nuhsnuhの日記

2017-05-21 Wittgenstein and L’Art brut

[] Wittgenstein and L'Art brut

先日、次の本を購入し、

その第1章、「ノルウェーにあるウィトゲンシュタインの「小屋」の跡に立って」を読みました。そこでちょっと感じたことを記します。


星川先生は、『論考』を書いた時期の Wittgenstein が統合失調症に近い状態にあったと述べておられます(pp. 50-60)。それを読んで私は思いました。「先生のお話が正しいとすると、Wittgenstein の『論考』 (や『探究』など) は、もしかして哲学における l'art brut ではなかろうか?」と。

L'art brut とされている作品写真で見ていると、非常に細かい作りをしているかと思えば、荒々しく大胆なところもあり、ものすごく執拗な様子がうかがえるかと思えば、何だか純な、柔らかい気持ちが表われているところもあると思います。

L'art brut の作家たちの特徴の一つは、彼ら/彼女らがいわゆる素人、amateur だったことです。Wittgenstein もそういう傾向があったと思われます。たとえば飯田隆先生は、以下のように述べておられます。

現在の分析哲学の正統的な立場 − すなわち、テクニカルな分野として確立され専門化を遂げた哲学 − からしますと、ウィトゲンシュタインの哲学は「しろうと」あるいは「アマチュア」の哲学と映るだろうと思います。*1


また、l'art brut の作家たちは素人/amateur だったため、芸術上の伝統的な手法踏襲せず、既存の芸術を参照していないように見えます。これも彼ら/彼女らの特徴の一つだと思われます。彼ら/彼女らは正統的な芸術教育を受けていないようです。

Wittgenstein が哲学の正統な教育を受けていなかったことは、よく知られていると思います。また、彼は伝統的な哲学の手法を無視し、従来の哲学を参照せず、特に後期の彼は、哲学独特の idiom とは異なった、普段言葉で哲学をしようとしたようです。

飯田先生は次のように述べておられます。

 ウィトゲンシュタインのもうひとつの貢献は、[...] 新しい哲学の仕方を示したことです。[...] 彼の死後、ケンブリッジでの講義の様子を回想した文章を書いた人がたくさんいますから、そうしたものを読むとわかるのですが、ウィトゲンシュタインは「自分過去の哲学をほとんど知らない。そういうものとは無関係議論をしよう」と豪語していたといいます。そして、哲学的用語 − たとえば、実体、理性など − を一切使わないで哲学を行う可能性を示しました。これは、授業に出た人たちにとって大変な驚きだったようです。[...] つまり、ウィトゲンシュタインは、過去の哲学者が書いたものを読み、過去から受け継がれてきたさまざまな概念を使って難しそうなことを議論するというスタイルとはまったく違う仕方で、哲学の議論ができることを教えたと言えるでしょう。*2


Wittgenstein が l'art brut の作家たちと同様、執拗で粘着的な傾向を持っているのは、おそらく生涯を通じて見ることができると思われます。

そして特に中期から後期に至っては、哲学の専門用語にこだわらず、素人っぽく日常の言葉で、身近な事柄を詳細に検討していたと思われます。このような素人っぽさも l'art brut の作家たちと似ています。

私たちが Wittgenstein の著作に、どこか病的なところを感じるとすれば、それも故あることなのかもしれません。たぶん l'art brut の作家たちのなかには、自らの病からいえるために作品を製作していたこともあったと思われますが、Wittgenstein も自分の心の病気から救われたいがために、必死に考えを進めようとしていたのかもしれません。病から逃げ、死なずにすむために、彼は彼なりの考えを深めていたのかもしれません。勉強研究のために彼は考えを進めていたのではないと思われます。哲学することを職業としたかったのではなく、従来の哲学から逃れ、死なずにすむために、彼なりの考えを突き詰めようとしていたのかもしれません。死にたくなかったから、素人くさくても、今までの哲学を無視してでも、自分の考えを洗い出したかったのかもしれません。


Wittgenstein の作品が l'art brut の作品と似ているという点については、既に誰かが指摘しているかもしれません。誰でも思い付きそうなことだと思われます。いずれにせよ、星川先生の文章を拝読しまして、以上のようなことを感じた次第です。間違ったことを書いておりましたら後日訂正します。

*1:飯田隆、「分析哲学からみたウィトゲンシュタイン」、『ウィトゲンシュタイン 没後60年、ほんとうに哲学するために』、KAWADE 道の手帖 哲学入門シリーズ河出書房新社2011年、47ページ。

*2:飯田、42-43ページ。

2017-02-05 A Housewife is Arrested on a Charge of Doing Household Chores.

現在、心の病院に通院中です。前よりましになってきましたが、不安定です。勉強が進みません。語学を少しずつ、やり続けているという状態です。

[]

洋書

  • Philip A Ebert and Marcus Rossberg eds.  Abstractionism: Essays in Philosophy of Mathematics, Oxford University Press, 2016
  • Paolo Mancosu  Abstraction and Infinity, Oxford University Press, 2016
  • Hartry Field  Science without Numbers, Second Edition, Oxford University Press, 2016

雑誌

定期購読している journal です。

  • History and Philosophy of Logic, vol. 38, no. 1, 2017
  • Stefan Heßbrüggen-Walter  ''Thinking about Persons: Loci Personarum in Humanist Dialectic Between Agricola and Keckermann''
  • Mark van Atten and Göran Sundholm  ''L. E. J. Brouwer's 'Unreliability of the Logical Principles': A New Translation, with an Introduction''
  • George Weaver  ''König's Infinity Lemma and Beth's Tree Theorem''
  • Laureano Luna  ''Rescuing Poincaré from Richard's Paradox''
  • David Parsons  ''R. M. Martin's Logic of Belief''

Brouwer 論文が興味を引きます。この論文は以前にも英訳が Heyting 先生たちによってなされていたようですが、それは読者にわかりやすくするため、意訳気味だったようで、今回 literal な訳を新たに起こした、ということみたいです。


英語論文

  • Sean Walsh  ''Comparing Peano Arithmetic, Basic Law V, and Hume's Principle,'' in: Annals of Pure and Applied Logic, vol. 163, no. 11, 2012

和書


和雑誌

毎年恒例の特集です。


邦語論考等

最後の内田先生の文章については、本日の日記の次の項目をご覧ください。

[] A Housewife is Arrested on a Charge of Doing Household Chores. This is Because Her Actions are Violation of the Peace Preservation Law (Chian Iji Hou). It's No Joke, But a True Story.

数か月前に次の本が出ました。

購入して拝読したいと思いましたが、最近この日記で記しているように、私はここのところ精神が極度の抑鬱状態にあり、本書を読めば、治安維持法のひどさに気が滅入って、さらに精神状態が悪化するのは目に見えていましたから、購入を控えさせてもらいました。

しかし、それでも本書の中を眺めておりましたら、治安維持法という稀代の悪法が、ほとんど parody と化している事件が述べられているのを見かけましたので、その部分だけでも複写し、拝読致しました。今日はそのことをごくごく簡単に書き留めておきます。(以下では、被告人のかたの立場から、事件を記述しております。検察の立場からではございません。)


その事件が述べられているのは、上記書籍の 244 ページから 248 ページにある次の記事です。

平たく言えば、妻が夫のために家事、洗濯をし、お小遣いをあげていたところ、治安維持法違反で捕まった、という事件です。なんで妻が夫に夕食を出し、下着を洗濯し、部屋を掃除して、お小遣いあげていたら、治安維持法違反で捕まんなきゃいけないのか、わけがわかりません。

この事件では被告人のかたは1930年 (昭和5年) に逮捕され、1933年 (昭和8年) に有罪判決が下っているようで、懲役6年の刑に処せられているみたいです。訴訟費用は被告人に負担させられました。上告されたらしいですが、棄却されています。勝手に捕まえられて、勝手に裁判に掛けられて、勝手に裁判費用を押し付けられて、勝手に6年の刑にされて、これはひどいです。本当にかわいそうだと思います。

しかし、なぜまた主婦が主婦業をしただけで治安維持法違反になり、逮捕されて懲役刑を食らったのかというと、その主婦のかたの旦那さんが、たまたま共産党の委員長だったらしく、それでこの旦那さんに夕ご飯を出したり、掃除洗濯をしてあげたり、お小遣い出していたことが、「日本共産党の目的遂行の為にする行為を為したる」ものと見なされて、痛い目にあわされた、ということみたいです。お小遣いあげたのは「資金援助だ」と牽強付会されたのでしょうね。(なお、この主婦のかた (小宮山ひでさん) は正確には内縁の妻です。あと、「お小遣い」と私はここで言っていますが、内田先生文章の中には「お小遣い」という言葉は出てきません。念のため。)

主婦が家事洗濯をして、それが国体変革を企てる試みに資する、とされたわけです。夫が共産党員だったからといって、いくら何でも無茶苦茶すぎますね。とにかく当時、当局は共産党員をしょっぴき、根こそぎにするために、その人物の周辺にいる人々も、難癖をつけてしょっぴき、辺り一帯を焦土と化するまで根絶やしにしたかったのでしょうね。


治安維持法がひどい悪法であることは、以下の本を拝読して勉強させていただきましたが、

上記の主婦の事件は奥平先生のご高著には出ていなかったと思われ、内田先生の本で初めて知って、改めて治安維持法が空恐ろしい法律であることを思い知りました。


今日はこれで終わります。以上の文章には、事件に対する私の解釈が入っていますので、正確には内田先生の上記の記事を参照ください。たぶん、少し違った印象を受けると思います。検察側の主張する起訴事実」なるものが一方的に語られているためです。なお、私の記述に関し、間違ったことを書いておりましたらすみません。謝ります。


PS

問題となっている共謀罪改めテロ等準備罪では、共謀とは何か、共同で謀議するとはどういうことなのか、そのことが争点になっているようです。ところで初代の治安維持法第一条では、国体を変革し、もしくは私有財産制度否認を目的として結社したり、それに加入した者は、懲役または禁錮に処すとされ、第二条では、国体変革、もしくは私有財産制度否認の目的を実行することに関し、協議を為した者は懲役に処す、というようなことが書かれています(奥平、304ページ)。治安維持法の中に「協議」という言葉が出てきています。この協議とは、協同/共同で謀議することなのでしょうか? 1941年 (昭和16年) の治安維持法改正法律では第五条で「協議」という言葉が出てきます(奥平、308ページ)。現代における共謀罪改めテロ等準備罪での共同謀議という考えは、治安維持法における協同での謀議の再来なのでしょうか? 気にかかります。とても気にかかります。

2017-01-04 入手文献: 精神医学関係

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

以前から述べておりますとおり、ここのところ、精神的に抑鬱的状態にあります。しかし、段々上向きになってきました。現状を打開すべく、いろいろと動き回り、状況に変化を持たせようとしています。新たな風を自らに吹き込むべく、やれることをやろうと努力しているところです。若干息が上がるぐらい身体も動かしています。

[] 精神医学関係

最近入手した文献の名前を記します。途中から精神医学に関係してくる文献をいくつか掲げます。心が疲れている人がいましたら、その疲れに対し、参考になりそうな文献です。よろしければご覧ください。たぶんお役にたてると思います。


和書

三島先生の『ニーチェかく語りき』は、下記の「論文等」の部分に掲げた、先生の短い文章世界はニーチェをどう読んできたのか」に、ニーチェの文を多数加え、解説を施して成っている本のようです。ですから、先生の今回のご高著『ニーチェかく語りき』の概要を知りたい方は、「世界はニーチェをどう読んできたのか」を読まれるとよいと思います。あるいはこの「世界はニーチェをどう読んできたのか」を読んでみて、関心を持たれたならば、『ニーチェかく語りき』をお買い求めになられるとよいと思います。

エピク テートスの本は、以下の『レジリエンス』において言及されていたので (p. 97, et passim) 買い求めました。


哲学関係以外では、次を購入。

出版社ホームページから、本書の目次を引用させてもらいます。

序 章 レジリエンスとは何か?

第一章 楽観主義であること  現実を見つめ、明るい未来を信じる

第二章 恐怖と向き合う  その生物学的背景と対処法、活用法

第三章 道徳指針をもつ  正義実践する

第四章 信仰スピリチュアリティ  罪悪感、赦し、回復

第五章 社会的サポートを求める  相互依存すること

第六章 ロールモデルを手本に行動する

第七章 トレーニング  健康を保ち身体を鍛える

第八章 脳の健康増進  知力と感情調整力を鍛える

第九章 認知と感情を柔軟にする

第十章 意味目的を知る  人生の出来事を成長につなげる

終 章 レジリエンスの実践

1〜10章の各章の表題が、経験研究から得られた、レジリエントであるための条件を示しています。


次に、出版社ホームページの本書内容説明冒頭を引用させてもらいます。

本書の特徴は、トラウマを乗り越えたサバイバーたちの語りを大切にしたうえで、それを裏打ちする疫学的・生物学的な研究成果を十分に紹介していることです。両方のバランスがよくとれているため、専門家研究者にも読みごたえのある内容であるとともに、一般の読者の方々にも関心をもっていただける内容になっていると思います。[…] 本書には、ベトナム戦争退役軍人特殊部隊教官、重い身体障害や深刻なトラウマを経験した人たちの語りがたくさん紹介されています。

本書は精神医学、心理療法の学術書でありながら、戦争捕虜となり拷問を受けながら生還した人や、レイプにあった人、歩けないながらもスポーツ活躍した人などの体験談がたくさん載っており、私のような素人でも引き込まれるように読んでしまいました。1〜10章の各章では、トラウマのサバイバーの体験談が記されるとともに、これら体験談から得られるレジリエントであるための条件が示され、かつその条件を支持する実験結果なども書き加えられており、理論と実証がバランスよく提示されています。本書は学術書であるため、主張や記述の出典情報が多数載せられています。(本書の原書は Cambridge University Press から出ています。なお本書は学術書であるもの索引がなく、ちょっと残念です。) その主張も慎重になされるものも多く、「(たぶん) 〜だろう」という言い方がよく見受けられます。なぜかくかくしかじかなのか、まだわからないことがある、という感じの記述もよくあります。それに著者たちの主張に反する実験結果も時に示されることがあります。このように、本書は実体験と実験結果を元にしており、かつ事実と推測を分けて慎重に書かれている様子ですので、読んでいて信頼感が持てました。なかなか説得力があるように感じられました。

それ故にか、サバイバーたちの驚異的な精神力と体力に胸が熱くなり、涙さえ込み上げてきたことを、ここに告白しなければなりません。私は最近、精神的に追い込まれ、かなり参っています。人生で数回、精神的な危機を今までに経験したことがありますが、最近経験している精神的な危機は、これまでになく堪えます。本当に助けてもらいたくて、たまたま見かけた本書を買い求め、毎日1章ずつ読みました。ほとんどのページに鉛筆で線を引き、ほとんどのページに付箋を貼って読みました。心に残る文言を、カードに書き出して、カードを貯めました。貯めたカードを名刺サイズのケースに入れ、日々読み返し、心に刻み込んでいます。かなり救われました。今では少し、人生に前向きになっています。(大丈夫です。自殺するとか、そのような気持ちは微塵もありませんので、その点は心配さらないでください。)

もしも精神的にきつい状況に置かれている方がいらっしゃいましたら、本書をお勧めします。ただし、本書を読めば簡単に自身の危機から脱することができる、というわけではないことを、心に留めておいてください。本書には、すぐさま危機から脱することのできる、手軽な魔法テクニックが記されているわけではございません。結局、最終的には時間をかけて自力脱出せねばならないことを、前もってお知らせしておきます。しかし本書を読んで私は勇気づけられました。きっと私と同様、本書を読んで勇気づけられて、前を向くことのできる人が他にもいらっしゃると思います。今、苦しみの中に置かれている方に、改めて本書をお勧めします。


この本は、上記『レジリエンス』で言及されていたので (pp. 285-286) 興味を覚え、購入して読了しました。これも読んでいて胸が熱くなりました。力が湧いてきます。通して読んだだけなので、今度は鉛筆で線を引きながら読み直します。

本書は、アメリカ大学バスケット史上最高のコーチと言われるジョン・ウッデンという方が教えるコーチングの本ですが、バスケットの技術的な話はまったくなく、選手にどのように接してきたのか、どのように彼らを育て優勝へと導き、かつ人生をよいものへとするようアドバイスしてきたのか、そのことが記されています。このように、本書は単なるスポーツの指導書ではなく、きつい状況をいかに生き抜き、自分と自分の人生をよいものとしていけばよいのかが、実地の経験を元にしながら簡潔に示されています。普段、哲学を学んでいる私にも考えさせられる内容となっています。指導者が読んでためになると同時に、指導者でない人にとっても非常にためになると思いました。『レジリエンス』と合わせて読まれるといいと思います。


  • Coach John Wooden with Steve Jamison  Wooden: A Lifetime of Observations and Reflections On and Off the Court, McGraw-Hill, 1997

本書は上記『元祖プロ・コーチが教える育てる技術 新装版』の原書です。この英語版は入手したばかりでまだ読んでいないのですが、中を眺めてみると日本語版は英語版の抄訳みたいです。日本語版にはそのことについて何も書かれていませんが。それにページ内の構成、デザインもかなり異なっている印象を受けます。そのため日本語版は英語版にそのまま従っているのではないようです。ただし、これは日本語版に対する非難ではございません。日本語版のほうが簡潔明瞭になっているみたいですので、かえってそのほうが読みやすいだろうと思いました。とはいえ、一言だけでも抄訳であることを日本語版に表記しておいたほうがよいかとは思いますが…。まぁ、学術書ではないので構わないのですけれど。


出版社ホームページの本書の解説文を引用させていただきます

うつ病の再発リスクを低くする効果があることから近年注目を浴びるマインドフルネス認知療法。本書では、その理論的背景を明らかにしつつ、8週間のプログラムの中でマインドフルネス瞑想を実践するための具体的な方法を解説、付属CDを聞きながら瞑想法を実践することができる。忙しい生活の中で不安ストレスにうまく対処し、思いやりや気遣いを取り戻すためのマインドフルネス実践ガイド。8つの瞑想法を収録したCD付き。

抑鬱状態の激しい時、頭の中をひっきりなしにネガティブな考えが渦巻いているのですが、この恐ろしいネガティブな考えを真に受けず、「そのままに」しておくことを教えられたのが本書です。ネガティブな考えが湧き上がり、悲観的な未来や自責の念を絶えず自らに言い聞かせてしまうところを、本書では「そのままに」しておくこと、それらの考えについては強く肯定したり、強く否定したりせず、何も判断しないまま、実体のないただのイメージのようなものとして眺め、過ぎ去るように距離を取ることを本書では勧めており、ネガティブな考えに圧倒されてしまっていた自分にとっては救いとなる教えでした。


本書は副題に「理論と実践」とありますが、私の見たところ、実践の書であるよりも、理論的側面の強い本です。上記『自分でできるマインドフルネス』のほうが圧倒的に実践の書と見えます。この『自分でできるマインドフルネス』で実践されている事柄のエッセンスを、簡潔にまとめ、チャート化したのが本書『30のキーポイントで学ぶ マインドフルネス認知療法入門』であるように思います。マインドフルネスによる瞑想の方法がどのような考えに基づいているのかを概観するのによい本だと思います。


出版社ホームページから、本書の解説文の一部を引用致します。

徳島県南部太平洋沿いにある小さな町、海部町(かいふちょう)(現海陽町)。

このありふれた田舎町が、全国でも極めて自殺率の低い「自殺“最”希少地域」であるとは、一見しただけではわかりようがない。この町の一体なにが、これほどまでに自殺の発生を抑えているというのだろう。

コミュニティと住民気質に鍵があると直感した著者は、四年間にわたる現地調査データ解析、精神医学から「日本むかしばなし」まで多様な領域を駆使しつつ、その謎解きに果敢に取り組む。

鬱にかかわる本を見ていると、この本に出会いました。Non fiction 仕立てで一般向けに書かれており、面白そうだと思って購入しました。少し読み始めたのですが、確かにこれは引き込まれる感じがします。


論文等

  • Toby Meadows  ''Fixed Points for Consequence Relations,'' in: Logique et Analyse, vol. 57, no. 227, 2014
  • 三島憲一  「世界はニーチェをどう読んできたのか」、『ニーチェ入門 悦ばしき哲学』、KAWADE 道の手帖 シリーズ河出書房新社、2010年

以下の雑誌から、

次を入手させていただきました。

勉強させていただきます。大変ありがとうございました。

2016-12-11 Why Contraction-Free Logics Aren’t Convenient for Most of Us?

精神的に疲労困憊してしまい、数日間寝込んでしまいました。

病院へ行き、初めて心に働く薬と入眠導入剤をもらって飲みました。

怖い思いがフラッシュ・バックするように心のなかを去来し、思わず顔をしかめて振り払おうとしてしまいます

何とか起き上がることができましたが、まだまだ心が不安定です。

こんなことは人生で初めてです。

ゆっくりやっていくことにします。

[]

書籍

この本の序論の最後には、編者の三人の先生方によって次のように書かれています。「わが国におけるウィトゲンシュタイン研究世代交代宣言として本論集を世に問う」(16ページ)。実際、目次を拝見させていただくと、飯田先生も土屋先生も野家先生も丹治先生も野矢先生も、その他、年配のウィトゲンシュタインの専門家の先生は、寄稿されておられないようです。それを見て私は思いました。「この本は飯田先生と土屋先生が編集された『ウィトゲンシュタイン以後』の後継となる本なんだ」と。私はちょっとうれしいです。年配の先生を差し置いて、新しい方々が意欲的な論文集を作られたことを。ただし、年配の先生方の寄稿がよくないと申しているのではございません。一般論としてそろそろ目に見える世代交代が必要かもしれないと思われるということです。とはいえ、12月17, 18日に開催される本書の出版を記念したシンポジウムでは、本書に寄稿されている若手の先生方とともに、飯田先生や野矢先生などの、比較的年長の先生方も研究を発表されるようですが。


論文

  • Seiki Akama and Sadaaki Miyamoto  ''Curry and Fitch on Paradox,'' in: Logique et Analyse, vol. 51, no. 203, 2008
  • Wayne D. Blizard  ''Multiset Theory,'' in: Notre Dame Journal of Formal Logic, vol. 30, no. 1, 1989
  • Wayne D. Blizard  ''The Development of Multiset Theory,'' in: Modern Logic, vol. 1, no. 4, 1991
  • Marc Gasser  ''Structuralism and Its Ontology,'' in: Ergo, vol. 2, no. 1, 2015
  • David Ripley  ''Comparing Substructural Theories of Truth,'' in: Ergo, vol. 2, no. 13, 2015
  • Rohan French  ''Structural Reflexivity and the Paradoxes of Self-Reference,'' in: Ergo, vol. 3, no. 5, 2016
  • Nicholas K. Jones  ''A Higher-Order Solution to the Problem of the Concept Horse,'' in: Ergo, vol. 3, no. 6, 2016
  • Miriam Franchella  ''In the Footsteps of Julius König's Paradox,'' in: Historia Mathematica, vol. 43, no. 1, 2016
  • Graham Priest  ''Old Wine in (Somewhat Leaky) New Bottles: Some Comments on Beall,'' in: The Australasian Journal of Logic, vol. 13, no. 5, 2016
  • Romina Padro  ''What the Tortoise Said to Kripke: The Adoption Problem and the Epistemology of Logic,'' A Dissertation Submitted to the Graduate Faculty in Philosophy, The City University of New York, 2015, <http://academicworks.cuny.edu/gc_etds/603>

書評

[] Why Contraction-Free Logics Aren't Convenient for Most of Us?

(最近精神的に疲労困憊し、しばらく寝込んでしまいました。不安を和らげる薬を生れてはじめて飲んで、心を落ち着かせようとしているところです。以下に掲げる文章は、寝込んでしまう前に大部分を書きました。ただし心穏やかでない時期に書いておりますので、推敲を経ておりません。そのため、ほとんど思い付きと言ってよいような文章です。間違っておりましたら大変すみません。)


Unrestricted Comprehension Principle を保持したまま、Russell Paradox から矛盾導出を防ぐ手段として、structural rules の一つを落とすということが、有望な手立てとして考えられています。その落とされる structural rules の一つには例えば contraction があります。これを落とせば確かに矛盾の導出は block できます*1

しかし、直観的には contraction は当然成り立つと思われる規則ですので、これを落として推論規則としての使用全面的禁止してしまうことには心理的抵抗を感じます。

はいえ、心理的抵抗を感じるとしても、contraction がないことに慣れてしまえば、心理的抵抗も減じ、痛痒を感じなくなるでしょうから、あえて contraction を落としてしまうことを厭わない方々もおられるかもしれません*2

ですが、心理的抵抗を感じようが感じまいが、contraction を落とすことによって、contraction 以外の重要な実質をも失われてしまうことになるのならば、話は別です。

Stephen Read 先生によると、contraction を落とすと、(直観主義的観点からの) 背理法*3も失われ、その証明法を使用することの正当性が失われるとのことです。

直観主義的観点からの背理法とはいえ、背理法の一種とされるものが使えないとなると、これはゆゆしきことかもしれません。

けれども、contraction を落とすと背理法も使えなくなるという Read 先生の主張は、私の考えでは間違っていると思います。ですので、contraction を落としても、Read 先生が言うように背理法が使えなくなるということはなく、失うものはないと思われます*4

しかし、先日何気なく次の文献の conclusion の section を眺めていると、(かつその section だけを読んでいると)

  • Seiki Akama and Sadaaki Miyamoto  ''Curry and Fitch on Paradox,'' in: Logique et Analyse, vol. 51, no. 203, 2008,

ちょっと驚くことが書いてありました。そこに書かれていたのは、contraction を落とすと二つの大切な事柄が失われる、という話です。私は特に二つ目の事柄が失われることに驚いてしまいました。昔からよく知られていることなのかもしれませんが、不勉強なため私は知りませんでしたので、読んでいてちょっと不意を突かれたような気がしました。

長くなりますが、Section 5, Conclusions, pp. 280-281 の部分と、文献情報 pp. 282-283 の部分を引用してみます。私が上に述べた、失われてしまう二つの大切な事柄とは、下記引用文中では、初めの辺りで 'two problems' と呼ばれているもののことです。

 Contraction-free logic, which belongs to the family of the so-called substructural logics, can generally act as a formal ground of naive set theory. There seem at least two problems. One is that in naive set theory based on contraction-free logics the defined notion of a ''set'' using comprehension schema is not a set but a multiset (also called bag) due to the lack of contraction.

 As is well known, in set theory, the set {a, a, b} is considered equivalent to the set {a, b}. In other words, duplication of elements plays no role here. On the other hand, the multiset {{a, a, b}} is not equivalent to the multiset {{a, b}} in that duplication of elements is meaningful. From a logical (or computational) point of view, duplication is closely related to the notion of resource. For example, Girard's [9] linear logic is also regarded as a contraction-free logic to handle resource as a multiset. This seems to reveal that intuitive theory of element and collection is based on multiset theory rather than set theory. From a different point of view, such an observation may lead us to work out a foundation for multiset theory based on contraction-free logics; see Bunder [5] for details.

 The other problem, which is also related to the first conceptual difficulty, is that we cannot define induction principle with implications not satisfying contraction. Induction can be expressed as the formula of the form (A(0) ∧ ∀n(A(n) → A(n + 1))) → ∀nA(n). A natural deduction proof of the formula representing induction is to prove the formula of the form (A ∧ (A → B)) → B. We here omit applications of (∀E) and (∀I) for simplicity. The proof requires the use of contraction as illustrated as follows.


f:id:nuhsnuh:20161210235920p:image

 Here, the last step of (→ I) discharges two occurrences of the assumption A ∧ (A → B), but it violates the restriction on (→ I) mentioned above. This implies that induction does not hold in naive set theory based on a contraction-free logic. We believe that induction is one of the important principles for mathematics, and we are not right to discard it. Of course, to accommodate to the obstacle, we could introduce another implication for induction satisfying contraction, but it appears ad hoc (cf. White [21]).


[5] Bunder, M.: BCK-predicate logic as a foundation of multiset theory, University of Wollongong, 1985.

[9] Girard, J.-Y.: Linear logic, Theoretical Computer Science, 50 (1987), 1-102.

[21] White, R.: The consistency of the axiom of comprehension in the infinite value predicate logic of Lukasiewicz, Journal of Philosophical Logic, 8 (1979), 509-534.

数学的帰納法を式で表した場合、その式を証明しようとすると contraction が必要になってくることが、上記引用文中の証明図により、一目瞭然です。びっくりしました。Contraction がないと数学的帰納法を正当化できないのでしょうか? もしも本当にできないのだとすると、これは計り知れない損失になりそうです。Contraction を落とすことは、そう軽々しくはできないことになりそうな感じですね。これはまいったな。

しかし、もしもですが、もしも contraction がなくても上記の数学的帰納法の式を証明できるとしたらどうでしょうか? あるいはさらに、そもそも上記の式を証明できないとしても、公理として立ててしまえばどうでしょうか? そのようなことも考えつくかもしれませんが、おそらくそれは無駄なあがきになるかもしれません。

というのも、問題の式を 'MPA' と名付けて、もう一度書き出してみますと、


MPA: (A ∧ (A → B)) → B


ですが、これを見て私は思い出したのですけれど、これは結構有名な式だと思います。Relevance/Relevant Logics に詳しく、かつこの論理に基づいて、素朴集合論や素朴な真理論を展開しようとされている方ならば、みんな知っている式だろうと思います。つまり、昔から Modus Ponens Axiom とか Assertion と呼ばれてきた式です。

この式を証明したり、またはこの式を公理として立てている論理では、この式と、あとわずかな論理的装置で、あっと言う間に Curry's Paradox が再発してしまうことが大分前から知られています。

ですから、上記の式 MPA があると、その理論は Curry's Paradox によりどんな式でも証明できてしまうので、理論的価値を失ってしまいます。*5

私たちは dilemma を突き付けられているのでしょうか? すなわち、一方で、問題の式を証明するなり公理として立てるなりして、手に入れることができなければ、数学的帰納法が失われてしまうのかもしれません。他方で、問題の式が手に入ったとしても、それなりの強さを持った理論では、Curry's Paradox が再発して、trivial なものとなってしまうのかもしれません。

どうしたらいいのでしょうか? どうしたらいいのか、ちょっと考えてみます。と言っても、私に答えなど出そうにありませんが…。


ここまで書いた後で、次の論文を眺めていると、とても興味深いことが記されていました。

  • Graham Priest  ''Old Wine in (Somewhat Leaky) New Bottles: Some Comments on Beall,'' in: The Australasian Journal of Logic, vol. 13, no. 5, 2016.

この論文の pp. 90-91 を見ると、MPA と contraction が deductively equivalent であることが簡略な形で証明されています。ここでその証明の詳細を私のほうで補って自然演繹を使って掲げてみましょう。なお、pp. 90-91 では MPA が PMP と呼ばれています。またその証明ではいくつかの論理的真理が援用されています。


MPA/PMP から contraction の証明

一枚の証明図にすると大きくなりすぎるので、分割して証明します。まず、

(1)

f:id:nuhsnuh:20161211005224p:image

<1> が出ました。次に、


(2)

f:id:nuhsnuh:20161211005225p:image

<2> が出ました。これで <1> と <2> を合わせて条件法除去則により、以下のごとく A → B が出てきて、


(3)

f:id:nuhsnuh:20161211005226p:image

(1) の右上にある [A → (A → B)] を落とし、条件法を導入すれば、(3) のごとく Contraction の証明の完成です。


Contraction から MPA/PMP の証明

ここでも分割して証明します。まず、

(1)

f:id:nuhsnuh:20161211005227p:image

<1> が出ました。続いて、


(2)

f:id:nuhsnuh:20161211005228p:image

<2> が出ました。最後に、<1> と <2> を合わせて条件法を除去すれば、((A → B) ∧ A) → B が出て、


(3)

f:id:nuhsnuh:20161211005229p:image

(1) の二つの [(A → B) ∧ A] と (2) の一つのそれを落とし、条件法を導入して、それから推論規則として Contraction を使えば、MPA/PMP である ((A → B) ∧ A) → B が導出されます。


Contraction から MPA/PMP の証明では、contraction が公理ではなく推論規則として使われていますが、公理としても証明可能です。しかしそのようにすると証明図が大きくなりすぎて、ここに収めるのが大変なので、便宜上、推論規則としての contraction で代用しています。(Priest 先生も contraction を推論規則として扱っておられます。)


最後に、Stephen Read 先生の、contraction を落とすと直観主義的観点からの背理法が使えなくなるという主張と、それに対する私の疑念をここで簡単に記しておくことに致します。

先生は次のご高著の該当ページで、

  • Stephen Read  Thinking About Logic: An Introduction to the Philosophy of Logic, Oxford University Press, OPUS Series, 1995, p. 162,

contraction の話を持ち出し、以下のように述べておられます。私訳/試訳も付けます。

[I]f we reject it [i.e., contraction], then whatever rationale we give for its rejection will probably mean rejecting reductio and consequentia mirabilis as well [...]

もしもそれ [すなわちコントラクション] を拒絶すれば、その拒絶にどんな理由を与えるとしても、その結果がおそらく意味することは、背理法の拒絶であり、コンセクエンティア・ミラビリスの拒絶でもあるだろう。

つまり、一言で言えば、contraction の拒絶は背理法の拒絶となる、ということです。

根拠は何でしょうか? 同じページから引用し、私訳/試訳を付けます。

Now, reductio is closely linked to contraction. Its basic form is that of consequentia mirabilis, 'if A then not-A; so not-A'. 'Not-A' in turn is equivalent to 'if A then absurdity' ('0=1' or some other unacceptable proposition − 'snow is black', perhaps). So consequentia mirabilis expands into, 'If A then if A then 0=1; so if A then 0=1', and that is an instance of contraction. [...]

さて、背理法はコントラクションと密接な関係がある。その基本形はコンセクエンティア・ミラビリスの形式である。つまり、「もし A ならば A でない、ならば A でない」である。次に「A でない」は「もし A ならば不合理である」に相当する ([不合理なものとしては]「0=1」または何か他の受け入れがたい命題、おそらく「雪は黒い」を取ればよい)。そうするとコンセクエンティア・ミラビリスは展開されて、「もし A ならば、もし A ならば 0=1, ならば A ならば 0=1」となり、これはコントラクションの一事例である。[...]

先生はここで背理法として、直観主義でも許されるものをお考えであり、それは次のように式の形式で表されます*6


(A → (B ∧ ¬B)) → ¬A


矛盾 'B ∧ ¬B' を「人」で表せば、今の式は以下のようになります。


(A → 人) → ¬A


先生によると、この背理法の式は contraction と密接な関係にあるということです。先生による、その理由を記します。

まず、先生は例の背理法の「基本形」が consequentia mirabilis の形をしていると言います。先生が言及されている consequentia mirabilis を式で表せば、次のようになります。


(A → ¬A) → ¬A


さらに、「A でない」という否定の定義は、先生も述べておられるとおり、一般には次のようになります。


¬A =def. A → 人、または A → 0=1, または A → 雪は黒い、など。


そこで、先生がされているように、consequentia mirabilis を否定の定義で「展開」してやれば、不合理なものとして 0=1 を使うと、


(A → (A → 0=1)) → (A → 0=1)


になります。これは確かに contraction を式の形式で表した場合の一事例になっています。

まとめると、背理法の「基本形」は consequentia mirabilis の形式を持っており、consequentia mirabilis を否定の定義によって「展開」してやると contraction の一事例になるので、背理法は contraction と密接な関係にある、ということです。

そして先生によると、先生の文章として最初に上げた引用文に基づくならば、以上により、contraction の拒絶は背理法の拒絶になる、ということです。

こうして、先生によるならば、contraction を落とすと背理法が使えなくなるのです。ただ、私にはよくわからないのですが、背理法の「基本形」が consequentia mirabilis の形式を持っているということがどういうことなのか、はっきりしません。はっきりしないのは、私の脳みそが足りないせいかもしれませんが…。

今問題にしている背理法


(A → 人) → ¬A


と、consequentia mirabilis


(A → ¬A) → ¬A


とが、よく似ているのは私にもわかるのですが、両者の関係が私にははっきりしません。


ところで今の consequentia mirabilis を自然演繹で証明してやると、次のような証明図として書くことができます。


f:id:nuhsnuh:20161211000209p:image

そして、この証明図の一番下の式 (A → ¬A) → ¬A より上の部分だけを取り出して簡略に記せば、以下のようになります。


f:id:nuhsnuh:20161211000208p:image

これを見るとわかるのは、この図では、式 A → ¬A を前提した上で、A を仮定し、矛盾を導くことでその否定 (¬A) を引き出す (直観主義的な) 背理法となっている、ということです。

ここからわかることは次のことです。つまり、A → ¬A を前提した上で、A を仮定して矛盾を引き出し、それにより ¬A を導く背理法を使ったならば、その後で前提の A → ¬A を仮定として落としてやると、それは consequentia mirabilis の証明となる、ということです。

少し一般的に言いますと、(直観主義的な) 背理法では、あることを仮定し、何らかの前提を使って矛盾を引き出せば、その最初の仮定の否定を結論として導いてよいのですが、この際の「何らかの前提」として取られているのが、Read 先生の話においては、A → ¬A であり、これをも仮定として証明の最後に落としてやれば、それは consequentia mirabilis の証明となる、ということです。

よくはわからないのですが、Read 先生が背理法の「基本形」を consequentia mirabilis の形だとするのは、以上のようなことなのではなかろうか、と私は推測しています。

しかし、だとすると、consequentia mirabilis の証明図を見ればわかりますが、その証明図では consequentia mirabilis の証明に (直観主義的な) 背理法を使っています。この背理法の証明に、その「基本形」であるとされる consequentia mirabilis を使うのではなく、まったく逆に、consequentia mirabilis の証明に背理法を使っています。

ということは、背理法の「基本形」が consequentia mirabilis なのではなく、consequentia mirabilis のいわば「基本形」が (直観主義的な) 背理法なのではないでしょうか?

もしもそうであるならば、Read 先生は (直観主義的な) 背理法の「基本形」は consequentia mirabilis だと述べておられますが、それは間違っていることになると思います。その逆が正しいのではないでしょうか?

なお、先生の上記一番目の引用文を再度掲げてみますと、

[I]f we reject it [i.e., contraction], then whatever rationale we give for its rejection will probably mean rejecting reductio and consequentia mirabilis as well [...]

とありますが、ここで先生は contraction の拒絶は、背理法の拒絶を「たぶん(probably)」意味するだろうと言っておられます。この 'probably' という言葉を使っておられることから、先生は contraction の拒絶が背理法の拒絶を本当に意味するのか、おそらく確信がなかったのではないでしょうか? 確たる証拠を手にしておられなかった可能性があります。Contraction の拒絶は背理法の拒絶だ、とする先生のご意見は、ひょっとすると先生の勇み足だったのかもしれません。

なお、Read 先生に対する私の疑念の、さらに詳細な説明は、本日記、2016年1月2日、項目 ''Is Consequentia Mirabilis a Basic Form of Reductio ad Absurdum?'' にございます。


以上で終わります。精神的にひどく不安定な時期に書かれた文章ですので、誤解や無理解や、激しい勘違い省察不足が多数散見されるようでしたら誠に申し訳ございません。また Read 先生のお話を私が理解していないようでしたら謝ります。何卒お許しくださいますようお願い申し上げます。

*1:この件に関し、日本語で読める文献としては、例えば次を参照してみてください。照井一成、「素朴集合論コントラクション」、『科学哲学』、第36巻、第2号、2003年

*2:ところで、contraction を落とすことは、新たな論理採用となるのだろうか? あるいは今ある論理の改訂ということになるのだろうか? しかしそもそも論理を採用したり改訂したりすることはできるのだろうか? 論理の採用や改訂ということを整合的に詳しく説明することは可能だろうか? それは一体何をしていることになるのだろうか? 大体、論理とは何だろうか? 論理的真理の集合だろうか? それとも妥当な推論規則の必要にして十分な集合のことだろうか? あるいは論理とは妥当な推論を行なう人間能力ことなのだろうか? それとも論理とは思考の道具のことなのだろうか? 私は今までにもしばしば contraction を落とした論理がどうしてこうしてというような話をしてきましたが、いつも心のなかで引っかかっていたのは、以上のような疑問であり、これらの疑問は contraction を落とした論理がどうのこうのというよりも、より基本的で、より重要問題だろうと思ってきました。しかし、より基本的でより重要な問題というものは、しばしば取り組むのに困難があり、それよりも、より個別的比較的短い時間と少ない労力で回答可能な問題に取り組んだ方が何かと得策であり、問題がはかどるものですから、ムズカシイ問題は避けてきました。ですが、やはり避け難いものがあります。論理を採用したり改訂したりすることは可能なのかという点に関して、参考になる文献をわずかばかり上げるなら、私が最近読んでいたものに限るとすると、(それはちょっと限定しすぎでしょうけれども) 次の本の該当ページが興味深いです。飯田隆、『規則と意味パラドックス』、ちくま学芸文庫筑摩書房2016年、202-208ページ。ここでは Kripke さんの考えを紹介しながら論理の採用や改訂に人はより慎重になるべきことが論じられています。これを論じる際、飯田先生は次の論文を参考にされています。Alan Berger, ''Kripke on the Incoherency of Adopting a Logic,'' in his ed., Saul Kripke, Cambridge University Press, 2011. この論文は四部構成を取っており、私はそのうち、ひとまず第一部と結論である第四部を読みました。この論文も論理の採用や改訂という試みに懐疑的です(p. 177)。その種の試みを考える上で、本論文もためになりそうです。他方で、新たな論理の採用や論理の改訂を積極的に支持する動きももちろんあります。おそらく最も急進的、根底的、かつ精力的にこの種の動きを見せているのが Graham Priest さんだと思われます。現在、Priest 先生こそが最も積極的に極端と見える alternative な logic の採用を世界のあちこちで宣伝して回っておられると思われます。そこからして、論理の採用や改訂を支持する強力な見解を保持しているのが Priest 先生ではないかと推測されます。先生は多作な方ですから、たぶん色々なところでその見解を開陳しておられるのだと思うのですが、つい最近の論考でその種の話題をまとまった形で展開しておられる論文は、次のものだろうと考えられます。Graham Priest, ''Revising Logic,'' in Penelope Rush ed., The Metaphysics of Logic, Cambridge University Press, 2014. この論文は短いものですから、早速一通り読みましたものの、私個人としては十分説得されたという感じがしませんでした。あるいは私は先生を誤解しているのかもしれませんが。いずれにせよ Priest 先生の見解は、この論文にあるままではなく、先生のその他の論考に見られる見解で補強することにより、その効力を十分発揮することになるだろうと思います。

*3直観主義的な観点からの背理法とは、ある文 A を仮定し、そこから矛盾が導かれたなら、その文の否定 ¬A を結論してよいとする論法。一方、通常の背理法とは、ある文 A を証明したい場合、その文の否定 ¬A を仮定し、そこから矛盾が導かれたなら、その否定文 ¬A の否定 ¬¬A を結論してよく、さらにここからこの否定文の否定 ¬¬A、すなわち証明したかったその文の肯定 A を結論してよいとする論法です。このように背理法には二種類あることが、次でも簡単に触れられています。岩本敦、「論理と数学における構成主義 ある議論」、飯田隆編、『知の教科書 論理の哲学』、講談社選書メチエ 341, 講談社2005年、124ページ。

*4:以上の、contraction を落とすと直観主義的観点からの背理法が使えなくなるというRead 先生の主張と、私によるその主張への疑念については、最後に少し説明したいと思います。

*5:以上、Modus Ponens Axiom と Curry's Paradox については、次の古典的な論文を参照ください。Robert K. Meyer, Richard Routley, J. Michael Dunn, ''Curry's Paradox,'' in: Analysis, vol. 39, no. 3, 1979. 特にその pp. 127-128. また、Modus Ponens Axiom を Assertion と呼んでいるのは Graham Priest 先生です。See his In Contradiction, Second Edition, Oxford University Press, 2006, pp. 83-84. さらに Priest 先生は、Modus Ponens Axiom/Assertion を推論の形式に直したものに対し、しばしば Absorption と呼んでおられます。Ibid., p. 83.

*6:Read, p. 251.

2016-11-20 Interphotographicality

ここ最近、非常に気が滅入っていますうんざりすることが多く、極めて stressful な日々を送っています。人生でも指折りの stressful な日々です。10年ぐらい前にも、かなりがっくりくることがありましたが、今回はそれ以上で、とても嫌な考えが頭の中をひっきりなしにぐるぐる回っており、気分が悪すぎて毎晩目が覚めてしまい眠れなくなって困っています。人生でこれほどひどいのは初めてかもしれません。まだ事態収束しておらず、かつ収束する見込みも当分なくて、本当に嫌な気分です。勉強に手が付かない状態なのですが、これは私にとってはかなりめずらしいことです。まぁ、大した勉強は今までもしてこなかったのですが…。

そんななか、12月25日にはまだ早いですが、SinatraThe Sinatra Christmas Album, Chorus and Orchestra Conducted by Gordon Jenkins という album を繰り返し繰り返し、延々と聴いています。おかげでこれを聴いているあいだは少し気分が和らぎました。それに聴いていない時も、収録曲melody が頭の中をぐるぐる回り、不愉快な考えが頭から締め出されて、ちょっと心が休まります。また聴こう。

[]

Journal

定期購読している journal の hard copy が郵便受けに届く。

書評以外の内容は次の通りです。

  • Tim Button and Sean Walsh  ''Structure and Categoricity: Determinacy of Reference and Truth Value in the Philosophy of Mathematics''
  • Dirk Schlimm  ''Metaphors for Mathematics from Pasch to Hilbert''
  • Neil Barton  ''Richness and Reflection''
  • Peter Roeper  ''A Vindication of Logicism''
  • Casper Storm Hansen  ''Brouwer's Conception of Truth''
  • Brendan Larvor  ''Why the Naïve Derivation Recipe Model Cannot Explain How Mathematicians' Proofs Secure Mathematical Knowledge''

Roeper 先生論文の Logicism とは Neo-Fregean Logicism 関係です。


英語論文

  • Gottfried Gabriel and Todor Polimenov  ''Analytical Philosophy and Its Forgetfulness of the Continent: Gottfried Gabriel in Conversation with Todor Polimenov,'' in: Nordic Wittgenstein Review, vol. 1, no. 1, 2012
  • Alfred Schmidt  ''Newly Discovered Wittgenstein Autograph in the Austrian National Library,'' in: Nordic Wittgenstein Review, vol. 1, no. 1, 2012
  • Christian Eric Erbacher and Bernt Österman  ''A Passport Photo of Two: On an Allusion in the Pictures of Wittgenstein and von Wright in Cambridge,'' in: Nordic Wittgenstein Review, vol. 3, no. 1, 2014
  • Sebastian Grève and Felix Mühlhölzer  ''Wittgenstein's Philosophy of Mathematics: Felix Mühlhölzer in Conversation with Sebastian Grève,'' in: Nordic Wittgenstein Review, vol. 3, no. 2, 2014
  • Josef G. F. Rothhaupt  ''Ludwig Wittgenstein über Wilhelm Busch: ''He has the REAL philosophical urge.'','' in V. Munz, K. Puhl, J. Wang eds., Language and World. Part Two: Signs, Minds and Actions, Ontos Verlag, The Austrian Ludwig Wittgenstein Society, New Series, vol. 15, 2010

Nordic Wittgenstein Review については既に数年前にその存在キャッチしていたのですが、私は Wittgenstein の熱心な読者ではないので、面倒がってこのジャーナルのチェックを怠ってきました。しかし、今になってやっと何となく中身を拝見してみようと思い、現在自分にとって特に興味を覚える文献を入手してみた次第です。上の英語の文献はどれもネット上で誰でも無料で閲覧、入手ができるようになっています


和書

これら和書の三点は、いずれも気晴らしのために購入。気晴らしとはいえ、大型書店の棚をぐるぐる回って「これはのんびり楽しめそうだ」という書籍を厳選しましたので、著者の皆様におかれましては気を悪くなさらないでください。なお村上さんの本は単行本でも購入させていただいております。田中さんの『ツァイス...』は、私が Frege の哲学論理学に興味があったため、その題名に魅かれて手に取りました。ドイツ工場などを巡る本かと思いましたが、そうではなくツァイスのレンズニューヨーク街角を切り取った写真集エッセイ集です。いい風景が撮れていて見入ってしまいました。文庫サイズではなく、もっと大きなサイズの本だと、なおよかったと思います。そんなのが出たら買いたいぐらいです。

[] Interphotographicality*1

ここ最近、とても stressful な日々を送っており、勉強がほとんど進みません。ですが、哲学や論理学の話そのものではないものの、関連する少し面白い話をこの前に読みましたので、今日はそれを紹介してみることに致します。以下では哲学的議論を展開するのではなく、その脇道に入って行くような話をしますので、この後、哲学的にすごい話が聞けるものとは期待しないでください。まぁ、誰もこの blog にそのようなものは期待していないでしょうが…。私もそのほうが気が楽でいいのですけれど…*2


さて、先日、以下の文献を入手しました。

  • Christian Eric Erbacher and Bernt Österman  ''A Passport Photo of Two: On an Allusion in the Pictures of Wittgenstein and von Wright in Cambridge,'' in: Nordic Wittgenstein Review, vol. 3, no. 1, 2014. (これよりこの文献を EO と略記することがあります。)

この文献は以前から名前だけは知っていて、題名ちょっと変わっているので気になっていました。その題名を詳しく訳せば次のような感じにでもなるでしょうか。「二人を写した一枚のパスポート写真 Cambridge における Wittgenstein と von Wright を写した複数の写真にほのめかされている一つの事柄について」。これは何の話なのでしょうか。問題の写真の一枚を上記文献から転載させていただければ次の通りです*3


f:id:nuhsnuh:20161118204557p:image

Fig. 2: Wittgenstein and von Wright in Cambridge.

Scan of a copy preserved in WWA. Erbacher and Österman, p. 141. (WWA, namely The von Wright and Wittgenstein Archives at the University of Helsinki)


この写真 Fig. 2 は見たことがあるような気がします。どの本でだったかは忘れましたが。上記文献 EO によると、この写真はあることをほのめかしているのだそうです。この写真はあることを真似しているのだそうです。それは一体何を真似していると言うのでしょうか。上の文献 EO によると今の写真は次の真似だそうです(EO, p. 140)。


f:id:nuhsnuh:20161118204559p:image

Fig. 4: Max and Moritz.

Photo of a drawing on the first page of a copy of Wilhelm Busch’s book Max und Moritz. Eine Bubengeschichte in Sieben Streichen. The book originally belonged to von Wright’s home library. Erbacher and Österman, p. 142.


えっ、本当ですか? 先ほどの写真 Fig. 2 は直前のイラスト Fig. 4 の真似なのですか? そっくりとは言えないと思いますので、にわかには信じがたいのですが。どのような根拠から、そのように言うのでしょうか。

まず、Wittgenstein は今のイラストの登場人物たちをたぶん子供のころから知っていたようです(EO, p. 142)。イラストの二人はドイツでは大変有名な童話漫画に出てくる腕白小僧であり、Wittgenstein はこの漫画を描いた Wilhelm Busch を生涯にわたって評価していたみたいです(EO, pp. 142-143)。上記の写真が撮影された晩年においても Wittgenstein は Wilhelm Buschのことを忘れずにいたようです(EO, p. 143)。そして Wittgenstein は von Wright に Busch の散文のことを教え(EO, p. 144)、Busch の本を von Wright にあげているようです(ibid.)。このため、上記の写真が撮影されたころ、Wittgenstein も von Wright も Wilhelm Busch のことを知っていたと言えるようです。

ところで、先の写真 Fig. 2 がイラスト Fig. 4 の真似だとすると、Wittgenstein はイラストのどちらの人物の真似をしており、von Wright はどちらの真似をしているのでしょうか。問題の文献 EO によると、ネクタイを締めている von Wright がイラスト向って左のネクタイを締めている、青い服を着た Max を真似ており(EO, p. 144)、Wittgenstein はイラスト向って右の、緑の服を着た Moritz を真似ているのだそうです(ibid.)。でも、そう言われても、そうかもしれませんが、それはまたどのような理由でそうなのでしょうか。まぁ、ネクタイを締めている点で von Wright と Max が似ているというのは、しぶしぶではあれ何とか受け入れることができるかもしれません。それに二人とも、どことなく「にやっ」と笑みを浮かべているように見えるので、von Wright は Max の真似をしているのかもしれないとも思えます。しかし、Wittgenstein が Moritz の真似をしていると言われても、どこが似ているのだか、全然わかりません。

そこで文献 EO の著者たちは次の写真を持ち出します。同じときに撮影された写真です。


f:id:nuhsnuh:20161118204558p:image

Fig.3: Wittgenstein and von Wright in Cambridge.

Scan of a copy preserved in WWA. Erbacher and Österman, p. 141


この写真の Wittgenstein の横顔は、かなり有名だと思います。大抵の人が見たことのある写真だと思います。たとえば、みすず書房から出ていた Monk さんの伝記の邦訳第2巻のdust jacketで使われていた写真です。訳書本文の中にも出てきていました。さて、この写真 Fig. 3 で、Wittgenstein が Moritz の真似をしていると、どうしてわかるのでしょうか。先ほどの Moritz の姿を見返してみると、彼の最も目立つ特徴は髪の毛が逆立っているように飛び出ている点です。これを踏まえて直前の写真 Fig. 3 の Wittgenstein をよく見ると目に付くのが彼の髪の毛です。Moritz ほどではないにしても、Wittgenstein の髪の毛も確かに飛び出ています。EO の著者たちの推測によると、Moritz の髪の毛の特徴を示すために Wittgenstein は横向きに写真を撮ってもらって自分の髪の毛の逆立っているところを見てもらおうとしたらしいです(EO, p. 144)。そうだとすれば、まぁ、一応 Wittgenstein は Moritz の真似をしていると言えるのかもしれません。とはいえ、でもやはりまだ信じられませんよね。

そこで EO の著者たちは、今回の写真の撮影者の証言状況証拠として持ちだしてきています(EO, pp. 145-146)。EO からその証言を引用してみましょう。引用文中の Tranøy さんが写真の撮影者です。一部、邦訳を付します。

In some recollections of Wittgenstein, first published in 1976, Tranøy offers the following description of the occasion:


In the late spring of 1950 we had tea with the von Wrights in the garden. It was a sunny day and I asked Wittgenstein if I could take a photograph of him. He said, yes, I could do that, if I would let him sit with his back to the lens. I had no objections and went to get my camera. In the meantime Wittgenstein changed his mind. He now decided I was to take the picture in the style of a passport photograph, and von Wright was to sit next to him. Again I agreed, and Wittgenstein now walked off to get the sheet off his bed; he would not accept Elisabeth von Wright’s offer of a fresh sheet from her closets. Wittgenstein draped the sheet, hanging it in front of the verandah, and pulled up two chairs. The pictures were taken, and I bungled them, being too inexperienced a photographer to be able to handle all the reflected sunlight from the sheet. Too bad, but the photographs do catch, I think, his face as it was less than a year before he died. It is very much Wittgenstein as I remember him.12 (Tranøy 1976 [''Wittgenstein in Cambridge 1949–51. Some Personal Recollections'']: 17) *4


一九五〇年の晩春に、私たちは庭でフォン・ウリクトの家族の人たちと一緒にお茶を飲んだ。夏のような日であった。私はウィトゲンシュタインに写真を撮っていいか尋ねた。彼は、いいと言い、レンズに対して後ろ向きに座ってなら、写真を撮ってもいいと言った。私は異存がなかった。それでカメラを取りにいった。その間ウィトゲンシュタインは心変わりした。彼は今度はパスポート用写真のスタイルで写真を撮ることに決めた。ふたたび私は同意した。ウィトゲンシュタインはベッドからシーツを取りにいった。彼はエリザベス・フォン・ウリクトが押入れから新しいシーツをもってきたのを受け取らなかった。ウィトゲンシュタインはシーツをベランダの前に掛けて覆い、そして二つの椅子をひき寄せた。*5 写真は撮ったものの、私にはうまく撮れなかった。撮影者としての経験があまりに不足していたため、シーツから反射してくる太陽光のすべてにうまく対応できた、というわけではなかったからである。あまりにひどかったが、一年たたずに亡くなる彼の表情を写真に捉えることはできていたと思う。これが私の覚えているウィトゲンシュタインその人である。

この証言によると、Wittgenstein は最初、撮影者に背を向けてなら写真を撮っても構わないと述べています。とすると、彼は写真を撮られることが嫌だったのだろうと思われます(EO, p. 146)。取られる際に何か虫の居所が悪かったのかもしれません。しかし気を取り直し、正面から撮られることを許し、合わせてパスポート写真のようにして、von Wright と一緒に撮ってもらうことにしたようです。

こうして撮影時の状況が明らかにされているのですが、これでどうして Wittgenstein と von Wright を写した写真が Max と Moritz の真似であるという状況証拠になるのでしょうか。

このような疑問に対し、EO の著者たちは次のように言います。

There is, however, an additional piece of evidence, which changes the picture: the Busch drawing owned by Wittgenstein. It depicts a solitary man sitting on a chair with his back to the viewer, scratching his head with a quill pen.{¥tiny ^1^3}

13 For the drawing and an interpretation of its meaning for Wittgenstein, see Rothhaupt 2010: 300.*6

Wittgenstein は Busch の描いたスケッチオリジナルを一つ持っていたそうです。そこに描かれているのは、見る者に背を向けた男性の姿でした。そのスケッチは、上記引用文中にある註13によると、Rothhaupt さんの2010年の文献の300ページにあるようです。文献情報詳細を記すと以下の通りです。Net 上で誰でも無料で閲覧できます。

  • Josef G. F. Rothhaupt  ''Ludwig Wittgenstein über Wilhelm Busch: ''He has the REAL philosophical urge.'','' in V. Munz, K. Puhl, J. Wang eds., Language and World. Part Two: Signs, Minds and Actions, Ontos Verlag, The Austrian Ludwig Wittgenstein Society, New Series, vol. 15, 2010.

この文献の300ページに次の絵が載っています。


f:id:nuhsnuh:20161118204600p:image


ただ、実際にはWittgenstein はこの絵を持っていたのではないと思われます。厳密にはこれと非常によく似た、しかし若干異なっている絵を持っていたようです。実際に Wittgenstein が持っていた絵は次の文献に掲載されています。

  • Josef G. F. Rothhaupt  ''Ludwig Wittgenstein and Wilhelm Busch: ''Humour is not a mood, but a 'Weltanschauung','' in Sascha Bru, Wolfgang Huemer, Daniel Steuer eds., Wittgenstein Reading, Walter de Gruyter, On Wittgenstein, vol. 2, 2013.

この文献の198ページに出てくるよく似た絵のほうを Wittgenstein は持っていたと思われます*7

どちらの絵を本当は持っていたのかという点は、今は置いておきましょう。いずれにしても、上に見られるような男の背中を描いた絵を Wittgenstein が持っていたことから、EO の著者たちは Wittgenstein が私たちの問題としている写真を撮影する際に、当初背中を向けて撮影にいどもうとしたのは、上に掲示した男のスケッチの真似を Wittgenstein が意図していたからだろうと言います(EO, p. 146)。不機嫌だったので撮影に背を向けようとしたのではなく、自分の持っている Busch の絵の真似をしようとしたのだろうと言います。

もしもこれが正しいとするならば、この後に続く一連の行為も Busch の絵を意識したものだったのではなかろうか、と言えるかもしれません。つまり、撮影の時に背を向けるのをやめ、von Wright と二人並んで撮ってもらおうとした時、その間ずっと Busch のことが Wittgenstein の頭にあったはずだ、というのです。背を向けて写真を撮ってもらうことが Busch のスケッチの真似のつもりだったとするならば、Busch の作品中、おそらく最も有名な Max と Moritz の pair のつもりで写真を撮ってもらったほうが、みんなにわかってもらいやすいし、うけもいい、と Wittgenstein は考え直したのかもしれません。

とはいえ、そもそも背を向けて撮影してもらおうと思った時、Wittgenstein は本当に Busch の描いた後ろ姿の男性の真似をしようとしていたのか、現時点では誰にも判断ができないと思います。たとえ Wittgenstein が Busch の後ろ姿の男性の絵を所有していたとしても、だからといって、Wittgenstein が背を向けて撮影してもらおうとした時、その Busch の絵のことを思っていたはずだ、とは断言できません。ただの推測にすぎないと思います。

実際、EO の著者の方々も、断言するつもりはないようです。一つのあり得る推測として、以上の見解を著者たちは私たちに提示しているだけのようです。著者の方々は EO の結論の section で、以上のような解釈について、'this seems at least possible' と、控えめに述べておられます(EO, p. 147)。

まぁ、しかし、Wittgenstein と von Wright さんの例の写真が Max と Moritz の真似だとすると、それはそれで愉快ですね。Max と Moritz が人々に色々といたずらを仕掛けたように、Wittgenstein と von Wright は私たちに様々な哲学的謎掛けをして、煙に巻こうとしているのかもしれません。そんなふうに考えると楽しくて面白いですね。


EO の著者の方には面白い話に感謝申し上げます。ありがとうございました。なお、私のほうで何か誤解していたり、勘違いしていたり、理解が行き届いていない点がございましたら大変すみません。お許しくださいますようお願い申し上げます。

*1:こんな語は英語にはありません。この語は私による造語です。いわゆるフランス現代思想をかじったことのある方ならば、これがどの言葉のもじりであるかは、おわかりいただけると思います。その言葉は、たぶん文学理論などでよく使われる言葉です。

*2息抜きのため、脇道に入って行く以外に、哲学論理学勉強も一応しているのですが、ここのところ、ほとんど足踏み状態です。ちなみに近頃少しは真面目に学ぼうとしている哲学、論理学の事柄は、次です。Russell Paradox に見られる矛盾自然演繹証明してやると、その reduction sequences に oscillating loops が見られるという現象を学んでいます。加えて、やはり Russell Paradox に見られる矛盾を自然演繹で証明してやった際、その証明図の各式を type として捉えた時、これら type を持つ lambda terms の application に、これもまた loop が見られるという現象を学んでいます。ただし、それらについてはまだまだよくわからないところがあって、いつものように苦戦を強いられており、この種の話題に関し、私自身で何か original なものをひねり出せるのかというと、残念ながらまったくそういうことはありません。さらに言うと、ここ数日で、また別の話題に興味が shift して行きそうな感じがしています。Stress によって、ひとところでこらえる力がなくなっているのです。

*3:なお上の文献 EO はクリエイティブ・コモンズ・ライセンスに関し「Erbacher & Österman CC BY-NC-SA」と表示されています。これにより、その文献に載っている写真等も引用転載可能と判断して以下に掲示致します。

*4:Erbacher and Österman, pp. 145-146. この Tranøy さんの証言は、今では次の文献で読むことができます。Knut E. Tranøy, ''Wittgenstein in Cambridge 1949-1951: Some Personal Recollections,'' in F. A. Flowers III and Ian Ground eds., Portraits of Wittgenstein, 2nd ed., Volume 2, Bloomsbury Academic, 2015. 今回引用した証言は、今上げた文献の pp. 1022-1023 に見ることができます。ただし、上に引用したのは EO からです。

*5:ここまでの証言の邦訳は、次から引きました。レイモンク、『ウィトゲンシュタイン 2』、岡田雅勝訳、みすず書房、1994年623ページ。これ以降の証言の邦訳は、引用者によるものです。誤訳しておりましたらすみません

*6: Erbacher and Österman, p. 146.

*7:Rothhaupt, 2013, pp. 197-198. 私はこの文献を所有しているので、その198ページ目を scan し、personal computer に取り込んで、ここでお見せしてもよいのですが、scannerも PC も持っているものの、ちょっと面倒なので遠慮させてください。すみません。