たまたま手に取ったジンメルの『芸術の哲学』(川村二郎訳、白水uブックス)だけど、パラパラめくってみてけっこういま響いてくるところが多い。
芸術作品における形式と内容、作品を介した主観と客観。「シュテファン・ゲオルゲ──芸術哲学的エチュード」1901年

真の芸術作品はすべて、形式と内容の区別は合理一点張りの分析に役立つにすぎず、作品そのものはこの対立の彼岸にあるのだ、ということをわれわれに会得させる。[中略]芸術作品の内的な論理が厳しければ厳しいほど、この内的な統一は、いわゆる形式がほんの少し変化してもただちに全体が、したがっていわゆる内容も変化する、またその逆でもある、という事実において、いっそう明瞭に示現する。人は同一の思念、もしくは同一の感情を、けっして二つの異なったやり方で表現することはできない。同一の内容に多様な表現のニュアンスをつけることが可能だとするのは、真の個性的な、かっきりと縁取られた内容の代わりにそれの普遍概念を据えるといった、皮相な抽象化──これがほとんど到る所で習慣的になっているのだが──だけである。(pp.46-47)
言葉のひとつひとつがその内部の的確な意味を鳴りひびかせ、そのことを通じて、単に主観的な反響や余韻の偶然性につきまとう、すべての軽薄な遊び半分な要素を排除する、この厳しい志向から、詩句は比類ない重量感と意味深さとを引き出している。[中略]ただいえるのは、言葉と思念、韻とリズムが、ここではじめてその固有の権利に到達したかのように見えること、われわれの内部の運動がそれらの固有の本質に、その本質の具体的な帰結として属しているかのように見えることである。この結果、まったく一般的・抽象的であるものが、しかも完全に感覚的であり、美的な効果をもたらし得るという、あの綜合が生み出されることになる。われわれは心の内に生ずる主観的な要素を、客観的な必然として、作品それ自体に属するものとして感じ取る。(p.58)

形式(形象)と現実(生)。「芸術のための芸術」1914年

ここ何十年かの芸術学的な考察において見逃すことができないのは、そこにある一種の機械化、数学化の傾向である。[中略]幾何学的な関係の確認は、芸術作品から抽象された形式にのみさし向けられている。芸術作品を、その中心ないし統一から眺め、一貫して流れ続けるその生のうちに眺めるとき、この芸術作品の内部において形式が持つことになる印象と意義は、形式がそれだけで孤立している場合の、部分的に完結した形象や規則からは、およそ想像のつかぬものとしか、言いようがない。(pp.119-121)
つまり、ひとつの形象の完成は、たとえその形象がどれほどそれ自体で完結していようと、もっぱらそれのみに限定された発展を通じては達成されないということである。存在全体とその価値が、この特殊な形象の彼方にあるすべての部分をくるみこんで、一定の度合いにまで増大し強化されてはじめて、それはこの形象のうちに流れこみ、これを完成にまで高めるのである。(p.122)