ヲタ芸と道徳問題

今更ですが、今日明日でなんとか厚木ライブ雑感をまとめていきます。
まずはヲタ芸の問題から。
昼公演を2階通路席で見たのですが、まわりでヲタ芸をする人が多かった。これだけで僕にとっては新鮮な感覚で、最近自分の参戦時には周りでヲタ芸なんかほとんど見なかった。
ヲタ芸の死」を僕がはっきりと感じたのは去年の後藤相模大野紺だった。
どういうわけか事情は全く知らないのだけど、昨年あたりから現場でのヲタ芸はあまり見なくなった。僕は内部的な要因――マジヲタ回帰、と、外部的な要因――ヲタ道徳としてのヲタ芸批判、によるものだと捉えているけど、真相はどうなのだろう。詳細を知っている方がいたら教えてください。
さて、件のヲタ道徳としてのヲタ芸批判である。話題としては、やはり『「ケンコバ&小籔のダメわる!」ヲタ芸スペシャルにBerryz工房が出演』ってのが今熱い(若干過ぎたけど)んでしょう。
これは単なるヲタ芸批判というわけではないので議論が複雑なんだけど、一応意見を書いておきます。
まずは多くのヲタの批判の内容と矛先について。
★出演したヲタ芸師(と呼んでいいかどうかだが)への批判
①ヲタの社会的評価を貶める行為をすることに対しての批判(テレビ局の思惑に完全にはまっていることへの批判)
②そもそもヲタを代表するほどヲタ芸が全然うまくないことへの批判
③大したベリヲタじゃないのにベリと会えちゃったことへの非難
④ベリのメンバーにヲタが全員こんな連中なんだと見られてしまうことへの懸念からの批判
⑤ベリのメンバーに汚いものを見せちゃったことへの批判

★事務所批判
⑥ベリにこんな汚い仕事をさせること(=アイドルとしての格を落とすこと)への批判
⑦ベリにこんな汚いものを見せて笑顔で対応させるという苦行をさせることへの批判

きわめて示唆的なこちら(http://d.hatena.ne.jp/K2Da/20060808/p1 アイドル道徳について(1))を参考にしてみます。

アイドル道徳は
『1.その行為がファン集団における幸福の総量を減少させている(不幸の総量を増加させている)ことを指摘する(功利主義に基づいた主張)
2.その行為がアイドルに望まれていないことを指摘する(アイドルによる選好の卓越性に依拠した主張)
のどちらか(もしくは両方)』
というかたちで説得力をもつであろう、ということです。

ん、結局それって、僕が卒論で提示した二つのアイデンティティのことと大体対応しています、多分。
「マジヲタ」は「アイドル世界」がアイデンティティであるから、アイドルの権威が失われたり、アイドルが嫌であるようなことはすべきではない、という道徳になります。
「DD」は、「オタク世界」がアイデンティティであるから、オタク集団の幸福の総量を減少させることはしない、という道徳になります。
①②④は「DD」的道徳、⑤⑥⑦は「マジヲタ」的道徳、まあ③は道徳じゃねえか。
こういうのが混じりあってヲタ道徳を構成してるんでしょうね、というのがこの一件でも分かるんではないかと。(詳細に調べてないので上の①〜⑦の批判ってのは正確でないかもしれません。他の批判もあるのであれば教えてください。)

さて、ライブ中のヲタ芸の話に移るが、僕はヲタ芸が好きなのです。でもOADなんて隣と腕がぶつかってできないし、ロマンスもしっかり型通りやろうとすればほとんど不可能。もちろんまわりの目も気になる。ということで、ヲタ芸をする可能性のあるライブに関しては、基本的に通路席ヤフオクで入手、というのが僕の妥協点であるわけです。通路席なら、はみ出て打てば隣のヲタに迷惑がかからないし、自分のほうに寄ってくるヲタがいたら、腕が当たってもヲタがい様である。はみ出ていると係員に注意されるということがあるわけだが、これは確かに一般的にはライブを見るにあたってのマナー違反であるかもしれない、けれども、ヲタ道徳違反ではない。ヲタ道徳を総合して言えば、ヲタとアイドルに迷惑がかからなければOK、なのであるからして、通路にはみ出るのはそのどちらにも抵触しない、ということである。ヲタ芸という存在そのものがキモイとかヲタイメージを下げるといった批判とは、なかなか戦いづらいけれども、直接的に迷惑かけないから許してね、と言うしかないかな。楽しむ場でそこまで他人に干渉できないだろうとも思う。ヲタ芸を見るのがキモイというマイナスより、ヲタ芸の陶酔におけるプラスのほうが多い、という持っていき方もできなくはないかと。
一方現場でのヲタ芸批判として、「マジヲタ的道徳」の視点での批判は出てきづらい。ヲタ芸ハロメンに迷惑をかけているかどうかが分かりづらいためだ(なんかそういう発言があったなら教えていただきたい)。Musix!でマワリが晒されて以降、ヲタ芸はアイドルの側から権威を付与されて増殖することになり、「マワリでは全然見てくれない」のような発言はあっても、特に禁止令のような力を発効する発言などは見られていないはず。さすがに最前でマワってたりしたら演者に失礼だと思うけど、そういうことをするヲタはそんなに多くない。卒論時のインタビューでもはっきりしたが、ヲタは基本的にステージが近いとヲタ芸をしない。「アイドルに失礼」という意識と、「ヲタ芸してたらしっかり見れないから」という理由だった。当たり前ですね。
で、もう一回テレビのほうの話に戻るが、古くは「ジェネジャン」や、「スペシャ中学」、今年では「新堂本兄弟」とか「Gの嵐!」、そして今回の件と、ヲタ芸がテレビで取り上げられるほど、ヲタの中での自己嫌悪というか、ヲタの中でのヲタ芸自粛が進んでいったような印象を受けている。なんでだろうと1年考えているけど原因がよく分からない。どうなんだろうか、例えば、ヲタの性質として、初期2ちゃんねるでも分かるように、反権威という性質はあるわけだけど、テレビでヲタ芸が取り上げられた時点で、ヲタ芸のヲタにとっての価値はなくなった、ということなのだろうか。一部のヲタが嫌うのは、メディアによってヲタが操作可能だと見なされ、実際に操作されているということであろう。今回の「ケンコバ」ではまさにそうだったわけだ。テレビによってオタク理解が進む、テレビの都合によって。そんな風に操作されること、そしてその操作にまんまと乗ってしまうデリカシーのなさ。確かに、批判されても仕方のないようには思われる。
ヲタ芸を僕が好きなのは、その創造性である。ヲタ芸を開発したヲタ芸師は偉大だ。ロマモーの動画ってのは、バカバカしさが極まったところに神々しさを感じることも可能だった。しかしその創造性に富んだヲタ芸が模倣を繰り返され、またテレビで取り上げられることで、ただ愚かしく滑稽なだけでないヲタの精神というものが完全に剥ぎ取られていったこと。バカな振りをしているというのと、ただバカなのは違う。テレビはオタクを、その滑稽さを中心に描き出すことで、社会において無害な存在として馴致する。
結局「ケンコバ」のヲタ芸問題って、今「オタク」や「萌え」が盛んにテレビで取り上げられている時に起こっている、一般のオタク理解全般に関わる問題を如実に示してくれている。「萌えー!」って叫んで、ヲタ芸をして、アイドルを間近で見ると立ってることができなくて、でまあ、ファッションセンスが全くない、と。あーそういえば、映画「スケバン刑事」でも、2ちゃん用語を話すオタクみたいのが登場するんだが、いやーそんなのいないだろ、みたいのでしたよ。
オタクを社会にとって無害な枠に押し込める。異文化に対する理解力のなさって、日本の宗教教育の不十分さだったりもするんだろうけど、なんとかなりませんかね。ちぃとも進歩のないマスメディアの世界に幻滅してしまいます。

ダラダラ書いたのでまとまりませんが、今日はこの辺で。
明日はライブ雑感と「萌え」の問題が語れたらいいなあ。