それでも村上隆を無視出来るか(芸術起業論/村上隆)

椹木野衣岡本太郎「今日の芸術」以来の衝撃と評した一冊を手にする。
これでも俺を無視するのか、と言わんばかりに内情を切々と告白している。時間をかけたせいか実に読みやすく整理された文章になっていた。クリエイターを名乗っている人間のほとんどがこのわかりやすいメッセージに同調し、彼を好きになるのだろうが、いや表面では冷静を装っていても、あの熱情のこもったシンプルな激論に作り手ならば心を洗われるのは当然である。この国の安寧で幼稚な芸術業界に対する憤り、似非アーティストたちの個人主義の履き違えに対する怒り、それらを全て自らの芸術に放出することで世界的な評価を得たという事実に僕たちは反論する権利もない。ただそんな内的な心情を知った今でもあえて僕が彼を無視したいと思う所はただ一つ、日本に確固たる芸術フィールドを設けようとする意気込みだ。欧米のような俯瞰型の芸術システムを日本に設ける必要が本当にあるのだろうか?確かに日本という国単位で考えると芸術に対して不勉強な環境が作られてきたことは否めない。しかし、それでこそ生まれた表現者が少なからず日本から世界へ発信した業績は小さくは無いのではないだろうか?つまりは欧米のような俯瞰型芸術システムを日本の解釈で設置した結果、村上隆がいう所の行き場のない怒りが半減してしまうのではないかという懸念が生じてしまうのだ。彼一人が躍起になってそういう場を提供し続けるのは一人のアーティストの表現として認めることは出来ても全体の話となると果たして面白みに欠けるのではという疑問を抱かずにはいられない。日本は日本であるべきだ。どこかの党が言うところの芸術大国は日本の目指すところではない。いやだからといってこの現状に満足してるのでも、絶望しているのでもない。むしろ表しようの無い怒りや恐れが頭から足のつま先まで充満しているし、そんな混沌の中にいくつもの可能性を感じていたりする。つまり日本は独特で面白いのだ。こんなに周りの国に感化されてきた変な国はない。諸外国から流れてきたものを日本のフィルターで漉した、笑える要素が蓄積しているのだ。欧米のあのストレートかつ大胆な思考では到底理解不可能な笑いが日本にはたくさんある。そんな難解で奥深いシュールで笑える日本の現代文化を村上隆は分かりやすく丁寧に世界に伝えた。それはそれで大きな業績として大いに評価されるべき事実である。それを認めて尚、彼の表現するフィールドには立ち入りたくないという考えに行き着いたのである、僕は違うところでもっと生産的でないものに価値や意義を見出していきたいと思う。この本を読んで何故自分が彼を好きになれないのか分かった。それは彼がアートで金を儲けているからではなく、日本を自分たちの動きやすい場に作り変えるという思想を持っているからだ。僕はそんなシステマチックで合理的な場で物を作りたくない。もっと制限だらけで矛盾で溢れた不思議な国で何かを生み出したいと思う。

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というか、この本自体がどっかの自己啓発本の構成をそのままなぞってつくられた只の作品だったらと考えるとそれはそれで恐ろしくて笑えるのだけれども。。