2010-02-07
過剰
もはや旧聞に属する話ではあるが、書きかけたままになっていたのでとりあへず纏めてみる。
大島優子の職業モラルに感化されて良くなったと思える連中も前田や戸島をはじめとして一人ならずいる訳で、大島の存在を全否定するわけで無いが、野放しにされすぎているが故の遣り過ぎ感はどうしてもある。
かつての大島の美点は、全体の中での調和は乱さず、細部を突き詰めていくことによって自分なりの色を出していた事に有ったと思うのだけれど、私が見たチームK公演での大島は、もはや全体としての調和など顧慮されていないようにすら見えたし、遣り過ぎることによって動きの根底に有る灰汁が表面に出てきてしまい、そのくどさも鼻に付いた。
左へ大きく動く振り付けが有るとする。
元の振り付けは立った状態からそのまま左へ動くのだけれど、ここで大島は一旦右に動いてから、反動を付けて左へ大きく動く。
少しであれば目立たないが、反動を付ける分動き出しのタイミングが早くなり、更に左へも右へも首も身体も傾けつつ派手に動くので、一人だけ浮き上がった異質な動きに見えるし、勢い込んで動く分姿勢も悪くなる。
これは大島一人の責任ではなく、公演の数そのものが減り且つ個々の仕事が増えて来た為に揃えるための時間も機会も少なくなり、勢い振り付けや歌詞の自己流解釈が進んでしまう、AKB48の抱える構造的な問題が根本に有る。
かつては終演後のカフェの片隅で、アンケートにその日の公演の感想を書いて行く人の姿を一人ならず見かけたものだが、終演が当たり前のように九時を廻る昨今、あの人たちはどうしているのだろうか。
2010-01-17
ウルトラバロック
大島優子は出られる公演が限られていることも有ってか、偶に出たからといって三味弾いたようなところは見せないが、単位時間内に出来ることを根こそぎ盛り込んでくるので最終的に帳尻は合わせるにしても動き始めと動き終わりのタイミングが微妙に狂う。
元々が盛り込む芸なのだけれど、最近はそれが過ぎて全体から遊離している。
遊離しているように見えるのは、上手いから目立つのではなく、盛り込みすぎたウルトラバロックな動きが周りと調和していない事に起因する。
単体で見るとなるほど凄いのだけれど、全体の中のパーツの一つとして見ると調和を乱す異物にしか見えない。
(思えばここ一年ばかりの間に私が見たチームK公演は大島抜きであることが多かった。 以前のように何度と無く観ていれば、徐々に変わっていく様を楽しめたのかもしれない。)
小人数のユニットになると、それはより顕著に。
大島が思い切り動けば、残りの三人も引きずられるように自分の出来るだけの事を盛り込んでくる。
手を抜かないのはチームKらしくあるが、動きの始まりと終わりのタイミングも動きの質も異なるので実にちぐはぐ。
250km/h で走れる車の 100km/h と 120km/h しか出せない車の 100km/h では、同じ 100km/h でも 100km/h が違う。 そのスピードが意地の張り合いで上がって行けば、その分周りを見る余裕も周りと合わせる余裕も無くなって行く。
個々の動きとしては最高かもしれないが、四人並んだ見世物としては最低だと思う理由はそこにある。
確実で綺麗な動きの松原は浮き上がってしまい、復帰以来力みが取れて軽やかで涼やかな動きに成っていた梅田も元の妙に力の入った重くて熱くて暑い動きに戻ってしまった。
既に大昔の話になるが、ひまわり1stの頃に大島が攻めの日と守りの日が有ると言う話をして(あるいは書いて)いたことがあった。
曰く小嶋とか中西とか、古株の動ける連中と演る日は「攻め」、不慣れな研究生と演る日は「守り」。
それを敷衍して考えると、あれはより気心の知れた仲間と演っているからこその逸脱なのかもしれない。
力量に関しては信用出来る気心の知れた仲間となら全力で演れる(演りたい)ってのも判らないではないが、あれは客前でやる見世物では無い。
その辺りの「履き違えた感じ」が観ていて不快。 不快と言うか、気味が悪い。
書き始めてから「書けば書くほど損だよなぁ」と気が付いたのだけれど、もう遅い。
上手くオチを付けてお茶を濁してうやむやにしようかとも思ったが、とりあへずそのまま最後まで書いてみた。
書いては見たが上手くまとまらない。
上手くはまとまらないが、これ以上書いても不愉快なだけなのでとりあへずこれでお仕舞い。
2010-01-11
2009年を振り返る
昨年はAKB48を観始めてから劇場公演を碌に観ない初めての年となった。
出先で書いているので、何を何回観たか判然としないのだけれど、観ていない月の方が多い。
AKB48本体で良い意味で一番印象に残ったのは研究生公演。 拙いなりに手抜き無しなのが懐かしかった。
動きの良さで印象に残ったのは岩佐美咲。 この時に観たわけではなかったが、昨年観た研究生の中で最も印象に残ったのは 三木にこる。
AKB48本体で悪い意味で一番印象に残ったのは、カフェ(・・・とはもう言わないのか)でモニター越しに観たチームK公演。
秋元が例の思いつきで書いた台本通りだったのかも知れないが、その後の公演がしっちゃかめっちゃかになるような怪談仕立ての小芝居を頭に演ったのには(そしてそれを嬉々として演る大島優子には)呆れた。
看板倒れになりつつあっても「一回々々の公演を大事にする」と言い張るのがAKB48の美点だと思っていただけに実に残念な出来事であったし、公演としての質を高く保つ為に過度の自己顕示や遣り過ぎを咎めて来た夏まゆみの、既に本人の手が入っていないにしても、その精神の影もかたちもそこに無かったのは悲しかった。
過度の自己顕示と遣り過ぎの最たるものがユニット曲のあたまに演る「エンドロール」。 「ダンスバトル」と評する向きもあるようだが、動きがてんでばらばらで調和もへったくれも無く、これを可とし是とする運営にも客にも大いに幻滅した。
・・・と観てすぐは思ったのだけれど、東京タワーで梅田が置かれた状況を見て考えが変わった。
客をおいてけ堀にして舞台の上で得手勝手な事をしている不快感、それを目の当たりにしつつ楽しそうな客に対する不快感。 それは舞台上でなされていることに関心が無く、そこに自分の好きな「何々ちゃん」が存在している事に、そしてその「何々ちゃん」が自分の存在を認識してくれる事にのみ関心がある客が大勢を占めた現在において、公演の質を云々する事が無意味である事を示していたのであった。
顔見世公演は揃った顔ぶれに意味が有るのであって、その質を腐すのは野暮である。
AKB48のチームKは今も存在しているし、これからも存在するだろう。
しかし私の好きだったチームKはもう現実世界には存在しない。 存在しないというか、死んだ。
劇場で観た中で一番はSKE48の特別公演。 全公演メールで申し込んだが、当たったのは一回こっきり。 それでも観られただけ幸せであった。高井つき奈も辞める前で、「手をつなぎながら」公演としては一番良い時期だったように思う。
やる気が公演の質に直結した幸せな時間。
誰が誰やら完全に判別できない状態で見ていても楽しい。 チームAがまだチームAですらなかったあの頃を思い起こされた。
身の回りの古株連中が軒並み転ぶ中で私が名古屋詣でをしないのは、そこまでする時間的金銭的ゆとりが無い事に尽きる。
それさえあれば移住しても良いくらいの、腐すところの殆ど無い公演。
あれを観られたのは幸甚であった。
taka.m
こちらでは初めてコメントさせて頂きます。
私は去年も劇場はPerfumeの代々木第一体育館ライヴ前に観た5月9日のK公演(休演多数)の1回だけだったのですが、常連が排他的な雰囲気を出してるのが若干薄まった感はあったのですが若い、いわゆるピンチケが幅を利かしてるなと言う空気は感じました。
あと、斜め後ろが片山推しだったらしくやたらとうるさかったのを覚えてます。
やはり、「推しメン至上主義」と言う雰囲気が強まったなぁと感じる1年でした。推しが居なかったらどうでも良いと言う考え方は正直馴染まない。そんなことで良いのかと自問自答してしまいます。
今年は、AKB48・SKE48のファンの人はみんな仲間だと思ってますけどそんな推しメン至上主義者との戦いに明け暮れそうです・・・。
墨田ペトリ堂
東京タワーに行ってご覧になれば判ると思いますが、古株の死に損ないも新参の洟垂れ小僧も精神構造そのものは似たり寄ったりです。
好きなメンバー"だけ"見ているってのはまだ可愛い方で、好きなメンバー"すらだにも”見ていない、何故そこに居るのか理解に苦しむようなのが幅を利かせています。
そういう連中の仲間にはなりたく有りませんし、されたくもありません。
墨田ペトリ堂
まぁ、無理に仲間意識を持つ必要は無いと言うことです。
自分の物差しをしっかり持ち続けていただければ幸いです。
2009-12-11
AKB48原理主義を排す
AKB48ばかり観ていると、芸能を生業として生きていく入り口としてではなく、そこに在籍することに意味があるように思いがちだが、それは間違いであると私は思う。
辞めてから輝きを放つ人も居るし、辞めなければ出来ない事もある。
宇佐美も今でこそ喋る人としての仕事が切れずに来ているが、此処に到るまでは曲折が有った。
折井も芝居の仕事が定期で入りだしたのは、去年の春からだし、星野も今年の秋になって漸く歌いたい歌のみを歌えるようになった。
辞めてから先が人生の本番なのだと、私は思う。
戸島がテレビの画面の中で烏鷺を戦わせるなんて図も、AKB48に在籍していた当時は考えられなかったし、鈴木菜絵にしてもあちこち穴埋めに狩り出されていた頃は作詞作曲をする時間的精神的余裕は無かったのではないだろうか。
人生に於いて禍福は糾える縄であり、一見不幸な出来事のようであっても、長い目で見れば幸せだったりすることはある。
今回の8期9期の切られ方(遡って言えば年初の研究生大量放逐)は、AKB48が育成を放棄せざるを得なくなった、システムとしての破綻を示すものであると私は考える。
そう考えるとこの時期にAKB48から離れられたのは悪いことではないし、下手に縛られて引き時を逸するより、寧ろ幸せかもしれない。
AKB48を踏み台にして何者かになろうとするのではなく、AKB48になることが自己目的化し始めたのは、昨日今日の事ではない。
そうでなかったのはオーディションを受けた段階ではまだAKB48が存在しなかったか、存在してもまだ海とも山ともつかなかった頃に入った連中だけであり、チームB以降は「なりたい存在」としての存在にAKB48はなっていた。
佐藤亜美菜のようにAKB48に入ってから「なりたい自分」を見つけた者も居るが、研究生になった事に満足し、そこで進歩の歩みを止めてしまう者が居たとしたら、それは本人のみならずAKB48の育てる力・感化力の不足、接客に特化した運営が勘違いを助長した事にも原因がある。
話が逸れ過ぎた。
AKB48を出たメンバーの仕事に、もっと注目していただきたい。
そうすれば、AKB48が芸能で身を立てるための取っ掛かりの全てではないことが分かる筈だ。
辞めたからこそ出来る仕事を、彼女らはしている。
地上150mの地獄絵図
人間が人間を、かくも無造作に踏み付けに出来るとは。
梅田彩佳の Club 333 Night View DJ の客筋は、聞きしに勝る酷さであった。
梅田彩佳目当てで来たと思しき客の大半は、梅田がマイクに向かっていても御構い無し、リクエストを書くでもなく、梅田の喋るのを聞くでもなく、古参新規の別無く通路部分を塞いでそこかしこで談笑。
梅田のド真正面で、梅田に背を向けて哄笑してるのなんて図さえ見られた。
折井あゆみの時は、目当てで来ている客こそ少なかったが、折井を踏みつけにするような莫迦は限られていた。 然るに梅田の場合は目当てで来ている連中の大半は梅田そのものにしか用が無く、梅田の仕事の邪魔にしかならないような振る舞いを平気でする莫迦揃い。
私の目の前に立ちはだかられたら退いていただき、横で五月蠅く喋られたら黙っていただき、周囲半径1mでの無作法は可能な限り止めて頂くべく努力したが、先方にまるで罪の意識が無いので暖簾に腕押し糠に釘、その上遍在しているのでどうにもならない。
梅田がDJとして喋る仕事をしているその前でそれを踏みつけにしておいて、終演後にはしれっとしてガッツキ大会。
誕生日のメッセージカードを持っていた連中も居たので、その辺りの相談でもしていたのかもしれないが、こんな輩が主導する生誕イベントなど、何の意味も価値も無い空虚な自己顕示に過ぎない。
梅田彩佳は、これをどう感じているのだろうか。
もはや人格を否定される事に慣れ、麻痺してしまったのだろうか。
狂歌にこんなのがある
傾城の恋は誠の恋ならで 金持って来いがほんの恋なり
AKB48の運営側がメンバーそれぞれの人気を投下される資本によって量的に計っている現況においては、こう言う輩をも「ファン」として遇しなければならない事情もあるやもしれぬが、それにしてもあまりにも梅田に対して礼を失した振る舞いが常態化している。 法に触れるか触れぬかの違いだけで、この連中の精神構造は件の手紙泥棒となんら変わりが無く、捕まらないだけ尚タチが悪い。
あまりの酷さに、久しぶりに現場で泣いた。
K
卒業したメンバーが頑張っているのは私も嬉しいです。
ただ、初期のメンバーはAKBで苦労して、綺麗になって、事務所を決め、芸能活動を続けられています。しかし切られた研究生の多くは都合よく使われたげく、捨てられたようにみえます。最悪の場合は怪我を抱え、さらに今回(8期)の場合は遅刻が多い、振りを覚えない、素行が悪いなどの悪い評判付きです。もはやAKBは、少女が夢を叶える場所ではなく、大人の欲望に潰される場所になりつつあるように思えます。
あと中西さんは大丈夫でしょうか?ブログをみて心配になりました。長文失礼しました。いつも更新楽しみにしています!
通りがかり
私は特に梅田推しというほどではないのですが、仕事ぶりに興味があって11月に東京タワーに行ってみてきましたが、ほぼ同じ感想でしす。終了後にがっついているということは梅田推しなのでしょうが、推しのトークを聴こうとしないのがちょっと理解できませんでしたし、こんな人たちの前で仕事をしなければいけない梅田さんがかわいそうだと思いました。
2009-12-09
村中聡美を惜しむ
先日の「研究生セレクション」なるもので選に漏れて、再び村中聡美がAKB48から去った。
これまでAKB48を辞めたり切られたりした人間は数あれど、一年に二回切られたのは村中が最初で最後(・・・であって欲しい)だろう。
村中は pretty より funny 寄り、可愛いと言うより可愛げがある質で、異性としてより人類愛的な意味合いに於いて愛される存在であったように思う。
童顔ではあるが、既に成人しており、先々の上積みは無いと判断して切ったのかもしれないが、だったら8期で合格させた意味は何処にあったのか、この辺りの雑さ加減が不快だ。
流行っているものにのみ飛び付く、現在のAKB48を支える付和雷同層の顧客には需要が無さそうではあるが、こう言う希少種・突然変異種が居るから束ものアイドルは面白いわけで、何処を切っても似たような顔の金太郎飴的なグループへ舵を切った日として、2009年の12月1日を記憶しておこうと思う。

それで「良し」としてしまったら劇場で公演を打ち続ける意味が無いと思うのですが。