唯物論の新人類獲得
鰺坂真『21世紀にはばたく 青年の生きがい』1990年 清風堂書店
1990年に出された鰺坂氏の「二一世紀に生きる未来の青年」という章は、本書の最も魅力のない章である。哲学上のポレミークな話題のほうがよほど面白い。この「未来の青年」は以下のような要旨である。
1.現代青年をとりまく問題状況
マスコミが垂れ流す「新人類」だの「スキゾキッズ」などの青年論は青年の未来を映さない。2.現代青年論の方法論的課題(科学性の確保)
- 事実に即せ
- 歴史的視点が必要
- 国際的視野(他国と国際的な情勢や趨勢を無視するな)
[ちょっとお題目的、70年代風]
3.現代青年の実像と問題点
- 70年代後半から80年代中葉までに青年は保守化した。
- しかし実像としては政治不信に基づく無関心の増大ではないか
- 青年労働者は企業の管理下におかれ、長時間労働を強いられ、組合は青年の要求に応えない。だから組合離れの現象もみられる。
- そこで青年は「私生活中心主義」にならざるをえない。
- ただし、「保守化」と「私生活主義」とは区別すべきである。青年は「リッチ」になったから現状肯定派として「保守」化したわけではない。
- 高校生・大学生は、学歴社会の中で人類的な諸価値(ヒューマニズムなど)に瀬を向けつっぱったり、ニヒリズムになったりしている者がいる。
4.マスコミの描く青年増の歪み
- 60年代末〜70年代初頭:三無主義、モラトリアム人間など青年に対する否定的評価
- 80年代:「スキゾキッズ」(「新人類」論の先駆け)
- 85年〜:「新人類」で文化論的アプローチ
これら、特に「新人類」論は消費文化の表層のみを取り扱っており、青年論としては「欠陥がある」。[あたりまえだ、というか始めから「科学的」青年論など意図していない。消費者としてのそれを描くのが目的なのだ。]
「新人類」の歴史的・社会的諸条件を無視すれば単なる風俗現象論となる。旧世代との差異の根拠を見るためには、歴史的に位置づけねばならぬ。例えば、自己表現(それが消費であろうと)の要求は戦後民主主義の一つの到達である。5.未来の青年を考える現実的諸前提
一部マスコミが言うように、社会豊かになったから青年が保守化したのではない。
(1) 政治と労働運動の右傾化、生活の企業管理により、保守化現象が起こっているのだ
(2) 労働組合・労働運動が「たたかわない」ようになっちってる。が、がんばれ?
(3) 労働者の高学歴化は労働者を賢くする。が、少子化は青年たちの成育に不利になっていくだろう。
(4) 女性の解放、男女平等の徹底に伴い、家庭やなんかが変化するぞ。
[あぁ、よーわからんが、「新人類」論にはこうした視点が欠けているっていうこと。]
80年代〜90年代以降に唯物論が青年を獲得できなかったのも無理はないという感じだ。残念。