タバコが迷惑なら、子育てだって迷惑だ!

自分は喫煙者だからかもしれないが、ホームから喫煙所をなくすのは、ちょっとやりすぎじゃない?と感じてます。
喫煙者はもう十分に日陰の存在じゃないですか。
子供を育てることは、国力を強化していくためには必要なんじゃないかな、と思うので一概に比較することは出来ないと思いますが。
とはいえ、自分たちが絶対であることを前提としている論理は、あやしい○○と一緒ですよね。


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私自身はタバコを吸わないので、なんら不便はないのだが、ホーム端に喫煙所があることによる不快を感じたこともない。
JR東日本のPR(*1)によれば、喫煙所の煙がホームの客に漂ったり、車内に流れたりということを問題視しているらしいが、そんなに嫌ならホーム端に行かなければいいだけのことだろう。
駅の構造上、通らざるをえない場合もあるかもしれないが、そんな一瞬のことを排除しようとするのは、あまりに嫌煙側にのみ都合のいい言い分のように思える。
それに、煙が問題なのであれば、各駅に喫煙ルームを設置すればいいのである。ホームの全面禁煙はいいが、駅全体でタバコを吸えないというのは問題である。私としては分煙徹底の視点で、公共交通機関には喫煙ルームの設置を義務づけるべきだと考えている。

と、そんなことを考えつつ、喫煙ルームについて検索をしていたのだが、世の中の嫌煙家の要求は、分煙要求をとうの昔に通り越していたらしい。
今や彼らの主張は「喫煙ルームの設置自体が許せない」というところにまで、行き着いている。
例えば、路上喫煙禁止区域を設定した市町村が、喫煙ルームを設置するということに対して、「その費用を誰が負担するのか」と言うのである。
もちろん、それは税金に決まっているのだけれども、彼らは「喫煙という個人の趣味を税金で負担するべきではない」のだという。

もし、そうした理屈が通じるのならば、私は児童公園や市立の保育園や幼稚園、小中学校の全面閉鎖を求めたい。なぜなら、子供を持たない私が、子育てという個人の趣味を、税金を通して負担してやる理由はないからだ。
子育てというのは、個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為であるのだから、当然負担も受益者負担であるべきだ。そう主張したい。
私には「個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為」と「個人が自らの幸福を追求するためにタバコを吸う行為」に、大きな違いがあるとはまったく思えない。「子供を育てる行為は、子供を育てない人に迷惑をかけていない」と思うかもしれないが、家族を守ることが絶対善であるという社会通念によって、単身者がいかに不利益を受けているかを考えれば(*2)、煙なんかよりもはるかに迷惑な存在なのである。

それでも私が、学校の全面閉鎖などを求めないのは、たとえ迷惑であっても、それを互いに我慢していくことによって、始めてみんなが幸せな社会が実現すると考えているからである。それが誰もが自分にとって不愉快なことを声高に主張し始めてしまったら、社会は成り立たないだろう。
「子供がうるさいから公園を撤去しろ!」などという主張が通ってしまうような社会を、私は許容したくはない。タバコもそれと同じである。
人は誰しも、他人に何らかの迷惑をかけながら生きている。人権を主張することも大切だけれども、だからこそまずは他人の権利を認めることから始めてみてはどうだろうか?

ギスギスした職場はなぜ変わらないのか

ワクワク感は、メリットにも繋がるのかなー、と。
ちょっと違うかもしれないような気もしてますが、まだ決定的な解が見出せてません。
メリットだと自分「だけ」という意味合いが入ってきて、ワクワク感だと無償な感じがします。

体制作りも、うまくワクワク感を出せるようなかたちで進めたいです。
前向き前向きにもっていこう。
こうだとうまくいきません、はなるべく言わないように。


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風土とは、住宅にたとえるなら「土台」だ。「改革」や「制度」、
「研修」などは、家具や装飾品のようなものだ。どんなに家具や装
飾品を立派にしても、土台が丈夫になることはない。

同じように、企業そのものを強化するには風土が大切だ。望ましい
風土とは「誰もがワクワク働ける風土」だ。成長・発展ぶりが話題
になる企業には「ワクワク感」が漂っているものだ。

誰もが「ワクワクする」という感情を抱くには「未来にいいことが
起こる予感」が必要だ。たとえば、社員が自主的にアイデアを出し、
それが認められ、実行することができる雰囲気だ。

セクリタリアート

コンサルは、クライアントがアウトプットを出してこそなんぼのものだと思ってます。
提供することが役割なんでしょうか。。。
それぞれ考え方はあると思いますが、少なくとも自分は、クライアントにとっての実践の主体者にはなれないかもしれないが、実践する者としてアクションを行うことを念頭に置いて仕事をしていこう。


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参謀も、企画室員も、セクレタリアートも
実践の主体者ではないが、
実践する者に対して

「成すべきはなにか、何であるべきか」にとって
適切な情報と知識を提供することや役割なら、

コンサルタントの仕事も、教育者の仕事も
顧客に対して、学生に対しての
クレタリアートである、
と言えますね。

名リーダーに共通する3つの要件

「明るさ」「ウィズダム」「懐の深さ」
1つ目と3つ目は、最近は意識してがんばっているつもりですが、ウィズダムが全然身についてないですね。

それにしても、ボスコン日本代表なのに、まだ自分自身がふがいないとは。。。
自分がやるべき、身につけるべきことは、まだまだたくさんあるということです。


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 私自身は、金融危機という「波」にもまれながら、一方でまるで「潮流」のような本質的変化にも洗われている企業のリーダーに必要な要件として、少なくとも以下の3つのようなことがあると考えている。

1. 先が読めない状況の中で、組織の中にはびこりがちな不安感を払拭できる「明るさ」

2. 一方で、短期、中期、長期といった複数の時間軸を見渡しながら、冷静に状況を判断し、「深く読むべきこと」と「読んでも仕方のないこと」を切り分けられる「ウィズダム(wisdom=知恵)」

3. 自らとタイプの違う異質の人材を活用し、さらに自分の目的達成だけではなく部下の自己実現を支援することで、より強いモチベーションを持ったチームを作り上げ、動かしていける「懐の深さ」

 「明るさ」「ウィズダム」「懐の深さ」、それぞれの発露の仕方は複数あり、金太郎飴のように同タイプのリーダーが求められているというわけではない。

 ただ、仕事を通じてお目にかかった「この人はすごい」と思わされるリーダーには、何らかの形で、この3つの要件が備わっているように思える。

 当然ながら、この3つの要件を身につけていくプロセスも人それぞれなのだが、「教養」を身につけるべく努力を続け、かつ、いずれかのタイミングで相当の「修羅場」体験をしている方が多いように見受けられる。

 読者の皆さんは、どのような「やや普遍的」要件を挙げられますか? そして、リーダー予備軍の方は、どうやってその要件を身につけていかれますか?

 「リーダーシップは旅である」という明言があるが、リーダーになっていく旅は、志と覚悟があれば、いつでも始められる。自分自身のふがいなさを棚に上げつつ、リーダー育成の場に立ち合う度に、こう繰り返している。