panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

煙幕

  D・フランシスの興奮は第3作目のようである。煙幕もタイトルの一つ。さて大体バンコクという街も、外国人のタイ専門でない渡り鳥が理解できる最小限の範囲でいえば、分かったように思う。とはいえ、たとえばレストランならレストランで高級なところは一度も行ってない。そもそもバンコクで高級なところへ行くという興味はもとからない。中進国という名の成り上がりッぽい街・国なので大概は想像がつくということもある(あくまで想像、しかも「も」つきだ。そんなことに金を使う気がないということである)。
  あるタイ在住者が春の赤服騒動の背景を分析して、教育格差、学歴偏重主義、所得格差で順に説明していた。経済発展しつつも依然格差の大きい社会であることが騒乱の原因だとして、それを考えるのだが、まず教育格差とはバンコクと地方との教育・文化インフラの圧倒的格差のことで、要するに社会経済政治を含めてあらゆる面でバンコクに一極集中しているということである。にもかかわらず、タイは厳しい学歴主義社会であって、故にいい大学に行くには激しい受験競争がある。いうまでもなくバンコク在住の子弟がここでもあらゆる面で有利だ。そして学歴は直接、賃金に反映する。高卒ではホワイトカラーにはなれない。大学でもエリート校、つまりタマ大やチュラ大、シルパコン大学(いずれもバンコク都内の大学)の出身者は初任給で場合によって一般大学卒業生より3倍もらえるというらしい。少なくともその後の昇進に大きく影響する。そう分析されている。とすると、最初にあった教育格差が学歴主義を経由することで従来の社会構造の再生産をよりたやすくする、という仕組みになっているということなのだ。
  つまり人の能力・実力をはかるものとして学歴があるのではなく、既存の社会的格差を補強し拡大するようにレッテルとしての学歴が機能するということであって、この点はバンコク以外の地で最初の大学が1964年創設のチェンマイ大学であることからも、バンコク的価値体系の強化が学歴に意図的にこめられているはずではないかと、ここでもまた(我輩によって)想像される。したがって出発点の不平等な一線競争の華麗な外観に騙されてはいけない。我輩はタイのエリート校の学生の能力が高いというのはある程度は真実、それ以上に神話ではないかと思っているのである。要するに、バンコク600万人口内部での限定された競争だと思うからである(しかもそのなかには最初から大学には行けない階層が相当部分ある)。1億2千万人口が一様に、一校めざして「比較的」平等に争う日本のほうが能力評価が厳密なはずだ(ということにしておく)。後進国(あ、中進国ね)のエリートが優秀そうに見えるのは、マナーや気概など、その出身階層の高さからくる洗練された振る舞いによるところが少なくないだろう。日本だって戦前の限られた階層で受験競争が展開されていた時期の大学生はどこか優雅で、その分できそうに見えた。平等主義的選別のもとでは受験は技術と化すし、ハングリースポーツと似た競争が展開されるから、より能力的選別は徹底するが、オーラというか、できそうに見えるという要素が低下する。でも実際はやはり比較的平等な競争が徹底している日本のエリ-ト校の大学生が、純粋に潜在的能力だけ見た場合にははるかに上なのではないか。ただ純粋に潜在的能力を判定できないだけである。また、それをうまく社会が評価してやらないだけである、と思う。たとえばオタクなどという呼称も場合によっては高い潜在能力の発展を阻害したろう。オタク的要素のない専門家はいないわけで。
  以上、学歴は煙幕であるという問題発言でした。学歴が保証する近代的社会上昇のルートがかなり細い糸である場合、いかなる形で有意な人材の登用をはかるのだろうか。登用はいいからと既存の階層を維持しようとする限りは、また突発的な赤服騒動が起こる。タイはしたがって今後も問題含みな政治的地雷原をかかえて進むことになるんだろうなああ。
  なんかふさわしい写真があるか、、、。役人の食べるものと庶民の食べるものはそう変わらない。エアコンがあるかどうかだけだが、そこがタイ人にはポイントかも。そして、母親とバスを待っていた兄弟。私も一緒に待っていたわけだが。一緒のバス52番だった。