『もののけ姫』に学ぶ異文化共生

もののけ姫』の自然と人間の描写から、共生について何を考えますか?



この図は、自他関係についてのものです。灰色で縁取った丸や四角が個人や、たとえば国家や宗教の枠です(日本/米国/英国やキリスト教/仏教/イスラム教など)。
語る主体自身や、彼の属する集団を「自分」といい、おなじレイヤー(個人/国家/宗教など)にある自分以外のものを「他者」と呼ぶことにします。すると、自分が他者と共生する場合、コミュニケーションスペースを使うことになります。
個人の例がもっともわかりやすいですね。だれかといっしょに過ごす場面を思い浮かべてください。そのひととうまくやっていくためには、彼/彼女の入ってきてほしくないところ(パーソナルスペース)に立ち入らないように気をつけるはずです。自分も、彼/彼女にはパーソナルスペースには立ち入ってほしくないと感じます。
これは、個人以外のレイヤーにおいても当てはまるはずです。ある「自分」がある「他者」にたいして自分本位な正義を押しつけると戦争が起こってしまうように、国家や宗教といったレイヤーにおける主体においてもパーソナルスペースは存在します。
異なる主体が共生するためには、互いにパーソナルスペースを侵さないように適切なコミュニケーションをしなければならないんですね。


もののけ姫』の終幕で、サンとアシタカは共生の道をさがすことになります。そこでサンは、「アシタカは好きだ。でも、人間を許すことはできない」と言います。そしてふたりが得た結論は、「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう」でした。アシタカは、「会いに行くよ、ヤックルに乗って」とつづけます。
これが、サンとアシタカの見つけた、自然と人間との共生の道でした。つまり、無理におなじ場所に住む(価値観を共有する)ことなく、互いの住みやすいところ(パーソナルスペース)に住み、ときどき森で会う(互いを侵害しない、適切なコミュニケーション)ことです。
さらに物語では一歩すすんで、「最終的に人間は何に寄って生きていくか」について提示して終わりを迎えますが、ここでは触れるのはやめておきましょう。
このように『もののけ姫』が示しているのは、自然と人間は適切な距離をとりながら共生すべきであるという主張です。これはある意味で、言い古された「自然と人間の共存」を否定する非常にきびしい主張でもあります。


もののけ姫』から、共生のあるべき姿について学ぶことができます。けれど、共生はそんなに簡単には実現できません。
まず、この世の中には共生しなければいけない主体(言い換えれば、レイヤーの種類)は数え切れないほどあるからです。国家や宗教のほかにも、人種や階級、性別など、ある人々をひとまとめにして他を排除する概念はいくらでもあります。これは、共生とはおよそ反対のベクトルとしてアイデンティティの確立があり、それも個にとって不可欠なものだからかもしれません。そして、個に回収しきれないアイデンティティは、中間集団というクッションを使って個に内在化されます。
こう考えると、個は個としては生きられないために共生を要求するいっぽうで、共生とは逆ベクトルのアイデンティティへの志向性をもった、自己矛盾的な存在といえるかもしれませんね。


話をもどしましょう。さらに共生を阻害するのは、他者への無理解です。他者を理解しないことにはそのパーソナルスペースをつかむことはできず、共生はむずかしい。けれど、近づくことなしに他者を理解することはありません。ここにおける葛藤の結果、ときに他者との間に闘争が生じてしまいます。
けれど、もう一度『もののけ姫』に立ち返れば、サンとアシタカも共生のまえに闘争と葛藤をつづけました。ふたりはそれらから学び、互いのパーソナルスペースを汲み取って共生を可能にしたのです。
ぼくたちも他者との闘争と葛藤から、もっと多くを学ばなければならないのかもしれません。


世界の歴史は戦争の歴史といわれるほど、人類は戦争をくりかえしてきました。
人類は共生への道を、すこしでもすすんでいるのでしょうか?