命の決定権

個人的な体験 (新潮文庫)

個人的な体験 (新潮文庫)

教育テレビで「もしおなかの子に障がいがあるとわかったら」というような内容のテーマの番組をやっていた。
私も妊娠したときそのことをよく考えた。無事を祈った。
テレビでは、「障害があることより、障害がある人が生きにくい社会であることが心配」というようなことを言っている人がいて、ああそうだなと思った。
高齢者が障害のある子どもを道ずれになんて考えなくてもいいような社会なら、少しは気が楽かもしれない。

妊娠する前は、重大な障害があるとわかったら中絶を選ぶと思っていたけれど、実際妊娠してみたらわからなくなった。障害があろうがなかろうが、自分の子を守りたい気持ちは変わらないから。
子どもが生まれたと母親に電話したとき、心配そうに「ちゃんと指は5本ずつあるの?」と訊かれて、もしなかったら祝福してくれないのかとショックを受けたのを覚えている。「そんなこと確認してないけど、なにも言われてないからあるんじゃない」と苛々して答えた。
誰しも満足な状態で産まれて来てほしいと思うのは当然だけど、満足な状態じゃないから諦めようなんて誰だってなかなか思えないだろう。
五体満足に産んでほしかった、とのちのち本人に恨まれるかもしれないと考えてみても、少なくとも今ここに育っている生命は必死に生きようとしているわけで、それを無視する決定を自ら下すことは身を切るような苦しみだろう。
よく中絶派が「きれいごとはいくらでも言えるけど」なんて言うけれど(テレビでも言ってた)、どっちが辛いか(もしくは楽か)はそう単純にはわからないような気がする。


私の住む自治体では、35歳以上の妊婦には出生前診断(染色体の異常検査)を無料で受けられる用紙が配られる(もちろん無視して捨ててもいい)。逆にいえば、35歳以下の妊婦の出生前診断には、お金を払わなければいけない「わざわざ感」があるわけで、私はそれを理由に「わざわざ」検査は受けなかった*1。ほっとした。

*1:そういえば、皆受けるエコーは出生前診断とはとらえていなかった…胎児の姿を見られて嬉しいとだけ単純に思っていた