「自虐の詩」2巻完結

こんなにつらく、胃が痛くなるマンガは初めてだった。
私の好きなブログで紹介されていたんだけども、本当につらかった。
おそらくギャグの四コマとしてはじまったのだろうけど、それが面白くないのだ。
まるで笑えない。構図としては[不幸な状況][だけど……][それでも……][やっぱり不幸な状況]という四コマ構成で前半部分は続くんだけれども、他人の不幸を笑えるほど私は強くない。
フィクションとして受け止めてしまえばいいのだろうけれども、キャラクターを人間として、その存在に意味を感じてしまう読み方をしてしまうと、もう救いようがなくなる。
物語は進むにしたがいストーリーマンガの様相を呈する。
幸せ不幸せは、相対的なものでしかなく、どんな不幸でも幸せとなりうる。
現在が肯定できるならば、今までの経験はすべて肯定できるものになる。
ということが示唆されているような気がするのだが、それは机上の話だと思う。
絶対的な幸福感、なんてものはないのかも知れない。けれど、自分の定規というのは確実に存在するのだ。
主人公は、最終的に自分を肯定する。だから、私たちは救われたような気になる。しかし、それは切り取られた他人の人生としてしか見ていないからだ。
『他人』なんて存在はどこにもいない。誰もが自分であり、一人の感性を備えた人間だ。
私は、主人公の人生を肯定しない。それは、私が私自身を肯定していないからかもしれない。

「夏子の酒」12巻完結

究極の日本酒造りを目指し、天才的な感性を持つ女性と、その周りの人間模様を描いたマンガ。
農家問題、農薬、醸造などの問題を現実に提起していく、しかし、その問題が一つずつクリアされていくたびに、マンガ的なカタルシスを感じさせる。
そのあたりの事情は、マンガであるから若干ご都合主義ではあるかもしれないけれども、それでも、その問題に対して一つの例として答えを出してゆく。
問題は、この日本という国において、全般的に起きていることが描かれる。その中で、主人公が立ち向かうのは、いわゆる自分の町という単位でしかない。
しかし、それでいいのだと思う。
私たちは、世界中に飢えている人間が死んでいることを知っている。
所詮、私たちは大きな問題に対して無力だ。
だけど、なにもしないよりはいい。
世界が救えないからといって、自分の半径1mも放棄する必要はないのだ。
マンガの中の主人公は、マンガ的に描かれているので無力ではない。それでも、かなわない。
だからといって、私たちが、世界に対してかなわないわけではないのだから。

「西洋骨董洋菓子店」4巻完結

癖のあるキャラクターたちがケーキ屋という舞台でストーリーを進めていく。
そこには、リアリティは描かれない。
『天才』というラベルが貼られたキャラクター、細かい営業上の金銭的問題も描かれず、キャラクターたちは休日もなく働き、ストーリーが進展する。
しかし、このリアリティのなさは、ひょっとしたら作為的なものなのではないかと感じたりする。
とりあげられるストーリーの核となるものが、幼児誘拐というもので、そのトラウマを皮切りに、あらゆる人間たちの精神的歪みがつみかさなり物語が形成される。
実際にリアリティをもって描かれたら、これはとてもつらくなるのではないだろうか。
あえてそれをせずに、綺麗な上澄みの要素だけを救い上げて描かれる物語。
それはまるで、力仕事であり、体育会系のノリである製菓というものの部分を描かずに、皿の上に綺麗にデコレーションされたケーキを見せられているようだ。
読者は、製菓の現場など味わわなくてもよい、ただ、皿の上にある甘く美しい至福だけを味わえばいいのだ。
そういうような意図が組んで取れるような気がする。
一つだけ、リアルに解説がされてある部分、それはケーキの説明に当てられる部分、それはまるで白いケーキの上にのったミントの緑のように彩を与える。

「エマ」8巻完結

メガネで無口なメイドが主人公という、どう説明しても誤解されそうな内容のマンガなのだけれども。
これが、とてもよい。読者に媚びることなく、丁寧に世界観や人物描写、時代背景などを描いているために、不必要な(おそらく一部の人間にとってはもっとも必要である)邪念のようなものがないのだ。
それは作者の作品やキャラクターに対する愛情を感じさせる。
物語自体は、とりたてて珍しいといわれるものではない、しかし、その描写によって引き込まれ、いつしか自分が物語の中に入り込んでいることに気づかされる。
こういう、執拗なまでに丁寧な愛情というのは、おそらく日本人が一番なのではないかと思われる。
書きそびれたが、19世紀のイギリスを舞台に話は展開する。
しかし、イギリス人は、これほどまで美しくイギリスの世界を切り取ることはできないだろう。日本の、それもマンガであるということに、これは意味があるのだと思う。
物語が、大団円を迎えるにあたり、私たちは、ほっと息をつくと同時に、この世界から離別しなくてはならないというなんとも寂しい気持ちを迎える。
キャラクターに感情移入するのではなく、その世界に、もう一人の自分の存在感を感じられる。そんな素晴らしい作品。

「大使閣下の料理人」25巻完結

料理漫画というのは、ミステリーの要素で構成されているように思える。
まず、テーマとなる謎(例えば、ある食材を使わずに料理をする、とか食わず嫌いを治すであるとか)が提示され、それに対して主人公や周りのキャストが悩む、そして意外なところから現れるヒントというものが読者に与えられ、最後に謎を解くように結果としての料理が出される。
おそらく例外はあるだろうが、構成としてはとても似ている。
そして、それに付け合わされるものは、いわゆる浪花節的ないい話の人情物語であったりする。この料理と人情というのは、トリュフとジャガイモくらい相性がいい。
結果、料理漫画は、ある種のテンプレートというべきものにのっとって描かれることになる。
そのまま描かれれば凡百の心を打たないマンガになってしまうが、ここに隠し味としてプラスアルファをいれることにより、料理(マンガ)の質がピシッと決まる。
このマンガに関しては、政治、外交、国際問題などの少しだけアダルティなテーマとなっている。
しかし、これが噛み砕いて説明されているので、難しく頭をひねることなく、おいしい料理を食べるようにすんなりと飲み込める。
出てくる料理は、高級なものが比較的多く、レシピマンガとしては、それほど役にはたたないかもしれないけれども、それでも、読後感はなかなか味わい深い。
まぁ、この手の定番として、ご都合主義ではあるものの、その辺も特に嫌味にならない程度に描かれているあたりに作者の才能が伺われる。

「笑う大天使」2巻完結

川原泉の作品は、よく哲学的であるとか、その豊富な知識量などを引き合いに出されるが、それよりもなによりも、エンターテインメントとしてしっかりと面白いことが重要だと思う。
まず、面白い、読んでいて心地よい、それを満たして上での付加価値なわけだから、よりありがたく感じられる。ただ哲学的なものを読みたければ難しい哲学書を読んでればいいのだ。
飽きのこないストーリーの展開、嫌味のないさりげないフィクション、登場人物の魅力、めりはりのあるギャグ。
そのどれをとっても一級品であるとうならざるをえない。
少女漫画は、ある一時期(通称24年組と呼ばれる)から色々と変化してきた。
それまで、可愛い主人公がかっこいい男に恋をして、すったもんだでハッピーエンドというものが少女漫画だったわけだけど、萩尾望都大島弓子らの手により、物語としてしっかりしたもの、人物の内面に迫ったものなど、深みが出た。
そして、おそらくその辺りのマンガを読んで育ったであろう川原泉の導き出した回答が、ここに現れているのだと思う。
色々な解釈ができて、様々な美辞麗句で誉めたてることができるが、単純に面白いマンガである。と人に薦められることほどありがたいことはない。

「家族のそれから」1巻完結

おおきく振りかぶって』でブレイクしているひぐちアサの初期の作品。
結婚したらすぐに女房が死んでしまって残された子供との生活をするおっさん、とホモの話の二本立てという、ちょっと聞くと重そうな感じがするが、そのあたりをサラっと描くのはさすが。
おそらく、描きたいのは、思考は環境に起因する。ということと、だけど思考は環境がすべてではない。ということなのかもしれない。
相手に感情をぶつけたいけれども、さまざまな因子が絡み付いてそれすらもままならないという崖っぷちの人間を描かせたら本当に上手。
落ち込んだ時に読むと、なんか釈然としないままに「それでも生きるか」という希望だかなんだかわからないものを感じれる良い漫画。
不幸なのは環境ではなくて、自分の気持ちだということを啓蒙的ではなく、柔らかく伝えてくれる。