清家吉次郎伝 1

子規と清家吉次郎の奇縁は後で述べるとして
吉田三傑の一人、清家吉次郎の生涯を振り返る

(吉次郎の青春時代)
吉次郎は亀三郎と喜佐方村の小学校で机を並べ勉強した竹馬の友で、亀三郎は吉次郎の母親から乳をもらった云わば乳兄弟だった
明治18年7月愛媛県師範学校に入学したが成績は余り芳しいほうではなかった
この時代から吉次郎は教員タイプでなかったらしい、精細綿密な仕事をやる人間ではなく粗野で野人だった
しかし、歴史、文学、政治方面のことには非常に興味を持った
当時の日本は欧米文化に心酔している風潮があったが、吉次郎は外来思想に見向きもしないで
腹の底から日本精神支持者であったという
昭和11年に発行された「無逸清家吉次郎伝」によると
(清家氏の郷土吉田には、国学と歌道と本草学の大家であった本間游清と云ふ人がゐた。游清は賀茂眞淵の高弟村田春海の
門下として有名な人であり、吉田の人たちは直接間接に此の游清の偉大な感化を受けたのであつた。小藩に拘はらず吉田に
国学者歌人の多かったのはこれがためである。清家氏も亦傅統的な此の游清の思想的感化を受けたことは否定し難い事実であら
う)と書いている
吉次郎は歴史の時間に懲戒処分を受けた、あまり評判の良くない先生にいたずら好きの癖が出て「永田ボンクラ腹つき先生」と
漫画を書いて回覧した、それが見つかり校長からひどい叱責をうけ一週間の謹慎処分となった
懲戒室の前を通った1年後輩で同郷の今城善次郎が「君はそこで何しょんのぞ」と尋ねると「おらにもの云うたら懲戒だぞ」
と真面目な顔で言った
卒業前に吉次郎は等差辞令廃止運動の急先鋒に立った、今でいう能力主義のはしりであろうか学業成績に等差をつけ、在学中の操行を査定し優等、尋常の等差を付し辞令を交付するという制度に吉次郎は大反発した
議論になると吉次郎は独壇場である、口角泡を飛ばし操行査定の不合理を論じ絶叫した・・・

一句
君が跡学びの庭に梅の花


(著書・欧米独断より《左》右は古谷重綱アルゼンチン公使)
 *重綱は亀三郎の盟友古谷久綱の弟

(元吉田町役場前の吉次郎翁銅像