つづき

ワシントンポストの社説から - おこじょの日記のつづき。
When it comes to the parents of disabled children, Watson has somehow confused "loving" and "courageous" with "crazy" -- the sign of a heart clearly inferior to the gentle hearts of children with Down syndrome. のところから。


障害を持つ子どもの親の話になると、ワトソン氏は「愛情深い」と「勇気ある」を「頭がおかしい」にすりかえているようだ。これはダウン症の子供たちのやさしい心と比べて明らかにまちがっているといえるだろう。我々の多くはモデルのような容姿でない女性にあったことがあるし、同性愛者たちは親の好みと関係なく生きていたいと思うだろう。

ワトソン氏はこう論じたことがある:「あなたが本当に馬鹿だとしたら、それは病気だ」。良心が欠けた状態はなんという病気だろうか?

ワトソン氏は遺伝学を極端に社会に当てはめるという点で、科学者の典型ではない。しかし、こうした論争が描き出すのは、科学が持つある種の誘惑と、自由主義と科学的知見の間の緊張である。

その誘惑とは優生主義のことだ。遺伝的な検査や選択的な生殖を「我々はすでに受け入れている」とするワトソン氏の見解は正しい。アメリカではダウン症が見つかった胎児の90%は中絶されている。最近の研究では、ヨーロッパの胎児で11種類の先天異常のうちの1つでもが見つかった場合は、40%が出産に至らない。

障害を持つ子どもをもつことへのつらい挑戦を軽視することはできない。しかし、「好ましい」特徴をもった子供を検査することに対する社会的な影響を無視してはならない。こうした「選択」は、次世代に対して圧倒的な権力−何が「正常」で、何が「まっすぐ」で、何が「美しい」かということを永遠に決めつける力−をふるうことに他ならない。そしてそれは間違いなく差別へと向かう。イギリスの科学者ロバート・エドワーズ氏は主張する。「もうすぐ、子供が重い遺伝病を患うのは親の罪になる」罪。親の罪の結果として、検査の網をかいくぐって障害を持ってうまれた子供たちは、新しい形の後ろ暗さと偏見に包まれる。


ガンダムシードの世界はもうすぐなのだろうか。