メモ。ハンナ・アーレントアイヒマン論争──ユダヤ論集2』(ジェローム・コーン/ロン・H・フェルドマン編、みすず書房、2013)より。

 われわれには一世紀[…]にわたる便宜主義的な政治の経験がある。この時期には、便宜主義的な政治家が民衆を政治から疎外したのとおなじ仕方で、学者や文献学者が民衆を歴史から遠ざけるのに成功した。人類の進歩という崇高な概念からはその歴史的意味が奪われ、単純な自然的事実へと歪曲された。それによれば、つねに、息子は父親よりも善良で賢明な者、孫は祖父よりも啓蒙された者だということになる。あるいは、人類の進歩という概念はひとつの経済法則に貶められた。それにしたがえば、祖先が蓄積した富は、息子や孫の福祉を規定し、連綿とつづく家計のなかで各世代は前の世代よりも進歩を遂げることになる。そういう発展に照らせば、忘却することは神聖な義務となり、経験を積まないことは特権となり、無知は成功の証となる。
 われわれの生きる環境が人の手によってうみだされたものである以上、死者は、われわれに影を落とし、われわれを統治する制度に影響を及ぼし、彼らを押し込めようとする暗闇へと消え去るのを拒む。彼らを忘れようとすればするほど、彼らの影響力はわれわれを支配するようになる。世代の継起は歴史の継続にとっての自然の保証にはなりうるかもしれないが、それは、あきらかに進歩を保証しはしない。われわれは父親の子であり、祖父の孫であるがゆえに、彼らの行動の誤りは、さらに第三、第四の世代を悩ませることがあるかもしれない。われわれが能動的でなければ、われわれは彼らがおこなったことを享受することさえできない。というのも、あらゆる人間の作品と同様、そうしたおこないは、歴史の藻屑に転じていく宿命的な傾向をもつからである。それは、ちょうど、白く塗った壁が、幾度も塗り返さなければ、つねに黒ずんでいくのとおなじことである。
 歴史は、この意味で、そのモラルをもっており、もしわれわれの学者が不偏の客観性をもって歴史におけるこのモラルを見いだすことができないとしたら、それはただ、われわれ〔人間〕が創造した世界を彼らが理解することができずにいるということを意味する。それは、ちょうど自分たちがつくった当の制度を利用することができない人びととおなじである。不運にも、歴史はヘーゲルの言う「理性の狡知」を知らない。というよりも、理性が歴史から退くときには、まさに非理性が自動的にはたらきはじめるのである。(「歴史のモラル」1946年、齋藤純一訳、pp.107-108)