偽とすべきであり、このことがいみしているのは、substitutional には、本物の名前は確定記述句に書き換えることができないということでしたから、これは Quine の主張と真っ向からぶつかります。Føllesdal さんが正しいとすると、本物の名前は確定記述句に書き換えることはできませんので、そうすると、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを採用すべき根拠が失われてしまうように思われます。ですから、「あなたの存在論的 commitment の基準は何ですか?」と聞かれれば、名前をいつでも確定記述句に書き換えることができると考えるなら、「束縛変項の値であることです」と答えることはできるでしょうが、名前を単なる tag 以上のものではないと考えているならば、その場合、「束縛変項の値であることです」と答えることはできないと思われます。それでは筋が通らないからです。何となく、教科書的に、「存在論的 commitment の基準は、束縛変項の値であることなんだろうな」と、ぼんやり思っていましたが、rigid designator や genuine singular term などを、本気で受け入れる人は、おそらく存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であることを、採用することはできないだろうと思います。とすると、その基準として、何を採用すればよいのだろう? それこそ、the new theory of reference をよくよく勉強してみないと答えは出ないように思われます。という訳で、それについては、また今度勉強することにしよう。ただし、また今度というのが、いつのことになるのかは、わかりませんが…。
以上の話には、間違いが含まれているかもしれません。不十分な考察が見受けられるかもしれません。Føllesdal さんのお考えや、the new theory of reference, 可能世界に関することについては、私は詳しくありませんので、見当違いなことを述べておりましたら謝ります。大変すみません。暫定的な私見を記したまでですので、どうかお許しいただければと思います。
*1:私は 'the new theory of reference' という言葉を、漠然と使っています。Ruth Barcan Marcus, Saul Kripke, Dagffin Føllesdal さんたちの、名前に関する所説を大づかみに指しています。
*2:Føllesdal さんは、このようなことを、あちらこちらで繰り返し述べておられます。一つだけ、該当箇所を明記しておきますと、Føllesdal [1961], pp. x-xi.
*3:これも一ヶ所だけ、該当箇所を記しておきますと、Føllesdal [1961], pp. x-xi.
*4:Frauchiger [2013], p. 351. ここで、interviewer の Michael Frauchiger さんは、interviewee の Føllesdal さんに、「あなたが明らかにしたのは、Quine の Slingshot が、妥当ではあるが健全ではない、ということでした」との主旨のことを語りかけ、これに対し、Føllesdal さんは特に否定されていません。この interview の様子は、当日記、2013年3月24日、''Føllesdal and Quine's Slingshot Argument at a Glance'' に記されています。
*5:Føllesdal [1983], p. 95.
*6:Willard Van Orman Quine, ''On What There Is,'' in his From a Logical Point of View: Nine Logico-Philosophical Essays, Second Edition, Revised, Harvard University Press, 1953/1980, pp. 7-8, 邦訳、クワイン、「何が存在するかについて」、『論理学的観点から 9つの論理・哲学的小論』、中山浩二郎、持丸悦郎訳、岩波書店、1972年、21ページ、クワイン、「なにがあるのかについて」、『論理的観点から 論理と哲学をめぐる九章』、飯田隆訳、双書プロブレーマタ II-7, 1992年、10-11ページ。
*7:W. V. Quine, Methods of Logic, Fourth Edition, Harvard Univesity Press, 1982, p. 276. ここで Quine は、'the primacy of general terms' という言葉を使っています。邦訳、W. V. O. クワイン、『論理学の方法』、中村秀吉、大森荘蔵訳、岩波書店、1961年、216ページ、クワイン、『論理学の方法』、原書第3版、中村秀吉、大森荘蔵、藤村龍雄訳、岩波書店、1978年、246ページ。Føllesdal さんは、Quine の the primacy of predicates について、次の箇所で言及されています。Føllesdal [1961], pp. 75-76.
*8:Frege の Sinn は、Russell の確定記述に他ならないと、ここで言いたいのではありません。両者が同じか否かは、検討する必要があります。たぶん両者は、正確には異なったものです。
*9:この事例は、次に上がっているものです。W. G. ライカン、『言語哲学 入門から中級まで』、荒磯敏文、川口由起子、鈴木生郎、峯島宏次訳、勁草書房、2005年、80-81ページ。同種の話は次にも見られます。飯田隆、『言語哲学大全 III 意味と様相 (下)』、1995年、278-279ページ、および、八木沢敬、『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』、講談社選書メチエ 544, 2013年、190-191ページ。
*10:ここでは個々の数を対象であると見なしています。数学的な構造主義の場合は、数を対象とは見なさないかもしれません。
*11:以下の例は、次を参考にしています。飯田、『言語哲学大全 III』、278-280ページ。ここで述べる特徴は、'individual essence', 'haecceity', 'thisness' などと呼ばれているものです。
*12:Willard Van Orman Quine, Word and Object, The MIT Press, 1960, §41, p. 198, formulae (5) and (6), Quine, Word and Object, New Edition, The MIT Press, 2013, §41, p. 181, formulae (5) and (6), W. V. O. クワイン、『ことばと対象』、大出晁、宮館恵訳、双書プロブレーマタ 3, 勁草書房、1984年、第41節、332ページ、式 (五), (六).
*13:名前を確定記述句に書き換えることが必ずしもできないとするならば、存在論的 commitment の基準として、Quine のように、束縛変項の値であることを、その基準に採用することはできないだろう、という話は、先日、次の文献該当箇所で言及されているのに気が付きました。八木沢、『意味・真理・存在』、180ページ以下を参照。八木沢先生が、このように入門書で今問題にしていることを述べておられることから、the new theory of reference を信奉している人々にとっては、存在論的 commitment の基準として、束縛変項の値であること、という基準をたぶん採用できないことは、おそらくよく知られていることなのでしょう。私は最近まで知りませんでしたが…。
*14:Quine, ''On What There Is,'' pp. 12-13, クワイン、「何が存在するかについて」、26-27ページ、「なにがあるのかについて」、18-19ページ。
*15:Quine, ''On What There Is,'' pp. 12-13, クワイン、「何が存在するかについて」、26-27ページ、「なにがあるのかについて」、18-19ページ。
