カモノハシ



北川景子主演の連続ドラマ『モップ・ガール』第1回をみた。


北川景子の映画は『間宮兄弟』くらいしか見たことがないが(いまをときめく沢尻えりかの妹役)、けっこうファンです。昨日『エヴァンゲリオン劇場版序』を見た映画館では『ヒートアイランド』の予告編に北川景子が出ていた*1


ドラマそのものは、過去にタイムスリップをして同じ一日をやり直すことで、不幸な結末をふせぐという設定で、『時をかける少女』を思い起こさせるが、それよりも、アメリカのテレビドラマ『トゥルー・コーリング』(一時期、関東地区ではテレビ東京で放映していた。主役の女優の名前、発音というか綴り刷りが変で忘れた)と同じだといってよい。


たぶん『トゥルー・コーリング』と同じく、シリーズ前半は一日前に戻って人を救ったり事件を解決したりすることの連続で、そのままいくかと思うと、主人公のほかにもタイムスリップする人間が出てきて、そこで陰謀とか謎がにわかに浮上して、わかったようでわからない(あるいはその逆の)結末へと向かうのだろうか。なんともいえないが。


そういえば昨日(11日)劇場版をみた『エヴァンゲリオン』も、今回はテレビ放映時とほとんど同じもので、総集編に近いというか、総集編そのものである。一度見たことのある者は、ノスタルジックな感情にひたりながらも総集編として把握するのだが、始めてみる観客には展開が速すぎて、ついていけないのではないか、のめりこめないという事態が生ずるものと思う。


で、今回のぶんは、謎の使徒があわられ、それを迎撃することの繰り返しで、謎の部分はあるのだが、総体的にそのパタンはけっこう心地よい。それがテレビ版では、毎回の同じパタンが崩れ始め、最後には、わけのわからない展開になるのだが、『序』のあとの、『破』では、テレビ版とは内容が大きく異なるようだ(予告編では見たこともない少女が『破』に登場していた)。結局、初期の心地よいパタンは裏切られ、それにかわって出現する後半から結末への形而上的内容は、『鉄コン筋クリート』のときもそうだったが、まあどうでもよいくだらない内容なので、歳をとるとうっとうしくなるのも事実。


それはともかくとして今回の総集編としての『序』で『エヴァ』をあらためて見直してみると、やはり今回、小さな部分(たとえば第三東京市からジオフロントへ降りるエスカレーターはテレビ版では、立体感や遠近感のない表現だったのが、今回、背景を書き足すことで立体感が出た)から、大きな部分(正八面体だった使徒がテレビ版では同じ形のままだったのだのが劇場版ではめまぐるしくかわる)までいろいろな変更を考慮しつつ、あらためて見直してみると、総体的に戦闘シーン、それもメカニカルというべきか工事現場的というべきか、そういうところはあまり魅力がなく、今回、ほとんど書き足されていない部分、憂愁にひたったり、孤独な幻想のなかに入り込む映像描写のほうが、酔える。そして近未来という設定ながら、いまの日本よりもなにやら古くそして日常的な生活空間にも感銘をうける。CG映画『三丁目の夕日』のような作られたノスタルジア映画(しかし、あの昭和は、実は近未来的に作られたヴァーチャル空間のようで、事実、登場人物のひとりの少年は「空想科学小説」をノートに書いていて、未来の世界がCGで再現されるのだが、その未来世界(昭和に構想された未来世界だとしても)こそが『三丁目の夕日』の故郷であるように思われるのだが)よりもはるかに昭和的なのだ。


そして昭和的な、郷愁なきありふれた日常のなかにみる幻視。冒頭近くでシンジ君がひと気のない街中でみる綾波レイの幻、そして頭上はるかにあおぎみるような使徒の巨大な姿。あの冒頭こそ、『エヴァ』の世界を集約したのではなかったか。テレビ版ではすべてが、孤独なシンジ君による、クラスメートを登場人物にした壮大な空想にすぎないという可能性が残されていたのだが、ありふれた日常、残酷な空想、その両極にあるやるせない孤独と憂愁。とはいえ、これだったらなぜ14歳の少年少女がという部分が抜け落ちて中年オヤジの感想になってしまうのだが。


あと今回の劇場版では前面に出ていないものの、テレビ版では、いたいたしいまでの性関係が噴出して、それは興味深かった。とはいえ総集編だから、多少、そのへんは残っていて、冒頭の部分で、ミサトがシンジ君といっしょに暮らすというとき、彼女の友人リツ子は、子供に手をだすんじゃないわよと忠告している。最初は、しょうもない冗談だと思ったのだが、のちに、テレビ版では、気落ちしているシンジ君(彼はいつもそうなのだが)に、ミサトが、私でよかったらと体を差し出そうとするところがある。もちろんシンジ君は拒否するのだが(テレビ・アニメではこれでもかなりきわどい設定であるが)、これはテレビ・アニメのリミットに挑戦するような展開だった(これも昔みたテレビアニメ『ラスト・エグザイル』で主人公の少年が、年上のお姫様と、セックスしたことがあきらかな展開の部分があって、みていてけっこうあわてた)。いやそれをいうなら昔の『エヴァ』の劇場版では、負傷して入院しているアスカの姿をみたシンジ君が……。これ以上は書けない。いや想像はつくと思うが、実際のアニメは想像を超えたえげつなさだったがのが。



モップガール』の話をしようとして、『エヴァ』のことを思い出したのは、前日、学生と見に行ったからだけではない(なぜ学生かっって? 実際、私が見た夜の回では――国民的悪役大毅が、国民の期待通り負けたすばらしい試合がテレビで放映された時間帯なのだが――、観客の中ではおそらく私がずば抜けて最年長だった。みんな20代か、せいぜい30代前半の若い観客たちであったから、ひとりで行けなかったのじゃい。ほんとうに、ひとりで行かなくてよかった)。北川景子の『モップガール』にハリネズミとカモノハシの話がでてきたからだ*2


ハリネズミといえば、ハリネズミのジレンマ。今回の『序』にもほんのすこしだけ出ていた。だが『モップガール』では、そのことではなく、ハリネズミもカモノハシも、ともに変な動物なのだが、自分では自分のことを変な動物だと思っていないはずだというような、わかったようなわからない例としてでてきた。カモノハシとペアで。


なぜこのペアのなのか。


わからなくなったのは、ハリネズミだったのかヤマアラシだったのか。そうか、ヤマアラシのジレンマだ。ハリネズミのジレンマともいう(まちがいかもしれないが)。しかしカモノハシのペアだったら、ハリモグラでしょう。ハリモグラとはテレビのなかで言っていなかったような気がする。録画していないので、確かめるすべもないが。


カモノハシとハリモグラのペアならわかる。どちらもオーストラリア産の不思議な動物だからだ。



カモノハシを英語ではplatypusという(ちなににハリモグラはechidna)。カモノハシは、ハリモグラと同様、オーストラリアに住む不思議な動物。カモノハシは哺乳類でありながら卵を産むし、生まれてきた子どもに乳を飲ますときには、乳首がなくて、お腹の穴から乳を染みださせて与えるという。


とにかくカモノハシの英語を知ったのはごく最近のことで、ロバート・ヒューズRobert Hughesの古典的著作The Fatal Shore(1986)を読み始めたからだった。ヒューズの本はいくつか翻訳されていて『西欧絵画にみる天国と地獄』(大修館書店)と『バロセロナ――ある地中海都市の歴史』(新潮社)は確認できた。ただ、さすがにこのThe Fatal Shoreは、Vintage版のペーパーバックでも700ページ近い本なので、翻訳は出ていない。出すといいのにと思う。オーストラリアの歴史がよくわかるし、分厚い本だが、なにより記述が精彩に富んでいる。

カモノハシについても、不思議な生体構造のほかに、たとえば肉食で、毎日自分の体重と同じくらいの肉類を食べないと生きていけないらしい。その新陳代謝率(メタボリック・レイト)は、溶鉱炉と同じだと書いてある。面白い。

*1:その後『サウスバウンド』を見た。トヨエツの娘役。

*2:ハリネズミではなくヤマアラシだったのかもしれない。