ジダンと憎悪発話

 読書、その他。完全な真夏日。ちょっと外を歩くだけで、汗がしたたり落ちる。台所も暑い。ちょっと煮たり焼いたりするだけで、自分も調理されているような気分。リビングは極楽です。いか大根と野菜炒めを少し。

http://www.sanspo.com/soccer/top/st200607/st2006071401.html

 

  ジダンの退場劇が波紋を広げている。マテラッツィがちょっと挑発しただけとやや神妙な面持ちである(差別的な発言ではないと主張)のに対して、FIFAはジダンの大会MVP剥奪を仄めかし、テレビ・新聞はジダンが退場する発端となったマテラッツィの発言内容をあれこれ推測する。満を持してジダン登場。ドイツ大会の英雄は、頭突きの原因が彼の肉親を侮蔑するような内容であったことを明かし、暴力行為(頭突き)に対しては謝罪するが、その動機に関しては後悔なしの姿勢を貫いた。結局のところ、マテラッツィの発話がジダンの身体的な暴力行為によって換喩的に言葉の暴力である「憎悪発話」(hate speech)として担保されはするものの(ジダンマテラッツィの挑発行為に際して、「顔を殴られた方がましだった」と告白している点にも注意)、その内容が何であったのか、という当初の関心は宙吊りのままで、その中身を知るには読唇術のようなアクロバティックな解釈法に頼らざるを得なくなった。ジダンは今後決して「憎悪発話」の内容を明かすことはないだろう。そして、これからもその秘密の発話は、人種や民族に関する多義的な解釈を引き起こしながら増殖し、然るべき時に終息するのであろう。
 結局のところ、件の事件において重要なのは、ジダンが3度耳にし、その結果頭突きという「白いマットのジャングル」以外ではなかなかお目にかかれない凶行に及んだ当の原因である、「憎悪発話」の内容が、ひいてはその内容を担保するコンテクストが全く明かされない、という点である。実はこの意味内容が全く推測の域をでないところに事件が事件として機能している所以はあるのではないか。ジダンに頭突きの動機をもたらし、頭突きを行わせ、審判にレッドカードを出させた「憎悪発話」の連鎖作用(どのように「憎悪発話」は作用しているのか)が退場劇をもたらした。しかし、その退場劇を事件にし、語り継がせているものは、ジダン引退試合での退場劇というドラマもさることながら、ジダンをそのような行動に走らせた「憎悪発話」の内容(「憎悪発話」は何であるのか)に対する意味の渇望、あるいは意味を確定させるコンテクスト(人種問題や性差別)に対する渇望である。内容がコンテクストによって確定しさえすれば、それが人種差別であれ、性差別であれ、個人的な差別であれ、「憎悪発話」に名前は付けられ、件の事件は何らかの指標を伴った事件へと分類される。しかし、内容がコンテクストを伴わず空虚である限り、ジダンの事件は意味内容を求めて彷徨い続けることになる。であるならば、ジダンのケースで「憎悪発話」が効力を発揮しているのは、逆説的ではあるが、内容がどのコンテクストに依存しているのかが完全に確定されない局面、つまりは内容が本当に「憎悪発話」なのかどうかすら確定されない局面においてであるのかもしれない。そうした局面で「憎悪発話」を担保するものは、コンテクストではなく、「憎悪発話」という形式そのものである。
 「憎悪発話」が拠って立つコンテクスト(Butlerによれば、「憎悪発話」が立ち上げるコンテクスト。それは発話される瞬間に、発話者と被差別者という二者間の非対称な関係をも生み出す。)をJudith Butlerが示したようにズラす場合、その所与の差別的なコンテクストを予め被害者が承認しなければならない。つまりは、被害者が「憎悪発話」の暫定的なコンテクストを認識しなければならない。この場合、加害者/被害者の関係に撹乱をもたらすには、「憎悪発話」を「憎悪発話」として機能させている所与のコンテクストを共有している人々全てに新しい改変されたコンテクストを認めさせなければならない。改変されたコンテクストを「憎悪発話」の発話者やその発話を日常的に反復・強化するその他の発話者が認めるかどうかは、あくまでその人次第であり、撹乱する側にそこまでの能力はない。Butlerは、「憎悪発話」の形式を理論化しているが、いざ撹乱の段になると、コンテクストによって特定せざるを得ない。コンテクストに対する撹乱ではなく、形式そのものに対する撹乱は不可能なのか。
 ジダンのように、「憎悪発話」を「憎悪発話」として承認しつつもそれにあえて名前をつけず沈黙を守るという行為は、「憎悪発話」の具体的なコンテクストを確定させず、「憎悪発話」という抽象的な形式だけを流布させ普遍化する。なんらかのコンテクストを確定させてしまえば、たとえそのコンテクストを撹乱的な発話によって改変したとしても、その新しいコンテクストを他者が受け入れるかどうかという難問を克服するのは難しい。一方で、コンテクストから自由な「憎悪発話」は、そこにあらゆるコンテクストを想定することが可能であるがゆえに、「憎悪発話」のコンテクストではなく、その形式に耳目を集める。Butlerの撹乱が、それぞれの「憎悪発話」と相互依存関係を取り結ぶ特定のコンテクストに対する局所的な対症療法であるのに対して、ジダンのケースは「憎悪発話」という形式そのものを問題化し、人種差別は是か非かという問題系ではなく、憎悪発話は是か非か、はたまたそれに対する暴力の応酬は是か非かという問題系を呼び寄せる可能性を秘めている。もっとも、ジダンの場合、「憎悪発話」は彼自身にではなく第三者に向けられたものであるという点、またジダンの沈黙による形式の流布がジダンの有名人としての地位に依存している点はさらなる考慮が必要かもしれない。さらに、ドイツ大会自体が "Say No to Racism" という標語のもとに行われた大会であり、アラゴネスとアンリのケースやサルの啼き真似のケースも含めて勘案するなら、ジダンのケースも予めサッカーの試合における「人種主義」というコンテクストが用意されていると考えることもできる。しかし、それでも周りはどうであれ、ジダン自身は、コンテクストを明らかにせず、結果的に「憎悪発話」の意味作用のみに注意を向けさせている(「言葉は暴力以上に激しいことがある」/「(しかし)自分の行為を後悔するわけにはいかない。後悔すれば(マテラッツィが)ああいう言葉を口にしたことが、正しかったということを意味してしまう。それはできない。」/「(国際サッカー連盟に)言いたいことは、挑発がなければ、それに反発する(暴力)行為も起こり得ないということ。」)。「憎悪発話」の内容やコンテクストではなく、「憎悪発話」の形式そのものを問題にしていると考えることができるジダンのケースは、マテラッツィが「憎悪発話」ではなかった、と再三主張していることも含めて、意外に「憎悪発話」の形式の問題を考え直す契機をひめているのかもしれない。
 
 [独り言]なんだか、締まりの悪い議論ですんません。なんだか的外れな気もするけど、ちょっと何か言ってみたくなっただけです。思いつきだけで書いてしまったので、いろいろ間違いもあるかもしれません。ご容赦ください。にしても、これまで多大な貢献をしてきた「ジダン」だけに、FIFAも早いところうまい落としどころを見つけて、2人を「示談」させてくれないかなあ。絶望的なくらいつまんないなあ。以下は参考です。


 ジダンvsマテラッツィ、FIFAが20日に2人への聴聞決定
ジダンは頭突き事件を初めて告白。謝罪はしたものの、マテラッツィへの厳罰も訴えた(ロイター)
【パリ13日=国際電話】ドイツW杯決勝でフランス代表MFジネディーヌ・ジダン(34)がイタリア代表DFマルコ・マテラッツィ(32)=インターミラノ=に頭突きを食らわし退場処分を受けた問題で、国際サッカー連盟(FIFA)は13日、両者を20日の聴聞会に召喚すると発表した。ジダンが12日(日本時間13日)に家族について侮辱されたことが原因だったと初めて告白した問題は、解決どころか一気に拡大する様相を呈してきた。
 この期に及んで「言った」「言わない」は言わせない。
 ジダンの頭突き事件から4日たったこの日、両選手に対する規律上の調査を開始したことを明らかにしたFIFAが、何と2人をスイス・チューリヒのFIFA本部に召喚してでも真相を究明すると発表した。W杯閉幕後も世界の耳目を集めている問題が、ついに裁判形式で裁かれることが決定した。
 ジダンは前日12日(日本時間13日)、母国フランスの2つのテレビ局でインタビューに応じた。マテラッツィの具体的な挑発内容については明言を避けながら「一度耳にしたら逃げ出したくなるような言葉だった。私は実際に逃げ出したが、二度、三度と耳にした」と説明した。
 W杯決勝の延長後半の“凶行”の原因が、マテラッツィによる母親と姉への再三の侮辱発言だったことを初めて告白。アルジェリア系移民の子として、貧しかった幼少時代に自身を支えてくれた母・マリカさんをはじめとする家族への侮辱が事実なら、耐えがたいことだったに違いない。
 「もちろんやるべき行為ではない。テレビで20億人、30億人の人たちが(決勝を)見ているわけだし、何百万人もの子供たちに謝罪したい」と語ったジダンだが、頭突きという自身の暴力行為については後悔していないと断言。「私がやった行為は許されない。しかし言いたいことは、本当に責められるべき人間を罰する必要があるということだ」と逆にマテラッツィに対する処分を要求した。
 一方のマテラッツィは13日付の伊紙ガゼッタ・デロ・スポルトで反論。「宗教や政治、人種に関することは一切、口にしていない。私自身も15歳で母親を亡くしており、彼の母親を侮辱してはいない」と主張した。
 これに先立って、FIFAはブラッター会長が12日(日本時間13日)に「あの行為(頭突き)によって私は心を痛めている」とジダンの“凶行”に不快感を示すとともに、ドイツW杯でのMVPにあたる最優秀選手賞『ゴールデンボール賞』のはく奪を示唆。そのためにも、事件の真相究明が不可欠な状態になっていた。
 世界の注目がますます集まっていく中、ついに動いたFIFAは、ジダンに18日までに自身の主張を書面で提出する権利を与えると声明。マテラッツィには反論の機会が与えられたのち、20日に両者が相対する聴聞会を開いて、同日中に結論を出すという。
 ブラジルの王様・ペレがサッカーを「ビューティフル・ゲーム(美しいスポーツ)」と呼んでから30余年−。ピッチ上で起きた事件がついに、裁判形式で裁かれる時代が到来してしまった。


ジダン・発言要旨
 (マテラッツィが)シャツを引っ張るので、私は「ほしいなら試合後に交換してやる」と言ったんだ。そうしたら、彼はとても耐え難い言葉を口にしてそれを何度も繰り返した。言葉は暴力以上に激しいことがある。私の非常に奥深いところに触れる言葉だった。
 (侮辱の中身を言うのは)大変なことだ。母と姉にかかわる極めて個人的な内容だし、非常に激しく、一度耳にしたら逃げ出したくなるような言葉だった。私は実際に逃げ出したが、二度、三度と耳にした。
何よりも、まず自分は男だ。だから立ち向かった。もちろんやるべき行為ではない。テレビで20億人、30億人の人たちが(決勝を)見ているわけだし、何百万もの子供たちが見つめているのだから…。彼らに対して自分は謝罪する。
 (しかし)自分の行為を後悔するわけにはいかない。後悔すれば(マテラッツィが)ああいう言葉を口にしたことが、正しかったということを意味してしまう。それはできない。
 (国際サッカー連盟に)言いたいことは、挑発がなければ、それに反発する(暴力)行為も起こり得ないということ。責められるべきは挑発してくる人間だ。W杯の決勝で、自分の選手生活の終わりまであと10分間しか残っていないという状況で、自分の喜びのために私があんな行為をやったと思いますか?
 私がやった行為は許されない。しかし言いたいことは、本当に責められるべき人間を罰する必要があるということだ。


★引退の決断「変えない」
 ジダンは自身の去就について改めて現役引退する意思を明らかにした。「多くの人が(もう一度プレーする気はないかと)声を掛けてくれるが、(引退は)すでに決めたこと。この決断を変えるつもりはない」と語った。4月下旬にドイツW杯後の現役引退を表明していたが、頭突き事件の影響で正式に現役を退く意思を伝える機会がなかった。現役を続けて汚名返上を求める声も挙がったが、ジダンの考えは変わらず約17年間のプロ生活に終止符を打った。


ジダンは母国でヒーロー?
 12日(日本時間13日)の生放送によるテレビ告白から一夜明けた13日、フランス国民は政治家から一般市民まで一様にジダン支持を表明した。「子供たちに対する謝罪を忘れなかった」と評価したのはラムール・スポーツ相。9日の試合後にはW杯優勝を逃した“戦犯”としてジダンを批判した各紙も、手のひらを返したように擁護に回った。リベレーション紙は「怒りを爆発させることによって、彼は伝説的な選手としてではなく血の通った1人の人間として、自身の選手生活に幕を引いた」と賛辞を贈った。

ジダンの頭突きVTR
 9日にベルリンで行われたW杯決勝のイタリア戦。1−1の延長後半5分、執拗なマークをくり返すDFマテラッツィと口論となり、相手の胸元へ頭突きを一発食らわせると、主審から退場処分を宣告された。W杯後の現役引退を表明していたジダンは開始早々の前半7分に先制PKを決め、自身でラストゲームを演出した形だが、世界は突然の愚行に仰天するしかなかった。試合はそのままPK戦にもつれ込み、イタリアが5−3で24年ぶりの優勝。ジダンは翌10日に大会MVPに選出されたが、暴挙の真相をめぐり世界は依然熱視線を送っている。http://www.sanspo.com/soccer/top/st200607/st2006071401.html


 [追記]もうジダンはいいや、と思っていたのだが、毎日新聞のこの社説を見て、背筋がうすら寒くなったので、吐き出しておく。特に「日本人の感性では理解できない領域なのかもしれない」や最後の一文「さて、1次リーグで敗退したわが日本代表。ピッチ上の「言葉の暴力」の被害にあうまでには、まだまだ時間がかかりそうだが」あたりにかなり著者の法外な感性が覗く。ジダンの一件に関してこの論説委員は、人種主義に言及している。ということは、人種主義の問題は日本人には関係のない問題だ、ということなのか。そして、最後の一文は日本人が人種主義の被害にあい始めたら強くなったという証拠、というふうに解せばいいのだろうか。分からないなら書かずに、他の人に書いてもらえ、と一言厳しく断じておく。以下、引用。引用先は→http://210.158.208.70/eye/shasetsu/news/20060714k0000m070139000c.html

社説:視点=ジダン選手 論説委員・中島章隆
 イタリアの24年ぶり優勝で幕を閉じたサッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会だが、決勝戦でフランスの英雄、ジダン選手がイタリア選手を頭突きで倒し、一発退場となったプレーが波紋を広げている。
 延長戦までもつれたこの試合、ボールの争奪には無縁の場面でジダン選手が突然、イタリアのマテラッツィ選手の胸のあたりに頭突きを食らわせた。サッカー中継の途中に突然、プロレスの1シーンが割り込んだような印象で、世界中が驚かされた。
 今大会限りで引退を表明していたジダン選手。8年前のW杯フランス大会では地元に悲願の初優勝の歓喜をもたらした。多くの栄光と栄誉に輝いてきた名選手が、現役最後の試合で演じた愚かな行為は世界中のサッカーファンを失望させた。
 試合直後は口を閉ざしていたジダン選手だったが12日、フランスの民放テレビの会見で、頭突きの原因について語った。具体的な表現は避けたが「母と姉を傷つける耐え難い言葉をかけられた。彼はそれを2度3度と繰り返し我慢ならなかった」と説明した。
 マテラッツィ選手は「侮辱的な言葉をかけた」ことは認めながらも「人種差別や宗教や政治がらみのことは一切言っていない」と弁明している。
 ジダン選手が怒りを抑えられなかったのはどんな「言葉」だったのか。現時点では分からないし、日本人の感性では理解できない領域なのかもしれない。しかし、ジダン選手が過去の栄光を棒に振るほどの報復に出なければならない言葉がピッチ上を飛び交っているとしたら、サッカーというスポーツの魅力そのものに水を差すことになりかねない。
 ここ数年、欧州のプロリーグではサポーターによる悪質なやじが問題を広げていた。黒人選手をターゲットにサルのまねをして奇声を発するなど度を越した差別応援が社会問題となっている。
 4年後のW杯は、かつて悪名高い人種隔離政策で世界中から批判を集めた南アフリカで開かれる。国際サッカー連盟(FIFA)はドイツ大会までにサッカー界における人種差別問題にけりをつけておきたかったに違いない。準々決勝では試合前、両チームの主将が差別追放の宣言をするなど、FIFAはさまざまな機会をとらえてアピールを続けてきた。
 それにもかかわらず大会の最後の最後に問題は起きてしまった。ジダン選手の頭突きシーンは、ドイツ大会の象徴シーンとして語り継がれるかもしれない。「大成功」と大会を総括したドイツの組織委員会にとっても残念なことに違いない。
 さて、1次リーグで敗退したわが日本代表。ピッチ上の「言葉の暴力」の被害にあうまでには、まだまだ時間がかかりそうだが。

毎日新聞 2006年7月14日 0時14分