承天寺の怒り(10)進藤一馬“花守り市長”のように

一昨日の集まりでの、「行政はオリンピック誘致という歴史的大事業はできるというのに、承天寺周辺の景観問題ごときがなぜ解決できないのか」という長谷川法世さんの発言に触発されて、福岡市における過去の二つの「よか話」というか「粋な決断」を思い出した。


■桑原敬一市長時代「フクロウの森」
 フクロウの生息する雑木林にマンションを建設する計画が浮上するとともに(1994年)、地元住民の手で「フクロウの森を守る会」が結成され、マンション建設反対運動が展開されていった。最終的には市を動かし、市土地開発公社が土地を買収し、緑地として整備することで、フクロウの森が守られたというもの。当時の模様は、次の新聞記事から伺うことができる。


*フクロウさん森に戻って 福岡市の赤坂西緑地児童11人巣箱置く* (西日本新聞 2000.04.01)
マンション建設に反対する住民運動をきっかけに、福岡市が整備した同市中央区赤坂三丁目の赤坂西緑地(通称・フクロウの森)で三十一日、地元の赤坂小五年生の児童が「野鳥がすみつくように」と、手作りの巣箱をクスノキなどに取り付けた。
かつてはフクロウが生息していた雑木林に、マンション建設計画が浮上したのは一九九四年。地元住民は「フクロウの森を守る会」を結成して反対運動を展開した。
行政を動かし、九七年に市土地開発公社が、開発業者から約五億六千万円で土地を買収。建設予定地はほぼ造成されていたが、昨年十一月、残った木々も生かした緑地公園に生まれ変わった。
赤坂小の五年生は、三学期の総合的学習で、同会の月形昴会長(72)らから計三回、地域の緑地保全の取り組みについて話を聞いた。このとき、児童が、森の清掃の手伝いや巣箱を設置することを提案していた。
この日は、児童十一人が昼休みに作った竹製の巣箱九個を、同会メンバーや先生のアドバイスを受けながら設置した。
月形会長は「森に込められた住民の思いを、子どもたちが理解してくれてうれしい」。はしごに登って作業した江上裕子さん(11)も「昔のようにフクロウがすめる森にしたい」と話した。


■進藤一馬市長時代「桧原の桜」
このエピソードは、ウィキペディアで「進藤一馬」と引くと、次のような文章で紹介されている。


・・・昭和59年早春、道路拡張工事のため、南区桧原(ひばる)の沿道の桜並木が切り払われることになった。それを惜しんだ住民が、和歌を詠んで桜の木に掲示した。「花守り 進藤市長殿 花あわれ せめては あと二旬 ついの開花をゆるし給え」。これが新聞に報道されるや、多くの人たちが桜を惜しんで歌を木に下げた。その中に、このようなものがあった。「桜花惜しむ 大和心のうるわしや とわに匂わん 花の心は 香瑞麻」香瑞麻は「かずま」、進藤市長の雅号であった。このような多くの人々の思いが行政を動かし、工事が変更され、桧原の桜は残された。福岡市民は、進藤を「花守り市長」と呼んだ。この話は「リーダーズダイジェスト」誌や小学校の道徳副読本にも掲載されている・・・


詠み人知らずとして桜の木に下げられた一葉の短冊の祈りの言葉が、人びとのリレーによって市長まで届き、それに市長がひっそりと歌で応え、さらに行政の粋な決断(計画変更)を断行したのだった。「花守り市長」のドラマは「こころ」をつうじた市民と市長(行政)との温もりのある関係こそが、既存の法律や制度、慣行の壁を乗り越える力を生み出し、地域の伝統や文化を受け継ぎ、よりよきものとして次の世代にバトンタッチすることにつながるということを、静かに深く教えてくれる。


福岡市には、市長と市民のあいだのこんな「よか話」がエピソードとして残っている。吉田宏現市長にも歴史に残るような「粋な決断」をぜひお願いしたいと切に思う。歴史におけるリーダーの評価軸は、表面的な数字や件数の大小(記録)ではなく、「進藤一馬 花守り市長」のようなかたちで語り継がれるような逸話を記憶として残せるかどうかではないだろうか。