面子と大義名分

政治家は、有権者の支持によってのみ政治家たり得ます。

つまり、彼ら彼女らが最も重視すべきは支持を得ること、あるいは支持を失わないことです。

利害が反する二人の政治家が対峙して、双方が完全な利益(=自分を支持する人たちが完全に満足する結果)を手にすることは不可能です。

それは更なる支持を得ることが出来ないことを意味します。

では、次に考えるべきことは何かといえば、既にある支持(=現在の政治的地位)を失わないことです。

そのために必要なのは何でしょうか。それは面子を保つことです。そして、そのために、あらゆる理屈が総動員されます。上手くいかなかったのは自分のせいではなく、不可抗力だったのだと。

そのなかで、自分は正しく相手が間違っているとすることによって、支持者の自尊心をくすぐり、正義は我にありと大義名分を振りかざします。

二つの国の関係は、当事国以外の多くの国との関係を抜きに決められるものではなく、その政治の権謀術数のなかで、正義の旗印を掲げて正面突破を試みたところで上手く行くわけがないのは誰の目にも明らかです。

船橋洋一の『ザ・ペニンシュラ・クエスチョン 朝鮮核半島の命運』の上巻を読み終えたところです。

北朝鮮の核開発の問題において、登場する多くの人々の政治的使命感もまた相対的なものとなり、事態は一ミリも動きません。

日本にとって最重要な課題は、核問題と同じレベルで拉致問題です。

北朝鮮拉致問題において、北朝鮮側は、その事実を認め謝罪しているのだから終わったことと言い、日本側は、それで終いというわけにはいかないと言います。

これは、日本と韓国の間の従軍慰安婦問題と同じです。言葉を入れ替えてみましょう。

日本の従軍慰安婦問題において、日本側は、その事実を認めて謝罪して(償いのための基金も設けて)いるのだから終わったことと言い、韓国側は、それで終いというわけにはいかないと言います。

唯一無二の正解などない世界。そこで日本の政治家が北朝鮮の非道を非難し、その解決の必要性を声高に叫べば叫ぶほど、肝心の解決が遠ざかっていくように思えてしまうのは悲しいことです。

ある日突然、大切な家族がいなくなる。その悲劇が我が身に起きたらと考えることすら苦痛であり、その苦しみを実際にその身に引き受けている人たちがいるという事実を許すことは出来ません。

それでも、政治家の面子と大義名分によってしか外交は動かないというのなら、もっと上手くやってくれ、世界中の偉い人たちよ。