甲子園司会とオリンピック

お久しぶりです。気が付けばこんなに間が。
帰省しております。パソコンが遠のいて、定期的な更新がちょっと難しくなってしまいました。
mixiには気軽に書いていたので、また時間があるときにそちらを追加していきます。
よろしくお願いします。


あと、折角久しぶりに書いたのに、読みにくいお堅い内容になってしまって申し訳ありません。


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昨日、遊びに来ていた友人も一緒に、甲子園の決勝戦・閉会式を見ていました。
司会の一人が放送部の後輩だったのです。


放送時間に比べ、彼がアナウンスを行った時間はとても短く、一瞬とも言えるくらいでした。
太陽が照りつけるなかで、長い間待って待って、ようやくの出番だったのだろうな、とも思います。
でも彼はしっかりと前を向き、はっきりと力強く、読みをしていました。
素晴らしいなと感じ、心が震えました。


だけど、彼がその時その場所で読みをしているということは、テレビや会場で見聞きしている人にとっては、「よく知らんけど誰かが読んでる」程度でしかないかもしれません。
恐らく99%以上の人は、読んでいるのが誰なのか、ということについては関心を示すことは殆どないでしょう(何か縁でもない限り)。


しかし、同じ部活の仲間たちや、OB、それに他校の放送部員たちは、その「甲子園で司会をする」ことがどれほど大変で、また名誉な事かを知っています。
それは作家になることが本当はプロ野球選手になるのと同じくらい淘汰があるように、一般にはよく見えない部分でとてもとても険しい道のりがあるのです。
つまり、必ず(結果という形では)報われることは保証されていない世界。
甲子園では負けた選手たちが涙を流す姿を映しますが、甲子園の司会が決まる放送部の県大会でも、多くの出場生徒が涙を流すことになるのです。
そこに違いはありません。


今日、少しですがオリンピックを見ました。
トランポリン競技です。
トランポリンに上がった選手がウォーミングアップとして軽く跳んでいく。段階を追うようにその跳躍高度を上げていき、会場が息を呑んでさぁ今かとハラハラしていると、一気にクルクルと華麗に舞いはじめる。
でも、演技は一瞬です。
あっという間に終わります。
素人の自分には、どうやらここがポイントらしいトランポリンの真ん中に記されたマークにも注目しながら、「上手く周りを跳んでいる」「あ、離れすぎた!」などとしょうもないリアクションをすることしかできません。
そうこうしている間に、終わってしまうトランポリン。
だけど、その瞬間を生み出すために、選手は計り知れない努力を忍耐強く積み重ねてきているのです。
自分には、それが理解できないだけ。


同じだなぁ、と思いました。
何も知らない第三者には、特に大きく引っ掛かることもないままに流れていってしまう、じつに僅かな時間。
当事者にとっては、きっとそれからの人生の中でもすぐに取り出せるであろう、短いかもしれないけれど、人生と長く付き合っていくその時間。
そういう“時差”が、世界中、日常のあらゆるときに生まれている。
甲子園の司会も、オリンピックのトランポリンも、規模が違うだけで、本質的には同じ構造なのではないでしょうか。


人を見つめる、ということは、そういう“時差”を見逃さないことなのかもしれませんね。
「飲水思源」という言葉があります。
字面どおりに読めば、「水を飲むときに、その源(水源)を思え」ということです。
これを上の文脈に合わせて解釈すると、「人を見るときに、その裏にある努力を思え」となりますね。
色々とないがしろにされていることだし、いざやってみようとしても、なかなか難しいことです。
何故なら、体験だけは模倣することが出来ないから。
同情でもなく、ひたすらに相手の道のりを見つめようとすることは、とても大切なことだけれど、貫くには苦労します。
でも、人の輝き、上での「司会」や「トランポリン」のようなものは、その見えづらい道のりに裏打ちされていることは間違いなく、やはり人間を理解しようと思えば、そこを見過ごすことは出来ないと思ったのです。


とある同じOBが、甲子園で読みをする後輩の姿を「綺麗」と表現しました。
とても素直で、気持ちのいい受け取り方だと感じました。
そう、その「綺麗」ということを、どれだけ屈託なく口に出来るか。
本当に大切なことひとつ、そういうことではないかと思いました。


後輩、あんた光ってたよ。