神のパントマイム


 デリダの論じるカントにおいては、いわば詩人の想像力ないし構想力のようなものが、神から与えられた資本のようになっていました。この神授説を必要とした理由は、とにもかくにもそこにだけ余剰があるからです。同じように、ラカンの論では、知もまた資本同様に中世における長い議論によって蓄積されており、デカルト以降はいわば資本として、知が真理として世界を正しく表象するためではなく、別の知を産むためにだけに用いられる、あるいは別の知と関連づけられることでしかその位置を見出し得ないようなものに変わっていきます。よく言われることですが、資本が資本たる所以は享受の断念がそこにあるからです。お金を無駄に使ったら資本にならないから、将来への投資に廻す、楽しみは後回し(たぶんいつまで経ってもその財産を使う日は来ないけど)、で、投資によってお金が増えたという、それ自体は副次的な目的であったことから楽しみが生じる。剰余享楽です。

 天才が引き継ぐのは、この産出する自然そのもの。そして、今や産出力を失ったはずの自然は、この産出する者を産出するという点においてのみ、その産出力の残照を輝かせることになります。言ってみれば自然は「生み出すもの」を天才という役者に演じさせている、ということにもなりましょう。ミメーシスが模倣だというなら、自然は天才を通じて自らを模倣することになります。デリダはこう言います。「私たちは、純粋な産出性の起源にはミメーシスという折り目があることを見出したが、それは神による一種の自己の贈与である。神は自分自身を自らへの贈り物とする。」(46ー47)

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