panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

ゼルキンを評価する夜


  昨日の論文をようやく仕上げた。ほぼ。また明日校正することにしよう。
  へとへとになって夜、車で帰る。聴くものがないので、いつもケースに入れずにほっておいたルドルフ・ゼルキンのモツ君ピアノ・コンツェルトをかけてみる。どうなってもいいかと思っていたCD。
  アファナシエフ同様、最近はどうかしているのか。大変感動してしまった。ゼルキンゼルキンの義父はブッシュである。アメリカ元大統領ではない。ブッシュ・トリオのブッシュという大演奏家である。アメリカの。・・・そういう人間関係じゃないかと思っていたのだが、アバドの指揮で聴くモツ君。何度も聴いて放棄したこの演奏がいやに身に沁みる。
  我輩は衰えたのだろうか。アファナシエフといい。今日も論文の推考中、ずっと平均律を聴き続けた。どうしたのだろうか。これまで教養程度にしか聴いてこなかったものに、これこほど心奪われるとは。
  それほどこの論文が嫌なのだろうか。昔の未熟な自分を思いだすからか。我輩は今では大変成熟している。のみならずこの年にしては見事に成熟しない、というくらいの成熟ぶりである。ふふふ。同級生と会うとぞれは父かと思うほど、未成熟なのである。しかしそれが成熟なのではないか。『青春とは何だ』、ほほほ、『これが青春だ』。みたいな馬鹿なことをいえるほど、成熟しているわけだ。
  ふふふ。逆説は忘れたころにやってくる?
  ということで、ゼルキンすらよく聴こえる今日の疲労なのであった。・・・家庭は無人で、思いっきり、モツ君の不協和音(弦楽四重奏)を響かせる夜10時。・・・日本のビールはどれも、とびっきり、ままままままままままままままままままままままままままずい。それに家には焼き鳥はない。ビールには焼き鳥ではないか。という風流な週末。皆さんご機嫌よう。