王朝のイメージアップ作戦

イラクのサダムーフセイン政権に参画するタルト人も、イラクの国家的利益とタルトというエスニック集団の利益、さらにそれぞれの個人の利益、イデオロギー上の利益などを配慮して、微妙な言動をしていると推測される。そうした動きもすぐれて政治的なものである。同時に、エスニシティを固定的な一枚岩のように強調することにも、かなり政治的な意味が秘められている。それはエスニック集団を単位とする分裂や対立を固定的にみなすことにつながるからだ。そうした論理がかつて西洋列強の中東に対する分割支配をうながしたとの主張もなされている。エスニシティの問題は、南イエメンのようなソ連社会主義志向の国家でも、無視できぬほど深刻である。

一九八六年一月、南イエメンで内戦が燃えあがった。政権首脳部内の権力闘争が火を噴いたもので、ツ連の懸命な調停により十日間ほどで一応収拾された。問題は権力闘争の背景が政策路線やイデオロギーをめぐるものというよりは、血縁、地縁的な性格が強かったといわれることである。つまり、権力の中枢にいる人たちは、その出身地が同じかどうか、血縁関係が近いかどうかといった要素で派閥をつくっていた。そして派閥の勢力バランスがうまく維持できなくなり、主導権を争い始めたことがエスカレートしていったというのである。ここでは、エスニシティによる差異がイデオロギーによる連帯を分裂させるに至ったという。

南イエメンレバノンにおけるエスニシティイデオロギーの関係を比較してみると、きわめて興味深い。二言でいえば、エスニシティの連帯感もイデオロギーの連帯感も、ともに固定的ではないということだろう。エスニシティは、一日本人には理解しにくいもののひとつだろう。日本でエスニック集団がないわけではないが、外国との関係に大きな影響を与えるほど深刻な紛争に発展した例は思い出せない。エスニシティの問題は国民国家の形成発展のアンチテーゼとして生起してきた面があった。ただ、エスニック紛争が国内に限定されている場合と、外国と相関する場合とでは、まったく異なる様相を示す。米国ではエスニシティが大きな紛争要因だが、大きな島国ともいえるため、国内にほぼ限定される。

中東は広大な陸地に多くの国家が存在し、同じエスニック集団がいくつもの国家に含まれているがゆえに、紛争の波及効果がまことに大きくなる。英語のレジティ。マシー(legitimacy)は「正統性」であるが、政治を議論するときにはこれを「支配の正統性」と内容をていねいに説明して訳すことが多いようだ。ある特定の人物なり勢力が支配者の地位についており、多くの人びとがそれを納得して認めているときに、正統性がそなわっているということになろう。それによって支配が安定するわイラン南西部に古代ペルシア最大の遺跡ペルセポリスがある。リアのパルミラ、ヨルダンのペトラとともに、中東の三大遺跡のひとつとしても名高い。

一九七一年十月、ペルセポリスを舞台に絢爛豪華なフェスティバルが催された。ペルシア帝国創立二千五百年祭である。ジャーにとってそれは特別の意味をもっていた。第「次大戦後、テヘラン中央政府の力が低下するや、ロシア革命の波及をおそれた英国は一九二一年、軍人レザーバーンにクーデターを起こさせて成功した。コサック兵団の将校にすぎなかったレザーバーンは四年後の一九二五年、パーレビ王朝をおこしみずから王位についた。のちのホメイニ革命で倒されるムハンマドーパーレビ国王はレザーバーンの息子である。