秋の竹

灯明の魂(たま)を包めり秋の竹 ぞうりむし


日本人にとって、竹はなじみ深いものだが、もともとは中国原産のものである。とはいえ、『万葉集』にもその用例が見える(追記参照)ので、これは日本の伝統に確かに深く根差したものだといって差し支えあるまい。
句は、竹に火を灯す人の姿を地にしたものであることは言うまでもないが、さらにいくつか仕掛けがある。竹取物語の冒頭、竹にかぐや姫、つまり魂をもった月人が蔵されていたことは誰もが想起しうるであろう。写真に灯される火は、まるで珠のように輝き、それはかぐや姫によって輝いていたあの竹のようではないか、というのが句の言いたいことだ。
ところで、『竹取物語』において、翁がかぐやの竹を見つける条に季節を表す手掛かりはない。そこで、なぜ「秋の竹」か。実は、歳時記には「竹の秋」という“春”の季語がある。竹は、三月から四月にかけて、地中にタケノコを育てるために黄葉する。それが、秋に色づく草木のような観を呈するので、「竹の秋」という春の季語に採られたということである。竹と言えば、私たちには青々と流れる笹が思い出されるが、竹は春には黄色いのである。
ここまで述べてくれば、明らかだが、句の核心(魂)は、この末尾の「秋の竹」にある。俳句の伝統には「竹の秋」(春)という語があるが、それはどうしても春を表すものとなってしまう。しかし、私は火の灯された竹に、「秋の竹」を発見したと。
芸術上の工夫と言うものは、自身の生の体験をいかにして詩の領域に移すかということでもあるが、同時に、伝統を踏まえつつそれを展開させていくことでもある。伝統をなぞることは工夫とはいえまい。
ちなみに、竹という語はそれだけでは季語になっていない。

ぞうりむし
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写真一口説明
竹明りを灯す人。
テーマパーク内を巡回し、道沿いに点在する竹明りの蝋燭を一つ一つ灯してゆくその姿は、竹明りそのものに負けず劣らずの被写体となった。
ところで、明りを灯す人といえば、星の王子さまに登場する「街灯を灯す人」を私は思い出す。

すきっぱら
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追記
用例は以下の記事を参照のこと(万葉集遊楽より)。
「竹のいろいろ」
「竹の秋」