Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

穂村弘『世界音痴』

世界音痴

世界音痴

毎年、半袖に着替えるのが人よりも一日だけ遅れる。町に出て人々が半袖になっているのを発見して、初めて自分も半袖を着るからだ。たった一日の差はたいしたことではないと思われるだろうか。そうではない。その一日は「人間」と「人間外のもの」を分ける一日なのである。人間たちはみな「自然に」衣替えを行う。私は彼らの真似をして半袖を着るのだ。p34

そんなわけで頑張って洋服屋に入っても、うー、駄目だ、と思って、数秒で店から飛び出してしまう。熱い風呂に浸かったときのようだ、こうやって書きながらも、あれは、あのモノは「洋服」って云い方でよかったのかな、とだんだん不安になってきたくらいだ。確か他に云い方はなかったと思うのだが。p101

現在も続く短歌マイブームの、そもそものきっかけはこの本だった。
(参照⇒http://d.hatena.ne.jp/atnb/20070307#p1
atnbのエントリのコメント欄にも書いてあるように、自分は、もともとダメ人間としての穂村弘に興味があったのである。
しかし、その後、『短歌という爆弾』で、彼の違った側面(歌人としての側面、いわば正面)を知り、『短歌パラダイス』では、新世代のエースとして称えられる「天才」穂村弘を知ることになる。それは、自分がスタート地点でイメージしていた「ダメ人間」穂村弘とは、全く別種の人間だった。
だからだろうか。この本のはじめの方はゲラゲラ笑いながら読んでいたのだが、後半部に入ると、穂村弘の「世界音痴」ぶりは、「つくられたもの」(創作)なのではないか、という疑問がわいてきてしまって素直に読めなかった。「短歌パラダイス」での理路整然とした佇まいとは明らかに異質だから。
特に「結婚できない自分」という流れの話で笑いをとっていたのに、後半部で、突如結婚しているあたりも、その疑問を加速する。自分勝手で申し訳ないが、「ダメ人間」穂村弘には結婚してほしくなかった。(笑)
で、結婚後の穂村弘のイメージは、自分の中では「ダメ人間」を離れ、原田宗典になる。ハンサムで人がよさそうだが、病院などを舞台にした自虐的な笑い話を多数ストックしている人間、というイメージだ。*1
しかし、記憶の奥底にある原田宗典を比較対照にすると、自意識が強すぎてエピソードが一般的ではないなど、素直に笑わせてくれない部分が気になってくる。
いやいや、そうじゃない。
何がダメなのかもう少し考えてみる。
もう一度、全体を振り返ると、初出がバラバラ過ぎて、リズムが一定しない、というのが一番の不満な点だ。3ページのエッセイ+短歌という「型」を連ねた1章だけが文庫本で出ていれば、今年のベストにノミネートするくらいなのだが、2章、3章と進むにつれ、「型」は崩れて、一気に読みにくくなる。
とはいえ、歌人だけあって、言葉の選び方はうまい。

だが、何をどうしてよいのか、私には判らなかった。未来に焦がれる余り<今>という時間は、限りなくおろそかにされた。<今>を生きることの絶望的な困難さが、生のスポットライトを一瞬先の未来に逃がし続けたのかもしれない。p151

そして、「誰のことも、一番好きな相手のことも、自分自身に比べたら十分の一も好きじゃないよね、あなたは。」と十年間つきあっていた相手に言われた(p188)という、根っからの自分大好き人間である穂村弘は、その点で同種の人間である自分としては、人一倍関心を持って注目してしまう人物には違いない。
冒頭に引用したような、穂村弘の「世界音痴」ぶりが、彼の過剰な自意識から生まれた創作であったとしても、やはりもう少しエッセイストとしての穂村弘を見てみたいと思った。

ところで

エッセイのあとで引用される短歌は、自作以外のものも多い。枡野浩一『ショートソング』のときにも書いたが、歌人には、共有物としての短歌という感覚があるのだろうか?ちょっとよくわからないが。

*1:原田宗典に詳しいわけではない。10年以上前にエッセイを5冊くらい読んだだけだが、そう外していないのでは?