nuhsnuhの日記

2017-12-03 The Liar Paradox, Curry’s Paradox, and Russell’s Paradox

[][] The Liar Paradox, Curry's Paradox, and Russell's Paradox, Are All These Paradoxes of the Same Kind?

別々の paradox に見える the Liar paradox, Curry's paradox, Russell's paradox が、もしもすべて同じ paradox だとしたら、どのように思われますか? それらが同じ種類のものだとしたらどうでしょう? 同じ matrix, format から発現しているものだとしたら?

The Bald Man paradox (薄毛の人のパラドックス) と the paradox of the Heap (砂山のパラドックス) が同じ種類の paradox であることは一般に認められていると思います。同様に the Liar paradox, Curry's paradox, Russell's paradox も同じ paradox の別々の形態に過ぎないのならば、それは意外なことですし、その場合、それらの paradox を統一的に、かつ一挙に解決してしまうことも夢ではありません。少なくともそのような解決を夢想することは許されるでしょう。

では、the Liar paradox, Curry's paradox, Russell's paradox はみな同じ種類の paradox なのでしょうか? とりあえず本日記す内容の目次を掲げます。

  • Section 1. Is the Liar Sentence a Special Case of the Curry Sentence?
  • Section 2. Curry and Russell Come from the Same Home Town, Namely the General Structure.
  • Section 3. The Liar too!

Section 1 では、the Liar paradox に見られるうそつき文が、Curry's paradox に見られる Curry Sentence の一特殊事例になっているという見解を示します。

Section 2 では、Curry's paradox と Russell's paradox が同じ一般的構造から出てくることにより、ともに同じ種類の paradox であるという見解を細かく説明します。

Section 3 では、the Liar paradox も同じ構造から出てくるので、これも先の二つの paradox と同じ種類の paradox であるという話をします。

本日記す内容から引き出される結論: The Liar paradox, Curry's paradox, Russell's paradox はみな同じ種類の paradox である (可能性がある)。

注意: このあとの本論で、the Liar paradox, Curry's paradox, Russell's paradox のすべてが同じ種類の paradox である可能性を述べますが、はたして本当にこれらすべてが同種の paradox であるのかどうかについては現在係争中であり、専門家の間でもおそらくまだ決着がついていない模様です*1。実際、これらの paradox を同じ種類のものと見なすことに対しては、重要な反論存在します。次がそれです。

  • Graham Priest  ''What If?: The Exploration of an Idea,'' in: The Australasian Journal of Logic, vol. 14, no. 1, 2017, Section 15.4: Neo-Curry Paradoxes, pp. 118-119.

私はこの反論を十分考慮しておりません。この反論に何も答えておりません。そのため、このあとの話は、この反論が決定的だとするならば、すべてが崩壊するか、あるいは一部が崩壊するものと思われますので、以下の話を全部正しいものと思い込んで読むようなことはないようにお願い致します。なお、言うまでもありませんが、このあとの話に私の original な主張はございません。すべて既知の事柄です。注意終わり。


Section 1. Is the Liar Sentence a Special Case of the Curry Sentence?

The Liar paradox は Curry's paradox の特殊形なのでしょうか? Curry's paradox を特殊化したものが、the Liar paradox なのでしょうか? Curry's paradox が the Liar paradox の一般形なのでしょうか?

  • Roy T. Cook  Paradoxes, Polity, Key Concepts in Philosophy Series, 2013, p. 76,

によると、上記の問いに対しては ''Yes'' と答えられるようです。まずそのことを確認してみましょう。その際、以下の文献該当個所を参考にしています。つまり

  • Jc Beall  ''Curry's Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, 2001/2008,*2

の、Section ''2.1 Truth-Theoretic Version,''*3 です。


The Liar paradox と Curry's paradox を見ると目立つのは、そこにある Liar Sentence と Curry Sentence です。そこでこれらの文に注目してみます。

さて、Liar Sentence を


   (1) この文は真ではない


とし、この文を 'L' と呼ぶと、


   (2) L = この文は真ではない


となります。(2) の右辺の「この文」とは L のことです。そこで


   (3) L =. L は真ではない。*4


としてもよさそうですが、(3) は正しくありません。なぜなら L は文であり、(2) や (3) の右辺の「は真ではない」という表現主語には、文ではなくて文の名前がこなければ文法的おかしいからです*5。そこで、言語表現から、その名前を作る手立てを '[ ]' で表せば*6、(3) は


   (4) L=. [L] は真ではない。


とする必要があります。

今、真理述語 (「〜は真である」) を 'T' とし、否定記号を '¬' とすると、(4) は


   (5) L = ¬T[L]


となります。そして '⇔' を同値記号とした時、


   T-Schema: T[A] ⇔ A


が成り立つとすると*7、(5) は


   (6) T[L] ⇔ ¬T[L]


となります*8

再び T-Schema により、(6) は


   (7) L ⇔ ¬T [L]


です。


次に否定の定義を記します。この定義は、しばしば許容されているものです。今、'Φ' は文あるいは式を一般的に表わすものとし、'⊥' は矛盾式または偽を表わすものとする時、否定記号 '¬' は


   ¬Φ ⇔def. Φ → ⊥


と定義されます ('→' は material conditional を表わします)。そうすると、(7) の否定記号を否定の定義により書き換えるならば、


   (8) L ⇔. T [L] → ⊥


となります。

ところで Curry Sentence は


   (9) L ⇔ T [L] → Φ


と書くことができます。この 'Φ' を '⊥' で置き換えてやると


   (10) L ⇔. T [L] → ⊥


です。これは (8) に他なりません。(9) の 'Φ' は一般的に文/式を表わしていましたが、(8) (= (10)) の '⊥' は一意に矛盾式/偽を表わします。つまり Curry Sentence は、いわば、一般性をそこに含みますが、形式化された Liar Sentence (8), (10) は、いわば、一般性をそこに含まず、Curry Sentence の特殊例になっていると思われます。

ということは、the Liar paradox は Curry's paradox の特殊形であり、the Liar paradox を一般化したものが Curry's paradox なのだ、ということになりそうです。しかし、それは本当でしょうか? もしもそれが本当ならば、the Liar paradox を解決するためには、その一般形である Curry's paradox を解決する必要があり、かつ Curry's paradox を解決してやれば、それとともに the Liar paradox も合わせて解決されるということになりそうです。そうだとすればこのことは、問題の二つの paradox を解決するにあたり、とても重要な戦略的知見をもたらしそうです。つまり問題の二つの paradox を別々に解決してやる必要はなく、ただ一つだけ、Curry's paradox を解決してやるだけで済むのであり、わざわざ the Liar paradox まで手を出す必要はなく、より一般的な Curry's paradox こそ、何よりも解決してやる必要があるのだ、と考えられます。


実は、the Liar paradox も Curry's paradox も、ともにより一般的な、共通の構造から生み出される paradox だと主張されるようになって来ています。それは 'Curry connective' と呼ばれる結合子 ⊙ に伴っている、ある一般的な規則から生み出されます。そのことを次の section で見てみましょう。


Section 2. Curry and Russell Come from the Same Home Town, Namely the General Structure.

この section では*9、以下の文献のなかの、

  • Lionel Shapiro and Jc Beall  ''Curry's Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Winter 2017 Edition,*10,

次の部分の内容を、''5.2 Pointing to a General Paradox Structure,''*11 ほとんどそのままなぞって一部補足を入れ、くどくどと述べ直したものです*12 *13

Section 1 では Curry's paradox と the Liar paradox の関係について述べましたが、この Section 2 では Curry's paradox と Russell's paradox の関係について述べます。そして、このあとの Section 3 で再び Curry's paradox と the Liar paradox の関係について述べることにします。


さて、上の Shapiro and Beall 先生による文献の中の ''5.2 Pointing to ... '' の説明によるならば、Curry's paradox と Russell's paradox は同じ一般的構造から出てくるとのことです。この構造に対し、条件法記号 (→) を使えば前者の paradox が生じ、否定記号 (¬) を使えば後者の paradox が生じます。

この一般的構造は、Curry's paradox の原因となる単項命題結合子を定義することで明示できます。それを「Curry 結合子」と呼びます。


(Curry 結合子の定義) π を、理論 T の言語による任意の文としましょう*14。T における π に対し、単項結合子 ⊙ が Curry 結合子であるのは、次の二つの原理を満たす場合です。なお、以下の ⊢ α は T で α が定理であるということ、α ⊢ β は T で前提 α から結論 β が帰結するということです。


   (P1) If ⊢ α and ⊢ ⊙α, then ⊢ π.

   (P2) If α ⊢ ⊙α, then ⊢ ⊙α.


差し当たり、⊙ にはいみはないので、P1, P2 の式が何をいみしているのか、そのことはここではわからなくても構いません。P1, P2 の式が「何かに似ている」と、可能であるならば、感じてもらえればと思います。何に似ているかは、以下で明らかになります。(今、感じられなくても大丈夫です。)

次に、この結合子に加えて、問題の一般的構造を示すには、下記の Generalized Curry-Paradox Lemma が必要です。


(Generalized Curry-Paradox Lemma: GCPL) T を次のような理論としましょう。その理論では同一性規則 Id ( i.e., α ⊢ α ) が成り立ち、かつある文 π と μ について、(i) T によれば、μ と ⊙μ は、それらが現れている文において、真理値を変えることなく互に交換可能 (Curry-intersubstitutivity) であり、かつ (ii) T における π に対し、⊙ は Curry 結合子であるとします。この時、T では ⊢ π となります。つまり T におけるあらゆる文 π が定理となります。

   Proof:

   1 μ ⊢ μ  Id

   2 μ ⊢ ⊙μ 1 Curry-intersubstitutivity  (1 の結論 μ を ⊙μ と交換)

   3 ⊢ ⊙μ   2, P2

   4 ⊢ μ   3 Curry-intersubstitutivity  (3 の ⊙μ を μ と交換)

   5 ⊢ π   3, 4, P1


話題としている一般的構造とは、上記の P1 と P2 と Generalized Curry-Paradox Lemma (GCPL) の組です。つまり、


   The General Structure = < P1, P2, GCPL >.


Generalized Curry-Paradox Lemma (GCPL) からは、単項結合子 ⊙ を条件法記号による式で置き換えれば Curry's paradox が生じ、⊙ を否定記号で置き換えれば Russell's paradox が生じます。具体的な手順としては、次のとおりです。まず、Generalized Curry-Paradox Lemma から Curry's paradox を引き起こしてみましょう。最初に Curry Interpretation という下ごしらえを作ります。


(Curry Interpretation) Curry's paradox を引き起こすためには、単項結合子 ⊙ に関し、⊙α を α → π に置き換え、T における μ を μ → π と、これらが現れている文において、真理値を変えることなく互に交換可能な文としましょう。つまり、μ と μ → π に関しては、μ が Curry Sentence なわけです (μ ⇔. μ → π)。そうすると P1 は Modus Ponens (MP) となり、他方 P2 は Contraction (Cont) となります*15。下に P1 を再度掲示し、それを MP へ書き換えてみましょう。P2 も Cont に書き換えてみましょう。

  • (P1) If ⊢ α and ⊢ ⊙α, then ⊢ π.
    • Curry Interpretation では単項結合子 ⊙ に関し、⊙α を α → π とするのでした。この π は任意の式を表わすので、それを β とすれば、⊙α は α → β となります。そこで P1 の ⊙α を α → β と書き換え、and の前後を入れ換えれば、下の MP になります。
  • (MP) If ⊢ α → β and ⊢ α, then ⊢ β.

  • (P2) If α ⊢ ⊙α, then ⊢ ⊙α.
    • この ⊙ に関し、⊙α を α → π とするのですが、π を β とすれば、⊙α は α → β となるので、その上でこの P2 を書き換えると、下の Cont になります。
  • (Cont) If α ⊢ α → β, then ⊢ α → β.

下ごしらえは作り終えました。ここで、the General Structure の GCPL に Curry Interpretation を施すことで、実際に Curry's paradox が生じることを確かめてみましょう。

Curry Interpretation では単項結合子 ⊙ に関し、⊙α を α → π とするのでした。この α は任意の文を表わすので、α を μ に付け替えると、⊙α と α → π はそれぞれ ⊙μ と μ → π となります。このようにすることを念頭において、先ほどの Lemma (GCPL) の Proof を再び掲げ、その下部に Curry Interpretation の内容、指図を書き込むと、以下のようになります。

   Proof:

   1 μ ⊢ μ  Id

   2 μ ⊢ ⊙μ 1, Curry-intersubstitutivity

   3 ⊢ ⊙μ   2, P2

   4 ⊢ μ   3, Curry-intersubstitutivity

   5 ⊢ π   3, 4, P1.

          • 2 の ⊙μ を μ → π とします。Curry-intersubstitutivity を Curry Sentence とします。
          • 3 の ⊙μ も μ → π とします。P2 は Cont とします。
          • 4 の Curry-intersubstitutivity を Curry Sentence とします。
          • 5 の P1 は MP とします。

この下部の指示に従えば、

   1 μ ⊢ μ    Id

   2 μ ⊢ μ → π  1, Curry Sentence

   3 ⊢ μ → π   2, Cont

   4 ⊢ μ     3, Curry Sentence

   5 ⊢ π     3, 4, MP

となります。これは Curry's paradox です。


今、the General Structure の ⊙ を条件法記号で置き換えることで、Curry's paradox が生じるのを見ました。今度は the General Structure の ⊙ を否定記号で置き換えれば Russell's paradox が生じるのを見てみましょう。まず、先ほどの Curry Interpretation に対応する下ごしらえ Russell Interpretation を記します。


(Russell Interpretation) Russell's paradox を引き起こすためには、⊙α を ¬α に置き換え、T において、μ を ¬μ と、これらが現れている文で、真理値を変えることなく互に交換可能な文としましょう。これは要するに Russell Sentence (μ ⇔ ¬μ) のことです。すると、P1 は ex contradictione quodlibet (ECQ) となり*16、他方 P2 は reductio (Red) となります*17。下に P1 と P2 を再度掲げ、それぞれを ECQ, Red に書き換えてみましょう。

  • (P1) If ⊢ α and ⊢ ⊙α, then ⊢ π.
    • Russell Interpretation では単項結合子 ⊙ に関し、⊙α を ¬α とするのでした。また、P1 の π は任意の式を表わすので、それを β としましょう。そうすれば下の ECQ になります。
  • (ECQ) If ⊢ α and ⊢ ¬α, then ⊢ β.

  • (P2) If α ⊢ ⊙α, then ⊢ ⊙α.
    • ここの ⊙α を ¬α とすれば、ただちに下の Red になります。
  • (Red) If α ⊢ ¬α, then ⊢ ¬α.

下ごしらえはできました。ここで、the General Structure の GCPL に Russell Interpretation を施すことで、実際に Russell's paradox が生じることを確かめてみましょう。前に記した Lemma (GCPL) の Proof を再び提示し、その下部に Russell Interpretation の内容、指図を書き込みます。なお、先の ECQ: If ⊢ α and ⊢ ¬α, then ⊢ β の β は任意の式を表わすので、ここではこの β を元の π としておきます。つまりこの場では If ⊢ α and ⊢ ¬α, then ⊢ π が ECQ です。

   Proof:

   1 μ ⊢ μ  Id

   2 μ ⊢ ⊙μ 1, Curry-intersubstitutivity

   3 ⊢ ⊙μ  2, P2

   4 ⊢ μ   3, Curry-intersubstitutivity

   5 ⊢ π   3, 4, P1.

          • 2 の ⊙μ を ¬μ とします。Curry-intersubstitutivity を Russell Sentence とします。
          • 3 の ⊙μ も ¬μ とします。P2 は Red となります。
          • 4 の Curry-intersubstitutivity を Russell Sentence とします。
          • 5 の P1 は ECQ となります。

この下部の指示に従えば、

   1 μ ⊢ μ   Id

   2 μ ⊢ ¬μ  1, Russell Sentence

   3 ⊢ ¬μ   2, Red

   4 ⊢ μ    3, Russell Sentence

   5 ⊢ π    3, 4, ECQ

となります。これは Russell's paradox によって引き起こされた不合理だと言えます。


Section 3. The Liar too!

この前の section では Curry's paradox と Russell's paradox の関係が述べられ、両者が同じ一般的構造から発現することを見ました。では the Liar paradox はどうなのでしょうか? The Liar も同じ一般的構造から出てくるものと思われます*18。このことの確認は簡単に済みます。上の GCPL と Russell Interpretation を少し書き換えるだけで済むからです。この Section 3 は手短に終えます。GCPL と Russell Interpretation を書き換える前に、簡単な準備をします。


Section 1 で、うそつき文


   (1) この文は真ではない


を書き換えて行くと、


   (6) T[L] ⇔ ¬T[L]


が出ました。この文を、同値記号を残して日本語に直すと


   (6.1) 「この文は真ではない」は真である ⇔ 「この文は真ではない」は真ではない


となります。ところで、たとえば、「花子は太郎を愛している」が真であるならば、花子は太郎を愛しています。したがって、(6.1) の左辺は、カギカッコを取って、真理述語を省けば、次のように書き換えられます。


   (6.2) この文は真ではない ⇔ 「この文は真ではない」は真ではない。


また、たとえば、「花子は太郎を愛している」が真ではないならば、花子は太郎を愛していません。したがって、(6.2) の右辺は、やはりカギカッコを取り、真理述語を省き、元々カッコ内にあった文を否定してやれば、次のように書き換えられます。


   (6.3) この文は真ではない ⇔ この文は真ではないことはない。


この右辺は、一般に、以下のように書き換えられます。二重否定を肯定に変えます。


   (6.4) この文は真ではない ⇔ この文は真である。


こうして、(6.1) を (6.4) のように書き換えることができるので、(6) は次のように書き換えることができます。


   (6.0) L ⇔ ¬L.


これを the Liar Sentence Variant と呼ぶことにします。これで準備は終わりました。


さて、the General Structure の GCPL に Russell Interpretation を施せば、そこから Russell's paradox が出てくるのでした。今度はこの GCPL の証明に出てくる文 'μ' を全部、今先ほどの 'L' に直し*19、Russell Interpretation の中の Russell Sentence (μ ⇔ ¬μ) を、今先ほどの the Liar Sentence Variant (L ⇔ ¬L) に書き換えてやれば、すべての作業は終了です。まず、Section 2 末尾で提示した、Russell's paradox が出てきた証明を、もう一度記してみましょう。


   1 μ ⊢ μ   Id

   2 μ ⊢ ¬μ  1, Russell Sentence

   3 ⊢ ¬μ   2, Red

   4 ⊢ μ    3, Russell Sentence

   5 ⊢ π    3, 4, ECQ


これを今の指示に従って書き換えると、次になります。


   1 L ⊢ L   Id

   2 L ⊢ ¬L  1, The Liar Sentence Variant

   3 ⊢ ¬L   2, Red

   4 ⊢ L    3, The Liar Sentence Variant

   5 ⊢ π    3, 4, ECQ


この 3 と 4 の導出は the Liar paradox の出現だと言えます。そしてそこから 5 が「爆発」して出てきているわけです。こうして the Liar も、同じ the General Structure 出身だとわかりました。結局、これまでの話が正しいとするならば、正しいとすればですが、the Liar paradox, Curry's paradox, Russell's paradox の三者はみな同じ町の出身であるということになると思われます。(すると、これら三者のうち、一つだけを解決して満足するのではなく、全員を一網打尽にしなければならないでしょうね。その場合、the General Structure に何か制限をかければ、それだけで一網打尽にできるかもしれません。いや、そんなに簡単に行くのかな? 不安になってきました ... 。単に制限をかけるだけではなく、そのような制限を課す際にも、それなりの哲学的、論理学的、さらには数学正当性要求されるでしょう。なかなか大変ですね。)


この日記項目の冒頭でも述べましたが、the Liar paradox, Curry's paradox, Russell's paradox が全部同類の paradox であるかどうかについては、まだ専門家の間でも意見が分かれています。そのため、ここまで記してきたことが正しいかどうか、慎重な検討を要します。私自身もまだ確信を持つことができていません。日記の初めで言及した Priest 先生の反論にも、私なりの答えを出すことができていません。今回は暫定的見取り図自分勉強のためもあって記してみた次第です。これらのことに興味のある方は、よろしければ本日の日記を参考にして考えてみてください。

以上、誤字、脱字はもちろん、誤解や無理解勘違い大間違いが含まれていましたら大変すみません。一部表現の使用と言及の区別を明確にせず述べていた部分もあったろうと思います。それらすべてに対しお詫び申し上げます。もう少し勉強致します。

*1Mark Colyvan, ''[Philosophy of Logic: 5 Questions],'' in T. Adajian, T. Lupher eds., Philosophy of Logic: 5 Questions, Automatic Press, 2016, pp. 61-62. 2016年に出たこの本の p.62 で、論理学哲学に関し、現在最も重要open problem を尋ねられた Colyvan 先生は今問題にしている三つの paradox が同じ種類のものなのかどうか、読者に問いかけておられます。

*2:<https://stanford.library.sydney.edu.au/archives/sum2010/entries/curry-paradox>. これは、The Stanford Encyclopedia of Philosophy における entry ''Curry's Paradox'' のバージョンです。ご注意ください。

*3:<https://stanford.library.sydney.edu.au/archives/sum2010/entries/curry-paradox/#2>.

*4:等号右下の '.' は区切りを示すために入れています。

*5:たとえば、「「花子太郎を愛している」は真である」は文法に適っていますが、「花子は太郎を愛しているは真である」は文法に適っていません。

*6日本語でよく使うカギカッコ '「 」' でも構いませんが、体裁上、'[ ]' を使っておきます。

*7:T-Schema とは、簡単には真理述語の基本的特徴を記したもの、あるいは定めたものであり、図式 (schema) であって、ここの場合では 'A' に任意の式を代入することができて、この schema からは無数の同値式が生み出されます。

*8:T-Schema により、(a) T[L] ⇔ L. 今 (5) L = ¬T[L] なので、(a) の右辺の 'L' を (5) の右辺の '¬T[L]' と入れ換えれば (6) になります。

*9:上の Section 1 では、記号 '→' を material conditional としていました。この Section 2 ではその記号を必ずしも material conditional と初めから解すべきではないのですが、話が細かくなりすぎるので、このあたりのことは不問に付しておきます。

*10:<https://plato.stanford.edu/archives/win2017/entries/curry-paradox/>. こちらは、The Stanford Encyclopedia of Philosophy における entry ''Curry's Paradox'' の、2017年秋に出た新バージョンです。ご注意ください。

*11:<https://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/#PoinGeneParaStru>.

*12:このあと、私は the General Structure というものの解説を行っていますが、Shapiro and Beall 先生は、''5.2 Pointing to a General Paradox Structure'' で the General Structure について語っておられるものの、それが正確に言って、あるいは具体的に言って、何であるのかに関しては、明示されておられません。代わりに私が以下でそれを明示してみました。これが間違っておりましたらすみません。また、以下では 'Curry Interpretation,' 'Russell Interpretation' という言葉が出てきますが、これらの言葉は Shapiro and Beall 先生によっては使われていません。事柄をはっきりさせ、言及しやすくするために、私が付けた名前です。

*13:以下の私の記述理解するには、この 5.2 の section までの知識いくらか必要ですので、以下を読まれる際には前もって 5.2 までを読んでおいていただければ幸いです。ただし、既に Curry's paradox を一定程度ご存じであれば、この限りではございません。

*14:Section 1 で真理述語を 'T' で表わし、ここではある理論のことを 'T' と言って、同じ文字で表わしていますが、文脈からして混同される恐れはないと思いますので、同じ文字を使うことにします。

*15:Curry 結合子の定義の終わりで、P1 と P2 が何かに似ていると述べましたが、その似ているものとは、この MP と Cont のことです。

*16:近年、ECQ は「爆発律 (explosion)」とも称されています。

*17:Curry 結合子を定義した際の終わりあたりで、P1 と P2 が何かに似ていると言いましたが、その似ているものとは、MP と Cont に加えて、ECQ と Red のことでもあります。

*18:このことについて、同種の指摘が先の Shapiro and Beall 先生の文献 ''Curry's Paradox'' における section ''5.2 Pointing to a General Paradox Structure'' の註26に見ることができます。See <https://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/notes.html#note-26>.

*19:'μ' は任意の文を表わしていたので、それを 'L' に書き換えることができます。

2017-11-12 Curry’s Paradox: An Intuitive Argument.

[][] Curry's Paradox: An Intuitive Argument.

Curry's Paradox の informal な論証を理解しようとすると、そこでは自分自身を指す表現が出てくるので、頭がこんがらがることがあります。そこであまり頭がこんがらがらない informal な論証を以下に示してみます。たぶんあまりこんがらがらないと思うのですが ... 。こんがらがるようでしたらすみません。(ふと思って、この memo を書いています。)


次の文を見てください。


   この文が日本語で書かれているならば、この世には少なくとも一つは日本語で書かれた文がある。


これは正しいと思われます。「この文」とは上の文そのものを指しています。自分自身について述べている点が少しめずらしいですが、間違っているようには思われません。同様に、これとよく似た次の文も正しいと思われます。


   この文が真であるならば、この世には少なくとも一つは真理がある。


これも自分自身について述べている点がいくらかめずらしいですが、特に間違っているようには感じられません。

今、上の文「この文が真であるならば、... 」のなかの表現「この文」に、具体的な固有名として、'(#)' という名前を付けると、上の文は次のようになります。


   (#): (#) が真であるならば、この世には少なくとも一つは真理がある。


さらにこの文の後件である「この世には」以下を 'q' で省略して書けば、今の文は次のようになります。


   (#): (#) が真であるならば、q.


今後、(#) と言えば、この文を考えることにしましょう。


さて (#) を真と仮定しましょう。つまり、


   1. (#) は真である。


この 1. の (#) は「(#) が真であるならば、q」のことなので、1. の (#) にこの鍵カッコの文を代入すれば、


   2. 「(#) が真であるならば、q」は真である。


となります。

ところで一般に、'p' が真ならば、p です。例えば、「2+2=4」が真ならば、2+2=4 です。よって、2. により、


   3. (#) が真であるならば、q.


です。

さて今 1. でしたから、1. と 3. とで、


   4. q


が出ます。こうして 1. という仮定から 4. が出ましたので、仮定の 1. を落として無条件に


   5. (#) が真であるならば、q.


です。つまり 5. が証明できました。

ところで、5. とは (#) のことだから ( (#) = 5. )、5. が証明できたということは、次が証明できたということです。


   6. (#).


そして、証明できたものは一般に真だから、6. により、


   7. (#) は真である。


こうして、5. と 7. により、


   8. q


が出ます。つまり、'q' が証明されました。よって 'q' は真です。'q' は無条件に真です。


ところで以上を振り返ってみると、上記の論証中では、'q' が表している内容または意味にはまったく触れていません。これは 'q' の内容とは無関係に 'q' が証明されているということです。よって 'q' の元々の表現「この世には少なくとも一つは真理がある」とは別の任意の文を 'q' として採っても、その 'q' が証明できるということです。だから 'q' として「2+2=5」を採っても構いません。そのとき、「2+2=5」は証明できて真です。すなわち以上により、真であろうが偽であろうが、どんな文でも証明できて、それは真である、ということになります。

(ちなみに、矛盾も証明できます。どんな文でも証明できるのだから、「2+2=4」と「2+2=4 ではない」がともに証明できて、そのとき、「2+2=4 かつ 2+2=4 ではない」が証明できるからです。もっと単刀直入に 'q' として「2+2=4 かつ 2+2=4 ではない」を採ってしまえばよいとも言えますが。)


こんなことが証明できてしまう Curry's Paradox とは一体何なのでしょうか。Curry's Paradox は単なる puzzle や quiz ではなく、もしかすると人間のものの考え方の根本に関わる事柄に触れており、筋道立ててものを考えるということに潜んでいる難点、盲点、人間の理性や合理性に関する欠陥、欠点を表わしているのかもしれません。私たちはこの Paradox をどのように評価したらよいのでしょうか。私たちは、かつての数学基礎論で騒がれたような、何らかの破局を目の前にしているのでしょうか。それとも単に空転している遊び車のようなものを目にしていて、ここには恐れることは何もなく、困ったことも実は生じていないということなのでしょうか。しかしひょっとすると、私たちはこの Paradox を克服しなければならないのかもしれません。もしもそうであるならば、もしもそうであればですが、どのようにして克服すればよいのでしょうか。とはいえ、そもそもどうした時にそれを克服できたと言えるのでしょうか。克服した時、何が変わるのでしょうか。あるいは克服したとしても、その時、日常風景は何も変わらず、普段通りの生活が続いているのでしょうか。

どうすればいいのか、今の私にはわかりません。今述べたことを考えることこそが、Curry's Paradox の教訓になるのかもしれません。今述べたことを考えることこそが、Curry's Paradox そのものを考えることよりも、もっとずっと大切なことなのかもしれません。


上の Curry's Paradox の論証に関する参考文献としては、

  • Lionel Shapiro and Jc Beall ''Curry's Paradox,'' in: The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Winter 2017 Edition, <https://plato.stanford.edu/archives/win2017/entries/curry-paradox/>,

''1. Introduction: Two Guises of the Paradox,''

''1.1 An Informal Argument,'' <https://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/#InfoArgu>,

をご覧ください。ただし私の説明は、Shapiro and Beall 先生方の説明とは結構違っているかもしれません。先生方の説明を読んだ後に本日の日記を書きましたが、特に先生方の説明に私の説明を似せようとはせず、先生方の説明もよく思い返すことができない状態で、自分なりの説明を書きましたので、先生方の説明とはいろいろと違っていると思います。

また、以上の文章を書いた後に読んで気がついたのですが、私による Curry's Paradox の informal な論証とよく似た論証が、次の文献でも提示されていました。

  • Allen Hazen  ''A Variation on a Paradox,'' in: Analysis, vol. 50, no. 1, 1990, pp. 7-8.

参考までにお伝えしておきます。


PS

最後に、2点補足しておきたいことがあります。少しだけ長くなるので、項目を立て直し、以下に記すことに致します。

[][] Curry's Paradox: An Intuitive Argument. Appendices.

本日の日記の続きです。


補足項目 (1)*1


この補足項目 (1) で述べようとすることを、あらかじめ手短に記しておきます。

「Curry's Paradox により、不合理に陥る原因は、そこで自分自身に言及している表現使用しているからだ。だから、そのような表現の使用を禁止すれば不合理に陥らずにすむ」。Curry's Paradox に対しては、このような反論があるかもしれません。しかし、Gödel は彼の第一不完全性定理証明の際に、鍵となる式で自分自身に言及するような表現を使っており、本人自身もこのことに問題はないと発言しているようです。よって、もしも自分自身について言及しているような表現がいけないというのなら、Gödel は間違っていて、第一不完全性定理は成立しない、と言わねばなりません。しかし、これは私たちには受け入れられない極論です。故に Curry's Paradox により不合理に陥る原因を、自分に言及している表現に求めることはできません*2


さて、この補足項目 (1) の前で説明した Curry's Paradox について、問題の原因は自己言及表現にある、という反論が出るかもしれません。つまり、文「この文が日本語で書かれているならば、この世には少なくとも一つは日本語で書かれた文がある」だとか、文「この文が真であるならば、この世には少なくとも一つは真理がある」だとか、文「(#) が真であるならば、q」のような言語表現に自己言及が見られることが、不合理を引き起こし、果ては矛盾した文までも証明可能としてしまっているのではないか、という反論です。

しかし、自己言及的な言語表現があるから矛盾が生じるのだ、と言うのなら、その場合、私たちは現代の論理学史上、最も重要であると考えられている定理の一つが無効であるとの判断をしなければならなくなるものと思われます。つまり、自己言及的な文があれば必ず矛盾が出るのだとすると、Gödel の第一不完全性定理の証明は無効であり、よってその定理は証明できていないので定理ではない、と言わざるを得なくなると思われます。と言うのも、この定理の証明で鍵となっている式では、一般に自己への言及が生じていると見なされているからです。すなわち、私はその式としていわゆる Gödel Sentence のことを述べています。

こうして、自己言及がいけないのだ、と言うのなら、そのように言う方は、Gödel の第一不完全性定理という重要な成果を否定し、拒否し、認めない、という態度を取らなければなりません。これはおそらく極度に大胆不敵な態度であると思われます。ある種の「歴史修正主義」に加担しているとも言えるでしょう。「Gödel の第一不完全性定理なんてなかった」ということになります。このような態度に対しては、ほとんどの人が「それはいくらなんでも ... 」と困惑してしまうと思います。


ところで、この点について、Gödel 自身はどう考えていたのかというと、本人は自己言及的な式の存在を容認しているようです。まずは、不完全性定理の解説としてよく読まれてきた次の文献をご覧ください。

上の話に関連してくる文章を、ここから二つ引用します。

決定不能命題 Uk とは


(1)  Uk ⇔ ¬Bewk({¥tiny ¥lceil}Uk{¥tiny ¥rceil})


が証明できるような論理式であった。この同値式 (1) の両辺の論理式は同一の内容を意味すると考えてよいから、論理式 Uk の内容とは (1) の右辺の内容と思ってよい。[…] 要するに、Uk とは ''それ自身が K から証明できない'' ということを意味する論理式である。*3

 ゲーデルの作った決定不能命題 Uk は ''UkK からは証明できない'' という内容的な意味をもつ論理式であった。外見上これに類似した命題は、古代より有名な嘘つきのパラドックス (liar paradox) に現われる。たとえば、ある人が ''いま自分は嘘を言っている'' と言ったとする。その命題を A とすれば、A の内容は ''A は偽である'' ということである。そうすると、命題 A が真であるとしても、また偽であるとしても、いずれにしても矛盾を生じる。

[…]

 このパラドックスの解決策として、しばしば有力視されているものの1つに、次のようなものがある:


命題は、それ自身について語ることはできない。


ゲーデルは、''ホワイトヘッド (A. N. Whitehead) とラッセル (B. Russell) によって示唆されたこの解決法は、あまりにも徹底し過ぎている'' と、これを批評している。たとえば決定不能命題 Uk は、''それ自身が K から証明できない'' という形で、Uk 自身について語っている。すなわち、それ自身について語っている命題は現実に存在し、われわれの形式的体系の中の論理式で表わされ、しかもそれは、矛盾を導く原因にならない、というのである。*4

この決定不能命題 Uk が、引用文の前で触れた Gödel Sentence です*5

上記引用文、最後の辺りをご覧ください。前原先生によると、Gödel にとって決定不能命題は自己言及的な式であり、現にそれは存在し、しかも矛盾の原因とはなっていないので、Russell たちの主張するように、言語表現が自分自身について語ることを禁止することは paradoxes に対する正しい対策ではない、と Gödel は考えていたとのことです。ではいったいどこで Gödel はこの種のことを述べているのでしょうか。


前原先生は Gödel のこの発言の出典情報を何も記しておられませんが、Gödel が Russell について詳しく論じた文献としてよく知られているのは、次の論文でしょう。

  • Kurt Gödel  ''Russell's Mathematical Logic,'' in Paul Benacerraf and Hilary Putnam eds., Philosophy of Mathematics: Selected Readings, 2nd Edition, Cambridge Univetsity Press, 1983, also in Solomon Feferman et al. eds., Kurt Gödel, Collected Works, Volume II, Publications 1938-1974, Oxford University Press, 1990.

そこでこれを眺めてみました。すると私の気が付いた限りで、次のようなくだりがありました。英語原文と邦訳を引用してみます。まず英語原文です。

以下の引用は一応 Philosophy of Mathematics からのものです。ただし、引用文の個所を、Philosophy of MathematicsCollected Works とで読み比べてみると、註を付ける方式が異なる以外、本文に違いはありませんでしたので、Philosophy of Mathematics からでも Collected Works からでも、どちらから引用してもいいのですが、前者を見ながらパソコンに打ち込みましたことを念のためお伝えしておきます。

In addition there exist, even within the domain of constructivistic logic, certain approximations to this self-reflexivity of impredicative properties, namely propositions which contain as parts of their meaning not themselves but their own formal demonstrability (cf. Gödel 1931: 173 or Carnap 1937, §35). Now formal demonstrability of a proposition (in case the axioms and rules of inference are correct) implies this proposition and in many cases is equivalent to it. Furthermore, there doubtlessly exist sentences referring to a totality of sentences to which they themselves belong as, e.g., the sentence: ''Every sentence (of a given language) contains at least one relation word.''*6

引用文中の丸カッコ内の 'Gödel 1931' とは、Philosophy of Mathematics の参考文献表によると有名な ''Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I,'' Monatshefte für Mathematik und Physik, vol. 38 のことであり、同じく丸カッコ内の 'Carnap 1937' とは、The Logical Syntax of Language, A translation of Carnap's Logische Syntax der Sprache, 1934 のことです。


次にこの邦訳を引きます。

『リーディングス』版の訳文と『現代思想』版の訳文とは、若干異なるところがあります。前者の方が訳が改善されているようですので、前者の『リーディングス』版から引用します。ただし、註は『現代思想』版を踏襲し、引用文本文内に組み込みます。

さらに付け加えるならば、構成主義的論理*7の範囲内にすら、非可述的性質の持つこうした自己反射性に近いものが存在する。それはすなわち、自分自身ではないにせよ、自分自身の形式的証明可能性をその意味の一部として含んでいるような命題である (Gödel 1931: 173 または Carnap 1937, §35 参照)。さて、(公理と推論規則が正しい場合) 命題の形式的証明可能性は、その命題を含意しており、多くの場合はそれに同値である。さらに、たとえば「(ある特定言語の) すべての文は関係を表わす語を少なくともひとつ含んでいる」といった文のように、自分自身が属する文の集まり全体に言及している文も確かに存在している。*8

さて、ここで Gödel が言っているのは Gödel Sentence のことではないでしょうか。この引用文のあたりで Gödel は、Gödel Sentence は特に問題はないとの趣旨で話をしています。この引用文が Gödel Sentence に関するものであると思われる部分を邦訳引用文から抜き出すと、以下のとおりです。「自己反射性に近いもの」、「それはすなわち、自分自身ではないにせよ、自分自身の形式的証明可能性をその意味の一部として含んでいるような命題」であり、「(公理と推論規則が正しい場合) 命題の形式的証明可能性は、その命題を含意しており、多くの場合はそれに同値である。」

私の拙い理解によると、たぶんこれは Gödel Sentence のことだと思うのですが ... *9

上で引用しました Gödel の文章は、おそらく Gödel Sentence のことだと思いますので、そうだとしますと、前原先生の二つ目の引用文で言われているように、Gödel は自分自身に言及している文を当人の論文で使っていて、そのことには特に問題はなく、故にそれが矛盾を引き起こすなどとは考えていないようです*10

上記の Gödel の文章とともに、彼の最も有名な1931年の不完全性定理論文の註14と15も参照し、参考にする必要があると思われます*11

以上から、「もしも Curry's Paradox が生じる原因は、自分自身に言及する文を認めてしまうことにあるのだから、そのような文をすべて禁止すればよい*12」と主張する方がおられるとしますと、その方は Gödel 先生と対決しなければなりません。「私は勝てる」と断言できる方は刀の柄に手を置き、どうぞ Gödel 先生の前へ一歩お進みください。私は死にたくないので遠慮しておきます。*13


これで補足項目 (1) を終わりますが、正直に一言申しておきますと、私は不完全性定理を理解していません。そして、しばしば言われるように、不完全性定理は誤解にまみれているそうですから、この定理を哲学的解釈したり、哲学的な教訓を引き出そうとすると、決まって誤読をさらけ出すことになるみたいですので、私もひどい間違いを犯しているかもしれません。ですので、この補足項目で述べられていることを真に受けないようにしてください。いろいろと文献名を上げましたので、大変お手数ですが、この日記項目をお読みになられた方のほうで、それらの文献で裏を取ってみてください。その上で、私の述べたことが正しいかどうか、ご自分で判断をお願い致します。お手間おかけ致します。


補足項目 (2)

Paradox 一般、ならびに特に Curry's Paradox を探究することの意義とは何かについて、ごくごく簡単に一言しておきます。


おそらく人は、問題や難題に出会ったとき、関係している事柄の再考を促され、その事柄の理解を深めます。

私たちが出会う問題で、抜き差しならない典型例の一つは paradox です。Paradox に見られる矛盾に逢着したとき、そこから抜け出すには、人はしばしば革新的な考えをひねり出さなければならず、善きにつけ悪しきにつけ、後に渡って影響力の大きい考えを採用しなければならないと思われます。

そもそも哲学はその初期において、paradox または矛盾を追究することで大幅な前進を成し遂げたのでした。具体的には Elea 派がそうであり、Socrates の問答法 (elenchus) がそうでした*14。Plato の Socrates 対話篇で、ある概念から矛盾を引き出し、その概念の再考を迫る構成を見せている典型的な著作の一つは、おそらく Laches だったと思われます*15

哲学においては、一見自明な事柄に paradox または矛盾を見出すことで、概念の理解を促し深めて来たと言えると思われます。Paradox を考えることは、物事の理解を深めることになるでしょう。そして Curry's Paradox もその例に漏れません。この Paradox を検討することは、真理や言語、論理や数学について、問い直すことを促されます。Curry's Paradox について考察している現在進行中の研究論文をいくつか垣間見れば、その technical な論述の影に、今述べた真理や言語、論理や数学などの一般的な概念について、再考が行われていることがわかります。

(個人的には、Frege が Russell Paradox に足をすくわれてしまった原因に興味があり、この Russell Paradox と Curry's Paradox は密接に関係しているので、私は Curry's Paradox にも関心があります。一言付け加えておくと、Russell Paradox と Curry's Paradox は同じ一般的な構造 (the same general structure)、または共通した特徴を持っており、その特徴が、ある時には Russell Paradox として発現し、またある時には Curry's Paradox として発現することが知られています。この共通の特徴については、先ほどの Shapiro and Beall 先生方による ''Curry's Paradox'' の section ''5.2 Pointing to a General Paradox Structure''*16 をご覧ください。)

しかも Curry's Paradox は Russell Paradox と同様、わずかな道具立てで発生してしまう Paradox であり、また非常に簡単に理解できるものであるため、多くの人が興味を持ちやすく、かつその簡単でわずかな道具立てしか必要ないところから一般性を有しており、よって多くの分野に影響してくる問題だと考えられます。それにわずかな道具立てしかいらず、簡単に理解できるということは、扱いやすく、見通しやすいものであるということであり、しかもその Paradox を明確に記述することができるので、難解で神秘的で秘教的な思弁に拘泥せずにすみ、これらの Paradox をもとに哲学をするならば、かなりの程度、明晰に哲学をすることが可能となるという利点があります。

また、特に Curry's Paradox やうそつきの Paradox の解決を目指すことは、これらの Paradox が真理に関し困難を引き起こしていると見えることから、この困難を克服し、真理の概念に対する満足のいく理論を打ち立てようとする試みになっています。Tarski の真理論には飽き足らず、特に真理に対する公理的な理論を打ち立てようとしている側面が強いようです*17。つまり一言で言うと、Curry's Paradox やうそつきの Paradox の解決を多くの研究者が目指している理由の一つは、満足のいく真理論を作りたいがためだ、というこのとようです。


いずれにしましても、Curry's Paradox のような論理学に関する paradox はとても興味深く、かつ扱いやすく、かつ明確、正確に記述できて、多くの人々にとって接近しやすく、場合によっては重要な問題の核心を占めていると思われます。このような paradox は一般に、その paradox の前提となっているものが何であり、どこをどう修正すればどんな帰結が生じるのかを捉えやすく、その結果として、どのような哲学的立場が考えられるのかを見通すことが比較的容易であって、結局、思弁の泥沼に陥らずにすみそうですから、堅実な哲学を展開する上で、大変有望な鉄床 (かなとこ) だろうと思われます。


以上で終わります。誤解や無理解を示している点もあるかもしれません。無知や見当違いもあると思います。誤字、脱字もあるはずです。それらすべてに関し、ここでお詫び申し上げます。勉強を続けて少しでも克服して行こうと思っています。

*1:この補足項目 (1) に関しては、次の文献該当ページを参考にしています。Roy T. Cook, Paradoxes, Polity Press, Key Concepts in Philosophy Series, 2013, pp. 34-41. 加えて、次も参照ください。飯田隆、「偽テアイテトス あるいは知識のパラドックス」、『新哲学対話 ソクラテスならどう考える?』、筑摩書房2017年、250-256ページ、初出、『現代思想』、1989年12月号、109-112ページ。

*2:これは一種の、よい意味での権威論証 (Argumentum ad verecundiam) です。権威論証、特によい意味での権威論証については、次をご覧ください。John Nolt and Dennis Rohatyn, 『現代論理学 (II)』、加地大介、斎藤浩文訳、マグロウヒル大学演習シリーズオーム社1996年、8-11ページ。したがってそれは、ある事柄を主張する、決定的な論証とはなっておりません。権威の信頼性依存した論証です。

*3:前原、134ページ。式 (1) の表記は、簡便のため、引用者により一部変更しています。ここで一言。上の (1) のような同値式についてなのですが、前原先生は (1) の両辺が「同一の内容を意味する」ものとお考えですけれども、同値式であれば何であれ、その両辺は「同一の内容を意味する」かというと、必ずしもそうとは言えないと思います。「同一の内容を意味する」とは、正確に言って、いかなることなのか、ここで前原先生はそのことについて詳しい話をされていないので何とも言えませんが、一般には同値式の両辺は、互いに同値だからという理由で同じことを意味するというのは、本当のところは言いすぎだと思われます。Quine の有名な例を出しますと、おそらくですが、現在動物学の知見から言って、心臓を持つ動物は腎臓も持ち、腎臓を持つ動物は心臓も持っているようなので、その場合、現代の動物学によると次の同値式が成り立ちます。「いかなる動物 x についても、x は心臓を持つ ⇔ x は腎臓を持つ」。これにより、任意の同値式の両辺が同じ意味を持つとするならば、この同値式の両辺も同じ意味のことを述べているということになります。すると、心臓とは腎臓のことであり、腎臓とは心臓のことになりますね。これでは医師国家試験に絶対通らないでしょうね。ここまでの心臓と腎臓の例は、次に依りました。W. V. Quine, Philosophy of Logic, Second Edition, Harvard University Press, 1986, pp. 8-9, 邦訳、初版より、ウイラード V. クワイン、『論理学の哲学』、山下正男訳、哲学の世界シリーズ 13, 培風館、1972年、12-14ページ。というわけで、同値式の両辺は必ずまったく同じことを意味している、とは言えないと思われます。上記引用文中の同値式 (1) についても、その両辺が同じことを言っているのかどうかについては即断はできないと思われます。このことに関しては、次を参考にしました。飯田隆、「ゲーデルの不完全性定理とタルスキの定理」、『哲学の歴史 別巻 哲学と哲学史』、中央公論新社2008年、283ページ、註3。ただし、飯田先生はこの註で Quine の話はされておられません。Quine の話が飯田先生の論述に対し、不適当な例でしたらすみません

*4:前原、137-138ページ。

*5:See Roy T. Cook, A Dictionary of Philosophical Logic, Edinburgh University Press, 2009, Entry ''GÖDEL SENTENCE,'' pp. 131-132.

*6Philosophy of Mathematics, pp. 458-459, Collected Works, p. 130.

*7:引用者註: 訳者戸田山先生によると、この論理は、Brouwer, Heyting らに代表されるような intuitionistic logic の類いではなく、Russell の唯名論的な no classes theory のようなものを指すとのことです。『リーディングス』版、85ページ、『現代思想』版、103ページにある、戸田山先生による、Gödel の追記を元にした注記 (2) を参照ください。特に『リーディングス』版の方をご覧ください。

*8:ゲーデル、『リーディングス』、71ページ、『現代思想』、93ページ。

*9:間違っていたらすみません。ところで、上の Gödel の文章の中で 'Gödel 1931' の173 ページと 'Carnap 1937' の §35 を参照するようにとの指示がありますので、そこを見てみれば Gödel の文章が Gödel Sentence に関するものであるかどうかがはっきりすると思いますので、まず前者の173ページを見てみました。すると何だか奇妙なことに、このページは、くだんの論文の第1ページ目です。論文の冒頭ページ、導入部分です。この部分では数学の基礎に関する研究の当時の状況が概観されているとともに、この論文のねらいが語られている所であり、本格的な話の始まる前の部分です。なぜまた論文の出だしを参照するようにという指示を Gödel は与えているのでしょうか。確かに173ページには 'entscheiden' (決定する) という語が見られます。しかしいわゆる Gödel Sentence を読者に参照してもらうことを Gödel が意図していたのならば、たとえば175ページの式 (1) か、同ページの式 '[R(q); q]' あたりを参照するよう促すべきだと思うのですが。Philosophy of Mathematics, Collected Works, 『リーディングス』、『現代思想』のいずれの文献でも、173ページへの Gödel による参照指示に対し、誰も何も疑義提示しておられません。どうも解せないのですが、私が何か誤解しているのかもしれません。とりあえず Gödel 論文はこれぐらいで脇に置いておいて、Carnap の The Logical Syntax of Language, 1937年版、§35を見てみると、こちらは節の題名が 'Syntactical Sentences which Refer to Themselves' となっていて、本文を読んでみても Gödel Sentence に関する話になっているみたいです。「みたいです」と言って、断定せず距離を取った言い方をしているのは、その節を読んでみたものの、この本を最初から通して読んだわけではなく、Carnap の主著の類いを覗いてみたことのある方はおわかりだと思いますが、ここでも technical な専門用語が頻出しており、それらの語の正確な意味を私は知りませんので、§35が確かに間違いなく Gödel Sentence の話であると請け合うことができないためです。ただ、Gödel Sentence と思われる式は、そこに確かに出てきているのですけれども (Carnap, pp. 130-131)。

*10:前原先生は、上で挙げた先生の引用文末尾で「ゲーデルは、''ホワイトヘッド (A. N. Whitehead) とラッセル (B. Russell) によって示唆されたこの解決法は、あまりにも徹底し過ぎている'' と、これを批評している」と述べておられましたが、先生が言っているのは、今上げた Gödel の文章ではなく、別の個所の別の文章でしたらすみません。

*11:原論文では、''Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme I,'' S. 175. 英訳論文では、いくつもの文献で見ることができますが、たとえば、Solomon Feferman et al. eds., Kurt Gödel, Collected Works, Volume I, Publications 1929-1936, Oxford University Press, 1986, pp. 149, 151, (also pp. 148, 150), Jean van Heijenoort ed., From Frege to Gödel: A Source Book in Mathematical Logic, 1879-1931, Harvard University Press, 1967, 3rd printing, p. 598 などを、和訳では、ゲーデル、『不完全性定理』、林晋、八杉満利子訳、岩波文庫岩波書店2006年、(2008年第5刷), 20ページ、廣瀬健、横田一正、『ゲーデルの世界 完全性定理と不完全性定理』、海鳴社1985年、196-197ページ。『ゲーデルの世界』では、註の13と14です。

*12:そのような文をすべて禁止してしまう必要はなく、一部だけ禁止すればよいとか、Curry's Paradox が生じてしまう場合だけ禁止すればよいという意見もあるかもしれませんが、それは ad hoc だと思われます。今述べた後者の、Curry's Paradox が生じてしまう場合だけ禁止にするというのは、完全にその場しのぎでしょう。前者の、禁止する場合をもう少し広く取った、いずれにせよ一部分だけにすると考えも、禁止する場合としない場合の線引きが難しくなってくると思います。

*13:追記 2017年11月19日: まったくの余談ですが、あの Wittgenstein さんなら助太刀してくれるかもしれません。あの方は Tractutus で、次のように述べておられます。''3.332 Kein Satz kann etwas über sich selbst aussagen, weil das Satzzeichen nicht in sich selbst enthalten sein kann, (das ist die ganze „Theory of types‟).'' 英訳では、''3.332 No proposition can say anything about itself, because the propositional sign cannot be contained in itself (that is the ''whole theory of types''). 和訳では、「3.332 いかなる命題も自分自身について語ることはできない。なぜなら、ある命題記号が当の命題記号自身のうちに含まれることはありえないからである。(これが「タイプ理論」のすべてである。)」。独語原文は、次から引用しました。L. Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus, translated by C. K. Ogden, Routledge, 1981, S. 56, 英訳は、その本の隣の 57 page からのものです。和訳は、ウィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』、野矢茂樹訳、岩波文庫、岩波書店、2003年、34ページです。Wittgenstein さんは Gödel の不完全性定理に疑惑の目を向けていたとも言われているので、結構助けてくれるかもしれません。とはいえ、今の 3.332 で Wittgenstein さんが言っていることは、何か深遠で、私たちが普通想像するのとはまったく異なった、高尚かつ高遠なことなのかもしれませんので、「3.332 を読みました。あなたは同志です。どうか助けてください」とすがっても、「君たちは私を誤解している!」と言って、Wittgenstein さんに拒絶されるかもしれませんが。3.332 に何か深くて複雑な内容が含まれていると感じさせてくれる論文に、次があります。石黒ひで、「ウィトゲンシュタインとタイプ理論」、中川大訳、『現代思想』、1997年8月号。この論文は、Tractutus の 3.333 を主題としているので、3.332 についてはわずかしか述べられていませんが、3.333 と 3.332 は内容上、結び付いているため、参考なるところがあると思います。ただし、私はまだこの論文をよく理解できていませんが。追記終わり。

*14:ただし、Elea 派の哲学の方法と Socrates の問答法は、哲学する際に、ともに矛盾を利用するという点で似てはいるものの、同じ方法を取っているとは言えないと考えられています。次を参照ください。G. ヴラストス、「ソクラテスの論駁法 (エレンコス)」、田中享英訳、『ギリシア哲学の最前線 I』、井上忠山本巍編訳、東京大学出版会1986年、38-39ページ。なお、Socrates の elenchus がそもそも何であるのか、特にそのねらいが何であるのかについては、この Vlastos の論文が出て以降、多数の論議を巻き起こしたようであり、その方面を専門的に勉強していない私には、現在、elenchus の本性に関し、専門家の間で consensus が取れているのかどうか、知りません。少なくとも elenchus が見かけほどには単純な方法でないことは確かのようです。以上の点については、今の Vlastos 論文を参照ください。

*15:とはいえ、Laches をいわゆるアポリア的対話篇と単純に見なすことは必ずしもできない可能性もあります。Laches がいかなる対話編なのかについて、いくつかの考えがあるそうです。この点については、プラトン、『ラケス 勇気について』、三嶋輝夫訳、講談社学術文庫 1276, 講談社、1997年所収の訳者三嶋先生による解題、136-138ページをご覧ください。

*16:<https://plato.stanford.edu/entries/curry-paradox/#PoinGeneParaStru>.

*17:See Nik Weaver, ''The Liar Paradox is a Real Problem,'' in: Annals of the Japan Association for Philosophy of Science, vol. 25, 2017.

2017-10-09 The Story of the Bear of Berne in Switzerland

[] The Story of the Bear of Berne in Switzerland

近頃、寝る前に横になりながら、次の本を読んでいます

これは結構おもしろいです。この本については、昔『人権論』という題名邦訳されていたとも思われるのですが、そのようなこともあって、なにかムズカシイ本のような印象があるものの、読んでみると、まったくそうではないことがわかりました。これは理論的な本というよりも論争の書であり、政治的な pamphlet の類いのように感じられます。

この夏は哲学者戦争責任を考えていたのですが、その関係自然権について若干調べていました。そのようなわけで上記の『人間の権利』を手に取ったのです。この本では America の独立France 革命擁護され、Edmund Burke の保守主義イギリス世襲による君主制が批判されています。このように書くとムズカシイ本に見えますが、先ほども述べたように中を見れば全然そうではなく、皮肉風刺が連発されており、読んでいて何度も笑ってしまいました。この本は岩波文庫の白帯なのですが、私は岩波文庫の白帯をあまり読んだことがないものの、笑いながら読める白帯の本はたぶんあまりないように推測されます。もしも今言った America 独立と France 革命の擁護、Burke とイギリス君主制批判、それに基本的人権の淵源の一つに興味をお持ちであれば、この楽しい本をお勧めします。ただ、二部から構成されている本書の第二部に入って、ちょっと痛快さが第一部に比べて減じているように感じられます*1。ですから、全部読む時間のない方は前半だけでも取りあえずはいいかもしれません。


さて、今日はその上記の本を読んでいて見かけた興味深い小話を記してみます。ただし、ここでは英語原文を掲げてみます。西川先生の邦訳に何か問題があるというわけではございません。原文の内容の説明も致しません。私の comment も付けません。

以下の引用文では綴り現代のものとは異なっている語もありますが、'[sic]' などを文中に挟まず、そのまま掲げます。Internet Archive にあった、著作権の切れた古い本で、閲覧者数の比較的多い本から引用します。なお、西川先生はこの版をもとに翻訳されたのではありません。

  • Thomas Paine  The Rights of Man; Being an Answer to Mr. Burke's Attack on the French Revolution, published by W. T. Sherwin, London, 1817, Internet Archive, <https://archive.org/details/rightsofman00painiala>.

It is related that in the Canton of Berne, in Switserland, it had been customary, from time immemorial, to keep a bear at the public expence, and the People had been taught to believe, that if they had not a bear they should all be undone. It happened some years ago, that the bear, then in being, was taken sick, and died too suddenly to have his place immediately supplied with another. During this iterregnum the People discovered, that the corn grew, and the vintage flourished, and the sun and moon continued to rise and set, and every thing went on the same as before, and, taking courage from these circumstances, they resolved not to keep any more bears; for, said they, ''a bear is a very voracious, expensive animal, and we were obliged to pull out his claws, lest he should hurt the citizens.''*2

「おもしろい」と思った方は、『人間の権利』をお読みください。楽しむことができると思います。「おもしろくない、腹が立つ」と思った方は、やっぱり『人間の権利』をお読みください。たっぷり毒づくことができると思います。


『人間の権利』のような風刺の精神が、もっと今の日本には必要だと私は感じます。以上、誤解や無理解勘違いなどがありましたらすみません。お詫び申し上げます。

*1第一部で Burke 個人攻撃していましたが、第二部では Burke への個人攻撃が背景に退き、イギリス政府批判が前面に出てきているので、個人攻撃が薄まり、痛快さが減じているものと思われます。

*2The Rights of Man, Part II, Chapter IV, pp. 52-53.

2017-09-10 A Note on Thoreau’s Civil Disobedience

[] A Note on Thoreau's Civil Disobedience

最近、まったく日記更新しておりませんでした。特に記すほどのことがなかったのです。今日も特にないのですが、あまり更新しないのもさびしいので、ほんのちょっとしたことを記します。

私は論理学哲学や Frege の論理学について特に勉強しているのですが、これらの勉強は今足踏み状態で、この頃はまったく畑の違う、哲学者戦争責任について考えていました。それで関連する文献を多数、あれやこれやと拾い読みしておりました。


そのような中で、次の文献を今回初めて拝読しました。

大変感心しました。実に立派な内容です*4。これらを次の文献と読み比べてみました。

大変がっかりしました。実に悲しい内容です。


上記の文献で、西田さんは国家が、そして王室道徳臣民に与えるのである、それ以外にはない、と考えておられるように見えます。法と道徳の基礎は王室にあると、西田さんは述べておられます。また、国家道徳と言われるものと道徳との二つのものがあるのではなく、道徳というのはただ一つ、国家道徳と呼ばれるものだけであると、西田さんは述べておられます。そして「国家即道徳」であると主張されています。(ここまで、西田さんの文献200-203ページ参照。) これは私にはとても恐ろしい考え方です。これでは個人内面自由を、物理的な力を著しく持った者に明け渡すことに等しいと思われます。(西田さんは、教育勅語の存在に強い影響を受けていたのではないかと推察されます。)


上記文献の『歴史的現実』で、田辺さんは、近代的な自然法人間の頭の中だけでひねり出された抽象思弁観念であり、現実においては無効である、という主旨のことを述べておられます (15-16ページ)。これはいわゆる基本的人権否定であると考えられます。こわいことです。また、『歴史的現実』の末尾では、国家のために死ぬことはよいことなので、そうするようにと学生に勧めておられます (71-73ページ)。これも大変こわいです。

田辺さんは、「種の論理の弁証法」の「序」で、戦後になって次のように述べておられます。昭和9年から15年に至る間に、田辺さんが試みた「種の論理」と呼ばれる哲学では、

飽くまで國家を道義立脚せしめることにより、一方に於てその理性的根據を確保すると同時に、他方に於て當時の我國に顯著であった現實主義の非合理的政策を、できるなら少しでも規正したいと念願したわけである (253ページ)

ということだそうです。この引用文での田辺さんの話は、次のように言い換えられると思われます。

「当時の日本の国を倫理・道徳の観点から正当化し基礎づけ、そのことによって日本という国を理論的に正当化し、道徳的理論的正当化によって確立された論から論理的帰結しないような政策を日本が提案し実行した場合には、それを非合理的政策として批判是正規制したいと考えていた」。

いずれにしましても、田辺さんは当時の日本の行いを道徳的に正当化しようとしていたとわけです。もしも正当化に成功していたならば、本当に恐ろしいことです。


上記和辻さんの文献は、太平洋戦争さなのものです。これは、全編に渡って、まったく人命軽視もはなはだしいものだと思います。ほとんど神がかりです。恐ろしいのを通り越しています。引用する気が起こりません。


上記文献の Arendt さんは、Heidegger さんの Sein und Zeit解説しておられるようです。彼女の説明が正しいとするのならば、Heidegger さんは次のようなことを述べようとしているものと私は理解しました。

すなわち、私の死は私自身が経験しなければならないことであって、他の誰かに代わってもらうことのできないことである。この点で、私は他の誰とも違う (245ページ)。ここに私と他の人との決定的で乗り越えることのできない違いがある。私は私でしかなく、他の誰でもない。私は一人しかおらず、他の人間ではない。私の死という経験を他の人に一般化することはできない (245-246ページ)。だから私は他の人間一般ではなく、他の人間一般を代表する者でもない (同ページ)。私はどこまでも孤独であり、他の人間と連帯したり共感したりし合うことはできない。私は決定的に孤立していて、他の人間と手を取り合うことはできない。私は自分の死と向き合うことだけに専念しており、私は私の存在にどこまでも気遣うばかりで徹底的に自分の中に没入している (246ページ)。これは誰もがそうであり、人間はどこまでもただの一人の私でしかないのだ。よって、普遍的な人間なるものは、ありはしない。人類一般は、ありはしないものである。したがってフランス革命の際の人権宣言に見られる人間という概念は無効である (245-246ページ)。Kant定言命法に見られる普遍的な人間という概念も無効である (246ページ)。

そうすると、人間一般を想定している基本的人権という考えも無効である、ということになると思われます。これはこわいです。(誤解しておりましたら、すみません。)


以上に対し、Thoreau の三編は、よりよい政府やよりよい社会を考えていくために大変参考になります。Thoreau の提示している考えですべてが解決されたというわけではもちろんありませんし、彼の主張にはいただけないものもありますが*5、西田さんたちの考えの上にではなく、Thoreau の考えの上にこそ、不完全なものとはいえ、未来があると私には感じられます。Thoreau の三編からは、勇気ももらいました。元気が出てきました。いただけない発言もありましたが、彼の三編には磨き上げていきたい考えがあるのは確かだと私には思われました。


今日はこれで終わります。無理解勘違い、誤解や見当違いなど、不備が多数あるかと思います。真夜中に手早く書き上げたものですので、どうかご容赦いただければ幸いです。西田さん、田辺さん、和辻さん、Heidegger さんを誤解しておりましたら謝ります。すみません。また勉強致します。

*1:''Civil Disobedience''

*2:''A Plea for Captain John Brown''

*3:''Life Without Principle''

*4:内容説明は省略させてもらいます。どれも有名なものばかりですので、調べればすぐにその説明が見つかると思います。

*5アジア人差別発言。「市民の反抗」、43ページ、「原則のない生活」、235ページ。

2017-07-30 The Appearance of Otto Neurath in Modern Japan

[] The Appearance of Otto Neurath in Modern Japan

既にご存じのかたもおられるかもしれませんが、つい先日まで、私自身気がつかなかった出版物に関する情報をここに記します

このあいだ、Otto Neurath の執筆した本の一つが日本語翻訳され刊行されました。以下がそうです。



Neurath の本が日本語になるとはめずらしいと思います。この6月に出たようで、7月になってから私は気がつき購入させていただきました。

この本は International Picture Language (1936), および Basic by Isotype (1937) の全訳と Modern Man in the Making (1939) に掲載されている全図表を収録した合本です。

本書は現代絵文字の先駆形態である pictogram の一種を収録した本です。そのため、見ているだけでも楽しい本です。「いかにも modernism だなぁ〜」と見入ってしまいます。Logical Positivism に興味のあるかたは must の1冊だと思います。私も見かけて即購入致しました。本屋さんでは design の棚に並んでいるみたいです。まれ哲学の棚にも並んでいるようです。

International Picture Language については、以前にこの日記で少しだけ言及しています。2013年9月29日の日記です。そこではこの本が net から無料download 可能であり、私自身入手したと記しています。今も入手可能かどうかについてはわかりません。どこから download したのかも忘れてしまいました。たとえ今も無料で download 可能だったとしても、上記の邦訳を購入することをお勧め致します。というのも、本の装幀がとてもよく、物として手元に置いておきたいと思わせるような仕上がりになっているからです。物質としての手触りや質感は、net で入手した data としての本では味わえない、代替不能なものですね。夏目さんだか野口さんだかを3〜4人集めれば入手できますので、お買い得だと思います。


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ビー・エヌ・エヌ新社さんの home page <http://www.bnn.co.jp/books/8733/> から、本書の書影をお借りしております。

この URL の page では本書本文内の様々な design も見ることができますので、よろしければのぞいてみるといいです。