『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』/ポール・オースター編

ナショナル・ストーリー・プロジェクト ? (新潮文庫)

ナショナル・ストーリー・プロジェクト ? (新潮文庫)

内田樹が日本版ナショナル・ストーリー・プロジェクトを行うにあたり、原稿を募集していた。ポール・オースターは大学の頃、ニューヨーク三部作を中心に読んだが、『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』は未読だったので、手に取った。

ラジオ番組のために全米から「ストーリー」を募ることになり、オースターはラジオでこう呼びかけた。「物語は事実でなければならず、短くないといけませんが、内容やスタイルに関しては何ら制限はありません。私が何より惹かれるのは、世界とはこういうものだという私たちの予想をくつがえす物語であり、私たちの家族の歴史のなか、私たちの心や体、私たちの魂のなかで働いている神秘にして知りがたいさまざまな力を明かしてくれる逸話なのです。言いかえれば、作り話のように聞こえる実話。・・・とにかく紙に書きつけたいという気になるほど大切に思えた体験なら何でもいいのです。」「一人ひとりが自分の人生や経験を探るわけですが、と同時に、それによって誰もが、ひとつの集合的な企て、自分一人より大きな何かに加わることになるのです。みなさんに協力していただいて、事実のアーカイブを、アメリカの現実の博物館を作れたらと思っているのです。」

四千通を越える応募があった。「そのほとんどは最後の一語まで読みたくなるだけの力を備えていた。ほとんどはシンプルで率直な確信を込めて書かれていて、書き手にとって名誉にこそなれ少しも恥ではない出来だった。私たちにはみな内なる人生がある。我々はみな、自分を世界の一部と感じつつ、世界から追放されていると感じてもいる。一人ひとりがみな、己の生の炎をたぎらさせている。そして自分のなかにあるものを伝えるには言葉が要る。何度も何度も、私は投稿者から礼を言われた。物語を語るチャンスを与えてくれてありがとう、『庶民の声をみんなに聞いてもらう』機会を作ってくれてありがとう、と。」

「文学とは違う何かなのだ。もっと生な、もっと骨に近いところにある何かなのであって、いわゆる文章術には欠けるものも多くとも、ほとんどすべての物語に忘れがたい力がみなぎっている。誰かがこの本を最初から最後まで読んで、一度も涙を流さず一度も声を上げて笑わないという事態は想像しがたい。」

「これらの物語をあえて定義するなら、『至急報(ディスパッチ)』と呼びたい。つまり、個人個人の体験の前線から送られてきた報告。アメリカ人一人ひとりのプライベートな世界に関する物語でありながら、そこに逃れがたい歴史の爪あとが残っているのを読み手はくり返し目にすることになる。」

「一つひとつ、忘れがたい印象をこれらの物語は残す。物語がたくさん積み重なっていっても、なおも心に残り、中味の濃い寓話やよくできたジョークが記憶に残るのと同じように、ふっと頭に浮かんでくる。イメージは明確で、濃密で、にもかかわらずなぜか軽々としている。一つひとつの物語がポケットに入るくらい小さいのだ。ちょうど私たちが持ち歩く、家族のスナップ写真のように。」

この本の性質を良く伝えるオースターの編者まえがきを長々と引用した。見事なまえがきに付け加えることなどない。だが、読後感は、僕にとっては「文学」でないにせよ、「小説」であった。
なぜ小説を読むのか。古いアナログのオーディオの音量レベルを示す赤い針のように、感情の揺れを指し示す針があるとしよう。日常生活でなかなか揺り動かないその針が、小説の世界にぶつかり、格闘し、溺れることで、揺り動かされることがある。刑事ものや推理小説などの刺激の強い内容である必要はない。現実とは違う異界の時空間に滞在することで、感情が揺さぶられる経験ができればいい。凝り固まった感情が動けばいい。僕の場合、小説を読む主な理由のひとつはそれだ。大きな満足感と引き換えに、日常の退屈さと、そうした日常を招いた自分の愚かさと、それでも自分はまだ死んではいないことを思い出す。そして、時々、もう少しましに生きることができるはずだと叱咤する。

この本は、レッドゾーンに針が振れ切ることは確かにない。しかし、小さな振幅で揺れを持続させる力がある。ジャブをくらい過ぎて脳が揺れるような感覚に近いのかも知れない。「クリスマス前の水曜日」は、わずか3ページのショートストーリーだ。夜の教会で起きた、サスペンスと善意とある種の同情のこの話はこう終わる。「この話にオチはない。単なる出来事だ。だが、車に乗り込み、家に向かって車を運転しながら、僕は体を震わせてしくしく、長いこと泣きつづけた。」テンションの弛緩とリズミカルな筆致の巧みさを最後の文で放棄した末の語り手のこの告白に、しばし涙ぐんでしまった。

日常会話もTVもWEBも、生活の周りは軽く芯のない言葉で溢れている。特に、ブログは自戒を込めて言うが、大半が内容も字面も酷い。「作り話のように聞こえる実話」、「紙に書きつけたいという気になるほど大切に思えた体験」などの制限を加え、オースターの選別を経た「ストーリー」と比べるべくもないが、体験を言葉にするという行為が、無節操に為され過ぎではないかと思えてくる。書き手のエゴから抜け出し、読み手に届く言葉のハードルは、そう低くはないという事実を再認識する機会としても、非常にいい本だ。

http://www.npr.org/programs/watc/features/1999/991002.storyproject.html