知る者無き知?(2)


「自我が思考され、これによって初めて自我の存在が思考に与えられる。」(第19巻57頁)

 さて、前回から我々はフィヒテの最晩年の講義『意識の事実』から、生の自己運動ないし自己発現としての、力の発動としての思考作用と、そのなかでの自己直観というある種の折り返し、思惟の思惟とでもいうべきものを通じて個体性が析出されてくることを確認したのでした。それがフィヒテ的反復の概念です。唯一なる生が、数的に異なる反復=諸自我のうちに別れ、その反復それぞれが生の唯一なる全体的力を所有する、そうフィヒテは言います(第19巻142頁)

 一者の自己収斂contraction、フィヒテはこの運動をそのようにも表現します。したがって「一者の自己収斂は、根源的な個体化作用(actus individuationis)である。」(第19巻147頁)ということになります。生はこの一なる点から一連の制約の系列を経てのみ力を現実に行使出来る。普遍的形式は能力一般を、個体的形式はそれなくしては力が事実的に発現することのないような能力の規定性を与える(第19巻149頁)。これが、フィヒテのさしあたりの個体と一者との論述です。そうすると、こうなります。概念のうちに新しい単一点bが把握される、すると先の第一次個体化作用において生じた点aからbという包含関係が理解される。この必然的合一と相互関係が自己意識をもたらす、と(第19巻155頁)。

 そうすると、人間の意識とは何でしょう。意識=芝居Schauspiel、とフィヒテは言います。力が現象し自由が自由として可視的になるためだけに、自由な活動と力の発現とが演じる芝居(第19巻165頁)だと。

 自由、という概念も、ここから説明されます。現象が自己自身を意識すること、つまり現象の自己展開として。いかにしてある個人がかれの内奥の最深の自己意識において自らを見いだすかは、自己意識によってのみ見いだされるべき絶対的に事実的な、現象のこの生命の展開にかかっている。そしてこの展開がまさしく真の自由である。そうフィヒテは言います。したがってこの自由は自我の中に存在するのではなく、その生命の展開によって初めて自由なものとして現れてくることになります。「自由は個人よりも高いところに存在し、かつ個人を規定するからである。」(第20巻18頁)

 「自我の映像が存在する、これは決して自我の能力の表現ではなくて、むしろ存在の表現であり、自我の能力を越えて現れた存在の表現であって、自我はこれを映像しえないのである」(第20巻35頁)ともフィヒテは言います。自我が意識においてみるものは映像の映像。そう、ここでよろしければフロイトの表象Vorstellungと表象代理Vorstellungsreprasentanzを思いだしてみても良いかも知れません。「人はいかなる点においても「私は思惟する」と言うことはできない、むしろただ「私は思惟するものとして自分を直観する」と言うことができるだけである」(第20巻65頁)とフィヒテは言います。思惟そのものは可視的ではなく単に前提されるだけであり、それが認識されるのは映像の映像においてである(第20巻66頁)とも。

 だとすると、現象=映像=自我+或るもの、ということになる、とフィヒテは言います。現象として立ち現れてくる映像、その中には自我の映像ももちろんあります。しかし、そのなかで、思惟するものとしての自分を、どこかで直観する、つまり映像が、映像の映像であるとして、二重化される、あるいは一つに折り重なり、キルティングされる瞬間が必要になります。さしあたり、これは或るもの、としか言いようがありません。この或るもの、それは核であり、「統一が映像の本来的な核として存在する」、そして先程述べた自由こそが「多様の統一や総合はここにおいて自由の産物」というかたちで、この統一をもたらす作用であるとフィヒテは言います(第20巻101頁)。

 それでは、少し長くなりますが、こうした運動から個体性の析出に至る過程をまとめている箇所を参照しましょう。


世界を直観する自我は一つである、そして個人において、ただ唯一不可分の自我が世界を直観するのである、すなわち個人が世界を表象するのではなく、むしろ唯一の自我が世界を直観するのである。・・・唯一不可分的自我のこの世界直観はまた外的直観と名づけられる。それでは分裂はどこで始まるのであろうか。・・・それは自由とともに始まるのであって、この自由はまず構想力において現れる、つまり映像の原理としての自我の自己直観とともにである。・・・この原理によっては客観は所与的客観であることをやめて、想像の形成物となるであろう。自我はむしろ知覚するものとして自己自身の原理になるだけである。自我はこの自分の状態の原理となる、なぜなら自我は無論自由な映像作用の状態においても存在しうるだろうからである。知覚のこの原理態をわれわれは注意と名づけた。自我は注意するも捨象するも自由となる、すなわち知覚の代わりに自由な映像作用において自己を充実したり放棄したりするも自由となる。したがって注意においてはじめて諸個人への分裂が始まる。なぜならここにおいてはじめて自由が始まるからである。(第20巻138頁)

 ようやくここで、ありがたいことにちょいとばかり妄想的であったり夢想的であったりする恣意的な思惟としての自我が析出することになります。ここで自我は、それ自体は映像ではないものと措定されます。むしろ映像を創成したものが背後に存するということ、無映像な存在自体をもつもの、として。現象の自我は映像と偶性である、このようにして自由な自我は定立される(第20巻139頁)とフィヒテは言います。ただし、誤解のないように言っておけば、そのことで初めて自我は客観的な存在を得るものでもあります。「思考が直観と不可分に合一されて直観する者の緊密に融合した生(Leben)の瞬間のひとつになることによって、彼のうちに本来的に在るであろうものが、彼の外なる何ものかに、つまり客観になるのである」(第19巻38頁)とも、フィヒテは言っていますから。問題はしかし、その客観になるというとき、あるいはその無映像が何かの映像を持ってしまうこと、それを偶然性、と捉えて良いものか、私はまだ図りかねています。しかし、ここではそう考えてみて良いのではないか、と思ってもいます。フィヒテは次のようにも言っているからです。

 「この映像yは自我の事実的な形式の中に取り上げられなければならない、それはつねに自我の、つまり「私は思惟する」、「私は洞察する」ということの偶性である。」(第20巻184頁)
 この偶性を基点にして、これが閉じられた諸映像(先ほども見たように、想像の形成物として)の無限の系列に分裂していきます。端的に与えられた第一の映像にしたがって秩序づけられた素材は、そうはいっても無限に続くが無限の秩序には永遠に到達しはしない。ですから有限。その有限性が個体の個体性であり、個体の権域とでもいうべきものです。「この秩序の唯一の映像はその現実的形式において、自我の偶然的な直観として、諸映像の無限の系列に分裂するであろう、そしてこの諸映像の各々は再び今や素材の無限に定立された形態の新たな秩序と形態を定立する」(185)

 こうした、普遍的な知の世界は、どこかしらライプニッツ的でもあります。「世界の全体の中の各点は全体の映像である、すなわち全体は各々の個別的な点から理解され、確立される、かくしてかの諸々の立場によって規定されている個々人の理想はすべて唯一の全体自我に対する唯一の理想の諸映像にすぎないのであって、これらから個人的なものが概念への回帰によって剥奪されうるのである。」(第20巻188頁)このあたりは、また別個に考えてみたいところではあります。

 こうしてみるとやはり難しいのは、自由としてのこの折り重なり、キルティングポイント、あるいは偶性という問題でしょう。主体の主体性の根源に残るこの偶然性、この課題は、ラカンのUnの概念他と関連づけて、ゆっくり考えてみる必要があります。
 そしてもう一つ、これはフィヒテの絶対的な前提になっている感がありますが、「すべての知には同一の知る者が在り、この知る者それ自身が自由によってあらゆる知を創造する者なのである。原理と知る者とは、同じ一つの思考によってその存在を維持するのであるから、両者の存在もまた同じであり、両者自身が一つであることは明かである。こうして自我の思想は完了したことになる。」(56)問題はここ。知にはそれを知る者がいる、つまり知と知る者の存在は同時的でありまた同義である、ということになりますね。ではラカンはどういっていたでしょうか。知なき知。知る者なき知。
 そんなわけでまず、フィヒテに対置してこの知なき知を考えてみることから、次回ははじめてみましょう。いつになるかはまだわからない、というか、もうちょっと先になりそうですが。。。