春暁の白


尾張狂句凩
白々とひとひら落ちて春の明け  ぞうりむし

前回、すきっぱらに差し出された写真には、トンネルと、その向こうに見える光が表現されていた。彼はこれを「苦悩のトンネル」と見立て、私はそこに「春ならぬ春」から「春らしい春」へ繋げるという趣向とした。

梅の香や春遠からぬ風の夜

意図的にか否かはわからぬが、この私の句に取り合わせられたのが、今回の梅の写真である。この写真の含みをあれこそ推測しようとすれば、この花があくまでも「桜ではない」ということの意味を考えさせられることになる。伝統的に、ただ一言「花」といえば桜だが、「春遠からぬ」先に咲いた梅の花は何を意味するのか。それは、人生は単線的なものではないという読み筋に繋がるものがある(無論、これは私の解釈である)。暖かくなってからようやく咲く、春らしい花(すなわち桜)ではなく、寒さの中に咲く花(すなわち梅)。それは、苦悩のトンネルを抜ければ、苦悩のない解放された状態に至るということではなく、苦悩の中であればこそ、花をよく賞玩し得るということを示唆する。
苦しい状態が終われば苦しくない状態が来る、それが過ぎればまた苦しい時期が来る、さらにそれが……。こうした単線的な発想は、苦しみの中で見えるものの意味を、ひいては物事が順調に進んでいる時期に見えるものの意味をも見失わせる危険性を孕んでいる。肝要な点は、寒い時期に咲く花、暖かくなってから萎む花、それぞれの相に見えるはずのものを見失わぬことではあるまいか。そして、そのことの意味をどう考えるかは、各人に委ねられている。
そこで、私もまた苦悩の種を与えられたように思われる。梅の句に梅の写真を接ぐ。ここまではよい。しかし、そこにさらに梅の句を接ぐことは蛇足であろうし、風趣も何もあったものではない。ここは、梅の語を用いずに、梅を詠むべきであろう。工夫のしどころである。
そこで、梅の白がまず目に付いた。「白」と言って私の頭に浮かぶのは、『和漢朗詠集』の「白」の部と、芭蕉俳諧七部集の一つ『冬の日』に収められた、とある句である。それが「尾張狂句凩」の詞書の示唆するものである。それは、歌仙「狂句こがらし」の巻中、次のような流れで現れた杜国の句である。

  冬がれわけてひとり唐苣(とうちさ)  野水
しらしらと砕けしは人の骨か何  杜国
  烏賊はゑびすの国のうらかた  重五

杜国の「しらしらと」の句は、野水の前句にある「ひとり」を見とがめたもので、「『和漢朗詠集』、「白」の詠題の掉尾、「しらしらし白けたるとし月かげに雪かきわけて梅の花折る」を踏まえている(「冬枯れ分けて」→「雪かき分けて」の連想)。そして、表現上は「同じ「しらしら」でも梅花を手折る風流のすさび(和歌)と、白骨を拾う風狂俳諧)とでは違う」という見定めが働いた句だということである(安東次男『風狂始末』)。そこで、「人の骨か何」と、次の相手(重五)に謎をかけている。
写真に付した句は、こうした江戸の連句の運びを受けて、「白々とした梅の花が落ちれば、ようやく待ち侘びた春が来る。私が探していた白は、梅の花(写真、『朗詠集』)でも人の骨(『冬の日』)でもなく、実は春の夜明けの白だ」と答えたものだ。これは、「尾張狂句凩」の詞書が無ければ、「白々とひとひら」とは何か、という問い掛けの俳句になる。

ぞうりむし
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写真一口説明

愛知県幸田町本光寺
3月上旬だというのに、花びらを開いている梅の花はまだまばら。
蕾の多い中で、いち早く開花している先駆者の一輪に、なんだか面白い形をした枝をつけているものがあった。
よくよく枝を見てみると、空に向かって人差し指を突き上げているかのようだ。
寒空続く年にあっても、皆を鼓舞するかのように先駆けて花開いた、この勇気ある一輪を称えるとともに、意味ありげな枝の造形が気に入り、私はじっくりとシャッターを切った。

本光寺紹介ページ:http://www.town.kota.lg.jp/index.cfm/13,2549,87,html

すきっぱら