第六回「イエス・キリストの贖い(あがない)」 | 罪と死について考える
ここまでは、罪の始まり、罪が全人類に受け継がれていること、さらに多くのことが罪に定められたこと、だれも罪から逃れることはできない、ということを見てきました。
第七回で、折り返し地点を迎えましたが、ここからは、罪と死が取り除かれる希望のお話です。
イエスという方が、一世紀に地上に現れました。この方は、人間として生まれましたが、天から遣わされた神の子でもありました。イエスは、神の王国について宣べ伝え、処刑された後、天に戻りますが、自分が地上にきたことの意味をこのように話しています。
人の子でさえ,仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,かつ自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのです。
(マルコ 10:45)
贖い(あがない)という言葉は、難しい言葉ですが、語源的には、「覆う」という意味があります。意味的には、借金を支払うとか、罰金を支払うという意味で考えるとよいと思います。
アダムは、神に対して罪を犯したのでした。その結果、罪は、子孫を通じて全人類に流れるように、広がっていきました。この罪の汚染に人は悩まされ続けており、それは死をもたらすものでもあります。
この罪に対して、人は罰金を支払って罪から逃れることはできません。なぜなら、アダムは、罪のない体を汚してしまったからです。100万円を貸したのに、1万円しか返ってこなかったら、怒りますね。「ちゃんと支払え!」というと思います。
罪に犯された人の体では、支払いきることができないのです。それゆえ、神は、自分の初子である罪のないイエスを、地上におくり、この罪のない体が、贖いとなるようにされました。これによって、神は愛を示してくださいました。
神は、人の罪を、自分の子供を犠牲にすることによって、許そうとお考えになりました。かつて、神は、アブラハムに、自分の子イサクを犠牲にするようにと求められましたが、最後には、自分の子を犠牲にすることによって、だれも人間が犠牲に捧げられないようにしたのです。
このことによって、神は、罪を犯した人間との和解を求めておられるのです。
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