[議論]「経済」はどこにあるのか

pikarrr2007-03-02

考える名無しさん
「ネットは市場主義的「コンビニエンスな解決」以外のものを生み出せるか」 http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070301は、ゲームを批判してるのか、人生を批判してるのか、資本主義を批判してるのか。人生がつまらない理由と、ゲームとは無関係だ。そこが、なんでオタク批判になってしまったのか。つまらない人生の代表格として、オタクが出るか、サラリーマンが出るか。じゃ、どうすんのか。具体策もない。現代が予測可能だとかいうのは、サラリーマンの方であって、ゲームは無関係。「ゲームのような人生」を送らねばならないからと言って、ゲームに責任はない。機械のような人生を送らねばならないからと言って、機械に責任はないのと同様に。

第三の波平
ボクが言いたいことは、柄谷的な3次元、<資本=国家=ネーション>において、資本が強い現代で、「想像的なもの」としてのネーション(コミュニティ)をネットが補完しているのではないか、そしてそれをいかにうまく機能させることが重要である、ということです。

結果的にネットがこれだけ短期間で発展したのは、資本主義を補完するためでも、それにかわる新たな経済システムとしてでも、あるいは監視社会のためでもなく、地域コミュニティや終身雇用的な会社社会のような前世代のコミュニティ(ネーション)の崩壊を補完するためだったのではないか。だから無償で労働が行われ、繋がりの社会性を求めるような傾向が現れるわけです。

もっといえば、ケータイも含めて、ネットへ「想像的なもの(コミュニティ)」が移動したために、地域コミュニティや終身雇用的な会社のような旧来のコミュニティの解体を早めたといえるかもしれません。それが、ネットこれだけ短期間で発展した大きな理由の一つではないでしょうか。だからもはやネットにおける無償の労働や、繋がりの社会性を求めるような傾向は切り離せません。

考える名無しさん
経済や政治や教育やマスメディアや家族はシステム(固有の領域をもち互いに排他的)だけど、国家やネーションや生活世界やインターネットは幻想や技術であってシステムじゃないよ。道具よりもその使い方や選び方や選んだり、使えたりするようになるまでのプロセスに関わるシステムの方を問題にしたほうがいいような。

第三の波平
それ自体が、資本主義的だと思います。たとえば資本主義が実態化して語る「経済」はどこにあるのか?ということが問題なわけです。ネットを考えるときに経済を実態化すると、「あちら側(資本社会側)」からしか見えなくなります。

考える名無しさん
一般的等価物を価値の尺度とする思い込みが成立して、その思い込みが再生産される限りでは関係として実在するでしょ。意味論の問題であって技術の問題じゃないと思う。

第三の波平
それは経済学であって経済ではないということです。経済は等価交換のみで説明できないし抜き出せない。純粋な古典物理学的世界が存在しないように経済学的世界は存在しません。

考える名無しさん
だから経済はあるいは貨幣は神学的だとマルクス的にいってんじゃないの。

考える名無しさん
贈与が経済じゃないってのはそう思うけど、関係は現実に成立してるじゃない?これは経済が文化を規定するとかそういうことがいいたいんじゃないよ。経済的に可能でも政治的に不可能なことがあるなんてのは自明だし、なにがどんな意味をもつかは関係のあり方によってきまるから、ネットや資本とかってメディアを問題にするより関係性を問題にするべきじゃないのかと思った。

第三の波平
経済学的に経済はこれだ!というものはどこにも存在しない。それはマルクス経済学だろうが同じです。それが柄谷が<資本=国家=ネッション>の(どれも切り離して存在できない)ポロメオの輪で経済下部構造としてのマルクスを批判する点でもあるわけです。

ボクがいいたのは、経済などないということではなく、経済は実体的なシステムで、ネーションは幻想である、ということに対して、経済もまた幻想的で、ネーションもまた実体的である、ということです。これが見えずにネットを語ると、経済学的経済がうまく機能していないネットはいい加減なもので、グーグルがそこに経済原理を導入した救世主というような、最近ウェブ進化論などで流行りの幻想に囚われてしますということです。

あるいは、グローバリズムでは、平等で自由な競争という資本主義の名のもとに実際は略奪まがいなことが行われているわけです。これを、経済学者は、誰かが資本主義を悪用して、完全な自由競争が行われていないことが悪いと、いうわけですが、そもそも市場原理主義的な純粋な資本主義経済は存在しないし、実現しないわけです。ぶっちゃけいえば、それだけではグローバリズムは強者にとってどうとでもできる狩り場になってしまうわけです。それは市場原理主義が学術的に正しい、間違いという「経済学」とは異なる問題ですが、それこそ「経済」の問題です。

考える名無しさん
だけどシステムは自分で自分を生産するのに対して、ネーションはシステムによって(後から)発見されるものでしかないんじゃない?

第三の波平
システム論的にシステムは自分で自分を生産するものとすれば、経済もコミュニティ(ネーション)も同じです。ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論的に、システム(規則)は(後から)発見されるものでしかないというなら、また経済もコミュニティ(ネーション)も同じです。

再度いえば、経済学と経済との違いを考えないといけません。経済は経済学ではありません。経済が複雑性を縮減しシステムとして機能しているからといって、それを経済学的に記述するのは、いつも事後的であり、そして理想状態的です。経済はもっと複雑で、動的で、混沌で、記述(経済学)で組み尽くせないものです。だからこれが経済だ!と示すことはできません。

以上を経済→社会(コミュニティ)、経済学→社会学と、変えて読むとわかりやすいでしょう。社会と社会学の違いは容易に理解できるのに、経済と経済学を同じように考えてします傾向がほんとに強いですね。経済学が社会学に比べて、貨幣という数量化を持っている分、客観的なものと錯覚しやすいのでしょう。

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*1:本内容は2ちゃんねる哲学板東浩紀スレッド73」http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1171980711/l50からの抜粋です。内容は一部修正しています。

*2:画像元 http://www.rmcaj.com/web_page/conference/lessons/011/0605_01.htm