『メッセージ』

テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」の映画化作品


何から書けばいいのかがなかなか難しい作品なので、とりあえず思いついたことから書いていく。なので、ネタバレ上等なので未見の方は注意を。


派手なドンパチやVFXなどがあるわけではなく、ある意味でとっつきにくい作品ではあるのだが、SFでしかなしえない感動というものを原作同様に達成している作品であったと思う。
見ていて気になったのはやはり、原作未読者にはよく分からないのではないだろうか、ということだった。
ざっと感想レビューを見てみたが、やはり未読者の中には分からなかったという人もいる感じだが、一方で、未読でもわりと分かっている感じの人もいる。
一応、要素としては揃っているとは思うのだけど、原作未読だと分かりにくいだろうとは思う。
とはいえ、これは映画化にあたっての脚本・演出等が悪いのかというわけでもなく、かなり鑑賞者側のリテラシーを信頼した上でのものなのではないという気もする。
ただし、映画化にあたって、色々と原作にはなかった要素が付加されている。これらの要素は映画作品にするにあたり必要な要素だと思うし、これによって面白くなった部分はあると思うのだけれど、ミスリーディングになるのではないかと思わないでもない。
また、『メッセージ』という邦題も同様。
Arrivalより分かりやすいとは思うけれど、実際に見ると、このArrivalというタイトルがよいものだったということがわかり、「『メッセージ』はうーん……」となってしまうところがある。ただまあ、ベストはやっぱり原作の「あなたの人生の物語」だったかと思う。


もし、原作は未読だが映画は見たという方がこの記事を読んでいたらば、1つ言いたいのは
ヘプタポッドの世界認識や、彼らの言語を通してルイーズが手にしたギフトは、単純に「未来を見ること」ではない、ということ。
原作では説明がなされているが、時間を、原因があって結果があるという流れのあるものとして認識しているのではなく、一挙に見通している(原作でここまで言われているわけではないが、我々が空間を認識しているかのように、という感じだと思う)。
ルイーズはそこまで感覚が変容してしまったわけではないので、未来を見ているような状態に近いかもしれないが。
さてこの、単純に、未来を見ているというわけではないということが、映画ではやや分かりにくいのだが、しかし、実は映像としての表現がなかったわけではない。
それが「ノンゼロサムゲーム」の下りである。
あそこは、映画的にうまく、この独特の時間認識を表現使用したくだりだと思うのだけど、一方的に現在から未来を見ているというわけではなく、過去と未来というものの区別を失っていることを示しているのだと思う。


今作における、SFでしかなしえない感動とは何か
人間の時間認識というのは、過去(原因)から未来(結果)へと時間が流れていくというものである。時間の矢とでもいうべき認識モデル。我々にとって未来は未決定のものであり、自由意志によって行動を選択していく、と考えている。
一方、ヘプタポッドの時間認識においては、目的地(未来)が分かっていてそこから経路が決定されているというもの。時間の矢が流れていない。
もう少しいうと、人類は普通時間というのは一方に流れていくもので過去と未来は非対称だと思っているけれど、物理学によれば、時間は対称的で過去と未来を区別するためのパラメータというものはない。なので、同じ現象を、因果的に表現する方法と目的論的に表現する方法の2つがある。人類にとっては前者の方法の方が自然で、後者の方法は不自然に感じられるのだが、ヘプタポッドにとっては逆となっている。
しかして、時間の流れ方についての認識が変容すると、自由意志による選択というものの意味自体が大いに変容してしまうのだけど、その上でも私たちは、人生という物語を意味深く生きていくことができるのだということを示そうとしている。
これがSFならではの感動だ。
これを映画がどのように表現しているかといえば、実はArrivalというタイトルが効いているのだと思う。
最後に、ルイーズの娘ハンナについてのヴィジョンが次々と流れ、ルイーズはイアンの「子どもを作ろうか」という誘いに応じる。そして、一番最後にArrivalというタイトルが映され、エンドロールとなる。
そう、この作品、タイトルが冒頭ではなく結末に出てくるのである。
このArrivalというタイトル、一見すると、ヘプタポッドが地球に到着したということを意味しているように見えるのだが、この映画は、ヘプタポッドが到着するところから始まり、地球を去るところで終わるのである。つまり、ヘプタポッドが去ったあとになってから、Arrivalというタイトルが示されることになる。
原作のタイトルである「あなたの人生の物語」というタイトルにおける「あなた」は、ルイーズの娘を意味している。
時系列的には、ヘプタポッド到着→ルイーズによる研究→ルイーズの結婚・ハンナの誕生→ハンナの死、ということになる。「あなたの人生の物語」=ハンナの人生というのは、ハンナの誕生からハンナの死までということになるだろう。
ところで、この作品において出来事が語られる順序はこの時系列とは違っていて、「ルイーズの結婚・ハンナの誕生」にあたる箇所がラストシーンとなる(厳密に言えば結婚と誕生は描かれていなくて、ルイーズが子どもを作ることを決めるシーンだけど)。
つまり、ラストシーンは、ハンナの人生がまさに始まるところなのだ。そして、ここでArrival到着というタイトルが表示される。まあ、Arrivalという出生という意味もあるらしいので、そのままハンナの誕生という意味にとってもいいのだが、個人的にはこのタイトルを見たときに、このシーンがハンナの人生の始まりでもあり到着でもあるという意味で、ヘプタポッド的な時間の感覚を感じさせた。


ところで、この作品のテーマと映像表現については、那珂川の背後に国土なし! : スクリーンの中のスクリーン ヘプタポッドと人間を隔てているものがよい批評になっている。
この評に全面的に同意するわけではないのだが、スクリーンの比喩について、愚かにも、これを読むまで全く意識していなかったので。
ヘプタポッドの時間感覚において、人生は演じるものである、というのは原作でも触れられているところである。
ただ、この解釈の場合、ヘプタポッドがルイーズたちにスクリーン越しに干渉してくるところ(爆弾のところのあれ)っていうのは一体何だったのかということは考えないといけないかな、と。


原作からオミットされた部分で、あった方がよかったのではと思ったのは、
25歳のハンナの存在なんだけど、どうでしょう
一応、いないわけではないけれど、微妙にわかりにくいというか


原作既読なので、最初からフラッシュフォワードだって分かるんだけど、未読だと、フラッシュバックに見えるんだろうけど、そこらへんがどういう効果を生んでいたのか、生んでいなかったのかはちょっと分からない。


ヘプタポッドの文字は、ちょっと意外だったというか、イメージしてたのと違った。
グッドマン読んだばかりだったので、最初に思ったのは、「あれは統語論的に有限確定された記号形式になっているのか? そうだとして、それを調べられるのか?」でしたけどw
一見しただけだと、稠密な記号に見えるんですが、まあその後の展開を見ると、綴りがちゃんと判明したようで。
映画『メッセージ』制作陣はいかにして「エイリアンの文字」をデザインしたか?|WIRED.jpを読むと、文字をデザインした後、実際に物理学者に解析してもらったらしい。

すると、特定の模様が反復していることがわかった。「染みのように見えても、ぴったり重なる同じ形があれば、そこには何か意味があるのかもしれません」。クリストファーはそう考えて解析を進めた。

反復の発見によって、つづりが判明したんでしょう(この記事ではここから意味を推測したことになっているけれど、まずは意味より綴りではないかと思う。意味は指示対象との関係がないと分からない(ルイーズが録音だけでは分からないと言ったのは、対話状況にならないと、指示対象との関係を把握できないからだと思う)。


ヘプタポッドの文字については、原作では、表意文字でもなく表義文字と言われている。これ、表意文字だと思っているレビューを見かけたので、ちょっとコメントしておく。
映画だとよく分からないのだけど(特に最後の大量の文字のシーンがあるので)、原作では、ヘプタポッドは、文字と単語と文と文章とが区別されないということ、そして発話においても書字体系においても並べる順序に意味がないことが書かれている。
一方、人類の言語は、それらの単位が区別されていて、単語を並べることで文や文章を作っていく。線形な言語になっている(そういえば映画で、ヘプタポッドの言語は非線形だみたいなセリフがあったようななかったような)。これは、人類は時の流れに拘束されているので、一直線に順々に並べていくしかできないんだけど、ヘプタポッドはそうじゃないというのが反映されている。人類の文は1次元的で、ヘプタポッドの方は2次元的とも言える。2次元的なので、順番はわりとどうでもよくなる。人類の言語は、各要素が順々に提示されるので、順番も意味を持つが、ヘプタポッドの言語(書字体系)は、各要素が一気に示されるので、順番にあまり意味がないというか(ちなみに、人類の言語でも手話はこれに近いはずで、叙法とかを文末に置くのではなく、動詞とか同時に示すことができる、はず。ここらへん詳しくないので記憶や認識が曖昧)


原作になくて映画で追加された点は、何より、異星人が来たときの世界の反応などで。
このあたりはやはり、映画的には面白いところで。
米軍が臨時基地を作ってたり、ヘプタポッドの殻に入る時は防護服を着ていったりとか、そういうのは原作にはないところで、異星人が来たときどうなるかシミュレーションの一環として面白い。
この作品をわかりにくくする点は、物語を進めていくドライブは、ヘプタポッドの目的は何なの? とか、それに対して人類はどう対応するの? とかなんだけれど、この作品のコアとなる部分は決してそこではないということ。
個人的には、この世界の反応も含めた、人類とヘプタポッドのやりとりみたいなのは、最後の感動に到達するための手段に過ぎなくて、それほど重要なところではないと思うのだけど、原作未読でそういう見方にぱっとシフトできた人ってどれくらいいたのか、というのは気になる。
ヘプタポッドは人類に何を与えたんだよ、とか、中国は一体どうして納得したんだよ、とか、そのあたりにひっかかって見ちゃうと分かりにくくなるかなあ、とか。
で、「メッセージ」というタイトルはそっち方向へのミスリードになりやしないか、と。


映像面では、
よく書いてるけど、個人的に、ぐるっとカメラが回るロングショットというのが好きで
まあ、多分、2000年くらいからの流行りのショットではないかと思うんだけど、360度、カメラがぐるりと対象を回り込んで映す奴。
あれの空撮版が出てくる。
主人公がヘリコプターに乗って、前線基地に到着するシーン。主人公の乗ったヘリが、ぐるっと回りながら基地に下りていく。
カメラがぐるっと360度回るショットって、合成でつなぐことでカメラの存在を消す(普通カメラがぐるっと回ったら、レールとかケーブルとか照明とかが映っちゃう)ことで、「おお」と思わせる効果があるわけで、ヘリで撮る分には、合成なくても撮れちゃうので*1、カメラがないと思わせる効果は必ずしも生じない。
けれど、ぐるりと回るショットというのは結構色々な映画で見られる一方、意外と空撮で見たことがなかった(といっても、自分は全然映画を見ている本数が少ないので、本当にそういうショットが少ないのかは分からないけど)ので、「おお」と感じたという話


あと、音響効果や音楽がとにかく強い映画だったと思う
ヘプタポッドの声なんだかBGMなんだかわからん感じで音ないし音楽が流れてたりするし。
ヘリの中で、主人公がヘッドホンをするまでのあたりとかも結構面白かった気がする(よくある奴かもだけど)。


映画版と小説版の表現方法の違いに基づいた整理として“メッセージ” - three million cheers.が参考になる

追記(20170601)

『メッセージ』は人類を変える|MEDIA SHOWCASE MOVIE|添野知生|cakes(ケイクス)
25歳のハナが出てこないことによって、観客にフラッシュフォワードをフラッシュバックとミスリードさせることが可能になっていると指摘しているほか、
「商人と錬金術師の門」も参照にされているのだという指摘もあり、とても参考になる

*1:殻が映り込んだりするので実際は合成してると思うけど

大英自然史博物館展

会期後半になってしまったけど、行くことができた!
いろんなものが見れて面白かった
とりあえず、印象に残った展示物だけ

序章

冒頭に、中央ホールを模した展示室でビデオが流れていて、それによると、200年前の標本であっても、そこからDNAを採取するなど現代的な手法による研究がなされているというようなことが説明されていた。

ガラスケースのハチドリ

公式twitterが画像あげてた奴
ケースが六角柱になってて、どちらから見るかで、違う種のハチドリの標本が見えるようになっているのだけど、どう違うのかはわからなかった……

オーウェン肖像画

若かりし頃のオーウェン
オーウェンというと少し年取ったあとの肖像のが記憶にあるので、「若い! 髪がある! でもちょっと後退の兆しがある」って感想

テラコッタ製ライオン等

自然史博物館のファサードを飾る動物像とその図案、素描が展示されていた
左側が絶滅種、右側が現生種だったかな、そういうふうに並べていたらしい
ロンドンで実際に見てきて「すげえ」って思った奴だったので、こういうのが見れてよかった

プリニウスの『博物誌』

今回、さまざまな有名な本の原著が展示されていて、そのたびに食いついてたw
『博物誌』でかい

カール・リンネ『自然の体系』

同上w
表紙に、CLASSES, ORDINES, GENERA, SPECIESとあった

サーミ人の格好をしたカール・リンネの肖像画

何故?

イグアノドンの歯化石

これ実物?!

オーウェンが同定したサメの歯化石

マーティン・J・S・ラドウィック『化石の意味』 - logical cypher scapeを思い出して、舌石じゃーんとか思ってた(オーウェンとは関係ないが)

モア全身骨格

鳥は、恐竜っぽいところと恐竜っぽくないところがあるなあ
大腿骨が短い
脚早そう

ウィリアム・スミスが地層の同定に使った化石のイラスト

とそのイラストに描かれているのと同じ種類の化石が並んで展示されている
異常巻きアンモナイトかなと思ったら、二枚貝だった

ライエル『地質学原理』初版、2巻

同上

手斧

なんでこの位置にあったのかがよくわからない

フィンチ

本物(標本だけど)見るの初めてだ!

始祖鳥

ロンドン行ったときは、なんか小さいレプリカしか見れなかった記憶
ネガとポジの両方
羽毛のあとがくっきり残ってる!
頭は埋まっていて(?)見えないのだけど、CTかけて脳の形状がわかったらしい
ベルリン標本は頭骨残ってるけど、脳室がつぶれちゃってるらしいので、脳の形が唯一わかる標本だとか。

小型化したヤギ類化石

というか、ドロシア・ベイトという女性古生物学者についての展示
まだ女性学芸員がいなかった時代に、自然史博物館で働き始め、島嶼部における小型化について研究したらしい
動物考古学って言葉が出てくるのだが、これは一体…

第3章 探検がもたらした至宝

エンデバー号やチャレンジャー号(あとディスカバリー号か何かもあった気がする)や、スコットの南極探検など
これ見て、スペースシャトルの名前って元ネタあったんだということに気付いた
コウテイペンギンの雛
これに限らず、鳥の標本はみんな同じポーズさせられてたなー
スコットが、微化石で作ったクリスマスメッセージすごい

ウォルター・ロスチャイルド

ロスチャイルド家の人だけど、飛べない鳥の研究に明け暮れちゃった人
弟はノミとかの研究してたらしい
キーウィも実物(標本だけど)見たの初めて
ウォルター・ロスチャイルドが、シマウマに馬車ひかせたり、ゾウガメに乗ったりする写真があるのだけど、面白いw

デジタル・ミュージアム

ウィリアム・スミスの地質図をぐりぐりと見ることができた

マーク・ラッセルによるゾウムシのイラストレーション

マーク・ラッセルというのは科学者ではなく芸術家らしい
自然を観察するのは科学者だけでなく芸術家も同じ。自然史の標本に、科学的真理を見出すのも芸術的インスピレーションを受けるのも同じ人間、という趣旨の展示とのこと

サーベルタイガー

足の爪の先はあれ一体どうなってるの
あと、胸部のところの骨は一体何の骨?

ロンドン塔で発見されたバーバリーライオン

ロンドン塔でライオン飼ってたのかー

マントルの捕獲岩

火山噴火によりマントルから出てきた岩

イヌイットナイフ

隕石の鉄からできたナイフ
おお!そういうのほんとにあるんだ!

追記20170529

大英自然史博物館展の見所
非常にありがたいまとめが!
このあたり、よくわからんなーと思ってたところが。
本当なら、詳しい人と一緒に見たい
自分で見てても、これは展示に説明ないからわからん人は全然わからんのでは、と思ったりしてた
ところで、直接関係ないが、これ見て、ウォレスは南米アマゾンとかも行ってたのかー知らんかったーと思ったのを思い出した


『BLAME!』

まあ、原作とは別物よのう、という感想は持たざるをえないわけだけれども、しかし、それはおいても、BLAME!が一本の作品として映像化されたことをまずは喜びたい。


階層都市の世界に音があるということに気付けたのがよかった
あ、こんな風に音が響くのか、という
そこは結構感動したところ

サナカンと霧亥の格闘が見れるってのは面白いところかもしれない

顔のアップが多い映画だったなー


話や設定が原作とは色々変わっているけれど、それは何故かというのは、さんざんインタビュー等で作者と監督が語っているところだし、特に気にしていないが
なんで、サナカンが困り眉じゃないんだ!


BGMがやけにヒロイックだった


ドルビーアトモスというものが、関東だと幕張にしかないので幕張まで見に行ったんですが
確かに、最初の駆除系出てくるあたりで、後ろでも駆除系の足音がする感じはわかったものの、全体的には、どのあたりがドルビーアトモス的な効果なのかはなかなか実感しにくかったというのが正直なところ


づる、かわいい
天ちゃん的正統派ヒロインという感じだなあ
づるタエ

インターフェイスシドニアっぽい


エンドロールによれば、村人に藤田さんとあやちゅう出てたようだが、全く気付かなかった

『BLAME! THE ANTHOLOGY』 - logical cypher scapeの「はぐれ者のブルー」は映画版の設定に寄せているということだったけど、確かにそうだった。食料探している村ってことで。あと、監視塔とか。
造換塔ではと思ったんだけど、また違う何かっぽい
原作との大きな違いは、世界を旅する者の話ではなく、ひとところにとどまって生活している人たちもいるという側からの話だということだと思う