書評ですね。

最近読んでいる本がこれ↓。前に読んだ何かの本に、戦略論の基礎のような位置づけで紹介されていたので、いつかは読んで見たいと思っていた。著者のフォン・クラウゼウィッツは普仏戦争プロイセンが勝利したときの参謀長だったそうで、戦略の重要性を説いたそうです。将来経営系に関わる人は読んだ方が良いかも。

戦争論〈上〉 (中公文庫)

戦争論〈上〉 (中公文庫)

戦争論〈下〉 (中公文庫―BIBLIO20世紀)

戦争論〈下〉 (中公文庫―BIBLIO20世紀)

2週間ほど前、突然授業が予告なしに休講になり、塾講師まで時間があったので、ふと本キャンの生協に立ち寄ってみた。(目星をつけてる本があったら欲しいなーまさか『戦争論』があったりしてねぇ)と暇つぶしだったのだが、それが・・・



キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!



まさかまさか。見つけられるとは、お金ないけどこれは神の思し召しに違いないと思うことにして、上下そろえて買いました。一冊あたり約1300円とかなり高額だけど、そんなのは迷う要素になりえなかった。

でも・・・難しすぎる。。。頑張っても理解するためには1時間で30ページほどしか進まない。しかも上下あわせて1000ページを超える量。。。如何に役に立つとてこれは大変だ。流星ワゴンとか東京タワーとかも読みたいけれど、それもしばらくお預けです。何とかGW中に上巻を読み終えて、5月中に下巻を終えたいと思います。頑張るかぁ。

精神の負担となるか。

日記をやめると言ったのが、確か2週間前くらい。やめると言ってから次を書いたのが、1週間後。そしてそれ以来は、やめる以前に増して更新している有様。でも別に気にすることじゃない。1週間日記を辞めてみて、何故こんなに書くようになったのか(と言ってもずっと前に比べると少ないけど)がよくわかった。

何の事はない、簡単なことだ。人は強制されたことは好きじゃない。例え好きなものでも、強制されれば好きではなくなる。結局その状態に陥っていただけだった。それだけだ。

確かに、日記を書くことは誰にも強制されたことではないし。仕事でもないのだから自由に好きなだけ書けば良いし、書かなくても良い。だが、この状況下、完全に自由な意思で日記を書けている人がいるだろうか。

「そろそろブログがつらくなってきた」ということは、何度か聞く。これこそが自由に日記を付けられていない証拠だと思う。そしてその自由を奪っているのは、まさに自分自身だ。

はじめは面白くてはじめた日記だった。大抵誰でもはじめは面白いと感じるものだ。文章を気軽に書き、他の人のこともわかる。携帯が発達しているといって、ここまで自他のことを情報共有できるシステムは今までなかった。(少なくとも自分の周りでは)最近になってSNSが爆発的な勢いで成長しているが、情報共有という点においてブログのほうが一歩先を行っていた。だから多くの人が始めたのだと思う。

だが、ブログの欠点は、まさにその点にこそあるとも思う。自分を含めて、ブログにはカウンター機能をつけている人が多い。中心で「カウンター数なんてどうでもいいよ」と思いながらも、心の端っこで他の人が自分の文章を読んでいるということに誇りに似た感情を抱いているのが理由だと思う。そしてコメントがあると嬉しいと感じるものだ。つまり、このブログの機能は、単なる情報共有ではなく、コミュニケーション手段である。

コミュニケーション手段であるがゆえに、下手は出来ない。自分のためにやっているとは言え、完全に自分の支配下にあるわけではない。読んでいる誰かを気遣わなくてはならないし、書くときに虚勢を張ることもあるだろう。ここには正直な気持ちを出すのは少々難しい。時には自分を騙すこともありえると思う。嘘を書くとまではいかないまでも、思った子ことを正直には言えず、心うちに貯めてしまうなどのことだ。

さらに、それに関わる大きな障害として、期待と返答がある。「誰か更新していないかな〜」という他者としての期待と、恐らく意識の上には出てこないのだが、それに応えようとする気持ちがある。あるいは自分自身で「今日もちゃんとブログを書くぞ」という期待をかけ、その期待に応えようとする。大抵の場合は後者がメインだろう。

始めのうちはその期待と返答の関係も意識できるが、時間が経つにつれてその意識はなくなっていくと思う。つまり、期待に応えようとする「意思」から、期待に応えなくてはならないという「義務」へと変化するのではないか。

表向きは、思ったことやあったことを自由自在に書ける自由のノートであるブログが、実はそうではないことに気付き、さらに時間の経過と共に、書く原動力が「書きたい」という意思の力から「書かなくては」という強迫観念へと移っていく。この二つの理由が、精神的にブログが負担になってしまう原因だと思う。前者は人間関係の中にある以上は止むを得ないが、後者が特に大きな理由となりうるだろう。

もちろん、大学やバイトで忙しいなどの身体的な理由もあるだろうが、その場合は精神的理由とは異なった位置付けになるだろう。忙しくて書けない中にありながらも書くということは、まだ自由意志によって書いている証拠であり、少なくとも二つ目の精神的理由には当てはまらない。だからその場合は精神的理由よりも状況は楽観的になる。

やめたのに、今のほうが更新しているという理由はここにある。結局、「意思」が「義務」へと変化し、再び「意思」へと戻ったということだ。自分で自分に書くことに対する期待をかけることなく、自由意志で書ける。これが大きい。人間は「失ってからそのものの重要さに気付く」とよく言うが、いったん失い、それを再び手に入れて、意思の大切さというものがよくわかったと思う。