睦月『秘めはじめ』

これほど強い酒を飲んだのは何年ぶりだろう。
男が仲居に持ってこさせたのはバーボン。鳥の絵のラベル。12年の熟成で野蛮で深い味に仕上がっているのだそうだ。惚れた男が好む酒の味を知りたくて、わたしにもこしらえて頂戴とねだった。男はソーダ水でカラカラと割りひとくち舐めて手渡してくれた。甘い香りと喉をおちてゆく熱い感じ。悪くない。昔は、酒を飲んでも味わう余裕などなかった。商売にならないから酔わないように気をつけていたのだ。もともとそんなに強くなく、あえて飲みたいとも思わなかったが、毎晩観念して飲んでいた。たかがあぶく銭を稼ぐために、無駄に時間を切り売りしたものだ。美味しいわと見栄っ張りの酔客にしなだれかかり惚れた振りをして。今日はじめて気がついた。わたしはきちんと酒を味わったことが一度もない。

『こんなに何度も射精してしまうなんて。どうなってるんだ、俺』
わたしの膝に顔をこすりつけ照れくさそうに男がいう。一滴も残さず搾り取ってしまうつもりだものとわたしは口に出さず微笑んだ。相手の視覚だの聴覚だの触覚だのを刺激しながらじわじわとそこに導いてゆく過程が好きだ。男側の気持ちに立って女役をつとめるのが愉しい。画家とモデルの関係に似ているかもしれない。男の目に映った自分。男からのみえかた、感じかた。画架の裏側にどんな姿態が描かれているのか、彼がいちばん興味をもって挑んでいるのはどこなのか、神経を集めて息づかいを感じ、注意深く画家の手元をみていれば大体見当がつく。

 男がわたしの横座りの腿を割って肌を撫でる。湿った手のひらの感触が新鮮だ。乾いた手の男は今までに何人も知っているが、こんな湿度の掌といまのいままで出会わなかったのはどういった巡り合わせなのかと、男の額の生え際を指でなぞった。男とわたしとはほぼ10歳離れている。10年経って同じ年齢になったときの自分を想像してみた。目の前の男と同様、枯れているとはとうてい思えない。皮膚が緩もうが皺が出来ようが、きっとそれなりに男好きする目尻で誰かを誘い貪欲にくわえこんでいることだろう。
 腿の付け根を這う男の指がわたしの潤みをさぐりあて、つま先がぴくんと反応する。足の小指の先端は紅く色づいている。くすぐったくてもぞもぞと尻を浮かすと、暖かみがとろりと流れ出た。わたしの襞の奥に遠慮なく放出されたものの名残り。


 『陥穽』という言葉を知っているかと訪ねてみた。こんな字を書くの。『かん、せい』わたしは男の懐に手を入れて素肌を指でなぞった。なんだそれ。知らん、そんな言葉。ふふ、わたしもよ。わたしも最近知ったの。騙して陥れるという意味らしいの。
 ひとりの時間に拙い小説を書きはじめたこと。ネットの創作グループに籍を置いていること。その言葉をテーマにして書くという課題が出ているのだけれど、なにをかけばいいのか見当がつかず、手も足もでなくて困っていることなどを話してみた。


 それは「罠」か。穴を掘って人を呼ぶという感じかな。


 罠をしかけて草で隠したりするのは姑息なやり方よね。
深い穴に落ちてそのまま放っておけば死ぬだろうけど、絶命するまでの時間が気にかかって寝覚めが悪そう。金槌で頭蓋を打ち砕く力のないひとが仕方なく穴を掘るのかしら。ねぇ、シャベルで深い穴を掘っている最中、人はなにを考えるかしら。誰でもいいから穴におちれば愉快だと企むのか。あるいはあいつだけを落としてやりたいと願うのか。もしかしたら罠をしかける実感もないまま、盲目的に穴を掘る作業に夢中になったりする場合もあると思うの。誰かに騙されて。


 こつこつと穴を掘るくらいなら非力なわたしにもできる。休みながら何日かかければかなり深い穴が掘れるはずだ。わたしは自分の両の手を眺めた。どうしてこんなに生々しく白いのだろう。シャベルよりは死体解体用の刃物のほうが似合いそうだ。目当ての人間を穴に落とすことに成功したとして、ただの放置より残酷なのはやはり、しばらく生かしておくことだろう。食べ物を投げ入れて、時々は優しい言葉をかけて、詫びてみせたり、泣いたり。
 ほんとうはあなたのことが大好きだったのどうしてこんなところに落ちたのごめんなさいごめんなさい後悔しているの血が出ているわどこか折ったのかしらかわいそうにわたしひとを呼んでくるわ誰か強そうな男の人を探してここにつれてくるから待っていて必ず助けるから信じてああどうかそれまで生き延びていて。


 なぁ、なにを考えてる?
もの凄く色っぽい顔になってる。
いくときの顔みたいだ。
観てたらまた勃ってきた。
お前さ、いまのその顔描いてアップしろよ。
で、企画したインテリオヤジたちに正直に詫びろ。
『ごめんなさい。難しくて書けませんでした。だってワタシそんな言葉今まで知らなかったんです。好きな男としっぽりやっていて頭の中がスケベなことでいっぱいで無理でした。申しわけありません』


 脱げ。写真とってやる。

 男がわたしを抱きすくめ押し倒し馬乗りになった。
乱暴に帯を解き肌を露にし、携帯カメラを構え何度かシャッターを切る音がする。わたしの浴衣は羽根を広げた蝉さながらに乱されてゆく。膝を割って入った腰の筋肉の固さがせつなくてぎゅっと目を閉じる。確かな重みがいとしくていとしくてどうしようもない。首に腕をまわし、背に足を巻き付け錠をかけるように踵を真上で交差して、男の耳をねぶり甘噛みした。こんな格好で夢中で情交を交わす男女のあぶな絵をみたことがある。襖を隔てて聞き耳を立てる奥女中。華奢な手に握られた巨大な張りがた。あれは江戸時代の春画。首筋の吐息が熱い。


 続きを読んでくれないか。
露天風呂からあがってきた男はわたしに本を手渡すとふたたび畳の上にごろりと横になった。
さっきまでわたしが朗読していた文庫本。便箋や葉書と一緒に宿の文箱に置かれていたそれは御当地小説、漱石の「坊っちゃん」だ。いかにも田舎の温泉宿が好みそうな計らいだが、冒頭部分を声に出して読むうちに、テンポの良い文体に二人ともひきこまれてしまった。読んでも聴いてもじつに小気味よく響く。本当に質のよいものはそうなのだろう。宿の企みにまんまと載せられてしまったようだ。
 男は腕組みをして目を閉じて待っている。結んだ口元にはうっすらと笑みがある。今夜俺は絶対に眠らないことに決めたんだ、時間がもったいないじゃないか、さあ早く読んでくれときかん坊みたいにせがむ。露天風呂には湯がひたひたと満ちて溢れている。きっと夜じゅう暖かく沸き続けているはずだ。雪が降り始めた。積もるだろうか。いっそ空港も駅も凍って閉ざされれてしまえばいい。わたしは男の頭を抱え自分の膝の上に載せた。そして少し息を溜め、自分の子供に読み聴かせるようにゆっくりと抑揚をつけながら、続きを読み始めた。

『停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である』